第55話 死の森
朝靄がまだ地を這うように漂う。
静寂の中、教会の扉がゆっくりと開かれた。
差し込む柔光の中に現れたのは、
純白の聖衣に身を包んだ、第三王女ミスティア・ハーヴェス。
「……わぁ」
思わず漏れたのは、ユリアの小さな感嘆。
「きれい……本物の聖女様みたい」
隣でイリアスも息を呑んだ。
聖衣の生地は柔らかな光沢をまとい、朝日に照らされるその姿は、まるで神話から抜け出した女神のようだった。
淡金の髪は高く束ねられ、編み込まれた一房が背に流れている。
右手には、儀式用の白銀の錫杖——王家の血を引く者だけに授けられる、巡礼の象徴。
すでに整列を済ませていた聖騎士団は、ミスティアの登場と同時に一斉に膝をついた。
彼女は静かに立ち止まり、儀式を控える騎士たちへと、恭しく一礼を捧げる。
石畳の広場に、冷たい朝の空気と、凛とした緊張感が張り詰めていた。
この地に駐屯する王国軍守備隊は、わずか数十名。すでに周囲の森や山道の監視へと散っている。
ここに残るのは聖騎士団三十余名。 そのすべてが、ミスティアの命を護る盾となる。
——敵の気配は、いまのところない。
俺は人々の輪から一歩離れ、静かに周囲に目をやった。
あれほど執拗だった魔物の襲撃が、昨日を境にぴたりと止んだ。
その静寂こそが、不気味でならない。
奴らが来るのは間違いない。
問題は、その「数」と「規模」だ。
それによって、こちらの対応も大きく変わる。
「……少し、周囲を見てくる」
そうユリアとイリアスにだけ伝え、俺は踵を返した。
◇
朝の靄がまだ森を覆っている。
湿った土の匂いと、しっとりと濡れた草の感触が、馬の蹄を通して足元に伝わってくる。
俺は、山の北側を目指して馬を進めていた。
このあたりは、王国の地と魔族領の“境”に最も近い場所でもある。
それゆえに、この山でもっとも危険な地帯とされていた。
「……静かすぎるな」
森を抜ける小道は、獣道同然だ。
木々は互いに枝を絡め、空を覆い隠す天蓋をつくっている。
薄暗い——だが、その合間から、ちらりと“断崖”が見えた。
あれが、山の北面。 大聖堂の裏側にあたる。
そびえる崖は真下が奈落で、見る者の足をすくうほどの高さがある。
「……さすがに、あそこから敵が来るとは思えないが」
断崖であるが故に、最もこちらの戦力が薄い場所。
あの断崖の裏手に軍を潜ませ、そこから山頂を回り込む形で南へ進軍してくる——そんな戦術も十分にあり得る。
俺は馬の歩みを緩めながら、耳を澄ませた。
鳥のさえずりもない。
虫の羽音もない。
「……気配が、ない」
何かがおかしい。
このあたりには、あらかじめ、王国軍の守備隊が配置されているはずだった。
「本当に、いるのか?」
俺は軽く馬を蹴った。
深い森の奥へと進んでいく。
——次の瞬間だった。
「……あれは……?」
木々の隙間、少し開けた空間の先に、それは“ぶら下がって”いた。
一本の太い梢から、人影が吊られていた。
よく見れば、それは一人ではなかった。
二人、三人……否、十数人分の兵士の死体が、蔦のようなものに絡め取られ、ぶら下がっていた。
首を、吊るされる形で。
風に揺れるその姿は、まるで“果実”のようだ。
「……くそっ……!」
俺は馬を降り、剣に手をかけながら駆け出した。
◇
俺は、木の上に吊るされた兵士たちの死体を見上げ、眉をひそめた。
その足元——
苔むした地面に、妙な“膨らみ”がいくつもある。
袋状の植物。
半透明の繊維越しに、人間の顔のようなものが透けて見えた。
——食虫植物……の合成獣か?
そのとき、袋の中で兵士らしき影が、かすかにもがいた。
「……! まだ生きてるのか!?」
だが、輪郭はすでにぼやけている。
肌は爛れ、甲冑の隙間からはどろりとした肉片がこぼれ落ちそうだった。
肉と鉄の境目は、もう見分けがつかない。
「……いや、助からない……」
ぬらり、と袋が脈打つ。
内部の液体がうごめき、ぶつぶつと泡立つ音が聞こえた。
そして、次の瞬間——
「ッ!」
空気を裂く音とともに、俺の目の前を“何か”が横切った。
——ツルだ。
木の上から、無数の蔓が鞭のようにしなり、獲物を狩るように襲いかかってくる。
俺は即座に飛び退き、剣に手をかけた。
「ねぇ、待ってたんだよ。一緒に遊ぼうよぉ?」
——声。
どこか甘ったるく、粘っこい舌で耳をなぞるような声音だった。
「誰だ」
俺が辺りを見回すと、ツルの根元に“それ”がいた。
木と人間が融合したような異形のキメラ。
太い幹に人間の顔が埋め込まれ、口元だけが器用に動いている。
「キミの名前、教えて? お友だちになろうよぉ♡」
「……黙れ、化け物」
剣を引き抜き、俺は踏み込んだ。
襲いかかるツルを切り払いながら突進する。
斬撃のたびに、血とも樹液ともつかぬ液体が飛び散った。
だが——
木に近づいたその瞬間、不意に足元の地面が盛り上がった。
植物の根元から突き出してきたのは、蠢く肉塊のような“咀嚼器官”。
丸く開いた口の内側には、鋭利な突起がびっしりと並び、
唸りながら粘液を滴らせている。
——一つ。
——また一つ。
気づけば、地面がめくれ、そこかしこに“口”が——
恐るべき“捕食罠”が次々と姿を現していた。
「……面倒なことになったな」
敵は、森そのもの——か。
「早くおいでよ。食べちゃうからさ。もう待ちきれないの」
「だったら、今すぐ死ね。《空間転移》」
俺は一瞬で木の根元へと移動し、躊躇なく幹ごと顔を叩き斬った。
刃が深く食い込み、木の芯から噴き出すのは——血とも樹液ともつかぬ粘液。
それとともに、神経を逆撫でするような甲高い悲鳴が響き渡った。
だが、息をつく暇もなかった。
「クスクス……ねぇ、それで終わりだと思った? 思ったのぉ? ざ〜んねんっ♡」
どこからともなく、声が囁きかけてくる。
気配を探るよりも早く、森全体が“顔”を持ち始めた。
無数の木々がぱっくりと幹を割り、中から醜悪な人面がぬるりと現れる。
「おねぇちゃんが、優しくしてあげるね……だから、こっちにおいでぇ♡」
——足元。
地面が泡のように膨れ、咀嚼器官の口がいくつも開く。
——空中。
蔓が飛び交い、獲物を求めてうねる。
「……っ、チッ。引くしかない!」
俺は剣で蔓を切り払いながら、来た道へと駆け出した。
逃げ道すら絡みつこうとする森の魔手を、寸でのところでかわしていく。
そして、ようやく道の出口が見えた——その瞬間。
「っぐ……!」
首に何かが絡みついた。
ツルだ。次の瞬間、俺の体は空中へと吊り上げられていた。
喉に食い込む圧迫感。
肺が潰され、呼吸が奪われていく。
「ひゃっはっはっ♡ 捕まえたぁ!」
森全体が狂ったように笑っている。
蔓はさらに締め付けを強め、首からは鈍い痛みと共に血が滲む。
「大丈夫……気を失ってもらうだけだから。 後から、た〜っぷり、かわいがってあげるねっ♡」
——やかましい。
「く……う……間……転……移……!」
声を絞り出し、スキルを発動。
空間が歪み、俺の体は吊り上げられた場所から解き放たれる。
次の瞬間には、地面に転がりながら着地し、すぐさま木の幹へと斬撃を叩き込んでいた。
「そんなに頑張らなくてもいいのにぃ? ……どうせ、ミスティアも、もうすぐ死んじゃうんだし♡」
「……なんだと?」
笑う声が木々の間から響く。
「へへへ……ねぇ、どっちが先に“ぐちゃぐちゃ”になっちゃうかなぁ?」




