第29話 辺境伯の城
ついに、その森へ足を踏み入れる時が来た。
《金獅子亭》の店主が助言してくれた通り、辺境伯邸へ向かうには四つの道がある。その中でも俺は、人目につきにくい裏道ルートを選んだ。
馬車の車輪が、ぬかるんだ林道で軋み、森の静寂を裂いて響いた。
街道よりも狭く、木々の枝が道へせり出し、周囲は昼間とは思えぬほど薄暗い。湿った腐葉土と苔の匂いが鼻をつき、どこかカビ臭さも混じっている。
——まるで、誰かに見られているようだ
木の間を流れる風に混じって、魔物の気配がちらつく。目に見えない視線が、こちらをうかがっているような錯覚があった。
ゲーム内で、カーティス本邸が登場する場面は——実は、存在しない。
カサンドラとは、勇者パーティが別の場所で決戦を迎える仕様だった。
つまりここは、完全に未知の領域。ゲーム知識によるアドバンテージは、ほとんど通用しない。
——だったら、なおさら…… 情報を確保するしかない
カーティス本邸は、切り立った峰の一部を削って築かれた、天然の要塞だ。城塞と屋敷が一体化しており、正面突破は自殺行為に等しい。
今回、俺たちが目指しているのは、表門ではなく——裏門。
かつて、勇者パーティが一度だけ使ったとされる、封鎖されて久しいはずの裏道。果たして、今でも通れるのかは分からない。
——だが、やるしかない
馬車の速度は落ち、森の奥に、かすかに崩れかけた石造りの門が姿を現し始めた。
◇
森の中、裏門に通じる小道の手前で、俺は馬車を止めさせた。
「……もし、夜になっても戻らなかったら、逃げてくれ。何があっても、だ」
御者はこわばった顔でうなずいた。
馬車と荷を林の陰に隠すよう指示すると、俺は1人、長刀を持って歩き出す。
木々の間から覗く灰色の空は、今にも泣き出しそうだ。
湿った土と苔の匂いが鼻をくすぐる中、俺は静かに裏門へと向かった。
門の前には、やけに暇そうな衛兵がひとり、槍を片手にあくびを噛み殺していた。
「アーヴィン・カーティスだ。覚えているか?」
俺が声をかけると、衛兵は驚いたように目を丸くし、そしてすぐに顔をほころばせた。
「へぇ、アーヴィン様……! 本当にお戻りになられたんですか。どうしてまた、裏門なんかから?」
どうやら、俺の顔はまだ覚えられていたらしい。
「御者が道を間違えたらしくてな。馬車は少し離れたところに置いてある。……父に呼ばれて来たんだ」
「なるほど。でしたら、中へお通りください。荷物など、お持ちしますか?」
「いや、構わん。今回はただ、話をしに来ただけだ。お前は持ち場を離れるな」
「了解しました!」
衛兵は胸を張って敬礼した。
俺は裏門を通って中に入る。
控えの衛兵が数名いたが、誰も俺を止めようとはしなかった。
顔パスだ。——まだ、俺は“アーヴィン”としてここに通じる。
——全員、グールにでもされたかと覚悟していたが。そうでもないらしいな
俺は懐から、一枚の紙を取り出す。
《金獅子亭》の店主がくれた、邸内の見取り図だ。
「だいぶ記憶が曖昧でゲスが……」と前置きしていたが、何もないよりはずっとマシだ。
カサンドラがどこにいるか正確には分からない。だが、まずは旧来の執務室、あるいはイレーナの私室がある南翼から探るしかない。
——あいつの掌で踊らされるより、こっちから仕掛ける。
奴がすでに俺の帰還を知っている可能性はある。だが、それでも正面から会うよりも、先手を取る方がまだ生き残る可能性は高い。
できる限り音を立てず、通路を進む。
カサンドラの支配がどこまで広がっているのか、誰が敵で誰が味方かも分からない今——
俺は、一人、魔城と化した邸宅の深奥へと足を踏み入れた。
不審がられないように、堂々と城の中を歩く。城の裏手側なので、使用人たちが多くいるエリアだ。彼らはみんな懐かしむ様子を見せている。俺はエルザのいるところを尋ねた。
「継母様に直接話がしたいんだけど、今、どこにいる?」
「ええ、エルザ様は…… 今頃は自室におられるのではないでしょうか」
「えっと、どこだっけ?」
少し使用人は不思議そうな顔をしていたが、すぐに教えてくれた。
「城の東棟の一番上です。大聖堂を通るとすぐに行けますよ」
丁寧に教えてくれた。
地図との位置関係も間違っていない。嘘はつかれてないと思った。
まっすぐ行くと、大聖堂に着いた。ここから直接東棟に行けるわけか…… 光の神”イル=ファルマ”など信じていないくせに。
俺は大聖堂の中に入った。すると、大聖堂中に響く声がした。
「アーヴィンか、待っておったぞ」
びっくりして振り向くと、祈祷台に…… 初老の男が立っていた。
◇
低く、静かな声が大聖堂に響く。
ロマンスグレーの刈り込んだ髪、いかついカイゼル髭、眼光は鋭く、日焼けした肌。そして、鎧で完全に武装している。
ハロルド・カーティス。辺境伯。かつてイレーナを妻とし、そして——カサンドラを迎え入れた男。
「……父上」
口が渇いてカラカラになる。どうやら戦いは避けられないらしい。しかし、まだ、カサンドラは姿を見せていない。
彼はすでに支配下になっているのか、それとも自らの意思で立っているのか……
逃げるか、それとも戦うか……
「こそこそと、泥棒猫のように裏から入りおって…… 性根から叩き直してやるわ」
ハロルドは巨大な剣を振りかざした。
「話に来たつもりだったんだけどね。そのために俺を呼んだんじゃ無かったのか」
「笑止」
鎧に包まれた巨躯が地響きを立てて突進してくる。巨大な鉄の塊のような圧。そして…… 彼の目は完全に光が消えていた。
「魔族に誑かされるとは、老いたな、父上っ」
凄まじい勢いで振り下ろされる辺境伯のブレードソードが、足元を破壊した。ドォン、と重い音が響き、石畳が砕け散る。
間一髪、飛び退く
その時、高笑いが大聖堂に響いた。その声は、まるで大聖堂の天井から降り注ぐかのように、冷たく、そして愉悦に満ちていた。
「アーヴィン、あなたは今日でおしまいよ」
東棟からの扉から。漆黒の影が滑り出るように現れた。血のように赤い髪を揺らし、完璧な微笑を浮かべた女。
——カサンドラ・ドラクレアだった。
◇
「覚悟しろっ、カサンドラ!」
——これで終わらせる……アーヴィンの仇、イレーナの意思は俺が継ぐ
俺は空間転移で一瞬の間に、彼女の背後をついた。
魔力をこめ、イレーナの長刀を強く握る。最大限に魔力を流し込む。刃が輝く聖なる金色に染まり、振動が激しく空気を震わせる。
「死ねぇぇぇ」
俺が彼女の心臓に向け長刀と突き出した瞬間だった。
「王威」
ハロルドの怒声が聞こえると、大聖堂の空気が一変した。空間が呻き声を上げ、地面が波打つように歪む。
全身が鉛に変わるような重圧。耐え切れずに膝が崩れる。肺が潰れ——呼吸すら許されない。
全身や刀が、凄まじい重さになり、刀を手から落としてしまった。俺は腰を落として必死に重力に耐えた。
——重力操作…… ハロルドの固有スキル?
「なるほど。瞬間的に転移できる…… それがあなたの固有スキルってわけね…… エリザベータを屠った」
カサンドラの目が怪しく光る。
「私には全然届かないわ。それより、どうして私のことを”カサンドラ”と知っているの?」
俺は返事をせず、ただ、耐えていた。凄まじい圧で、メキメキと地面が割れ始めている。
「まあ、もうどうだっていいいわ。ハロルド、やってしまいなさい」
カサンドラは、退屈したかのか、まるでつまらなそうに手で払う仕草をした。
ズシン、ズシンと地響きを立てて、ハロルドが迫ってくる。
「私は東の塔に行くから、用があるならハロルドを倒してからいらっしゃい。せいぜい頑張ることね」
「待て、カサンドラ!」
カサンドラは東の塔に行く扉を開けて吸い込まれていく。
最後にちらりとこちらを振り返り、紅い唇だけが、嘲るように動いた。
「さあ、私の期待に応えてちょうだい」
次の瞬間、巨大なブレードソードが俺を捉えようとする。
空間転移
咄嗟に転移を発動する。すぐに辺境伯は方向を変え、こっちに突進してきた。
俺はスキルを使って、落とした長刀を右手に引き寄せた。
辺境伯が刀を振り抜いた瞬間、空気を切り裂く音を立てて衝撃波が奔り、礼拝堂の長椅子を根こそぎ吹き飛ばした。
かろうじて、イレーナの長刀で受けるが激しい衝撃で体勢が崩れる、すぐさま、辺境伯が肉薄してきた。
長刀とブレードソードが激突し、青白い火花が飛び散った。なんとか受け続けるも、パワーが段違いで押され続けている。
すでに、身体強化のバフは使っている。だが何より……
辺境伯が吠えると口元の牙がきらりと光った。
やはり、ヴァンピールになっている。
吸血鬼化の最も恩恵を受けるのはその身体能力だ。リミッターが切れ常人の数十倍もの身体能力が上がる。その負担で体が自壊してもすぐに修復していくため、何のダメージにもならない。
さらに、カサンドラに支配されているとはいえ辺境伯だ。
王国で並ぶものがいないと言われるくらいの無双の力や魔力を持っている。はなからスペックが違いすぎる。
避け切れない攻撃は瞬間転移でかわしていく。だが、すぐに怒涛の勢いで迫ってくる。
ヴァンピール化した、ということは心臓に魔力の一撃を放たないと殺すことはできない。
完全武装で顔くらいしかオープンになっているところがない。首を切り取っても再生する。
詰みか——
……いや、違う。
死んだアーヴィンのためにも、そして……
宗介としても、ここで終わるわけにはいかない。
「ええーい、ちょこまかと逃げおって。そこで控えていろ。王威」
再び強烈な重力が全身にかかる。
「くうっ」
かろうじて剣を構えている俺に、辺境伯はラッシュをかけた。
奴がブレードソードを構えた瞬間、俺は空間転移をかける。
「ここだ!」
辺境伯の背後に回ると、両脚にバフを最大にかけ最速で背中に襲いかかる。
剣が当たる瞬間に今度は剣に魔力を最大限に注入、心臓を貫くように刺突をおこなった。
「……これで、とどめだ」
渾身の一撃。剣先が鎧に激しくぶつかり、火花が弾ける。
しかし、刃は食い込まず、虚しく滑った。
「なんだ。蚊にでも刺されたかと思ったわい」
ニヤリと笑う辺境伯。
「この鎧は魔力防御も兼ね備えている。無駄だ」
——通じない。届かない。
どれだけ魔力を込めても、この鎧は破れない。
心臓を狙えなければ、ヴァンピールは死なない……。
——どうする、どうすれば……! 考えろ、宗介……!
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