第43話 イリアスの実家
イリアスの実家に着いたのは、すっかり日が暮れてからだった。
「ここだよ」
イリアスが指差したのは、以前に俺がゲーム内で“彼女の家”だと思って訪れた家の、すぐ近くだった。
傾きそうな木造家屋。窓からは淡い灯りが漏れている。
……こんな近くだったとはな。もう少し探していたら、見つかっていたかもしれない。
「さあ、入った、入った」
イリアスに導かれ、俺はその家の扉をくぐった。
「あれ、あれ。お友達かい? イリアス」
皺だらけの手でエプロンの裾を拭いながら、老婆がやさしい目で俺を見つめる。
「そうさ、アンナばあちゃん! 久しぶりっ」
イリアスは駆け寄ると、その胸に子どものように飛び込んだ。
◇
心がこもったシチューを堪能したあと、イリアスはアンナ婆ちゃんにぴったりと寄り添っていた。
「アンナ婆ちゃんのシチューは、世界一だよねぇ。ねっ、ソウスケもそう思うでしょう?」
テーブルに頬杖をついたイリアスが、満足そうに笑いながらこちらを覗き込んでくる。
「ああ。……美味かった」
丁寧に煮込まれた野菜、優しい味付け──見た目は素朴でも、心がじんわり温まる味だった。
どこか懐かしい、そんな気分が少し過った。
食後の団欒。古びた家の中には、安らいだ空気が満ちていた。
「もう、遅くなったから、泊まっていきなさい」
アンナ婆ちゃんが食器を片づけながら、優しく言う。
「そうだよ。一緒に泊まって行こうよっ」
イリアスが振り向いて、まっすぐな瞳で俺を見上げてくる。
俺は一度、視線を窓に向けた。
夜の帳がすっかり下り、街灯の明かりすら遠くにぼんやりと滲んでいる。
──帰れないわけじゃないが…… まあ、今日はもういいか。
「……じゃあ、お言葉に甘えるか」
「やったーっ!」
イリアスがぱっと笑顔を咲かせた。
その無邪気な喜びように、なぜかこっちまで少し頬が緩んだ。
◇
しばらく三人で談笑していたが、いつの間にかイリアスは椅子の上で丸くなり、すやすやと眠っていた。
「あれあれ、もう寝てしまったのかい」
アンナ婆ちゃんが、目尻を下げて優しく言う。
「うーん、もう食べられないよ。お腹いっぱい……」
寝言のように呟く声に、俺とアンナ婆ちゃんは思わず顔を見合わせた。
彼女はクスクスと笑いながら、そっと毛布をかけてやる。
「俺が、連れていきましょうか」
「助かるわぁ」
イリアスを抱き上げると、思っていたよりもずっと軽い。
ほんの少し腕に力を入れるだけで、すうっと身体が持ち上がった。
眠ったままの彼女は、小さく呼吸をしながら、どこか子猫のようにあたたかい。
奥の部屋の古びたベッドに寝かせると、イリアスは自然と身を丸め、そのまま穏やかな寝息を立て始めた。
そっと部屋を出て、居間へ戻ると──
「……あの子は、きちんとやれてますか」
アンナ婆ちゃんが、心配そうに尋ねてきた。
その目には、静かな慈しみと、拭いきれない不安が滲んでいる。
「大丈夫ですよ。彼女は、よくやっています」
俺は迷わず、そう言った。
──まだ子供だ。
けれど、彼女はもう、勇者としての“志”を持っている。
俺は今日、それをまざまざと見せつけられた。
無駄なことが嫌いな合理主義者の俺には、それが少し──眩しく見えた。
「……そう。なら、よかった」
アンナ婆ちゃんは、ほっとしたように息をついて、急須に手を伸ばす。
「あの子には両親がいないから…… ちゃんと育てられたか、とても心配で……」
「そうですか……」
「10年ほど前のことだったわ。はっきり覚えている。村が魔王に襲われた……」
彼女の口から、かつての光景が生々しく語られた。
イリアスの両親は生まれたばかりの孫を連れて実家にやってきたこと。そして、その村がたまたま魔王の進軍の通り道だったこと。あっという間に魔族に蹂躙され、気がつけば孫を抱きしめていた自分だけが生き残ったこと。
王都に移住してきたけれど、苦労続きで十分な教育も受けさせることができなかったこと。
淡々と話すアンナ婆ちゃんを見ながら、俺は彼女が背負ってきた年月の重みを感じていた。
「イリアスはね、いつも“勇者”に憧れていたの。
自分を犠牲にして、魔王と差し違えて死んでいった……そんな勇者の話を聞いて、あの子、自分もいつか、そうなりたいって言ってたわ。
みんなを守るためなら、怖がらずに立ち向かいたいって──」
「そう……ですか」
俺は今日見た、彼女の行動と言葉を思い出していた。
まっすぐで、ためらいがなくて、ちょっと危なっかしいけど……それでも、勇者という理想を真っ直ぐすぎるくらい貫いていた。
「でもね」
アンナ婆ちゃんはふっと寂しそうに微笑んだ。
「そんなこと、どうだっていいのよ。勇者にならなくたっていい。あの子には、自分の幸せのために、生きてほしい。
それだけで……それだけで、私はいいの。……わがままかもしれないんだけどね」
──イリアスは、勇者になる。
それは、俺の知る“未来”では確定された出来事。彼女には過酷な運命が待っている。
でも、それをいま話すのは……あまりにも残酷すぎる気がした。
アンナ婆ちゃんは、ただひたすらに、孫の幸せを願っている。
それが、すべてなのだ。
「イリアスはクラネルト家で、迷惑をかけていませんか? ちゃんと……暮らせていますか?」
「礼儀や作法は……まぁ、これからですね」
俺は苦笑しながら答えた。
「でも、あの子みたいな志を持つことは、誰にでもできることじゃありません。
だから、胸を張ってください。あなたが苦労して育てたイリアスは──間違いなく、素晴らしい人間です」
アンナ婆ちゃんは、俺の右手をそっと両手で包み込むように握った。
その手は小さく、しわくちゃで——けれど、とてもあたたかかった。
やがて、彼女の手に、ぽつんと涙が一粒落ちた。
そして、後から後からぽたぽたと手の甲を叩きはじめた。
「ありがとう……ありがとうね……」
ほのかに灯りがともる部屋。
シンと静まり返るなかに、その声だけが、小さく、優しく響いた。
十年ものあいだ、たった一人で頑張り続けた想いは──確かに、イリアスの心に宿っている。
◇
翌朝
元気よく目を覚ましたイリアスは、容赦なく俺を叩き起こしてきた。
寝ぼけ眼のまま居間へ行くと、彼女はすでにアンナ婆ちゃんと並んで朝食の支度をしている。
その姿を、少し離れたところから眺めていると──
なんとなく、居心地が悪くなった。
二人の間にある“家族の空気”の中に、自分が入り込んではいけないような、そんな気がした。
朝食は、しっかり食べた。
そして、名残惜しさを振り切るように、旅立ちの準備を始める。
「イリアス、これも持っていっておくれ」
「いいよ、いらないって」
「じゃあ、これは──」
「だからいらないってば。必要になったら、また取りに来るからさ」
「クラネルト家に戻るまでに、途中でこれを食べてくださいな」
「おばあちゃん、それ食べる前に着いちゃうって。王都の中にあるんだよ?」
「じゃあ、着いてから食べなさい」
「はーい……じゃあね、おばあちゃん。また来るからっ!」
「忘れ物はないかい? 本当に大丈夫かい?」
「だいじょーぶだってば……あ、そうだ!」
イリアスは思い出したように懐を探り始めた。
「おばあちゃん、ボク、ちゃんと働いて給料もらってるんだよ。これ、あげるから、美味しいものでも……あれ? ……ない」
──どうやらイリアスは、昨日の“取り立て騒動”で金貨を使い切ったことを、すっかり忘れているらしい。
「ああ、アンナ婆ちゃん。これ、イリアスから預かってました。お渡しします」
そう言って、俺は“同行のお駄賃”として受け取っていた金貨を差し出した。
アンナ婆ちゃんが驚いて俺を見る。イリアスも思い出したのか、少し恥ずかしそうに俺を見上げた。
「こんなに……こんなにもらえません……」
「せっかくイリアスが稼いだお金なんですから。ありがたく受け取ってください」
しばらくは遠慮していた彼女だったが、やがて静かにうなずいた。
金貨は、ていねいに布に包まれて、大切そうにしまわれていく。
「──今度こそ、じゃあね、おばあちゃん!」
「泊めていただき、ありがとうございました」
「また、いつでも遊びに来てくださいな」
イリアスと俺は、アンナ婆ちゃんの家が見えなくなるまで、まっすぐに歩いた。
彼女は、ずっと立ったまま、手を振ってくれていた。
「ねぇ、ソウスケ……」
イリアスは気まずそうな顔をして俺を見上げた。
「今度は真っ直ぐ帰るぞ。寄り道はなしだ」
「うん……ありがとう。お金はその、後で……」
「気にするな。出世払いにしておいてやる。いつか、十倍にして返してもらうからな」
「うん、分かった」
イリアスはそう言って、笑顔を見せた。
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