第26話 辺境伯からの招待状
俺はカーティス邸の中庭で、ただ無心に剣を振っていた。
初夏の風が肌を撫で、汗とともに余計な雑念も流れていく気がする。この時間だけは、全てを忘れられる。
だが——現実からは、逃げられないことは分かっている。
俺はもう、カーティス家の“後継者”ではない。
今のところ実家からの連絡はないが、このまま穏便に済むとは思えなかった。遅かれ早かれ、何らかの動きがあるはずだ。
追い出されるのか。あるいは……再び命を狙われるのか。
もちろん、先手を打ってこの屋敷を出るという手もある。けれど——
「でもそれでは、大切なものを捨てることになる」
フローラとの関係も、そこで途切れてしまうだろう。
——いや、今考えても仕方がない
俺にできるのは、力をつけること。そして、味方を増やすこと。それだけだ。
そんな思いを胸に、ひとしきり汗を流して剣を納めたそのとき。
ドミニクが中庭へやってきた。
「アーヴィン様。フローラ様と、レナード様がお見えです」
「……レナード?」
俺は少し眉をひそめた。
フローラが一人で来るのは、そう珍しくもない。けれど、彼女の兄であるレナードが同行しているとなると、話は別だ。ただの挨拶や訪問とは考えにくい。
「少し待ってもらってくれ。水浴びをしてから会う」
「承知いたしました」
俺は頷き、剣を置いてその場を離れた。
——これは、何か物事が動く前触れかもしれない。
◇
「やあ、アーヴィン君。久しぶりだね」
レナードが穏やかに手を差し出してくる。俺は握手を交わし、対面の椅子に腰を下ろした。
応接室は改修が終わり、調度品も新調された。応対には、まず不足ないだろう。
フローラはにこにこしながら兄の顔をちらちら見ている。
「いきなりだけど、本題に入るよ。実は、父の代理として辺境伯に会ってきたんだ」
——辺境伯、ハロルド・カーティス。
この世界に来てから、俺は一度も彼と会っていない。
聞いていたのは、厳格で融通が利かず、そして……今はカサンドラの手中にあるということだけだ。
「……父は、どんな様子でした?」
「見た目は以前と変わらなかったよ。若々しくて、少し気難しいところもそのまま」
——見た目はな
それが“普通に”見えたとしても、カサンドラに操られているとしたら、外からではわからない。むしろ、変化が見えないほど深く入り込まれている可能性すらある。
「ねえ、お兄様、お兄様」
フローラが小声で兄を急かす。レナードはふっと微笑み、改めてこちらを見据えた。
「今回、辺境伯を訪ねたのは——君とフローラの婚約についてだ」
——やはり。
フローラが強硬に婚約を続けたいと訴えたことで、公爵家も正式に動いたというわけか。
「俺が後継から外れたことで、ご迷惑を……本当にすみません」
「謝ることじゃないよ。可愛い妹のためだからね。それに、僕としても、結婚に政治を持ち込むのは嫌いだしね」
「父は……すんなりとは?」
「もちろん、すんなり行くわけないさ。お怒りになって、机を叩かれたよ。さすが辺境伯、迫力がある。……でも、僕も交渉は得意でね」
「それで、結果は?」
「一応、了承を得たよ。向こうが怒ろうと、そもそも最初から話は“アーヴィン・カーティス”との婚約として進んでいた。『後継者でなければ無効』なんて文言は契約書に書いてないしね。それに、格が落ちて損をするのは、我々の方だし」
「……ご迷惑をかけて、本当にすみません」
「何度も言うけど、謝らなくていいよ。交わしたのは“君”との契約なんだから、君が破棄しない限り、婚約は継続する。……まあ、脅しは受けたけど、公爵の名を盾に押し通したさ」
俺は言葉に詰まりながらも、深く頭を下げた。
この兄妹が、俺のためにここまで動いてくれるとは思っていなかった。
だが—— 本当に、これで済むのか……?
カサンドラが、このまま引き下がるとは思えない。
公爵家に手出しが難しいなら、矛先は——俺自身に向くかもしれない。
考え込んでいると、不意に、フローラが俺の袖を軽く引いた。
「……わたし、余計なこと……しちゃったかしら」
彼女は不安そうに、自分の指をぎゅっと握っていた。
「……いや。ありがとう、フローラ。本当に……嬉しかった」
俺の言葉に、フローラは安心したかのように顔がほぐれた。
「……ふふっ。なら、よかった」
少し照れくさそうに笑った。その笑顔が、胸に積もった不安を、わずかに溶かしてくれる。
「実はね、もう一つ話があるんだ」
レナードが静かに切り出した。
「もし、君が今回の件でカーティス家を追われることになったら——うちで引き取るつもりだ。養子という形で」
「……養子、ですか?」
「うん。僕はいずれ公爵家を継ぐけれど、今はまだ伯爵だ。爵位と領地は譲れる。大きな領地じゃないけど、君が望むなら——」
俺は、言葉を失った。
こんなにも誠意を尽くしてくれる人たちが、目の前にいる。
「……ありがとうございます。このご恩は、いつか必ず……」
「気にしないで。別に、君のためだけじゃないしね」
レナードは言いながらフローラを見やる。彼女は満面の笑みで兄に抱きつき、
「お兄様、大好き!」
「おやおや、僕でいいのかな?」
「もー、お兄様ったら意地悪!」
三人の笑いが部屋に広がっていく。
胸の内に、じんわりと温かいものが広がった。
この世界で、初めて“家族”のようなぬくもりを感じた気がした。
だからこそ、俺は心に誓う。
——この人たちを、絶対に守る。どんな脅威が待っていようとも。
だが、そのとき——
コン、コン
扉の向こうから、ドミニクのノックが響いた。
「アーヴィン様。……お取次ぎしたい報せがございます」
その声には、明らかな緊迫が宿っていた。
ドミニクが差し出した一通の手紙を受け取った俺は、目を疑った。
封蝋には、見慣れた紋章——カーティス家のもの。そして、署名。
「辺境伯ハロルド・カーティス」
その名を見た瞬間、心臓が一つ、強く脈打った。
——やはり、簡単には終わらないか
俺は深く息を吐いた。
新たな試練は、始まろうとしていた。
◇
「アーヴィンめ……。いつの間に、公爵家と仲良くなっているのよ……!」
カサンドラは自室を苛立たしげに歩き回っていた。普段は冷静沈着な彼女にしては、珍しく感情が顔に出ている。目は血走り、指先は落ち着きなく髪をかきあげている。
額に手を当て、立ち止まる。
十年かけて築き上げてきたものが、音を立てて崩れていく気配がする。
——アーヴィン・カーティス。
あの臆病で無害だった少年が、私の計画を狂わせるというの……?
「珍しいわね、そんな顔を見せるなんて」
いつの間にか現れていた黒衣の女、〈嫉妬〉の名を冠するレヴィアが、薄笑いを浮かべながら扇子を開いた。
カサンドラはギロリと睨みつける。
「あなたはいつもいつも他人事…… 実際に汚れ仕事をしてるのは私たちでしょう?」
「あらあら、虫の居所が悪いみたい。ズバリ、アーヴィンのことでしょ?」
「……どうしてそれを?」
「彼、なかなか面白いわね。私にくれないかしら?」
「ふざけないで」
レヴィアは扇子を口元に当て、くすくすと笑った。
「気に入らないなら、さっさと殺せばいいじゃない」
「あなたにはわからないんでしょうね。人間社会に溶け込むのが、どれだけ綱渡りか。貴族の子息を殺せば、どんな波紋を呼ぶか……今まで積み上げたものが、すべて崩れる」
「ふうん、そう。じゃあ、エリザベータを殺したのが…… アーヴィンだったとしても?」
部屋の中が急激に冷えていった。カサンドラの瞳が見開かれる。
「……まさか、あいつが?」
「ノエルがこの間、彼に会ったのよ。どうやら、膨大な魔力を持っているみたいよ。それも、普通の人間じゃ説明がつかないレベル。もしかしたら、固有スキルも持っているかもね」
カサンドラの頭の中で、点と点が線になっていく。
これまでの些細な違和感、時折見せた異様な冷静さ——
まさか、この十年……
あのガキが、この私を、欺いていたというの?
歯を食いしばり、拳を握る。
だが、今ここで怒りに任せて動けば、またこの女の思う壺だ。
レヴィア——この女はかつて魔王を担ぎ出し、魔族を戦に巻き込み、結果として魔族の三分の二の命を失わせた張本人。
今度は私を焚きつけ、第二の破滅を招こうとしているのかもしれない。
「その手には乗らないわ、レヴィア」
「あら、残念」
「私は、魔王なんてどうでもいい。この平穏な生活が保たれれば、それでいいの」
「平穏、ねぇ? あなた、本気でそんなことを……?」
レヴィアの声があざけるような調子を帯びる。
カサンドラはレヴィアをにらみつけた。
「あなたは、魔王を蘇らせて……その先に何を見ているの?」
薄笑いをしているレヴィアは、カサンドラに答えた。
「魔族の悲願じゃない。人族を討ち、支配下に置く。そして、かつての栄光を取り戻す。それが当然でしょ。……あなたも“餌”の心配をせずに済むわよ?」
「……なら聞くけど、あなたは“魔族支配の世界”が実現可能だと本気で思ってるの?」
レヴィアは目を細める。
「何が言いたいのかしら?」
「繁殖力よ。魔族は人間の百分の一のペースでしか子を産めない。どれだけ人間を殺しても、結局、奴らはネズミのように増える。一時的には勝てたって、いずれ数に飲みこまれるのよ」
「……」
「前回の大戦で、人族も魔族も三分の二が死んだ。人族はこの10年、次々と子供が生まれている。私たちは? いまだに回復していない。人口は……三分の一以下よ」
「まあ、ジリ貧というわけね」
「それだけじゃない。“傲慢”の因子——魔王因子を継ぐ者が、ついに現れなかった。魔族の数が足りないから」
「だからこそ、人族の中に因子を探してるんじゃない。魔王様の復活のために」
「人族から魔王因子を持つ人間が生まれる…… それはとんでもないことだわ」
「だからこそ、そいつが力を持つ前に見つける必要があるんじゃない。生贄の”器”にするために」
「いい、レヴィア、もし、我々が見つける前に、”魔王”の力が覚醒してしまったら……生贄どころか制御不能になるわ。下手をすれば、魔族が絶滅する」
「……なら、あなたはどうするつもり?」
「魔族は人族と敵対しない。表からではなく、裏から支配するの。支配層に潜り込むことで、少数が多数を操れる。だから私は、辺境伯領を奪い、ステファノと公爵令嬢を結婚させようと——」
「でも、その目論見は潰れたわ。アーヴィンのせいで」
「……どうして、あなたがそこまで知ってるの?」
「察しがつくから…… だから言うの。アーヴィンが本当に“敵”だというなら——」
レヴィアは、扇子をそっと閉じて言った。
「やってしまいなさい。今ならまだ間に合うわ。でなければ……あなたが喰われるかもね」
そう言い残し、揺れる影の中へ、彼女は再び姿を消した。
カサンドラはその場に立ち尽くし、唇を噛みしめた。
——アーヴィン
やはり、アイツを、あのままにしておくわけにはいかないのか。
魔族の未来を守るために。この“日常”を守るために。
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