第65話 群衆
クラネルト邸の夜は、宴の喧騒に包まれていた。
季節は秋。冷え込み始めた夜風が、石造りの回廊を渡って吹き抜けていく。
今夜の宴は、王都への聖地巡礼を無事に終えたことを祝して、ディルク伯が催したものだった。
聖騎士たちの大半はすっかり酔いが回っており、粗野な歌と笑い声がホールを満たしている。
その中心でひときわ目立っているのは、やはりジェスタだ。
イリアスはというと、豪勢な料理を食べ尽くしたあと、絨毯の隅で満足そうに丸くなって眠っていた。
俺はその喧騒を離れ、邸宅のバルコニーへ出ていた。
そこには、ユリアの姿もあった。
虫の声が涼やかに鳴いている。
秋の夜風が頬をそっと撫でていった。
「ジェスタって、ほんと変わらないわね」
ユリアが小さくため息をつく。
宴の場では、ジェスタがとうとう裸踊りを始めていた。
ユリアはそれを、見て見ぬふりをしていた。
「まあ、今日くらいは勘弁してやってくれよ」
俺が肩をすくめると、ユリアはふっと微笑んだ。
「……うん。頑張ったもんね。まあ、ソウスケほどじゃないかもしれないけど」
「ユリアの活躍も大きかったよ。命拾いしたのは、俺のほうだ」
「そんなことないよ。……ソウスケがいなかったら、たぶん全滅してた」
その言葉に、誇張も謙遜もなかった。ただ、静かな事実として口にされたものだった。
「ありがとう。助けてくれて」
──ふと、会話が途切れる。
沈黙が訪れ、秋風が二人の間を吹き抜けていった。
ユリアは手すりにもたれ、真剣な面持ちで夜空を見つめていた。
そして、思いつめたようにこちらを振り返る。
「ねぇ。どうして、私の固有スキルを知ってたの?」
俺は黙ったまま、前を向いている。
「……まあ、言いたくないなら、それでもいいんだけどね」
「……すまない」
その返事に、ユリアは小さくため息をついた。
「味方だって、信じてるから。これまでも何度も助けてくれたし……
でも、もしソウスケが悩んでるときとか、力を貸して欲しいときは、ちゃんと言って。
私にも、きっと何かできることがあると思うの」
「……ありがとう。考えておくよ」
ユリアはふっと口元を緩め、両手を上げて伸びをした。
「はぁ……。ソウスケって、なんでも一人で解決しようとするでしょ。
手助けなんていらないって顔して……ちょっと寂しいな」
「……すまない」
「謝らないでよ。ただ、なんていうか……
ソウスケのことを支えてあげたいなって思ってる人もいること、分かってほしいの」
「ありがとう。ユリアは優しいな」
ユリアは少し満足げにうなずいた。
「それにしても、ソウスケって……なんだか、別の世界から来たみたい」
ユリアがぽつりと呟いた、そのときだった。
宴会場の方から、急にざわめきが聞こえてきた。
明らかに、笑い声とは違う、切迫した気配だった。
使用人たちが慌ただしく出入りし、そのうちのひとりがディルクの元へと駆け寄る。
「大変です! ディルク様!」
「……なんだ、急に」
「群衆が……クラネルト邸を取り囲んでいます! 中に入り込もうとしていて、今、警備の者が必死に抑えてはいますが……まるで話が通じません!」
「なに?」
ディルクの表情がこわばる。
宴のざわめきが一瞬、静まり返った。
「彼ら、目が……焦点が合っていないんです。まるで、誰かに取り憑かれたようで……!」
騒然とした空気が、場を切り裂くように走っていく。
俺とユリアは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。
虫の声が、いつの間にか止んでいた。
夜の静寂の奥から、得体の知れない“不穏”が、忍び寄ってきた。
◇
聖騎士たちは酔いが残る足取りながらも、なんとか武具を身に着け、指示に従って立ち上がった。
ディルクは自ら先頭に立ち、クラネルト邸の正門へと向かう。
──門の外には、異様な光景が広がっていた。
かなりの数の群衆が、門の前に押し寄せている。
顔ぶれはまばらだ。王都の住民と思しき者もいれば、明らかに浮浪者や物乞いのような者も混じっていた。
男だけでなく、女や子どもの姿もある。
彼らは皆、松明を手にしていた。
その炎が、秋の夜に不気味な光を揺らめかせている。
群衆は一様に、無言だった。
怒声も罵声もない。ただ、黙々と門へと押し寄せていた。
門番たちは「戻れ!」「ここは貴族の私邸だぞ!」と声を張り上げ、必死に説得を試みていた。
だが、まるで言葉が届いていないかのように、彼らは無反応のまま前へ進み続ける。
門を押し開けようとする者もいれば、塀の一部に松明を突き立てて燃やそうとする者もいた。
取り押さえに出た聖騎士たちにも、群衆は恐れを見せない。
「なぜだ……話がまるで通じん……!」
ディルクが思わず呟く。
その顔には、言いようのない困惑と焦りが滲んでいた。
俺も現場に駆けつけ、群衆の異様な様子を目の当たりにする。
虚ろな目。焦点の合わない瞳。
いや——まるで、この場にいない“何か”を見ているような……そんな眼差しだった。
(……まさか。カサンドラが操作しているのか?)
七大罪スキル《色欲》——
相手の心に入り込み、意志を塗り潰す強制支配の能力。
これが色欲の力であるなら、この騒動はカサンドラの引き起こしたものであるのに間違いない。
「……っ、空間飛翔!」
魔力を集中し、俺は宙へと舞い上がった。
夜空を裂くように加速しながら、上空から全体を見下ろす。
クラネルト邸を取り囲むように、群衆は広がっていた。
松明の光が波のように揺れ、まるで炎そのものが意思を持って蠢いているかのようだ。
(中心に……指揮を執っているやつがいるはずだ)
目を凝らす。
その中に——いた。
一際背が高く、細身のシルエット。
黒いローブを目深に被った人物が、群衆のど真ん中に立っていた。
他の者たちとは明らかに違う“静止”の姿勢。
まるで、すべてを見下ろしているような存在感。
(……あれか)
俺は狙いを定め、一直線に急降下する。
◇
俺は黒衣の人物の目前に降り立った。
「カサンドラ……俺と勝負しろ」
そう言って、長刀を抜き、構える。
だが、相手はまったく動かない。ただ、虚ろに突っ立っているだけだ。
(……人形か?)
念のため、スキルを発動する。
空間転移。
瞬時に背後へと回り込み、手を伸ばしてフードを引き下ろす。
もしそれが本当にカサンドラなら——迷いなく、胸元に刃を突き立てるつもりだった。
だが、その瞬間。
フードの内側から、赤い髪の毛のカツラがぼとりと落ちた。
下から現れたのは、無表情のスキンヘッドの男。既に息はない。
その身からは、はっきりとした“死臭”が漂っていた。
「……なに?」
「騙されちゃったのね、ソウスケく〜ん。あ、本当はアーヴィン君だったっけ?」
甲高く、女の声が頭の中に響いた。
「……誰だ」
「えぇ〜、忘れちゃったの? この間、会ったばかりなのに〜。
ほらほら、愛と腐肉と死の伝道師、テスタ・ラジーネちゃんよぉ♡ キャハハハハッ!」
(テスタ・ラジーネ……! ってことは、これは——)
死体操作。
こいつはテスタの傀儡だ。
俺はすぐに長刀を振り抜いた。
一閃、首が切断され、地面に転がる。だが——
その首は、コロコロと転がりながら、俺の方を向いて止まった。
「残念でした〜。今回はね、私、助っ人なの♡
お楽しみは、もっとあとでね……ふふふ」
ぞわり、と全身に悪寒が走る。
その直後——
「まずい! 群衆が中に入ってきたぞ! 止めろ!」
屋敷の方角から怒声が響いた。
振り返ると、門が押し破られ、群衆の一部が雪崩のようにクラネルト邸へ侵入していくのが見えた。
松明の炎が、夜空を焦がしていた。
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