第61話 慟哭
空間飛翔で限界まで飛び、俺はようやく地に足をつけた。
そこは、街道沿いにぽつんと佇む小さな村だった。王都へと通じる途中にある、宿場のような集落だ。
夜の闇の中、俺は意識を失ったミスティアを背負いながら、村で一番大きな屋敷へと歩みを進めた。
戸を叩くと、眠そうな目をした恰幅の良い中年の女が顔を出した。薄明かりの下、その表情は迷惑そうだった。
「……ここは村長の家か?」
「誰だい、あんた。こんな夜更けに……」
「この子は、ロンダリア王国第三王女、ミスティア・ハーヴェスだ。負傷している。治療のスキルがある者はいないか?」
おばさんは訝しげに眉をしかめ、俺の背中を覗き込む。
そして、次の瞬間——
「あっ……あの時の……!」
ミスティアの顔を見た瞬間、彼女の目が見開かれた。
巡礼の途中、この村を通過した際にミスティアが笑顔で手を振っていた。
それを覚えていたのだろう。次の瞬間、彼女は慌てて屋敷の中へ駆け込んでいった。
「あなたー! 大変よ、すぐに起きてくださいな!」
◇
奥の部屋に案内され、俺は用意された寝台にミスティアをそっと横たえた。
息はある。だが、顔色は青ざめ、手足の傷からはじんわりと血がにじんでいる。呼吸も浅く、意識は朦朧としていた。
部屋の隅では、長身の中年男が腕を組み、険しい面持ちでその様子を見つめていた。
「今、この村には治癒スキルを持つ者がいない。隣村に使いをやったから……もう少し待ってくれ」
「……助かる。ありがとう」
安堵と焦燥が入り混じる中で、俺は深く頭を下げた。
「……で、いったい何があったんだ」
村長らしき男が、低く重い声で問う。
俺は一つ息を吐いてから、必要最小限の情報だけを伝える。
巡礼地で魔族が突如襲撃してきたこと。混乱の中で俺とミスティアが逸れたこと。そして、何とか彼女だけを連れて逃げてきたこと。
テスタ・ラジーネや、ロアゼン・ナフィルのことを伏せておいた。話してしまえば大変な騒ぎになる。
「……また魔族が……攻めてきたってのか」
男の声は震えていた。恐怖と怒り、そして諦念がにじんでいる。
「違う。これは一部の動きに過ぎない。全面戦争じゃない。過剰に怯える必要はない」
そう言ったものの、村長の顔色は晴れなかった。
その目は、遠い過去に向けられていた。
——十年前の魔王大戦。
魔族たちは津波のように押し寄せ、街を焼き、村を潰し、王都にまで迫った。
この村も、例外ではなかったはずだ。
家を、家族を、仲間を失った者が、ここにもいたのだろう。
「……すまない。嫌な記憶を掘り返させたな」
「いや……それより……ミスティア様が、こんな目に……」
村長は途中で言葉を飲み込み、口を閉じた。
——そうだ。
ミスティアは、まだ十歳の少女だ。
それでも王族として、巡礼の旅に出て、笑顔で民に手を振り、務めを果たそうとしていた。
その小さな肩に、どれほどの重荷を背負わせていたのか。
俺は、ふと寝台の上の少女に目を向ける。
そこには——身も心も深く傷つき、それでもなお、必死に責務を果たそうとした、か弱い少女の姿があった。
◇
治癒スキルを施された後、ミスティアは少し落ち着いたようだった。
青ざめていた顔に、わずかに血色が戻り、表情も穏やかな寝顔に変わっている。
その様子に、ようやく俺も胸を撫で下ろした。
できれば、すぐにでも王都に向かいたい。だが、彼女の体はまだ癒えきっていない。強引に連れていくわけにはいかないだろう。
俺自身も疲弊しきっていた。
この一晩で、精神も肉体も限界まで削られていたのだと、ようやく自覚する。
——少しだけ、休ませてもらおう。
借りた部屋の片隅に体を横たえた俺は、眠る間際、ミスティアの無事を願いながら、意識を手放した。
◇
朝。
鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかな光に、俺はゆっくりと目を覚ました。
ぼんやりと天井を見上げた後、体を起こす。最初に確認すべきは——ミスティアの様子だ。
隣の部屋へ向かう。
だが、そこに彼女の姿はなかった。
布団は丁寧に畳まれ、室内は整えられている。
ただの外出か、それとも……嫌な予感が胸をよぎる。
あわてて、屋敷の中を探し回り、村長を見つけて声をかけた。
「ああ、ミスティア様なら……うちのかみさんと一緒に水浴びに行ったよ。裏の川さ。女同士のほうが、気も楽だろうってな」
村長はのんびりとした笑みを浮かべていたが、俺の心は落ち着かなかった。
礼もそこそこに、俺は屋敷を飛び出す。
そして——その心配は、すぐに杞憂だったと知れた。
ちょうど家の前の道で、ミスティアと村長の妻が戻ってくるところだった。
どちらも髪をタオルで包み、濡れた前髪が頬に貼りついている。談笑しながら歩く姿に、ほんの少しだけ笑顔が浮かんでいた。
その顔を見た瞬間、ようやく、胸のつかえが下りた気がした。
——よかった。
「あら、ソウスケ。起きちゃったの?」
「……ああ。うっかり寝過ごしてしまったみたいだ」
「もっと休んでいればよかったのに」
「体の具合はどうだ?」
「うん、大丈夫。すっかり良くなったわ」
そう言って、ミスティアは手のひらをかざして見せる。
あれほど酷かった傷が、もう跡形もない。昨夜の治癒スキルが、確かに効いていたのだ。
「……そうか。なら安心だ。けど、無理に動くな。すぐに王都に戻るより、少し体を休めてからの方がいい」
「……ありがとう、ソウスケ」
彼女は少しうつむいてから、ぽつりとつぶやいた。
「ねえ……少し、話せないかな。二人っきりで」
その声は、どこかためらいがちだった。
「……ああ。分かった」
◇
俺たちは、村の民家から少し離れた、木陰の小道へと足を運んだ。
朝露に濡れた草が、靴の先を静かに濡らす。
吐き出した息に、ほんの少しだけ熱が混じっていた。
「……私、王都に帰らないことにした」
ミスティアが、ぽつりと呟く。
「……え?」
思わず、聞き返してしまった。
「もう、限界なの」
その声は静かだったが、どこか張りつめていた。
ミスティアはゆっくりと語り出す。
「私、生まれた時からずっと“王女”として頑張ってきたの。立ち居振る舞いも、言葉遣いも、勉強も……全部、“ふさわしい人間”になろうとして、必死だった」
小さな拳が、スカートの裾をきゅっと握りしめる。
「でも……どうして。なんで、こんな殺し合いみたいな目に遭わなきゃいけないの?」
そこから先は、堰を切ったようだった。
「私、誰も傷つけてなんかないのに。何も奪ってないのに。ただ笑って、皆に手を振って、ちゃんと務めを果たしてきただけなのに……!」
「……」
「それなのに……どうして、みんな私を王にしようとするの? 本当に私のことを思って? それとも、自分が出世したいから? お金がほしいから? 私が都合のいい“道具”だから?」
ミスティアの声が、震えながら高まっていく。
「あんなに優しかったロアゼン叔父様も……私を裏切った。ゼファル兄さんだって、昔は一緒に笑ってくれたのに……。それでも“王になるため”なら、全部失ってもいいの? そんなの……そんなの、私、望んでない……!」
少女の肩が震えている。
俺は何も言えず、ただその傍に立っていた。
「ソウスケ……。私、王になったら何か得られるの? 幸せになれるの? 王になった後も、誰かを裏切って、殺し合いをして、王位を守り続けなきゃいけないの……?」
その瞳が、涙に濡れて俺を見上げた。
小さな手が、俺の袖をぎゅっと掴む。
「ねぇ……教えてよ、ソウスケ……お願いだから……私に、教えてよ……」
ミスティアは最後の言葉を、嗚咽にかき消されるように絞り出すと、俺の胸に顔を埋めた。
子どものように、声を上げて泣き崩れる。
——そして俺は、
そんな彼女に、かけてやれる言葉を一つも思い浮かべることができなかった。
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