第33話 王都侵入
ロクサーヌ地方を出立して、すでに二日が経つ。
携帯食だけで空腹を紛らわせながら、ひたすら王都ロンダリアを目指して歩き続けた。
ようやく、遠くに馴染み深い王都ロンダリアの城壁が見えてきた──
だがその前に広がっていたのは、バラックが無数にひしめく、まるで灰色の海のような風景だった。
王都に入りきれなかった貧民たちが、城郭の外に無理やり居を構えたスラム街。
その規模は小さな町どころか、中規模の都市を凌ぐほどの人口を抱えている。
だが──この雑踏の中なら、気づかれずに済む
だからこそ、あえて王都を潜伏先に選んだ。
この世界では、人口密度の低い村や町がほとんどで、よそ者はすぐに浮く。
だが、王都のこの外縁区域──貧民街や、王都内であっても下町の区域では、人の出入りが激しく、誰が誰かを気にする余裕もない。
身なりはそれに合わせ、地味なシャツとフード付きの外套に変えていたが──それでも、貧民たちのボロは桁違いだった。
擦り切れた布、穴のあいた靴、痩せ細った浮浪者のような男や女が、そこかしこに蹲っている。
——この見た目じゃ、ここでもまだ目立つか
潜伏する予定なのは、あくまで王都内の下町。まずは行ってみないと分からない。
王都では、階層ごとに“生き方”まで異なる。
言葉遣い、歩き方、立ち止まる場所、目の配り方──あらゆる所作が“違う”。
目立たずに動くためには、さらに“層”に合わせた偽装が必要だろう。
懐から市民カードを取り出す。
ドミニクに頼んで偽造してもらったものだ。これがなければ、王都には入れない。
門には守衛がいる。怪しい人物は市民カードを確かめられる可能性がある。
スキルを使えば、王都への出入りは簡単だが、目撃される可能性がある。騒ぎはできるだけ起こしたくない。
俺は顔にも泥を塗り、視線を避けながら王都の門へ向かった。
「ちょっと待て」
突然、守衛に呼び止められる。
──しまった。
俺は反射的に身構え、緊張を滲ませながら守衛の前に立った。
「市民カードを見せてみろ」
周囲をさりげなく見渡す。
スキルで瞬間移動する手もあるが──それは最後の手段だ。
——何とかごまかせればいいが
「さっさと出せ」
覚悟を決めて、市民カードを差し出す。守衛はしばらくそれを眺め──
「ちっ、貧民じゃないのかよ。通れ」
不機嫌そうにカードを返してきた。
思った以上に見た目が見すぼらしかったのか、貧民に間違われてしまった。
俺はすぐにそそくさと門の中を潜った。
◇
門を抜けると、王都ロンダリアの喧騒が全身を包み込んだ。
朝の市場。軒を連ねる露店。果物や焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐる。
通りでは物売りの声が飛び交い、子どもたちの喧嘩する声がどこからともなく聞こえてきた。
——帰ってきたんだな
懐かしさを感じながら、小銭を取り出してパンをひとつ買う。
温かく、香ばしい焼きたての味が、胃の奥に染み込んだ。
だが、感傷に浸っている暇はない。
俺の目的は──ジェスタ・ハイベルグに会うこと。
今、彼はクラネルト伯爵家のお抱え騎士となっているはずだ。しかし、直に訪ねるにはリスクが大きすぎる。
この格好で正門を叩いても取り次がれるはずもないし、最悪、俺がアーヴィンだと正体がバレる可能性すらある。
だから、先に勇者──イリアス・バッシュに知り合いになることにした。その方が自然にジェスタを紹介してもらえるだろう。彼はジェスタの弟子なのだから。
彼の家は、王都の下層民が暮らす区画にある。
場所はゲームを通じて熟知している。道順に迷うことはない。
だが……問題は、心の準備だった。
どのみち彼に会う必要があったし、同じ王都内に住んでいたので、会うのはそれほど難しいことではなかったが、今まで先延ばしにしていた。
なんだか、この世界の主役に会うのは気が引けたし、それに加えて、俺が憑依したのは彼の敵役でもある。まあ、敵対するつもりはないし、彼の方も俺を敵対視することはないだろうから、それほど心配はいらないのだろうが…… なんとなく会うのは気が重かった。
◇
下町を進むにつれ、建物は徐々に老朽化し、街並みは荒れていく。
舗装も剥げ、匂いも強くなる。
もう少しなはずだ。
彼は母子家庭の一人っ子。下町の外れ、最も貧しい場所の掘立て小屋のようなところに住んでいる。
10歳の時にはまだ、自分の家で母親と住んでいたはずだ。もしかしたら、まだ、ジェスタやユリアと出会っていない可能性もあるが、それならば、先んじて仲良くなるという手もある。
しばらく、歩いていると、家が傾きそうになっている集落があり、その中の一軒に見覚えがある建物があった。
ここか。
俺は少し緊張しながら、その家を訪ねた。
◇
家の扉は古びていて、今にも崩れそうなほどに劣化していた。
──トントン。
控えめにノックをすると、中から足音が近づいてくる。
「はい、どなた……」
現れたのは、三十代半ばほどの女性だった。疲れた顔だが、どこか柔らかな雰囲気を持っている。
——イリアスの母だ
画面上で何度も見た顔だ。少し感慨深い。
「すみません、突然。少し、お話ししたいことがあって……」
そう言いかけたところで、家の奥から元気な少年の声が響いた。
「お母さーん! ……あれ、誰か来てるの?」
現れたのは、まだ見慣れぬ黒髪の少年だった。年も同じ年なはずなのに、どう見ても5-6歳だ。
——違うのか?
「聞きたいことがあるのですが、あなたは、マリアさんですか?」
「はい、そうですが……」
当惑した顔をしているが、穏やかな対応は彼女の性質をよく表している。間違いない、イリアスの母だ。だったら、この子は……
「ねえ、坊や、君の名前は?」
「ぼくの名前はケントだよ」
……違うのか、だが、彼には弟はいなかったはずだが
「もしかして、お兄さんはいるかい?」
「いないよ」
俺は呆然として立ち尽くしてしまった。
◇
変わっている……
ゲームのシナリオ自体が変わってしまっているのか……
アーヴィンが冒頭で殺されるなどという展開は、ゲームには存在しなかった。だが、世界の骨組みは、それなりに一致していたはずだ。
だが今──イリアス・バッシュの“存在”すら不確かになっている。
——俺が動きすぎたのか?
そうなると、当初のシナリオが大幅に変わっていてもおかしくない。
主人公イリアスがこの世界にいない可能性……いや、もっと悪い──すでに死んでいる可能性すら、考えざるを得なかった。
——ジェスタも、どうなっているかわからない
方針の立て直しが必要だ。
俺はゆっくりと深呼吸し、王都の繁華街に向かって歩き出す。
情報収集をするのか、それともクラネルト伯爵家の偵察をするか──
そのときだった。
背後に、強い視線を感じた。
──尾行されている。
即座に進路を変え、人気のない袋小路へと入る。わざと遠回りし、尾行者との距離を詰めた。
そして、影が踏み込んだ瞬間──スキル発動。瞬間移動で背後を取る。
「いねえ? あれ……あああっ!?」
モヒカン頭の男が、慌てて振り返る。
すかさず布を解き、イレーナの長刀を突きつける。鋭い刃が、喉元に冷たく光った。
「た、頼む! 命だけは……! オレぁ別に、危害を加えようとしたわけじゃねえ!」
「なんのためにつけてきた……」
「ええっと、それは…… 知り合いによく似ていたから、懐かしくて……」
「なら、なぜ声をかけなかった」
「その……ガキ……いや、知り合いがいいとこのお坊ちゃんだったから、あんたはあまりに見窄らしくて……人違いかなと思って声をかけづらくて」
「ク……ククク」
堪えきれず、吹き出しそうになる。
「久しぶりだな、サムス。A級冒険者にしては、隙が多すぎるぞ」
「ア、アーヴィン坊ちゃん……!」
口をあんぐりと開けて、サムスは俺を見た。
かつて、俺を攫おうとして失敗し、のちにエリザベータ討伐の場で再登場した冒険者のひとり──
再会は、思ったよりも……馬鹿げたものだった。
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