第21話 デミエス公爵邸
俺は今、デミエス公爵邸の応接間に、一人で座っている。
意識を失ったフローラを送り届けた直後、「少々お待ちください」と通され、そのままこの部屋に案内されたのだ。
広く、静かで、やけに重厚な空間だった。
分厚い絨毯。金細工の施された調度品。壁には、技巧の凝らされた油彩画が幾枚も掛けられている。どれも、一目で分かるほどの“本物”だ。
——さすが、王都屈指の名門だけはある。
贅を尽くした空間の隅。やたらと沈み込むソファに身を預けながらも、心はざわついていた。それはもちろん、フローラの件だ。
確かに、彼女が先に仕掛けてきた。けれど、あの状態で送り届けた以上、公爵家がどう出るかは全く読めない。
そのとき、扉の向こうから控えめなノック音が響いた。
「失礼します」
静かに開いた扉の向こうから現れたのは、長身で洗練された身なりの青年だった。
淡い青髪を短く整え、サファイアのような輝きを宿す瞳。柔らかな微笑を湛えながら、真っすぐこちらへ歩み寄ってくる。
フローラとどこか似た雰囲気。そういえば、彼女には兄がいた。
原作でも名前だけの登場だった、フローラの実兄。立ち絵すら存在せず、「王国有数の知性と品格を備えた青年」という設定だけが、妙に記憶に残っている。
俺は立ち上がり、先んじて名乗った。
「アーヴィン・カーティスです。はじめまして」
差し出した右手を、彼は自然な所作で握り返す。その手は穏やかで、どこか不思議な温かさを帯びていた。
「レナード・デミエスです。妹が世話になりました、アーヴィン君だね」
声は柔らかい。けれど、笑みの奥には確かに鋭い知性が見え隠れしていた。
——さて。ここからが本番だ。心象を悪くするわけにはいかない。
「妹さんに大変な目にあわせてしまい、申し訳ありませんでした」
頭を深く下げる。先手を打つのが基本だ。
だがレナードは、軽く片手を振ってそれを制した。
「いえいえ、こちらこそ。事情は聞いているよ。……フローラが勝手に暴走したんでしょう? かえってご迷惑をおかけしてしまって、こちらが謝る立場だ」
どうやら、すでに一通りの報告は受けているらしい。
促されるまま、俺は再びソファへ腰を下ろした。対面の椅子に、レナードも品のある所作で腰掛ける。
「君とは、一度ゆっくり話をしてみたかったんだ。ただ、最近は仕事が立て込んでいてね。なかなかこちらまで足を運ぶ暇がなくて」
人懐っこい口調とは裏腹に、その視線は鋭く、俺の内側を静かに観察しているようだった。
そこへ、執事が紅茶のトレイを手に現れた。
一言も発せず、それを静かにテーブルに置いて、また音もなく退出する。完璧な所作だった。
差し出されたカップにちらと目をやり、俺も礼を返した。
「こちらこそ、お目にかかれて光栄です」
湯気の向こうで、レナードがふっと笑みを深める。
「辺境伯邸では、大変なことが続いていたようだね。今は、少し落ち着いてきたのかい?」
——ああ、エリザベータの件か
「改修も進んでいます。もうじき、通常通りの生活に戻れるかと。落ち着いた頃に、ぜひ一度お越しください。妹さんもご一緒に」
「それは光栄だ。楽しみにしていよう」
その言葉とともに、レナードの表情が一転する。声のトーンも一段落ちた。
「……記憶のほうは、どうだい?」
やはり、ここにも情報は届いているか。
——そういえば、フローラも真っ先にこの話を切り出していた。
「はい。まだ完全ではありませんが、日常生活には支障ありません。……ただ、フローラさんの態度が少し、刺々しくてですね。嫌われてしまったのかと」
俺は言葉を慎重に選びながら、続けた。
「彼女はひどく怒っていました。でも、記憶がないせいで理由が分からないんです。もし何かご存知でしたら、教えていただけると……」
すると、レナードは一瞬だけ目を丸くした——が、すぐに堪えきれないといった様子で吹き出した。
「フローラが君を“嫌ってる”って? はは……それは違う。まったく違うよ」
笑いながら、紅茶のカップを静かに揺らす。
あまりに意外な反応に、俺の方が戸惑った。
——いや、何がおかしいんだ……? 俺、なにか重大な勘違いでもしてたか……?
「いや、本当、君って面白いね」
レナードの笑顔はどこまでも柔らかい。だが、その瞳は人の裏側を静かに見透かしてくるようでもあった。
「……?」
俺が目を瞬かせると、彼は紅茶のカップを手に取り、さらりと言った。
「君は、フローラを誤解しているよ。あの子は君を“嫌っている”んじゃない。むしろ——“気に入っている”んだ」
「……は?」
あまりにも意外な言葉に、思わず間抜けな声が漏れた。
「い、いやいや、冗談ですよね? 今日俺……火と水と風、三大精霊の猛攻でぶっ飛ばされたんですけど?」
「それが“気に入ってる証拠”だよ。君のことが気になるから、怒る。期待しているから、ぶつけるんだ」
——気に入っている、だから怒る……?
「……ますます意味が分かりません」
俺が頭を抱えると、レナードは苦笑しつつ、紅茶を一口すする。
「君、後継者から外されたんだろう?」
——ああ、そこまで知っているのか。
「ええ……その通りです」
「その“残念だ”って気持ち、あの子も同じだったみたいだよ」
俺が黙っていると、レナードはふうと息をついて、ソファに背を預けた。
「我が家——デミエス公爵家は、三大公爵の中でも筆頭格にあたる。だから、フローラは将来“辺境伯に嫁ぐ”というのが、暗黙の前提だった。君との婚約も、その流れの中にあった」
「……それが、なくなった?」
「うん。カーティス家から“後継者はステファノ殿に変更された”と正式に通知が届いた。父は国政重視の人間だから、すぐに受け入れたよ。結果、フローラの婚約相手も変わった」
「なるほど……」
「でもね、あの子はそれが——どうにも、納得いかなかったらしい」
レナードは紅茶の湯気越しに、にこやかに微笑んだ。
「彼女、君にまた“婚約者に戻ってほしい”と思ってるよ。『……優しすぎるのよ、アーヴィン。そんなふうじゃ、絶対に後継者争いで勝てないわ』ってね。だから“喝”を入れに行ったんだろう」
——ああ。たしかに言ってた。「その性根を叩き直す」って。
つまり、アーヴィンは彼女にとって、“期待をかけた存在”だったというわけか。
だがそれにしても、三大精霊をぶつけてくるのはやりすぎだろう……。
「どうして、俺なんかが気に入られてしまったんでしょうね」
俺がぼやくと、レナードはくすりと笑う。
「それは本人に聞いてみたほうが早いんじゃないかな?」
そう言って、ふと視線を部屋の奥へと流し、すぐにまた俺へと戻す。
「ところで、君は……後継者に戻る見込みはあるのかい?」
「正直、難しいと思います」
俺は率直に答えた。カサンドラを倒さなければ、道は開けない。だが今の俺には、まだその力が足りない。
「そうか……」
レナードはしばらく黙ったあと、ふっと目を細めた。
「でもね。今日こうして話してみて——僕は、君に辺境伯になってほしいと心から思ったよ」
「……ありがとうございます。できるだけ、頑張ってみます」
「応援してる。君になら、きっとできる」
「でも、なぜそこまで……? フローラさんは、その……容姿も家柄も申し分ない。あの強力な固有スキルまで持っていて、とてもじゃないけど、今の“落ちぶれた俺”には釣り合わないと思うんですが」
レナードはふっと笑みを浮かべ、首を軽く振った。
「——強大な力っていうのはね。ある種の呪いなんだよ」
その一言に、俺は思わず目を見開いた。
「……呪い、ですか?」
「ああ。力がある者には、“責任”という名の重荷が、知らぬ間にのしかかってくる。そして、使わざるを得ない場面も増えていく。選ばれた者としてね」
「……七大美徳スキルも、その象徴ですか」
「うん。持った時点で、もう“普通”の人生は歩めなくなる。いずれ世界が危機に陥ったとき、真っ先に戦場へ立たされる運命だ。もしフローラがその一人になったらと思うと……兄としては、やっぱり複雑な気持ちになるよ」
レナードの声は静かだった。だが、その瞳には確かな憂いと決意が宿っていた。
——フローラは、“謙譲”の美徳を継ぐことになる。
だが、そんな未来を俺が語るわけにはいかない。
「僕の願いはね、妹が“一人の女の子”として、ただ幸せになってくれること。力なんて持っていなくても、誰かを好きになって、穏やかな日々を過ごせればそれでいい。それだけでいいんだ」
「……それは、とてもよく分かります」
「ありがとう」
レナードはふっと笑み、そして優しく言った。
「だから——頑張って、アーヴィン君。君になら……きっとできると、僕は思ってる」
◇
アーヴィンが去ったあと、レナードは静かに扉を閉め、奥に向かって声をかけた。
「フローラ。もう起きてるんだろう? 出ておいで」
戸棚の陰から、フローラが気まずそうに姿を現す。
「……お兄様。その……」
「大丈夫、責めたりしないよ」
レナードは彼女に近づき、優しく頭を撫でた。
「アーヴィン君と話したよ」
「……どうでしたか?」
「それは、君のほうがよく分かってるんじゃないかな?」
フローラは黙ってうつむき、小さく首をかしげた。
レナードは微笑を浮かべたまま、静かに続ける。
「彼は只者じゃないね。四大精霊の攻撃を受け止めたうえで、暴走した精霊から君を救い出した。そんな芸当、誰にでもできることじゃない」
「……前とは、何か違う気がしました。“優しいだけ”じゃなくて……強さがあるような……。お兄様は、どう思われますか?」
「男ってのは、ある日を境に、急に変わるものさ。特に彼は、一度“死にかけて”いる。吸血鬼にも襲われて、それでも前を向いている。その強さが、今の君の目に映ったんだろう」
フローラはそっと視線を落とし、小さく頷いた。
「そんな彼が……嫌いかい?」
「わ、私はその……お兄様以上の男性なんて……」
レナードはくすりと笑い、わざと軽口を叩く。
「フローラが“気に入ってる”って言うなら、兄としても応援しないとな」
「き、嫌いじゃありませんけど……」
フローラは少し頬を赤らめていた。レナードは優しく微笑むと、そっと妹の額に口づけを落とした。
「うん、それなら大丈夫だ」
そして窓の外へ視線を移し、静かに呟く。
「さて——可愛い妹のために、俺も動くとしようか」
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