第59話 ナフィル城の惨劇
俺とミスティアは、城門を通され、そのままナフィル城の奥へと案内された。
石造りの廊下を進み、重厚な扉が開かれる。
待ち受けていたのは、この地を治める領主――ロアゼン・ナフィル侯爵だった。
「お疲れだったな。ようこそ、お戻り願えた」
にこやかな笑みを浮かべ、彼は俺たちを出迎えた。
だがその笑顔は、どこか張りついたような、よそよそしさを含んでいる。
俺はミスティアを伴って応接室へ入り、椅子に腰を下ろすと、手短にこれまでの経緯を報告した。
魔の森、王立守備隊の全滅、合成獣の襲撃、そして巡礼地での包囲と脱出。
今なお、仲間たちが敵と戦っているかもしれないことも伝える。
ロアゼンは黙って耳を傾けていたが、話を終える頃には、額に深い皺を刻んでいた。
「……君は、すぐに巡礼地へ戻るんだな」
「はい」
「馬は新たにこちらで手配しよう。補給も整える。……準備ができ次第、発ってくれ」
「……分かりました」
言われずとも、そうするつもりだった。
だが――なにか、引っかかる。
ロアゼンの声音は穏やかだが、その奥に微かな焦りが滲んでいる。
ミスティアを無事に届けたというのに、安堵の色がまるで見えない。
(……何かを隠している?)
胸の奥にじわじわと広がっていく、不快な違和感。
隣のミスティアも、言葉を発さず、わずかに首を傾けてロアゼンを見つめていた。
「……いや、やはり、一泊してからミスティア殿下と共に王都へ戻ることにしたい。滞在をお願いできますか?」
静かにそう告げると、ロアゼンの目が一瞬だけ揺れた。
そのわずかな動揺が、疑念をさらに濃くする。
「い、いや、その……。聖騎士たちの安否が不明なままでは、こちらも気が気でなくてね。殿下はこちらでお預かりするから、君は心配せず、巡礼地に戻ってくれたまえ」
やはり、何かが怪しい。
その口ぶりは、引き離そうとしているようにしか聞こえなかった。
「ジェスタたちは、承知の上で踏みとどまっているはずです。今はそれよりも、殿下を一刻も早く王都へお送りする方が先です。……明日までに、馬車の準備をお願いできますか?」
ロアゼンは口をつぐみ、ほんの一拍の沈黙ののち、静かにうなずいた。
「……うむ。わかった」
その声は、表面だけを繕ったように冷めていた。
◇
それぞれの部屋に通されたあと、俺はミスティアの部屋を訪ねた。
扉の前に立ち、軽くノックする。
数秒の沈黙ののち、扉がわずかに開いた。
「……ちょっといいか」
「え、あ……はい」
ミスティアは驚いたように目を瞬かせながらも、小さくうなずいた。
「ロアゼンとは、付き合いが長いと聞いてるが……本当か?」
「はい。ロアゼン様は母の縁戚で、生前からずっとお世話になっていました。私が小さい頃から“おじ様”と呼んで、慕っていたんです」
その語り口には、かすかな懐かしさと信頼がにじんでいた。
……疑念はある。だが、関係が長いとなれば、簡単に断ち切れるものではない。
ましてや、今もなお彼は第三王女・ミスティアの最も明確な支援者のひとり。
そんな男が、堂々と裏切りに加担するなど——常識で考えれば、あり得ない話だ。
「最近……何か、おかしなことはなかったか?」
少し間を置き、意図を探られないよう努めて尋ねる。
ミスティアは首を横に振った。
「いえ、特には。巡礼の話が決まってからも、ずっと応援してくださってました。“この巡礼が、王位継承への追い風になる”と……そう、言ってくださっていました」
……疑わしい。だが、確証はない。
だからこそ、この場でミスティアに不安を抱かせるわけにはいかない。
「そうか。……なら、いいんだ。ありがとう」
俺はそう言い、軽く頭を下げた。
「何か……気になることでもあったんですか?」
ミスティアが、わずかに不安げな顔で尋ねてくる。
「いや。念のための確認だ。……疲れてるだろ、今日はもう休んでくれ」
それだけ言い残し、俺は部屋を後にした。
——警戒は続ける。
今はただ、油断せずに見極めるしかない。
◇
晩餐会は静かに、何事もなく幕を閉じた。
料理も酒も上等だったが、俺が注視していたのは味ではなく、ロアゼン・ナフィルの仕草一つひとつだった。
何か怪しい素振りを見せれば、その瞬間を逃さず問い詰めるつもりだった。
だが、終始、彼の態度は冷静沈着。会食は粛々と進み、決定的な証拠も、揺らぎも見せないままだった。
それでも、こちらから揺さぶりをかけることはできる。
「再び、巡礼地は壊滅しました」
沈黙を破るように、俺は淡々と告げる。
「……おそらく、あれはただの魔物ではありません。合成獣――キメラです。敵はドラゴンのキメラまで投入してきました。こちらの動きが筒抜けになっているのは、もはや疑いようがありません」
「……そうか。それは、用心せねばなるまいな」
ロアゼンは眉をひそめ、静かにうなずいた。
言葉の端に不安をにじませつつも、その反応は想定の範囲内。
俺はさらに一歩踏み込む。
「……テスタ・ラジーネという名を、知っていますか?」
意図的に、静かに、鋭く問う。
一瞬、ロアゼンの肩がわずかに揺れた。
呼吸が止まったかのような、わずかな間――すぐに彼は笑顔を作る。
「知らんな。誰のことだ?」
「ソウスケ、その人って誰なの? 私も聞いたことないわ」
隣で首を傾げるミスティア。彼女が知らないのも無理はない。
テスタ・ラジーネは、前回の魔王大戦でも前線には出てこなかった影の存在。
その名を聞いて反応できるのは、裏事情に通じている者だけだ。
「……ああ、合成獣を創り出した張本人だ。ダークエルフでありながら魔族に身を売った、狂気の科学者。今回の事件、その裏で糸を引いているのは間違いなくそいつだ」
「そ、それは……確かなのか?」
ロアゼンの声色が、わずかに硬くなる。
「確かです。――それだけじゃない。魔族は今、王族と繋がっているという情報もある。第二王子ゼファル。奴が密かに魔族と手を結び、暗躍していると」
静寂が、テーブルの上に落ちる。
ロアゼンはしばらく黙ったままグラスを見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……そうか。ならば私も、その件について調べてみよう」
表情は、何も語らない。
だがその返答は、肯定とも否定とも取れる曖昧なものだった。
(……さて、どこまでが芝居か)
この男が味方か敵か、まだ断定はできない。
だが、ほんの一瞬の反応――あれは確かに“知っている者”のそれだった。
油断はできない。ここにいる間は、常に疑ってかかるしかない。
無事に王女を連れて、この城を出るまでは。
◇
皆が寝静まった頃、俺は静かに部屋を出た。
廊下に足音はない。ただ、遠くで風が窓を揺らす音だけが微かに響いていた。
ミスティアの寝室は、本邸の二階。
対して俺の部屋は、わざわざ別棟に用意されていた。
護衛として隣室を希望したが、身分の違いを盾に却下された。
――あからさまな“引き離し”だ。
意図的なものと見るべきだろう。
明日には、王都へ向けて出発する。
敵が動くとすれば、その前――つまり今夜が、最も狙いやすいはずだ。
俺は気配を殺しながら、本邸の階段を上がった。
ナフィル城の廊下は広く、冷えきった石造りの床が、足元から体温を奪っていく。
壁に並んだ灯火が、ぼんやりと揺れては、長い影をゆらゆらと伸ばしていた。
ミスティアの部屋は、この先のはず――
そう思いながら角を曲がったその瞬間。
「……!」
目に飛び込んできた光景に、俺は思わず足を止めた。
廊下の隅に、人影が倒れている。
反射的に駆け寄る。
ナフィル城の衛兵だった。仰向けに倒れ、口元から血を垂らしている。
息は……ない。完全に絶命していた。
「……やられてる」
周囲を見渡す。
音も気配もない。
けれど、その静けさが逆に不気味だった。
俺は即座にミスティアの部屋へ駆け出す。
扉の前に立ち、耳を当てる――が、中からは物音ひとつしない。
背筋に、冷たいものが走った。
拳で扉を強く叩く。
「ティア! いるなら返事をしろ!」
……応答はない。
迷う間もなく、スキルを発動する。
「空間転移」
俺は空間転移で扉を“抜き取り”、そのまま闇の室内へと踏み込んだ。
「ティア……!?」
空気が、凍りつくように冷たい。
ただの寒さではない。
——生の気配そのものが、この場から失われていた。
視線を巡らせる。だが、どこにもミスティアの姿は見えない。
ベッドは整っており、乱れた様子はない。
窓は閉じ、机の燭台には火も入っていない。
衣装棚には、まだ着替えが残ったまま。
――違和感しかない。
ここには、つい先ほどまで“人がいた形跡”すらなかった。
まるで最初から、誰もいなかったかのような静寂。
(……ミスティアが危ない)
胸の奥で、鋭い警鐘が鳴る。
彼女が自ら姿を消す理由がない。
ならば――強制的に連れ去られた、と考えるべきだ。
刹那。
背後で、何か動く気配がした。
「……あら、初めましてぇ? ソ・ウ・ス・ケ、くん♪」
女のような、甘ったるい声。
しかし、その声の主は――
俺の顔見知りの男だった。
血の気を失った青白い皮膚。
虚ろな白目を剥き、表情筋だけを引き攣らせたような、ぎこちない笑み。
口元だけが、人形のようにゆっくりと吊り上がっていく。
——ロアゼン・ナフィル侯爵。
その彼が、ぎこちない角度で首を傾けながら、俺を見下ろしていた。
「……やだぁ、そんなに熱い眼差しで見ないでよぉ? これ、おじさんの身体なんだからぁ、ぜんっぜん可愛くないでしょ?」
声と顔が、噛み合っていない。
唇だけが動き、そこから女の声が漏れ出している。
……ロアゼンは、すでに”死んでいた”。
その肉体に、何者かの“意思”が寄生している。
「わたし、テスタ・ラジーネって言いまぁす。よろしくねぇ? ソウスケくん♡」
その名乗りと同時に、ロアゼンの首が、ギギギ……と鈍く軋む音を立てて傾く。
そして、まるで壊れかけた人形のように——笑った。
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