第2話: 5年間の搾取と虐待。それが俺の日常だった
降りしきる冷たい雨が、容赦なく体温を奪っていく。
ほとんど下着同然の薄い服はとっくに水を含んで重くなり、肌に張り付いて不快だった。追放されたダンジョンの入り口で膝をついたまま、俺はどれくらいの時間、そうしていたのだろうか。
ガレスたちの嘲笑は、もう聞こえない。
遠ざかる彼らの足音も、とうの昔に雨音に掻き消された。
世界に、たった一人取り残されたような感覚。寒さと空腹、そして心の奥底から湧き上がる途方もない絶望が、俺の意識を闇へと引きずり込もうとしていた。
(……なんで、こうなったんだ…)
朦朧とする意識の中、過去の記憶が走馬灯のように蘇る。
あれは、5年前のことだった。
冒険者になったばかりの俺は、希望に燃えていた。幼い頃に読んだ英雄譚のように、仲間と共に困難な依頼を乗り越え、いつか名を上げるのだと。
そんな時、当時Cランクだったパーティー「深紅の爪」に声をかけられたのだ。
「お前、荷物持ちを探してるんだ。どうだ、俺たちと組まないか?」
傲岸不遜な態度ではあったが、Bランクを目指す実力派パーティーに誘われたことが、当時の俺には何より嬉しかった。Dランクの新人など、誰も見向きもしてくれないのが現実だったからだ。
最初は、本当にただの「荷物持ち」だった。それがいつからか、変わっていった。
「アルト、斥候がいなくてな。お前、先に行って罠がないか見てこい」
「アルト、この泉の水、毒がないか飲んでみろ」
「アルト、敵の気を引け。その間に俺たちが魔法を準備する」
斥候代わり、毒見役、そして囮。
パーティー内での俺の役割は、日に日に危険なものへと変わっていった。俺のスキルが【アイテム収納(小)】や【鑑定(劣)】といった地味なものだったことも、彼らの侮りを助長させたのだろう。
報酬は、いつもガレスが独り占めした。
「パーティーへの貢献度に応じて分配する。つまり、お前の取り分はない」
そう言って渡されるのは、ギルドの宿舎にある、数十人が雑魚寝する大部屋の宿泊費と、黒パン一切れの食費だけ。それすら、彼らの機嫌次第で与えられないこともあった。
ある時、俺が洞窟の壁に光る希少な『月光石』を偶然見つけたことがあった。換金すれば金貨数枚にはなる、大きな発見だった。
「ガレスさん、見てください!やりました!」
興奮して報告した俺に返ってきたのは、感謝の言葉ではなく、頭上からの拳だった。
「うるさいぞ、Dランクが。お前が見つけたものは、俺のものだ。いいな?」
彼は月光石をひったくると、ギルドには「俺が発見した」と報告し、その報酬で新しい剣を買っていた。リリアナもケビンも、それを見て笑っているだけだった。
食事の準備、武具の手入れ、野営の準備と後片付け。戦闘以外の時間は、すべて俺が彼らの奴隷として働いた。
リリアナが新しく覚えた魔法の実験台にされ、火傷を負ったこともあった。ケビンに治癒を頼んでも、「リリアナ様のご機嫌を損ねるわけにはいかないから」と、見て見ぬふりをされた。
毎日が、地獄だった。
毎日、「無能」「ゴミ」「寄生虫」と罵られた。
それでも、俺は耐えた。
いつか、この努力が認められる日が来ると。いつか、彼らと肩を並べられる日が来ると。そう信じることでしか、心を保てなかったからだ。
だが、5年という歳月は、そんな淡い期待も、抵抗する気力さえも、俺から完全に奪い去っていた。
「……さむい」
はっ、と意識が現実に引き戻される。
蘇る過去の記憶は、今の自分の惨めさを際立たせるだけだった。唇は紫色になり、指先の感覚はもうない。
このままでは、死ぬ。
獣に食われるか、このまま凍え死ぬか。
どちらにせよ、ここで動かなければ、俺の冒険は、いや、人生は、こんな場所で呆気なく終わってしまう。
……冗談じゃない。
あいつらに、散々利用され、虐げられ、ゴミのように捨てられた俺が、こんな場所で野垂れ死ぬ?
そんな結末、認められるものか。
まだ、復讐だとか、見返してやるとか、そんな大それた考えは浮かばなかった。
ただ、一つの本能的な想いが、心の底で小さな炎のように灯る。
『生きたい』
俺は、震える腕に力を込めて、ぬかるんだ地面に手をついた。
泥と雨にまみれながら、ゆっくりと、だが、確かに立ち上がる。
視線の先、雨に霞む森の向こうに、微かな光が見えた。
冒険者たちが集う街、『アークライト』の灯りだ。
あそこまで行けば、なんとかなるかもしれない。
いや、なんとかするんだ。
俺は、ふらつく足で、一歩を踏み出した。
それは、絶望から這い上がるための、あまりにも小さく、しかし何よりも大きな一歩だった。
これから始まる、俺だけの本当の冒負の始まりとも知らずに。