第51話 ナフィル城の夜
歓迎の宴も終わり、ナフィル城はすっかり夜の静けさに包まれていた。
灯火の数は減り、廊下には控えめな明かりがぽつぽつと灯るのみ。
客間のひとつでは、ユリアとイリアスが並んで寝る準備を進めていた。
「さあ、明日も早いから、さっさと寝るわよ」
ユリアがきびきびと寝巻きの襟を整えながら言う。
「えー、ちょっとこれから出かけようよ。夜の街も面白いかもしれないよ」
イリアスはベッドの上に座ったまま、不満げに足をぶらぶらさせる。
「どうせ、屋台か何かに行こうとしてるんでしょう。あれだけ食べたのに」
「う……ばれた?」
「当然でしょ」
そんな軽口を交わしていると、部屋の扉から”コツ、コツ”と控えめなノック音が響いた。
「はい、どなた?」
ユリアが扉の方へ顔を向けて答えると、少し間を置いて、小さな声が返ってきた。
「……私です」
その声を聞いた瞬間、二人とも自然と背筋を正した。
扉が静かに開かれ、入ってきたのは——第三王女、ミスティア・ハーヴェスだった。
薄桃色の部屋着に身を包み、金の髪をゆるく後ろでまとめた姿は、日中とはまた違う、柔らかな雰囲気をまとっている。
だが、その瞳には、どこか言い知れぬ迷いの色があった。
「夜遅くにすみません。入ってもよろしいですか?」
「もちろんです。どうぞどうぞ」
「うわぁ、ミスティア様だ!!」
目を輝かせるイリアスに、ユリアは苦笑しつつ、ミスティアに尋ねた。
「どうされたのですか?」
ミスティアは黙ってソファに腰を下ろし、膝の上で手を組んだまま、ぽつりと呟いた。
「……ユリアは、その……素敵な殿方に攫われたいと思ったこと、ありませんか?」
「?」
「??」
ユリアとイリアスが揃って首をかしげた。
「何か…… 聞き間違ったような気がしますが、もう一度聞いてもいいですか?」
ユリアがミスティアの様子を窺いつつ、質問した。
ミスティアはハッとした顔をしたが、すぐに顔を赤らめて枕に顔を埋めた。
「す、すいませんっ。その、私……っ」
声がこもっているが、耳まで真っ赤になっているのは見てとれる。
ユリアは少し戸惑いながらも、柔らかい声で言葉を返す。
「いいんですよ。ミスティア様。……色々と、皆、思うことはあります。私だって……」
「えっ、ユリアも思っていたの? 聞かせてください!」
ユリアはしまった、という顔をしたが、ミスティアは身を乗り出してユリアを見ている。
「え……その、私は……白馬の王子様が突然現れたらいいなと……」
「えっ、ほんと!? どんなのどんなの!?」
イリアスが食いつき、ミスティアも興味津々で身を乗り出す。
「い、言わなくていいわよ。別に……」
「ダメです、ここまで言っておいて止めるなんて。聖騎士たるもの、責任ある発言を!」
「む……その言い方、ずるいです……」
ユリアは観念したようにため息をつき、少しだけ視線を伏せた。
「……その、いつか、旅の途中で出会った騎士様が……盗賊たちに襲われて、困っていた私を助けてくれて……」
「そんなのやっつけちゃったらいいんだよ。必殺剣で!」
「イリアスはちょっと、黙っていなさい。で、それからどうなるんですか?」
ミスティアの目がきらきらと輝いている。
「そ、そして……私を抱きしめて……『ああ、君は何て美しいんだ。これからは君を守るために一生そばにいたい』とか言ってくれて……結婚してくれって……その……」
ユリアの声は次第に小さくなっていったが、その頬はほんのりと赤く染まっていた。
「そ、それから?」
イリアスが身を乗り出すと、ユリアは顔を逸らして枕に顔を半分沈める。
「……次はミスティア様の番ですっ」
「あ……うふふ。じゃあ、まずその……」
ミスティアは頬を染めながら、ふといたずらっぽく笑った。
「もう私たち、友達なんだから……ミスティア様、なんて堅苦しく言わずに、“ティア”って呼んでください」
「えっ……!」
ユリアもイリアスも、思わず息をのんだ。
ミスティアは照れくさそうに視線を落としながら、それでもどこか嬉しそうに微笑んでいた。
「私はですね……名も知らないような、荒々しい庶民の男性に、ある日、突然、攫われるんです」
「えっ」
「えっ」
ユリアとイリアスは、ほぼ同時に固まった。
「それで、無理やりボロ屋に放り込まれて、働かされるんです。『飯を作れ』『掃除もしろ』『洗濯くらいできるだろ』って……」
「…………」
「私、家事なんてまともにしたことないから、失敗ばっかりで。焦がしたり、破ったり、洗濯物を落としたり……
毎日怒鳴られて、手もあかぎれだらけになって、身も心もボロボロになってしまって……」
「……そ、それでいいんですか?」
ユリアが困惑した声を上げる。
「でも、時々、ぽつりと優しい言葉をかけてくれるんです。『まあ、今日はそこそこ食えるな』とか『……ようやく、まともに仕事ができるようになってきたな』とか……」
「だ、大丈夫かしら……」
ユリアは心配そうにミスティアの方を見ている。
「ふふふっ……その一言だけで、また明日も頑張ろうって思えるんです」
うっとりとした表情で遠い目をするミスティアに、ユリアは口を半開きにして固まり、イリアスは「うわー……」と目を泳がせた。
「……ボクの知ってる“素敵な攫われ方”じゃない……」
「ティア、それは……その……犯罪では……」
ミスティアは首を振った。
「ここからがいいところなんですっ!! だんだんとその男性は私に優しくなって、貧乏な生活でもちょっとした幸せがあって、少しずつ絆が芽生えていくという……」
「業が深い!!」
ユリアとイリアスが声を揃えて叫んだ。
「……ふふ、なんだか楽しいですね」
ミスティアがそう言って、ソファの背にもたれた。
「こんなふうに、普通におしゃべりして、笑って……誰にも気を張らずに過ごせる夜なんて、今まで、ほとんどなかった気がします」
「ティア……」
「私、自分が王女としての運命から逃れられないことは、ちゃんと分かってるんです。
きっと私は、誰かと政略的に結婚させられる。好きでも嫌いでも、そんなの関係なく……
だから、せめて妄想の中だけでも、自分とは全然違う人生を生きてみたくて……」
沈黙のあと、ユリアとイリアスはそっと、ミスティアの手を握った。
「大丈夫です。私たちがついています」
「そうだよ。ボクもついてるよ」
「ありがとう……ユリア、イリアス。……そうそう、ジェスタ様って、どんな人なんですか?」
「それだけはやめたほうがいいよ」「それだけはやめたほうがいいです」
またしても、ぴったり息の合ったハモりが返ってきて、三人は笑いあった。
ひとしきり話をして、イリアスが眠そうにまばたきを始めたのを見て、ユリアとミスティアは顔を見合わせる。
「明日は早いから、もう寝ましょうか」
「はい……」
「ふわーぁ……」
イリアスが大きなあくびをしながらベッドに潜り込み、ミスティアもゆっくり立ち上がった。
「お邪魔しました。おやすみなさい、ユリア、イリアス」
「おやすみなさい、ティア」
「おやすみ~」
扉が静かに閉じられたあとも、部屋にはしばしの沈黙があった。
──ティアの妄想は突飛だったけれど、その奥にあったものは、たぶん“自由”だったのかもしれない。
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