第58話 逃避行
北の断崖を越えると、俺たちはすぐさま森の中へと飛び込み、
南へと大きく迂回しながら、ナフィル城を目指して進路を取った。
徐々に日が傾いていく。
魔の森を抜けた頃には、あたりは深い夕暮れに包まれていた。
そして——聖地の南側、山麓に広がる街が、視界の端に飛び込んできた。
思わず、足が止まる。
かつて巡礼者たちの拠点だったはずのその街は、
もう、見る影もなかった。
瓦礫と化した石造りの家々。
その上空を、異形の合成獣たちが音もなく旋回している。
あまりにも静かだった。
だからこそ、その破壊の爪痕は、胸を裂くように鮮やかだった。
俺の横で、ミスティアが小さく身じろぎした。
顔をゆがめ、唇を噛みしめ、震える声で呟く。
「……ごめんなさい」
確かに、あの街がこうなったのは——
巡礼という大義のもと、彼女が動いた結果かもしれない。
だが、俺はその言葉を否定も肯定もせず、
ただ彼女をそっと抱え直し、静かに言った。
「俺たちは、今できる“最善”を選んできた。
悔やむのは、すべてが終わってからでいい。……ティア」
ミスティアは、小さく息を呑み、
伏せた瞳の奥で、なにかを噛みしめているようだった。
風が吹いた。夜の森がざわりと葉を揺らす。
その風は冷たく、静かで、どこか寂しげだった。
枝葉が空を覆い隠し、闇が森を満たしていく。
獣の気配と、微かに漂う魔の瘴気が、肌を刺すようだった。
——まだ、終わりじゃない。
逃避行は、始まったばかりだ。
◇
夜が深まる頃、俺たちは森の中の小さな空き地に腰を下ろした。
上空には、赤と青——二つの月が寄り添うように浮かんでいる。赤い月は血のように鈍く、青い月は氷のように冷たかった。
周囲は鬱蒼とした木々に囲まれ、遠くまでは光が届かない。
頼りになるのは、目の前で揺れる焚き火の炎だけだった。
「……ここまで来たら、ひとまず合成獣も追っては来ないはずだ」
俺はそう呟きながら、手元の枝を一本、火にくべる。
ぱち、と乾いた音が静寂を破った。
ナフィル城までは、まだ道半ば。
だが敵の勢力圏は抜けたはずだ。少なくとも今は——追撃の気配はない。
「……みんな、無事でしょうか」
焚き火越しに、ミスティアがぽつりと呟く。
「ジェスタがついてる。あいつが本気を出せば、たとえ大軍でも止められる。
ユリアもイリアスも、もう十分に強くなった。……聖騎士たちも、きっと持ちこたえてくれるはずだ」
自分に言い聞かせるように、俺は言葉を重ねた。
俺はナフィル城についたら、すぐにミスティアを預けて、戦地に向かうつもりだった。
ミスティアは視線を落とし、膝の上で手を組みながら、静かにこぼす。
「……私に、もっと力があれば……」
「もう、そう言うのはなしだ」
少し強く言ってしまい、俺は視線を焚き火に戻した。
「そう思うなら、これから強くなればいい。それだけの話だ」
しばらく、焚き火の燃える音だけが響いた。
やがて、ミスティアが口を開く。
「……火って、見ているだけで落ち着きますね」
「人は昔から、火のそばで休んできたからな。
焚き火には……そういう“魔法”があるのかもしれない」
ミスティアはふっと笑った。けれど、その笑みにも翳りが差している。
「……私、王女なのに。
ずっと誰かに守られてばかりで、なんだか情けないです」
「王女だからこそ、だろ。守られて当然だ」
「……でも、それが嫌なんです。……わがままですよね」
俺はすぐには答えず、焚き火の光が揺れる彼女の顔を見つめた。
「……ティア」
言葉を選びながら、俺は静かに言う。
「お前はいま、この国の未来を背負ってる。
生き残ることだって、戦い方の一つだ。
……第二王子が玉座に就けば、全てが終わる。それだけは、俺たちで止めないといけない」
その言葉に、ミスティアは小さくうなずき、潤んだ瞳で俺を見る。
「……分かりました」
風が木々を揺らし、煙が細く流れていく。森は再び静けさに包まれた。
「……隣、いいですか?」
「……ああ」
ミスティアはそっと身を寄せ、俺のすぐ隣に腰を下ろす。
「……なんだか、駆け落ちしてるみたいですね」
「駆け落ち?」
「笑わないでくださいね。私、昔から……誰か知らない人に攫われたいって、思ってたんです」
「……?」
冗談にしては、どこか真剣すぎる声だった。
俺は返事に迷いながら、彼女の横顔をちらと見る。
「多分……王女という立場から、逃げたかったんです。
「全部投げ出して、名前も身分も忘れて……
どこか誰も私を知らない場所へ、知らない誰かと行けたらって……
今でも、そんな夢を見てしまうんです」
その声には、寂しさと願いと——ほんの少しの諦めが混ざっていた。
まだ十歳の少女にすぎない彼女に、どれだけの重圧がのしかかっていたのか。
逃げたくなるのは当然だ。
それでも彼女は、逃げずにここにいる。
だから俺は、静かに言葉を紡ぐ。
「……それでも、お前は前に進んでる。
踏みとどまって、自分の意志で」
「……そう、でしょうか」
「俺は、そう思う」
ミスティアは、そっと肩を寄せた。
触れそうで触れない距離。
そのまま、静かに目を閉じる。
「ソウスケ……ありがとう」
かすかな声が、夜の森に溶けていく。
焚き火の炎だけが、ふたりの影を静かに揺らしていた。
◇
——ナフィル城。
すでに正午を回っていた。
重苦しい静寂の中、ロアゼン・ナフィル侯爵は、部屋の片隅に座す“客人”の様子を窺っていた。
テスタ・ラジーネ。
魔族の幹部にして、異形の合成獣を操る女。
長椅子に寝そべるように身を預けていた彼女が、ふいにぱちりと目を開けた。
「うふふ。私の可愛い子たち、ぜ〜んぶやられちゃったわ。
ミスティアちゃんも、取り逃がしちゃったし……まさか、空まで飛べるなんてねぇ? ほんと予想以上なんだけどぉ?」
その声音は甘く、耳に纏わりつくようだった。
ロアゼンは苦笑いを浮かべ、慎重に言葉を選ぶ。
「……さて、次は、如何なさいますか?」
「う〜ん……手持ちの子はもういないしぃ……どうしよっかな〜?」
テスタは腕を組み、わざとらしく頬を膨らませたかと思えば、ふとロアゼンを見て、ニタリと笑った。
「……あ、そうだ。
もうそろそろ、あの子たち、ここに来るはずなのよね〜?
頑張ってくれるかしらぁ? ゼファル様のためにぃ?」
その言葉に、ロアゼンの表情がわずかに引きつる。
「……と、ということは……我々がミスティア殿下を……?」
「そ〜れそれっ♪ 油断したところを、ズバンッと“やっちゃいなさい”♡
忠誠心、見せつけちゃうチャンスなのよ〜? ね、ロアゼンくん?」
「……しかし私は、あくまで魔族への協力を誓っただけで、殿下を……その、殺すとは……」
「なぁに言ってんのよ、今さらぁ?」
テスタはくすくすと笑いながら、椅子の肘掛けに肘をついて身を乗り出す。
「裏切ったって、そういうことよ?
“何もしない”なんて都合のいいお話、あるわけないでしょ?
……まさか、今さら怖じ気づいたぁ?」
その声色は甘く、けれどその奥に潜む冷酷さは、刃よりも鋭かった。
ロアゼンは、喉を鳴らしてうつむく。
「……はっ」
そのとき、扉の外から控えの声が響いた。
「ご報告いたします。ミスティア殿下と護衛の者たちが、到着されたとのことです」
その報せに、テスタはぱちんと手を打った。
「わぁい、来た来たぁ♪ さあ、お出迎えの準備をしましょ? ナフィル侯爵?」
ロアゼンは黙してうなずく。
その額には、じっとりと冷たい汗が浮かんでいた。
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