第1話: 無能と呼ばれたDランク冒険者、パーティーを追放される
じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。
洞窟の壁からは絶えず水滴が滴り落ち、カビと腐肉が混じり合ったような不快な臭気が鼻腔を刺した。その名も「腐臭の洞窟」。低級モンスターの巣窟だが、その環境の劣悪さから、並の冒険者は寄り付かない場所だ。
そんな洞窟の最前列を、俺――アルトは一人、歩いていた。
背中には、パーティーメンバー全員の荷物と予備の武具が詰め込まれた、ずしりと重いバックパック。その重量で軋む身体を叱咤し、俺は神経を研ぎ澄ませる。罠はないか、奇襲の気配はないか。五感を総動員して、闇の奥を睨みつけた。
「おい、アルト!歩みが遅いぞ、この無能が!」
背後から飛んできたのは、Bランクパーティー「深紅の爪」のリーダー、剣士ガレスの苛立った声だった。振り向かずとも、彼がどんな顔で俺を罵っているか、手に取るようにわかる。
「さっさと先に行け!お前の役割は、俺たちのための『肉の盾』だろうが!」
そうだ。これが俺の役割。
斥候であり、荷物持ちであり、いざという時の囮役。それが、万年Dランクの俺に与えられた、このパーティーでの立ち位置だった。
「ちょっと、ガレス。そんな大声出さないでくれる?洞窟に響くじゃない」
絹のような声でリーダーを諌めたのは、紅一点の魔術師リリアナ。だが、その声に俺への気遣いなど欠片もない。むしろ、その視線はゴミでも見るかのように冷ややかだ。
「それにアルト、あなた、汗臭いのよ。私のローブに汚い汗が飛んだらどうしてくれるの?」
「す、すみません…」
俺は小さく謝罪の言葉を口にする。反論など、許されるはずもなかった。
僧侶のケビンは、そんな俺たちのやり取りをただ黙って見ているだけ。彼は事なかれ主義で、強い者には決して逆らわない。俺が理不尽な扱いを受けていても、見て見ぬふりをするのが常だった。
かれこれ5年。俺はこのパーティーに所属し、彼らのために尽くしてきた。報酬は、宿代と最低限の食費だけ。依頼で得た希少なアイテムや高額な報酬は、すべて彼らのものだ。それでも、いつか認められる日が来ると信じて、必死に食らいついてきた。
だが、そんな淡い期待は今日、木っ端微塵に砕け散ることになる。
「……ッ! ガレスさん、待ってください!」
洞窟の開けた場所に出た瞬間、俺は肌を刺すような悪寒に思わず足を止めた。
空気の質が違う。腐臭に混じって、濃厚な血の匂いと、獣の気配。これは、まずい。
「この先、何かいます! それも、かなりの数が…!」
「あぁ? Dランクの勘なんぞ、当てになるか!」
ガレスは俺の警告を鼻で笑い、無造作に足を踏み出した。その瞬間だった。
「グルォォォォォ!!」
闇の奥から、複数の巨大な影が咆哮と共に飛び出してきた。洞窟の主、オーガの群れだ。ガレスの顔から血の気が引く。
「なっ…!? 馬鹿な、オーガがこんな浅い階層に!?」
「きゃああああっ!」
リリアナが悲鳴を上げ、ケビンは狼狽えて腰を抜かす。完全に奇襲を受けた形だ。
先頭にいたガレスが、オーガの振り下ろす巨大な棍棒の直撃を受ける。
「ぐっ…ぁああ!?」
自慢の剣でなんとか受け止めたものの、衝撃に耐えきれず大きく吹き飛ばされた。
パーティーは一瞬にして崩壊の危機に瀕する。
俺は咄嗟に背中のバックパックを地面に下ろし、腰に下げていたスリング(投石紐)を握りしめた。
俺にできることは少ない。だが、それでも!
「こっちだ、化け物!」
俺は石を拾い、オーガの一体に向かって力任せに投げつけた。石は硬い頭蓋に見事に命中し、甲高い音を立てる。注意を引くには十分だった。
狙い通り、オーガの一体が俺に向かって向き直る。その隙に、体勢を立て直したガレスが別のオーガに斬りかかり、リリアナの詠唱が始まる。
「死ねぇっ!」
「フレイム・ランス!」
なんとかオーガの群れを撃退した頃には、パーティーは満身創痍だった。特に、初撃を受けたガレスは左腕を負傷し、プライドもズタズタに引き裂かれたようだった。
そして、その怒りの矛先は、当然のように俺へと向けられた。
ダンジョンの入り口まで戻ると、ガレスは傷ついた腕を押さえながら、憎悪に満ちた目で俺を睨みつけた。
「てめぇのせいだ、アルト」
「え…?」
「とぼけるな! お前がもっと早く敵の存在に気づいていれば、俺がこんな屈辱的な怪我を負うこともなかったんだ!」
理不尽。その一言に尽きた。
警告したのは俺だ。それを無視したのは、あんたじゃないか。
喉まで出かかった言葉を、しかし、俺は飲み込むしかなかった。
「もう我慢の限界だ」
ガレスは吐き捨てるように言った。
「アルト。お前は今日でクビだ。このパーティーから追放する!」
その言葉は、まるで冷たい刃のように俺の胸を貫いた。
追放――? 5年間、身を粉にして働いてきた結果が、これなのか?
「ええ、それがいいわ。あなたのような無能がいると、こっちのレベルまで疑われるもの」
「仕方ないよ、アルト。君は、僕たちとはもう釣り合わないんだ」
リリアナが嘲笑し、ケビンが憐れむように言う。
俺は何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「ついでに、その装備も置いていけ」
ガレスは俺が着ていた革鎧や、なけなしの短剣まで指さす。
「それはパーティーの共有資産だ。Dランクのお前に持つ資格はない」
抵抗は無意味だった。
俺は、ほとんど下着に近いインナー一枚の姿にされ、文字通りすべてを奪われた。
降り始めた冷たい雨が、体温と、そして心の熱まで奪っていく。
遠ざかっていく三人の背中。彼らの楽しそうな嘲笑が、雨音に混じって微かに聞こえた。
「腐臭の洞窟」の前に、一人取り残される。
金も、装備も、仲間も、居場所も、すべて失った。
「……これから、どうすれば…」
絶望が、じわじわと全身を蝕んでいく。
雨に濡れた視界が滲み、俺はその場に膝から崩れ落ちた。
これから始まる、壮絶な逆転劇の幕開けを、この時の俺はまだ知る由もなかった。