第28話 金獅子亭
馬車はゆっくりと林を抜けていく。
初夏の風が新緑をざわめかせ、湿った土と若葉の匂いが鼻をくすぐった。
初めて王都を離れた。
日本では都会暮らしだったせいか、この手つかずの風景が妙に心地よく感じられる。
目的地がカーティス本邸でなければ、まるでピクニックのような気分だっただろう。
辺境伯領までは北へおよそ一週間。
途中、いくつかの町を経由して、やがて鬱蒼とした森へと入る予定だ。
——仕掛けてくるとしたら、領内の森のあたりか。それとも、本邸に着いてからか……
とにかく、辺境伯領に入るまでは安全だろう。
今のうちに休んでおかねば。
俺は御者に「異変があれば即報告するように」と告げ、揺れる馬車の中で横になった。
予想通り、旅路に目立った問題は起きなかった。
そして——最後の中継地点、「サンク=ロア」に到着する。
馬車がゆっくりと坂を下ると、霧の向こうに町が現れた。
もう初夏だというのに、北方の寒気が肌を刺す。
遠くから鈍く響く鐘の音が風に乗って届いてきた。
山裾に抱かれるように佇む町。
小さな教会、干からびた噴水、ひび割れた石畳――まるで時間が止まったかのような静けさ。
昔は商隊の通り道として栄えたらしいが、今では空き家だらけで寂れていた。
家々の窓は板で打ち付けられ、通りすがる者も皆、目を合わせようとしない。
挨拶をしても返ってこなかった。
「……妙だな」
思わず、独り言が漏れる。
この町は交易の要衝だったはず。それが、今ではまるで——
閉ざされた廃村のようだ。
人々の視線にも、外から来た者への値踏みと警戒が混じっていた。
(ここで、情報を集めておくべきかもしれない)
俺はそう考えながら、宿を探し始めた。
「泊まるなら《金獅子亭》しかないよ」
通りすがりの男がぶっきらぼうにそう言い残して去っていった。
道なりに進むと、町の一角にひっそりと佇む木造三階建ての建物が見えてきた。
軒先の看板には、今にも風に飛ばされそうな錆びた獅子がついている。
《金獅子亭》。
それがこの町唯一の宿屋だった。
外壁の板はところどころ剥がれ、雨樋は垂れ下がっている。
だが、玄関の扉には丁寧に磨かれた真鍮の取っ手がついており、かつての格式の名残を感じさせた。
「いらっしゃいでゲス」
中に入ると、カウンターの奥から現れたのは、背の低い小男だった。
歳のせいか背中が丸まっており、細い身体は服に着せられた感じに見える。
ギョロリとした大きな目だけは異様に鋭い光を湛えていた。
「泊まれるのか?」
「へいへい。いつでも泊まれるでゲスよ。お客さん……お坊ちゃんでゲスね。この宿の最高級の部屋を用意するでゲス」
「最高級……?」
思わず眉をひそめると、小男は得意げに鼻を鳴らした。
「へっへっへ、なに言ってるでゲスか。ここ《金獅子亭》は、かつてあの“光の剣姫”イレーナ様がお泊まりになったこともある由緒正しき宿でゲスよ」
「……イレーナ?」
「そうでゲス。勇者パーティの一員、カーティス辺境伯夫人でありながら、剣ひとつで魔族の軍勢を退けたという……いやあ、あの頃は賑やかだったでゲスなあ……」
ふと、小男の視線が俺の顔に止まり、目を細めた。
「……どことなく、似てるでゲスな」
「え?」
「いやいや、気のせい、気のせい。ともかく、ご案内するでゲスよ。三階の角部屋、窓から湖が見えるでゲス」
俺は御者の泊まる場所や馬の餌の分まで、前金で払うと、促されるまま階段を上がっていった。
部屋は古めかしいが、掃除が行き届いていた。ベッドのマットは意外に柔らかく、窓辺には簡素な机と椅子が置かれている。窓の外には、遠く霧にかすむ寒々しい湖の輪郭が見えた。
——さて、次は情報収集だな
そう決めて、俺は階下の居酒屋兼食堂へと向かった。
◇
そこには数人、地元の老人と、ガタイのいいオッサンたちがいい気分で酔っ払っていた。煙草の煙と、安酒の匂いが混じり合い、低い話し声と、時折響く笑い声が、薄暗い空間に満ちていた。
「何か食べるものを頼む」
俺が言うと、奥から、あのギョロ目の男が出てきた。
「へいへい、忙しい、忙しい」
「ここもやっているのか?」
俺がびっくりして聞くと、さも当然という感じで答えた。
「ええ、この町でまともに営業しているのは、ここくらいなものですから。人手が足りないものですからね。で、坊ちゃんは何を食べるでゲスか?」
「何があるんだ?」
(この町の様子からして、大したものは期待できないだろうが、まずは腹ごしらえだ。そして、この町の「異変」について、何か情報が得られないか……)
正直想像もつかないが、基本的にこの辺りの食べ物は煮込み系しかない。日本にいた頃は居酒屋などコスパが悪くて行かなかったが、今更ながら、焼き鳥やら、唐揚げやらを食べておけばよかった気がする。
宿屋兼居酒屋主人がメニュー表を持ってきたが、やはり、シチューと酒しかなかった。
シチューと水を頼んでしばらく待つ。
見回すと話をやめて、こっちをみているおっさん達がいる。
持ってきたシチューは具材が溶けすぎて形をあまりとっていなかった。鳥のシチューらしい。一口すくって口に含むと、煮込まれた鶏肉の旨味と、香辛料の穏やかな風味がじんわりと広がり、冷えた体に静かに染み渡っていく。味は意外と美味かった。
周囲はやはり俺をよそ者としてみているのだろう。ヒソヒソ話しかしなくなっている。これでは、情報収集は難しい。
俺は宿の主に金貨一枚を渡した。
「これで、みんなに酒を振舞ってやれ」
ギョロ目の男は「へいへい」と小躍りしながら奥へ消え、すぐに場内へと声を張り上げた。
「お代はいただいてまス! 本日、酒はこのお坊ちゃんの奢りでゲスよーッ!」
店内が一瞬、静まり返る。
だがすぐに、どっと歓声と笑い声があがった。
「なかなか、わかってるじゃねぇか、坊主!」
「こりゃ豪気だ!」
「席、空いてるぞ! こっち来なよ!」
あれほど警戒していた空気が、一転して打ち解けたものに変わっていく。人間、腹と酒が満たされれば、心も緩むというものか。
俺は慎重に彼らの輪へと加わった。
「貴族のボンボンが、なんでこんなとこに来てんだ?」
ひときわ髭の濃い男が、酒をあおりながら聞いてきた。
「……実は、これから辺境伯のもとへ向かうんだ。少々、揉めごとがあってね。話をつけに行くつもりなんだ」
場がまた、静まり返った。
「……なんだと?」
「冗談じゃねぇ、あんな連中と関わっちゃダメだ。命がいくつあっても足りねぇ」
「特にエルザだ。あいつが来てから、この町は……」
地元の男たちは次々に口を開き始めた。もう止まらない。その声には、怒り、諦め、そして深い憎しみが混じり合っていた。誰もが、堰を切ったように言葉を紡ぎ出す。
「ここはな、昔は辺境伯領と王都の交易の中継地だったんだ。珍しい獣の皮だの、魔物の素材だの、いろんなもんが流れてきて……それは賑わってた」
「けどよ、あの女が来てから全部おかしくなった。辺境伯を丸め込んで、取引を王都の上級貴族だけに限定したんだ。俺たち中継地なんて、用済みだってよ」
「抗議に行った連中もいたがな……誰も、帰ってこなかった」
「あいつはやっぱり吸血鬼なんじゃあ……」
「おい、よせっ」
もしかしたら…… カサンドラの餌食になったのかもしれない。
微妙な空気が流れたので、俺は聞かなかったふりをした。
「イレーナ様の頃は、違ったんだがな……」
ぽつりと、老人が言った。
「……イレーナ?」
ここでもイレーナの名前が出た。
俺が問い返すと、別の男がうなずいた。
「ああ。先代の奥方だ。カーティスの奥方で、“光の剣姫”と呼ばれた英雄さ。勇者パーティの一員さ。町の子供たちは、あの人の絵を描いて遊んでたくらいだよ」
「気さくでな。泊まる宿も、いつも《金獅子亭》だった」
(……なるほど。だからあの宿主は、俺を見て“似てる”と言ったのか)
「イレーナ様が亡くなって、あの女が来て……そっからだよ、すべてが変わったのは」
誰かが、忌まわしい記憶を振り払うように酒を一気にあおった。
——そうか、カサンドラは随分と派手にやっているようだな。
「辺境伯邸に行くルートだけど、一番安全なのはどの道から行けばいいのかな」
お客が互いを見合っている。
「おい、店主、お前連れて行ってやれよ」
「え、あっしがですか……」
ギョロ目の男は、驚いたように目を丸くした。
「お前、勇者パーティの先導をしたことあるだろう。
「まあ、いい思い出でですが…… こう見えて案内には自信があるでゲス。イレーナ様のときも何度か森を歩いたでゲスから」
「そうなんだ」
見た目に似合わず優秀な道案内なのかもしれない。
「でも、高いでゲスよ」
「辺境伯領の森は魔物が出るから、いい導き手が欲しかったんだ。よろしく頼む」
魔物以外にも…… 出るかもしれないが。
俺は一枚のプラチナコインを彼に渡した。
彼はびっくりしてそれをまじまじと見つめていたが、こう言った。
「いいでゲショ、引き受けました」
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