第19話 公爵令嬢フローラ・デミエス
父、ハロルド・カーティス辺境伯から、一通の手紙が届いた。
文面は、実にそっけない。
要点はただ一つ——「後継者はステファノとする」
それだけだった。
形式上は「継承権第二位」。だが実質は、弟のスペアにすぎない。万が一の時にだけ引っ張り出される、予備の駒。いつでも捨てられる立場だ。
貴族社会では、さして珍しい扱いではない。だが、“降格”ともなれば話は別だ。
RPG『Throne of the Abyss』でも、アーヴィンはこの知らせを受け、心を閉ざした。やがて孤立し、すべてを諦め、最終的には——魔王復活の“血の儀式”で、生贄として捧げられる。
……この通知こそが、“破滅ルート”への分岐点だった。
だが、今の俺にとっては——むしろ朗報だった。
後継者争いなど、最初から関心はない。
継承権を外されたところで、生活が激変するわけでもないし、何より、“生きている”というだけで御の字だ。
ゲームの筋書きよりも、今はただ、生き延びることが最優先。
当然、ドミニクは激しく憤っていた。
「正当な後継者はアーヴィン様です」と繰り返し、悔しさを噛み殺していた。
だが、俺は言った。「今は耐えるべき時だ」と。
ドミニクにとって、カーティス家は“信仰”に近い存在だったのだろう。長年仕えてきたその家が、“あの女”——カサンドラ・ドラクレアという魔族によって踏みにじられた。
晩年にこんな理不尽を味わうとは、彼自身も想像していなかったはずだ。
それでも、俺に対して、彼は一度も不満をこぼさなかった。
……だからこそ、応えなければならない。
彼の信念に。彼の忠義に。
今はただ、力をつける時だ。
◇
俺はあれから、時間を見つけてはスキルの訓練に励んでいた。
まず手をつけたのは、〈空間転移〉の精度向上だ。
現在では、半径10メートル以内なら、高確率で目的地に転移できるまでになっている。
発動時に生じる“タイムラグ”も大幅に短縮されたが、完全な無遅延にはまだ届かない。これは今後の課題だ。
だが、実験はそれだけでは終わらない。
次に試したのは、生物との同時転移。
具体的には——猫を抱いたまま〈空間転移〉を発動したら、どうなるのか。
これまでの経験では、生物単体への〈空間転移〉の使用は、ほぼすべて失敗していた。
おそらくこの世界では、生き物には魔力が宿っており、それがスキル行使の妨げになるのだろう。
一方、武器や装備のような“モノ”であれば、接触していれば問題なく転移可能だ。
では、「自分が抱えている生き物」は、どう扱われるのか——。
もし魔力干渉が阻害要因なら、転移の瞬間に猫はその場に残され、自分だけが”転移”するはず。
だが、結果は違った。
猫も、自分とともに転移していたのだ。
その後、何度も試してみた。その結果、接触している生物は同時に転移が可能だった。正確に言えば、一緒に転移するイメージした場合は一緒に転移し、一緒に転移するイメージを浮かべなければ自分だけが転移することができる。
このとき、ひとつの仮説が頭に浮かぶ。
——“接触している存在”は、スキル発動時に「自己の一部」として認識することが可能なのだと。
つまり、触れてさえいれば、生物であっても転移は可能なのだ。
……これは、大きな発見だった。
まず第一に、仲間が危機に陥ったとき、俺と接触していれば、同時に一瞬で退避できる。
転移距離こそ限られるが、瞬間的に危機を脱する手段があるというのは、戦術上、極めて大きなアドバンテージだ。
さらに応用すれば——敵と接触した状態で転移を発動し、自分に有利で相手に不利な地形へと“引きずり込む”こともできるかもしれない。
もちろん、戦闘中にそんな隙を作るのは容易ではない。
だが、もし成功すれば、戦況を一変させる“切り札”となる可能性がある。
〈空間転移〉は、ただの移動スキルではない。
使い方次第で、戦場そのものを制圧する力に化ける——そんな手応えを、俺は確かに感じていた。
◇
現時点の俺の力で、カサンドラ・ドラクレアを倒せるのか。
答えは、限りなく“ノー”に近い。
固有スキル〈空間操作〉を応用し、〈空間転移〉として自分や物体を移動させることには成功した。
だが、それだけで勝てる相手ではない。
スキルは応用が効く——それは知っている。
そして、〈空間操作〉の“原理”さえ掴めれば、さらなる応用も可能になるはずだ。
つまり、俺はまだ伸びしろがある。
だが問題は、敵が“大罪スキル持ち”であるということ。
〈7大罪スキル〉を持つ者を討つには、対になる〈7大美徳スキル〉の“聖なる魔力”が必要不可欠だ。
かつてのエリザベータのように、ただ心臓を貫くだけでは倒せない。
カサンドラを本当に倒すには、“聖”による浄化が必要なのだ。
その手段は、現時点で二つしかない。
・勇者パーティの誰かを味方に引き入れ、共に戦うか
・あるいは、俺自身が〈7大美徳スキル〉を手に入れるか
……が、これが容易ではない。
『Throne of the Abyss』本編において、アーヴィンには〈傲慢〉という“大罪”のスキルを開花させるルートは存在する。
だが、“美徳”に目覚める展開は、一度も描かれなかった。
そもそも、この世界の構造として——
〈7大美徳スキル〉は「勇者パーティ専用」と言っても過言ではない。
プレイアブルキャラである勇者と、その6人の仲間たち。
彼らだけが、美徳スキルを宿す“運命”を与えられている。
ならば、カサンドラに対抗するには——
”あいつら”を、探し出すしかない。
今はまだ、彼らも俺と同じ10歳。
スキルも覚醒していなければ、戦力としても未熟だろう。
だが、だからといって“遅くていい”理由にはならない。
布石は早ければ早いほどいい。
俺はもう、後継者じゃない。
肩書きも、義務も、辺境伯家に縛られる必要はない。
なら、動くべきだ。
未来の勇者パーティ——
あの“世界の希望”たちを、今のうちに探し出して、味方につける。
それが、次の目的だ。
◇
さて、誰から行くか――
そう思いを巡らせていた矢先、部屋の扉がノックされた。
「アーヴィン様。お客様です」
執事ドミニクの声が響く。
「誰だ?」
「アーヴィン様のご婚約者、フローラ・デミエス様でございます」
……おお。来たか、第一候補。
フローラ・デミエス。
ゲーム『Throne of the Abyss』では、勇者パーティの一員にして、アーヴィンの婚約者という立場にあった少女。
ただし、原作ではアーヴィンの性格があまりに最低だったせいで、彼女は勇者イリアス側に寝返る──という流れになる。
一見すると薄情な裏切りに見えるが、実際はまるで逆だった。
彼女は最後まで、アーヴィンを理解しようと努力していた。
何度も、何度も、歩み寄ろうと手を伸ばしていた。
けれど、その手を振り払ったのは、いつもアーヴィンの方だった。
そしてその果てに、彼女は決断する。「このままでは彼は滅びる」と。
彼女が勇者側に身を寄せたのは、アーヴィンを変えるためだった。
それが、後の悲劇の引き金になるとは知らずに。
最終決戦。
魔王を倒した時、アーヴィンが命を落としたという報せに、涙を流したのは彼女ただ一人だった。
……プレイしていた当時は、「まあ、そりゃそうなるよな」と思っていた。
あの頃のアーヴィンに、同情の余地はまったくなかった。
でも、今の俺は違う。
こっちは彼女を味方にしたいし、そもそも勇者パーティに敵対するつもりもない。
できることなら、こちらから勇者パーティに協力させてほしいくらいだ。
「通してくれ」
そう告げて間もなく、再びノックの音。
「失礼します」
扉が開き、そこに現れたのは――
まだ幼さの残る少女。だが、その外見はすでに完成されていた。
長く伸びた淡い青髪が光を受けて揺れ、
サファイアのように澄んでいる大きな瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
(……このビジュアル、間違いない。ゲーム通りだ)
将来は“王国随一の美姫”と謳われるだけのことはある。
こんな子を無下に扱っていたアーヴィン……
継母エルザにどれだけ性格を歪められていたんだよ……。
「初めまして……だったかな」
俺がそう言うと、彼女は、ぴしりと冷たい声で言った。
「記憶を失ってるって噂、本当だったのね」
……あ、ちょっとトゲがある。
もしかして、もう一度会ってる……?
ということは、すでに“原作アーヴィン”がやらかしていたか……?
「……もし、俺が何か気に障るようなことをしたのなら、この場でお詫びする。正直、前のことは覚えていないんだ……」
そう、誠実に謝ったつもりだったのだが——
「……はぁ? あんた、本気でわかってないわね。だから、こんなことになったのよ」
バンッ、と足音を鳴らして彼女が詰め寄る。
「今すぐ勝負よ! アーヴィン・カーティス!」
「え?」
「その性根、叩き直してやるわ!」
……俺の“第一歩”。
まさかの“決闘スタート”で始まるとは。
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