第32話 別離
暖炉の火がぱちぱちと音を立てていた。部屋の中はじんわりと暖かいはずなのに、俺たちのあいだを流れる空気は、凍えるように重たかった。
誰もが口を閉ざすなか──フローラが静かに声を発した。
「私、アーヴィンについていくわ」
フローラの声は、凛としていた。だが、その奥には、かすかな震えが混じっていた。
レナードとドミニクが、同時に彼女を見た。
「フローラ。無理を言うのはやめなさい。アーヴィン君も困ってしまうよ」
レナードが静かに言葉を重ねる。だが、それでもフローラは引かなかった。
「なぜなの。私には精霊召喚のスキルがあるわ。アーヴィンを助けたい。カサンドラを倒すんでしょう? 私も……戦いたい」
その声には、揺るぎない意志が宿っていた。
しかしレナードは、深く息を吐き、静かに頭を振る。
「それ以前に、もう彼は王都から──いや、人族全体からも追われる存在になった。逃げることだけでも困難だ。君まで一緒にいたら、身動きが取れなくなってしまう」
ドミニクもまた、口を開いた。
「お嬢様。お気持ちは痛いほど分かります。しかし、逃亡生活は過酷です。公爵家の令嬢という立場であればなおさら……。何卒、思い直していただきたい」
「……私は、アーヴィンの婚約者なのよ。一緒にいて、何が悪いの?」
その言葉に、部屋の空気が張りつめる。
──だから俺は、言うしかなかった。
「俺は、一人で行く」
「……私のことが、足手纏いなの?」
その瞬間、フローラの目が揺れた。
俺は、その瞳を直視することができなかった。けれど、逃げるわけにもいかない。
「……ああ、そうだ。足手纏いだ」
あえて冷たく言い放つ。自分の言葉に、自分の心が軋んだ。
「俺一人なら、スキルで逃げ切れる可能性がある。けど、お前を連れてじゃ──難しい」
沈黙が、部屋を支配した。
フローラの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……私のこと、嫌いになったの?」
「そうじゃない」
「じゃあ、なぜ……!」
彼女の叫びが、胸に突き刺さる。
それでも、俺は言わねばならなかった。
正直、事態がいつ好転するか分からなかった。カサンドラを倒すことができるのがいつになるか…… それに、俺の殺人容疑が晴れるかどうかもどうなるか分からない。
このままではフローラの人生も台無しにしてしまう。それは俺の信条から外れている。
「今の俺じゃ、公爵家令嬢の婚約者にはふさわしくない。だから……婚約は破棄してくれて構わない」
言葉にするたび、心臓が冷えていくようだった。
「どうして……? いったい、どうしてそんなひどいこと言うの……?」
「どうしても……だ。分かってくれ」
そのとき──フローラが一歩、俺に近づいた。
そして、両手で俺の顔を挟み、その瞳で俺の目を真正面から覗き込んだ。
潤んだその瞳は、震えているのに、真っ直ぐだった。
「本気なのね?」
「……ああ」
俺は、絞り出すように答えるしかなかった。
数秒間──息すら止まりそうな静寂があった。
フローラは、ゆっくりと手を離した。
「……分かったわ」
振り返り、背を向けたその肩が、ほんの僅かに揺れていた。
そして、スタスタと部屋を出ていった。
その背中を──誰も、追えなかった。
◇
初夏とはいえ、高原の夜は冷えてくる。暖炉の火が熾る中──俺とレナード、ドミニクは深夜まで語り合った。
王都や周辺の情勢、警備の緩急、移動手段、連絡方法、そして携行品の選別まで──話し合いは多岐にわたった。
現状、王都にはまだ俺の件は伝わっていないようだが、それも時間の問題だった。
俺は目的地も、会うべき人物も、一切明かさなかった。
信じていないわけじゃない。ただ、知らなければ、尋問されても答えようがない。──だから、それが一番安全だ。
出発は、夜明け前の三時に決めた。以降、俺は単独行動に入る。
「王都で多少は動いてみるよ。辺境伯の様子がおかしいとか、そういう噂を流したりならできる。でも……本体を追うのは難しい」
レナードが言う。
「いえ、それで十分です。攪乱だけでも助かります」
「辺境伯邸から何か動きがあった場合は、私からレナード様へ報告を」
ドミニクが静かに続けた。
「いつ、私が解任されてもおかしくはありませんから──その前に、できるだけのことを」
「……すまない、ドミニク。お前にも迷惑をかける」
「いえ、私にとっても、カサンドラは仇です。奥様の無念、旦那様の……誇り。長年、カーティス家に仕えた者として、報いる術はこれしかありません」
その表情は、深い悲しみに沈んでいた。
「ドミニク、お前のおかげで俺はここまで来られた。本当に……ありがとう」
彼は黙って頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
「レナードさんにも……いろいろ迷惑をかけて……」
「いいって。気にするな。僕は僕の正義で動いてるだけだ。それに、辺境伯が魔族に堕ちたなんて……それが事実なら、人族全体の災厄だよ。君だけに背負わせるわけにはいかない」
その言葉に、胸が熱くなった。
「とても助かってます。だから……必ず、目的を果たします。これは、父と母の仇討ちだけじゃない。もう、人族全体の未来に関わることですから」
「……頼んだよ。でも──」
レナードがふと、奥の部屋に視線を向ける。
そこには、もう眠りについたフローラがいる。
しばしの沈黙のあと、俺は小さく告げた。
「少し仮眠して……夜明け前には、出ます」
「……そうか」
ふたりは何か言いたげだった。だが、その言葉は出てこなかった。
きっと、フローラのことを言いたいのだろう。
──けれど、もう俺にできることは何もない。
彼女には、会わずに行く——俺は、そう決めた。
◇
玄関を出た時には、朝靄が濃く漂っていた。
ひんやりとした空気が、肌をなでていく。まだ日は昇っていない。
俺は数歩、歩いてから、ふと振り返った。
もちろん、レナードやドミニクの見送りは断ってある。
──そのはずだった。
だが、靄の向こうから誰かが駆けてくる音がする。
足音とともに現れたのは──フローラだった。
「……何しに来た」
俺がそう訊ねると、彼女は少し肩で息をしながらも、ふんっと顔をそらす。
「追いかけてきたと思ってるんでしょ? 違うわよ」
そう言って、彼女は真っ直ぐ俺を見据えた。
「いい? こんなに綺麗で、可愛い女の子なんて──もう二度と出会えないんだからね?」
急に何を言い出すかと思えば、フローラは得意げに続ける。
「それに精霊召喚なんて超レアなスキル持ち。家柄も地位も完璧。しかも将来は社交界の花形間違いなし。……ねえ、婚約破棄なんて、正気とは思えないわよ?」
俺は苦笑しながら、黙って聞いていた。
「まあ……かっこいい男性に言い寄られたら、どうしようかなって思っているけど。ふふっ」
「……だから俺は──」
言いかけた俺の言葉を、彼女は手で制した。
「一年、待ってあげる」
「……一年?」
「そう。一年だけよ。それまでに帰ってきなさい。でないと、本当に他の誰かと婚約しちゃうから」
その瞳は、まっすぐで、冗談とも本気ともつかない光を宿していた。
「──ああ、わかった。必ず……帰ってくる」
「うん。……約束だからね」
にっこりと笑って、彼女は踵を返し、家の方へ戻っていった。
朝靄はまだ晴れない。だが、胸の奥には小さな光が灯っていた。
俺は、前を向く。もう──振り返ることはない。
◇
フローラが戻ってきた時、レナードは玄関の柱にもたれて待っていた。
「……もう、いいのかい」
「ええ。大丈夫よ」
そう答えた彼女の声は明るかった。
だが、その肩は、かすかに震えていた。
レナードは、その小さな震えを見逃さなかった。
そのまま部屋へ戻ろうとするフローラを、そっと引き止める。
彼女の体から、あたたかい涙の気配が伝わってきた。
「……私、頑張ったよね。アーヴィンを困らせないようにした。笑って……ちゃんと、送り出せた」
絞り出した声が、レナードの胸元に吸い込まれていく。
「これで……よかったんだよね?」
レナードは、優しく彼女の背中を撫でた。
「ああ、フローラ。偉いぞ。君は……とても、強い子だ」
その言葉に、フローラはようやく声を殺して泣いた。
朝靄の向こう、アーヴィンの姿はもう見えなかったが──
彼女の中では、まだその背中が、いつまでも焼き付いて離れなかった。
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