第62話 癒しのひととき
泣きじゃくるミスティアの頭に、そっと手を添える。
細くて、柔らかなその髪を、ゆっくりと撫でた。
「……俺には、お前に“王になれ”なんて、言えない」
その言葉を、ためらわずに口にする。
たしかに——ミスティアが王にならなければ、ゼファルが王座に就く可能性は高い。
その先にあるのは、俺が知る“バッドエンド”と、同じ未来かもしれない。
……けれど。
それでも、俺は彼女を、運命の檻に無理やり押し込むことなんて、できなかった。
「嫌なら、逃げてもいい」
それが、今の俺にできる唯一の答えだった。
もし、この選択で物語が“バッドエンド”に向かうのなら——
その時は、その時で抗えばいい。俺には、そのための知識がある。
「……逃げても、いいの?」
ミスティアが涙に濡れた瞳で、俺を見上げる。
俺は、はっきりとうなずいた。
「後のことは、なんとかする。だから……もう、一人で全部背負うな」
ミスティアの頬に、ふっと安堵の笑みが浮かんだ。
その表情を見届けてから、俺は村長に掛け合った。
ミスティアを、この村でしばらく匿ってもらえないか、と。
特別扱いは不要。ただの一人の村人として、できる仕事を任せてやってほしい。
そう伝えると、村長は戸惑いながらも黙って考え込んだ。
だが、その隣にいた村長の妻が、俺の言葉を聞き、にっこりと微笑んだ。
「うちの娘みたいなもんだと思えば、放っておけないさね。任せときな」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
俺は、深く頭を下げた。
◇
ミスティアは、村長の家に身を寄せることになった。
俺は、村の外れにある空き家を借り受けることにした。
そして——
ディルク・クラネルト伯爵宛てに、手紙を書く。
内容はこうだ。
〈ミスティア殿下は心身ともに衰弱しており、すぐに王都へ戻すことはできない。現在、安全な場所で療養中だ。
回復次第、責任をもって王都へ送り届けるつもりだが、それまではこちらに任せてほしい〉
筆を止め、ひとつ息をついた。
嘘は書いていない。だが、すべてを正確に伝えているわけでもない。
今のミスティアに、「王女として戻る」という選択は、あまりに酷だった。
あの夜、彼女が流した涙は、もう限界だったことを何よりも雄弁に物語っていた。
けれど、いつかまた——
彼女自身の意志で立ち上がる日が来ると信じたい。そのためにも、今はただ、静かな時間が必要だった。
そしてディルクなら、きっと俺の意図を汲み取り、うまく差配してくれるだろうという期待もあった。
書き終えた手紙を丁寧に封じ、村人の一人に託す。王都への使者として、すぐに発たせた。
——これで、少しは時間が稼げればいいのだが
とはいえ、猶予は長くない。時間をかけすぎれば、必ず捜索隊が差し向けられるだろう。
だからこそ、そのわずかな猶予を、彼女の心を癒やすための時間に充てたいと願った。
封をした手紙の感触が、まだ指先に残っている。
その余韻を胸に抱えながら、俺はミスティアに会いに行った。
◇
扉をノックする前に、ギィ……と音を立てて、扉が開いた。
出てきたのは、ミスティアだった。
——その姿に、思わず目を見張る。
地味な色合いのワンピースに身を包み、かつて背中まであった金髪は、潔く短く切り揃えられていた。
王女としての気品はそのままに、今は村の少女のような、素朴で柔らかな佇まいに変わっていた。
「びっくりした?」
ミスティアが、少し照れたように笑う。
「ああ……正直、驚いたよ」
両手に抱えた桶が、きらりと朝の光を反射した。
「一緒に、水汲みに行かない?」
俺は黙って頷き、彼女の隣に立った。
二人で連れ立って、村の裏手にある川へ向かう。
朝露が残る草の匂いと、木々のざわめきが、どこか懐かしい安らぎをもたらしてくれる。
ミスティアは、弾むような足取りで前を歩いていく。
さっきまでの涙が嘘のように、軽やかで、楽しげだった。
ふいに立ち止まり、くるりとこちらを振り返る。
「ねぇ聞いて。もう色んなお仕事をしてるの。料理のお手伝いもしたし、畑にも入ったのよ。こーんな大きなバッタも見つけちゃって、びっくりしちゃった」
両手をいっぱいに広げて身振りを加えながら、屈託のない笑顔を浮かべる。
その笑顔は、まるで陽の光みたいだった。
俺は、ふと目を細める。
「……大変じゃないのか?」
「ううん、だいぶ慣れてきたよ。最初はちょっと戸惑ったけど……でも、今はすごく楽しいの。今まで、誰かに“やってもらう”ばかりだったから、自分でやるって新鮮だし……嬉しい」
その瞳は、まっすぐに俺を見つめていた。
そこにあるのは、誇らしさと、ほんの少しの照れ。それでも揺るぎない、自分の足で立とうとする意志だった。
◇
それから三日が経った。
夏は、もう終わりかけている。
ディルクからの返信も届いた。
聖騎士たちは、ジェスタ、ユリア、イリアスと共に無事に帰還したらしい。
巡礼の一件は、すでに王都で大きな騒ぎとなっていた。
そして、いまだ行方知れずの王女——ミスティアの存在も。
現在、巡礼地を中心に大規模な捜索が始まっているという。
だが、その捜索は難航を極めていた。
テスタ・ラジーネが作り出した“悪夢の森”は、想像以上に広範囲に及んでいた。
王女がその森で犠牲になっていないかを確認しなくてはいけない——そのために、捜索は遅れと混乱を孕みながら進められていた。
……だが、それもいずれ終わる。
やがて探索は一巡し、捜索の手は外縁部へと広がっていく。
そうなれば、この村にも、間違いなく調査の目が向けられるだろう。
——もう、時間は残されていない。
ティアは、日に日に元気を取り戻している。
すっかり村人たちとも打ち解け、朝は畑仕事、昼は川で洗濯、夜には囲炉裏の前で子どもたちに昔話を語っていた。
……あの王女が、だ。
まるで最初から、ここに暮らしてきたかのような自然さで、村の中に溶け込んでいた。
その姿は、どこまでも穏やかで、どこまでも——眩しかった。
けれど、その穏やかな日々が終わりを告げる時も、遠くはない。
俺は、悩んでいた。
ティアをこのまま連れ出し、捜索の手を逃れて旅に出るか。
それとも、彼女を王都へと送り返すべきか。
……どちらも、安易には選べなかった。
考えがまとまらないまま、俺は村長の家へと足を向けた。
「ソウスケー。こっちこっち!」
明るい声に顔を上げると、ミスティアが手を振っていた。
その隣には、村娘が二人。俺の姿を見ると、照れくさそうにミスティアの影に隠れる。
ミスティアは満面の笑みを浮かべながら、彼女たちの背を軽く押した。
「ソウスケと話がしたいって言うから、呼んだのに。ほら、怖くないから。ね、マイヤ、ユーリア。勇気出して、ほら」
もじもじとしながら、二人の少女が前に出る。
「あ、あの……ソウスケ様。今晩、村のお祭りがあるんですけど……」
「とっても楽しいんですよ! よろしかったら……一緒に行きませんかっ」
護衛役という名目で村に滞在しているせいか、村人たちはいまだに俺に遠慮している節があった。
それでも、この子たちは勇気を出して誘いに来たのだろう。
「分かった。夜になったら広場に行けばいいんだな」
「やったー!」
マイヤとユーリアは顔を見合わせ、手を取り合って駆けていった。
その背中を、ミスティアは目を細めて見送る。
「随分、馴染んだみたいだな」
本来なら彼女の方がずっと高貴な身分のはずだが、今はすっかり“友達”の輪の中にいた。
「ふふふ、可愛いでしょう? どっちか紹介してあげようか?」
ミスティアは、少し上目遣いでこちらの様子をうかがう。
「いや、結構だ。でも、祭りには付き合うよ。一応、護衛だからな」
「そう。どうもありがとうございます」
「どういたしまして」
くすっと笑ったミスティアは、踵を返して去っていった。
……どうにかして、この村に居させてやる方法はないのか。
何度考えても、答えは出なかった。
王都に戻りたくないのなら、逃亡の道しかない。
だが、それではせっかく馴染んできたこの生活を、また壊すことになる。
戻るにしろ、逃げるにしろ——
彼女にとっては、どちらも苦しい道だ。
ふと、頬を風が撫でていった。
夏とは違う、少し冷たく、澄んだ風。
季節は、静かに——けれど、確かに移ろっていた。
この、かけがえのない時間さえ。
永遠ではないのだと、風は静かに告げていた。
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