第57話 危機からの脱出
大聖堂の中は、もはや修羅場だった。
ユリアの展開する聖域結界の内側には、傷だらけの聖騎士たちが何人も座り込み、うずくまっている。誰もが血と泥にまみれ、まともに立つこともできず、ただ生き延びているだけという有様だった。
結界の外にも、戻りきれなかった騎士たちが、無惨に横たわっていた。
ミスティアは祭壇の陰から、その光景を見つめていた。
歯を食いしばって、それでも声を張り上げる。
「ハウゼン、もう限界です。戻ってください……!」
声は震えていた。けれど叫ばずにはいられなかった。
——だが、その懇願は、届かない。
老騎士ハウゼンは、傷だらけの身体を引きずりながら、なおも前に立っていた。
刃こぼれした長剣を片手に、巨大なミノタウロスと対峙している。
その姿は、もはや風前の灯火だった。
ミスティアは祈るように手を組む。しかし、神の奇跡は起こる気配はない。
結界の反対側では、残る二体のミノタウロスが、ゴゥン、ゴゥンと大斧を叩きつけていた。
ユリアが肩で息をしている。額には玉のような汗。唇は蒼白だった。
聖域の光壁が揺れるたび、ミスティアの胸が締めつけられる。
——ユリアの限界は、近い。
魔力の糸が、もうすぐぷつりと切れてしまう。
それがわかっているのに、ミスティアには何もできない。
自分は王女なのに。
皆の象徴であるはずなのに。
どうして、誰一人守れないの——。
胸の奥で、後悔と無力感が広がっていく。
そして、そのときだった——
老騎士ハウゼンの前に立ちはだかっていたミノタウロスが、突如として動きを止めた。
次の瞬間、ズズ……と不気味な音を残して、右半身と左半身がずれるようにして、真っ二つに裂け落ちる。
ミスティアは、そのあまりに唐突な光景に、声を失った。
「……?」
崩れ落ちた魔物の死骸の向こうから、ひとりの少年が現れる。
漆黒の外套が翻り、手にした長刀の刃先からは、赤い雫がぽたぽたと滴り落ちていた。
その姿を目にした瞬間——ミスティアの瞳が、大きく見開かれる。
「……ソウスケ……?」
少年は足を止め、ちらとこちらを振り返る。
「遅れてすまない、ティア」
——その声を聞いた瞬間、ミスティアの胸に、熱いものが込み上げてきた。
張りつめていた緊張が、ふっと緩んでいく。
絶望に染まりかけていた空間に、確かに——希望の灯が差し込んだ。
◇
——間に合った。
何より、ミスティアが無事でいてくれたことに、まずは安堵する。
……だが、大聖堂の中は、すでに地獄と化していた。
ハウゼンだけではない。
立っている聖騎士は、もはや数えるほど。
ほとんどが血と泥にまみれ、結界の内側で息も絶え絶えにうずくまっている。
ユリアの疲労も、限界は目前だった。
展開された聖域結界は、今にも崩れそうな脆い光を放っている。
俺は長刀を構え直し、ミノタウロスの死骸の奥にいる、残る二体へと視線を移した。
結界を破壊していた彼らは、ぴたりと動きを止め、こちらを凝視している。
——こいつらも、テスタ・ラジーネの傀儡か。
だが、どうやってこれだけの大軍を同時に操っている?
……おそらく、彼女が“手動”で動かしているのは一部だけ。
残りは、あらかじめ命令を与えられた自動制御の“死体人形”なのだろう。
反応が鈍いのも、そのせいだ。
判断力ではなく、単純な行動パターンでしか動けていない。
なら、こちらから仕掛ける。
俺は歩を進める。
——あと二体。
ユリアがもっているうちに、終わらせる。
刃に力を込めた、その瞬間だった。
ミノタウロスの目が、赤く燃え上がる。
地響きを立てながら、重い脚音とともに突進してくる。
「ソウスケ、気をつけて!」
ミスティアの声が飛ぶ。
空間転移
——視界が、一閃。
俺は一気に死角へと回り込む。
ミノタウロスの背後に現れ、胴を撫で斬りにした。
肉が裂け、骨が砕ける手応え。
巨体がよろめいたその瞬間、反転。
もう一体のミノタウロスに向き直り、踏み込みざまに胸を一点、突き抜けた。
鮮血が噴き出し、巨体が仰向けに崩れる。
——完了。
俺は静かに刀を払った。
◇
大聖堂内に、大きな脅威はなくなった。
ユリアの結界も、これでなんとか持ち直すはずだ。
「……ソウスケ……!」
ミスティアの駆け寄る気配。
俺は小さく頷き返し、すぐにユリアのもとへ向かった。
少女の顔は真っ青だった。
額には玉のような汗。肩で息をしながら、それでも必死に結界を維持している。
「ユリア、もういい。休め」
その声を聞いた瞬間、ユリアの膝が崩れ落ちた。
俺は慌てて抱きとめる。
「……ごめんなさい。守らなきゃって……でも、もう……」
「よくやった。十分すぎるほどだ。あとは俺が引き受ける」
ユリアは、微かに安堵の笑みを浮かべたまま、静かに意識を手放した。
「ソウスケ……」
ミスティアが、安堵と罪悪感の入り混じった瞳で俺を見つめる。
「俺たちは、ここを守りきった。……あとは、ジェスタのところに——」
その瞬間だった。
ゴゥゥンッ!!
天地を揺るがす轟音とともに、大聖堂の壁のひとつが爆ぜるように崩れた。
巨大な影が視界を覆い、巻き上がる土煙に聖騎士たちの悲鳴がかき消される。
「……なんだ、今のは……?」
俺はミスティアとユリアをかばいながら、外へと駆け出した。
そして——見上げた空に、異形がいた。
黒と蒼の鱗に覆われた、恐るべき巨体。
左右に分かれた二つの頭。
一つは灼熱の赤。もう一つは氷結の青。
それぞれの口から、炎と氷のブレスが交互に吐き出され、大地を焼き、凍てつかせていく。
「……ドラゴン……それも、双頭の……!」
空を覆うその存在は、まさに戦場に降りた“終末”だった。
「ジェスタ……あれは……?」
俺の問いに応えるように、地上から空を睨みつけていた男が振り返った。
二刀を構えた剣聖——ジェスタ・ハイベルグ。
「チッ……飛んでやがる上に、あの距離じゃ刃が届かねぇ」
ジェスタは苦々しげに歯を噛みしめる。
「しかも、あの野郎……上空からブレスをばら撒いてる。一方的な蹂躙だ。このままじゃ、地上の連中はみんな丸焼けか凍り漬けだ」
「……手は、ないのか?」
「こっちの攻撃が届きさえすれば、やれねぇ相手じゃねぇ」
ジェスタの声には、苛立ちと焦燥が滲んでいた。
——それは、届かない“敵”への怒り。
俺は、視線を再び空へと向けた。
燃え盛る頭と凍える頭、両方を備えた化け物が、ゆるゆるとこちらへ旋回してくる。
だが、俺には——“届かせる”手段がある。
「ジェスタ、俺が空を飛べたら、なんとかなるか?」
「……できんのか?」
「二人一緒なら、空間転移で上空に出られる。
そこから《空間飛翔》で空中移動も可能だ。——ただし、俺から離れたら落ちる」
「上等だ。奴の面に、刃を叩き込めりゃ、それで十分だ」
ジェスタの双眸が猛禽のように細められる。
その瞳に灯ったのは、狩人としての本能的な殺意——“届かぬ敵”を仕留める者の眼光だった。
「——掴まれ」
俺は彼の前腕を掴み、転移座標を空に定める。
「空間転移!」
空間がねじれ、視界が裏返る。
刹那、俺たちは——双頭のドラゴンの“鼻先”にいた。
「なっ……!」
巨体がわずかにたじろぐ。
——その一瞬を逃すな。
「空間飛翔!」
起動と同時に空を駆ける。
風を裂き、魔力を推進力に変え、双頭の巨影へと突貫する。
「行け、ジェスタ!」
「——任せろ!」
ジェスタが俺から離れると、空中で身を翻した。
双刀を逆手に構え、刃の軌道が螺旋を描く。
「双牙一閃ッ!!」
閃光が、空を裂いた。
一撃目が紅蓮の咽喉を斬り裂き、
二撃目が氷結の頸を断ち切る。
交差する剣閃は稲妻のように瞬き、
双頭の竜は咆哮すら上げる間もなく、
——空から、崩れ落ちた。
燃え盛る熱と、凍てつく冷気が爆ぜる。
空は紅と蒼に染まり、残光が灰色の霧となって舞う。
その余波を蹴るように、ジェスタが宙をひと回転し、
寸分の狂いもなく、俺の肩に着地した。
「……ああ、スッとしたぜ。
届かねぇ敵ってのは、性に合わねぇ」
俺は肩越しに息をついた。
下を見下ろせば、崩れ落ちていく竜の巨体。
唖然とする聖騎士たち。
そして——やがて歓声が湧き上がった。
だが。
その歓喜を切り裂くように、
山の裾野から、新たな影が迫っていた。
「……チッ、終わりじゃねぇか」
ジェスタが目を細める。
視線の先には、黒煙を上げながら進軍する、合成獣の増援部隊。
「早く、地上に降ろしてくれ」
「ああ——空間転移」
俺たちは、一瞬の空間の歪みに包まれ、
次の瞬間、地上に降り立った。
◇
聖騎士団は、なんとか再編を果たしつつあった。
ユリアの献身的な回復魔法のおかげで、多くの者が立ち上がっている。
だが、彼女の魔力はすでに尽きかけていた。
これ以上、維持は望めない。
——そして、追い打ちのように。
北を除く三方から、新たな魔族の増援部隊が押し寄せてきていた。
「ソウスケ、ミスティア殿下を連れて……飛んでいけないか?」
隣で、ジェスタが言った。
「どういう意味だ?」
「俺ひとりなら、いくらでも暴れられる。
だが、殿下を守りながらじゃ動きが鈍る。……戦場は甘くねぇ」
ジェスタの言葉は冷静で、それでいて悔しさを滲ませていた。
「魔力は少ないけど……私も、まだ動けます。
だから……お願い。ミスティア様を……」
ユリアが絞り出すように言った。
「ボクも平気! ここは任せて」
イリアスが、いつもの無邪気な笑みを浮かべて拳を握る。
「……でも、私……」
ミスティアがためらいがちに口を開いた。
「私は皆と一緒に戦いたい。……最後まで」
その声音は震えていたが、芯には確かな決意が宿っていた。
俺は、空を仰ぎ——次に、北の断崖を見やった。
確かにそこは切り立った絶壁だが、敵の数は手薄だ。
あのルートを抜けられれば、一時的にでも包囲を逃れられる。
あとは、敵を撒いてナフィル城まで辿り着ければ……まだ望みはある。
聖騎士たち全員の視線が、俺たちに注がれていた。
その中から、一歩前に出た男がいた。
側近のハウゼンだ。
「殿下、どうか……わがままはお控えください」
その声音には、静かな叱責と、切なる願いが込められていた。
「これが、我ら全員の総意です。王位後継者として、生き延びてください」
ミスティアは拳を握りしめ、目を伏せ——やがて、頷いた。
「……わかりました」
「ソウスケ殿、殿下を、どうか……お願い申し上げます」
ハウゼンは深く頭を下げた。
その背中には、万感の思いと覚悟が宿っていた。
——信じ、託してくれた。
「任せろ」
俺はミスティアを抱き上げ、空間座標を定める。
「行くぞ——ミスティア」
「はい」
空間飛翔
風が巻き上がり、俺たちは空へと舞い上がる。
地上が遠ざかり、無数の小さな影が、手を振るように見えた。
ミスティアも、そっと手を振った。
「——ご武運を」
祈るようなその声を背に、
俺たちは断崖を越え、深い森の彼方へと飛んでいった。
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