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Relife  作者: 橋本 海里
6/19

二生目  大きな間違い

「うーん……帰ってきたぁ……」

 午後八時頃、託は自室の床で思い切り体を伸ばす。

 電車での移動は決して楽ではなく、流石に移動疲れが溜まっていたらしい。

(……さて、お楽しみの時間だな)

 九時間前に貰ったクリアファイルと紙束、その中身を確認する時がついに訪れた。

 リュックサックから丁寧に取り出してまずは紙束だけを机の上に乗せ、一番上の手書きの紙をどかす。

 最初の一枚には、遺伝子研究の最終成果報告と、大きく印刷されたタイトルの下に、大量の目次が並んでいた。

 託はそれら一つ一つを細かく確認し、求めている情報がありそうなページを血眼になって探す。そして一つの小タイトルを見つけた。

「開発過程で出現した人工ウイルスの実験結果……これだ」

 強烈に惹かれた託はそのページを急いで開き、託は内容を一部要約しつつ読み込む。

『経済的要因での打ち止め直前に発見されたウイルスを小動物に接種。結果死亡』

(結果はいい。このウイルスの特性は……あった)

『心臓に定着、免疫細胞を吸収して増殖。一定数に達した時点で血管を介して脳に転移し、短時間で脳細胞の活動を停止させる』

『尚、免疫細胞はこのウイルスを認識出来ない』

 ご丁寧に実物の写真も載せて、確かにそう記されていた。

 託は思わず立ち上がり、何度も同じ場所を確認する。勿論、結果は変わらない。

(これだ……遂に見つけた……!)

 しかしそこで喜ぶのではなく、託は急いで鳥谷に電話する。

『……もしもし』

「鳥谷さん、夜遅くにすみません。いきなりなんですけど、明日の放課後会えますか?大事な話があるんです」

 鳥谷が応答するや否や、託は息吐く暇も無く要件を全て話す。

『ちょっと落ち着いて。大事な話って事は……何か分かったのかな?』

「……はい。動物相手ですけど、症状が一致するウイルスがありました」

 困惑した鳥谷に止められ、託は少し間を置いてから質問に答える。

「やっぱりと言うべきなのか……サクラ医学が隠していました。遺伝子研究の時に出てきたらしいです」

『そうかい……それじゃあ、明日は何時くらいに待ち合せようか』

 鳥谷も大方予想がついていたのか、託の告発に動揺一つ見せず淡々と話を進める。

「放課後……五時は大丈夫ですか?」

『五時だね、分かった。それじゃあまた明日……』

「待って下さい」

 電話が切れる前に、託が制止を掛けた。

「本当は全部分かっているんじゃないですか?ウイルスの存在も、サクラ医学が隠していた事も」

『……どうしてそう思うのかな?』

 託が煮えたぎる感情を抑えながら冷静な声音で指摘すると、僅かな沈黙の後に鳥谷は質問で返してきた。

「鳥谷さんが以前の場所で行っていた研究と、手に入れた資料の内容が似ているんです。偶然にしては出来過ぎなくらいに」

『確かに、似ているね』

 託は確信を持って指摘している。にも関わらず、鳥谷の返答には妙な余裕を感じられる。

『残念ながら、それはほぼ間違いだよ。私が分かっていたのは、どこかの組織が隠しているという事だけだ』

「……サクラ医学に所属していた経歴は?」

『無いよ』

 鳥谷は託の言葉を正面から否定して、次の質問にも即答で返した。

「そうですか……分かりました。信じますからね」

 託は諦めて、これ以上の追及を辞めた。

『君の事だから気が済むまで質問攻めに遭うと思ったんだけど……』

「鳥谷さんが正直に答えているのなら返答が変わる事は無いですし、嘘だとしても鳥谷さんなら全部上手に躱すでしょうから。不要だと判断しただけです」

 あっけなく引き下がった事に驚いた鳥谷が独り言のように呟き、託は特に気にした様子も無く答えた。

「それに、協力してくれるなら良いですから」

 託も真実の行方が、鳥谷の本性が気にならない訳では無い。

 だがそんなものは本来の目的と比べてみれば道端の石ころのように非常に些細で、優先順位を付ける必要すら無い事だった。

『……まあ、気が向いたら教えるかもね』

「分かりました。それでは明日の午後五時、駅で待ち合わせましょう。失礼します」

 その言葉に制止が掛かる事は無く、託はスマホの電源を切ってポケットに仕舞う。

 次におもむろに立ち上がると、棚の上の小物入れからカッターナイフを手に取り、刃を三寸程出す。

 ゆらゆらと二歩進んでベッドを前にして立ち止まると、次に大きく振りかぶって、託は一思いに枕を切り裂いた。

「っはあ……はぁ……」

 長旅の疲れは消え去り、徐々に姿を見せていた眠気も完全に引いた。

 暖房も付けたばかりで部屋はまだ冷えており、体感も寒い。にも関わらず、汗と動悸で内側が異常な程に熱い。

 怒りである事は間違いないが更にそれ以上、害意では表しきれない、殺意すら湧いている。

 抑えきれない破壊衝動が何よりの証拠であり、内側の熱はそれらの感情の過負荷が原因だった。

 苦虫を噛み潰したような険しい顔で綿の露見した枕を睨みつけ、尋常ではない力で握り締める拳からは爪が刺さって血が流れてきた。

 やがて過呼吸でその場に倒れて、赤く染まった手の平が目に入った時、ようやく興奮状態から引き戻されて熱が引いていった。

(……怖いな、人間ってのは)

 託は冷静になった後に自己分析して、あの瞬間だけは躊躇いなく手を汚せたかもしれない事に気付いた。

 強い衝動がどれほど危険で恐ろしいものなのかを初めて実感した。

 その証拠に、全く気にならなかった血の匂いが今になっては吐き気を催す程に鼻を刺激している。傷の付いた手も焼けるように痛い。

(……風呂入って寝よう。傷の手当ては……包帯があったはず)

 怒りに任せた後に残った倦怠感の中で、託はふらふらと部屋を出た。

 風呂に入り、手の平の爪痕に包帯を巻き、切り裂かれた枕は裏返し、布団を掛けてまぶたを閉じる。

 十分に暖房が効いているので部屋はとても暖かい。しかし先程までの反動か、託の心は冷え切っていた。

 何も考えていないのか、考えられないのか、寝る直前の託の死んだような表情はそんな虚無を覗かせていた。


  ◇


 翌日、託は朝日すら見えない暗い時間に目を覚ました。

 しかし何か特別な事をする訳でもなく、普段通りの登校準備をする。

(今日は……九日か)

 不意にカレンダーが目に入り、今日の日付を知る。

 思えば二度目の一月が始まってから、今日で一週間が経過した。

 今日含め、タイムリミットは残り二十三日。長いように聞こえるが、一度同じ時を経験している託はそれがいかに短いか知っていた。

「……今日だって鳥谷さんと会う訳だし、やる事はやっている」

 だから大丈夫だと、託は自分に言い聞かせた。

(ああそうだ、間違ってない。法に抵触しているとしても、誰かの命を奪う訳じゃない。むしろ一人の命を救うんだ。それが間違いな筈がない)

 正しいかと聞かれると、犯罪は犯罪なのだから、それもまた違う。それでも間違ってはいないと、託はここまでの自分の行いを肯定する。

 しかし自身で導き出した答えの筈が、飲み込むのにやけに時間が掛かる。

 良心の呵責とは何か別のものがせき止めているような、託はそんな感覚に襲われる。

(……このまま許し続けて、俺は本当にまともな人でいられるのか?)

 許すとは、触法行為を行う自分自身への赦しだ。

 人間の衝動の怖さは昨夜この身をもってよく理解した。人間がどれだけ自分に甘い生物なのかも、今の自分を省みればよく分かる。

 罪を犯し続ける自分を許し続けた先で、越えてはいけないラインを何があっても絶対に越えない保証はあるだろうか?

 少なくとも託にその保証は出来なかった。

(分かってる。そんな事はしないと言い切れないなら辞めるべきだ。だけど、だからと言って辞めて蓮音を見捨てるのだけは……それだけは絶対に嫌だ)

 託の行動原理は蓮音にある。考えてみればその時点で葛藤する必要など無かった。辞める辞めないの選択以前に、辞められないし、辞めてはいけないのだから。

 再認識して緊張がほぐれたのか、託は小さく溜息を吐いてベッドの側面にもたれ掛かる。

(少し冷静になれば、その行動がむしろ不利益を被る事になるのはすぐに分かる。どんな衝動でも、明らかにハイリスクローリターンな事に手を出す訳が無い)

 だから大丈夫だと、自分が人に危害を加えるなどあり得ないと、託は胸を撫で下ろした。

(今から出発すれば校舎にも入れるかな。着いてから始業まで一時間はあるけど……偶にはそれもありだよな)

 本来なら思いついても面倒だからと結局行かないのだが、出発が蓮音と被らないようにする方法でもあるので今回は例外だった。

 青と橙の朝焼けの下に出ると、冬の氷点下が身を包む。

 事あるごとに一喜一憂しては身が持たないので、託からすれば不安定な感情を冷ますのに丁度良い温度だったのかもしれない。

 二十分程歩いて学校に到着すると、部活の朝練らしき声が校庭から聞こえる。まだ七時だというのに入れるのはそのおかげだろう。

 それとは対照的に静かな教室には誰もおらず、託は窓際の自席で一人準備を始めた。

(今日の授業は……って、資料集忘れた……)

 教科書より使用頻度が少ないのが不幸中の幸いなのだが、使う場合の事を考えると託は頭を悩ませる。

(隣の席が蓮音だからなぁ……一旦帰るにしても遭遇しかねないし……)

 席が窓際なので、隣の人に見せてもらえと言われると蓮音以外に選択肢が無い。かといって取りに帰るのも蓮音とばったり会うリスクがある。どちらも避けたい選択だった。

(……そういえば、普段は一緒に準備していたな。半ば強制的にだったけど)

 最適な手段を模索している内に、関係無い思い出が顔を出してきた。

 それは普通の生活だった頃の、託と蓮音の平日の朝課。

(小学生の時はほぼ毎日忘れ物していたから、見かねた蓮音が毎朝チェックしに来たっけ。それが高校生になっても続いて……『変な物あったらどうするんだよ』って揶揄っても『託はそんな物持たないから』って平然と返されたりして)

 体に染みついた記憶はそう簡単に忘れられない。忘れる事を諦めたのは正解だった。

 託は懐かしんで、少し寂しそうに微笑んだ。

(蓮音には見せないようにしないとな)

 笑っている事に気付き、託はゆっくりと首を横に振って己に注意喚起した。

 託が笑っているのを見ると、蓮音はいつも笑顔になる。

 蓮音に笑われると、今までの積み重ねが崩れてしまいそうだから。彼女の優しい笑顔に「もういいよ」という、違う意味を付け加えてしまいそうだから。

(……うん、使わない事を願おう)

 最悪他クラスから借りようと、そう結論に至った。

「これで準備終了か……少し、暇だな……」

 何もする事が無い時間になったので座って頬杖を突き、丁度良い音量になった朝練の声に耳を傾ける。

 彼ら彼女らが追っているものと託が追っているものはまるで違うが、それでも託はそのやる気に溢れた大声に少しばかりの元気を貰えた。

(何か成し得たいなら、それ相応に努力しないと)

 空いた手を強く握り、託は改めてその事を認識した。

 そんなふうに独り言に浸っていると、廊下の方から足音が近付いてくる。

 まだ始業まで結構あるが、早い人なら来てもおかしくない時間ではある。

 託は頬を引き締めて、先程までの表情を消す。

(……まじか)

 ドアが開く音がしたので、託は横目でその方向をチラ見する。

 そして次の瞬間、視線を下に移して意気消沈した。

「……お、おはよう」

 隣に荷物を置く音と同時に、聞き慣れた声が聞こえる。

「……おはよ」

 蓮音の弱気な声で発された言葉に、託は短く返して窓の外に視線を向けた。

 それから何分経ったのだろうか、蓮音も準備を終わらせて席に着き、長い沈黙が流れる。

 託からすれば気まずい事この上無く、姿勢を変えようにも蓮音の視線が気になって動けない。

(どうにかして部屋から出ないと……トイレって事にすればいけるか?)

 思い立ってすぐに、託は腰を上げて教室から去ろうとする。

「あっ……ね、ねえ……託……」

 蓮音の前を通り過ぎたその時、彼女の方から託に話し掛ける。

 その声は小さく、聞こえないフリをして逃げる事も出来たかもしれないが、託は脊髄反射で立ち止まってしまった。

 もう無視する事は不可能なので、託は何も言わずに蓮音が何か言うのを微動だにせずに待つ。

「え……っとね、覚えて、いるかな?お正月の事……」

 蓮音は言葉に詰まりながらも、託に一つ尋ねる。

(正月……もう一ヶ月以上前の事になるのか)

 今日は一月九日、正月は本来であれば先週日曜の話なのだが、託が戻ってきたのは一月二日だ。

 だからこの世界でただ一人、託の中でだけそれは一ヶ月以上前のイベントとなっている。

 そして一ヶ月も前となると記憶から抜けている部分も多くあり、託は正月の記憶が全て処分されていた。

「……何かあったか?」

 託は忘れたと直接言葉にはせず、蓮音が答えを言うよう誘導する。

「……ううん、何でもない。時間取っちゃってごめんね」

 蓮音は小さく首を横に振り、俯いて黙り込んでしまった。

 何でもない筈がない。託は分かっている上で、静かにその場を離れて廊下に出た。

(謝んなよ……気が狂いそうだ)

 託は壁にもたれ掛かり、小さな溜息を吐きながら髪を乱す。

 無断での採血も盗難品の保管も今や罪悪感など微塵もないというのに、最後の蓮音の彼女らしくない言葉に、胸が強く締め付けられた。

(いつか……いつか全てを打ち明けれる日が来る。それまでは堪えよう)

 この痛みを真正面から受け止める事が、今の託が自身に科せる最大限の罰だった。

 その後、託はある程度人が入ってきた頃になってから教室に戻り、表情で何か勘付かれてはいけないいと心を殺して授業にも出席した。

 それから一日中、蓮音が話し掛けてくる事も無く、幸い資料集も使わなかったので託から話し掛けることも無かった。


  ◇


 午後四時前、終学活も終わって放課後になった。

 託は誰よりも早く教室を出て、急ぎ足で家に帰り、資料の入った鞄に持ち替えてまたすぐに家を出る。

 結局四時半前には駅前に着き、まだ来てないとは思いつつ鳥谷を探し始める。

(いるとしたら先週と同じ場所かな?けど時間的にまだ混んでるだろうし……)

 託はそう考えつつも、金曜日に出会った改札前の方に足を進める。

 帰宅する人の流れに逆行しながら全く同じ場所に着いた時、案の定鳥谷はまだいなかったので、託は取り敢えずその場で待つ事にした。

 分かっていた事なので、それについては何とも思っていない。

 しかし託自身あまり人が多い所が好きではないので、早く来てほしいとは思っている。

 程なくして願いが通じたのか、改札から見覚えのある人が一直線に向かってくる。

「おや?五時までまだあると思うんだけど?」

 鳥谷は目の前で立ち止まり、驚きもせず余裕の表情で尋ねてくる。

「話せる時間が延びたんですから、良いでしょう?」

「その通りだね。なら無駄話もお断りかな?」

「はい、勿論」

 迷いなく即答する託に鳥谷はひとしきり苦笑した後、付いてこいと言わんばかりに手招きして歩き出した。

 知らない土地の筈だが、なぜかスムーズな足取りで進む鳥谷に追従する事三分、看板は見えなかったがレトロな外見の店に入る。

「鳥谷さん、ここは?」

「完全個室の焼肉だよ」

 なぜ焼肉なんだと託が愛想笑いを浮かべている内に、店員の案内が始まって食べざるを得なくなってしまった。

「託君は向かいに座って、そっちの方が話しやすいからね」

 鳥谷に指示され託が言われた通り向かい側に座ると、いつの間にか鳥谷の手に紙の入ったクリアファイルがあった。

「取り敢えず互いの資料を照合しよう。同一のモノならこれからの手間がかなり省けるよ」

「分かりました。丸ごと持って来たんですけど、それでも大丈夫ですか?」

 鳥谷が短期間で作った一枚の即席資料と比べて、託の方は明らかに厚みが違う。

「むしろ全部見せてもらえた方がありがたいよ。一般人と専門職の人とだと見る場所に違いが出るだろうしね」

 託が一応と尋ねた言葉を鳥谷は快諾して、机の上に互いの資料を並べる。

「……なるほど、確かに同じウイルスだね」

 分厚い紙束を手に取った鳥谷はパラパラとページを捲り、所々軽く読んで最後には元の位置に戻した上でそう結論付けた。

「それなら、これは鳥谷さんに差し出します。俺じゃあ宝の持ち腐れなんで」

「そう言ってくれるのはありがたいけど、その前に一つ」

 知りたい事が分かった時点で託は資料を丸ごと鳥谷に渡そうとするが、鳥谷がそれを止めて人差し指を立てる。

「この資料はどうやって入手したのかな?」

 立てた指を紙束に向けて、短い言葉で託に尋ねる。

 ただ尋ねているだけなのだが、静かな声音からは強い威圧感が漂って託にのしかかる。

「……この前、この資料が置いてあったであろう会社に不法侵入があった事は知ってますか?」

 緊張する空気の中で、予想外に託は冷静だった。

「知ってるよ。もしやあれは君だったのかい?だとしたら私はもう君とは……」

「組めないんですか?既に一度法を侵しているというのに」

 協力関係を渋る鳥谷に、託は脅しとも取れる内容で淡々と質問する。

 しかし鳥谷もすぐに答える事はせずに、互いの目を見つめ合った状態で沈黙が流れる。

「……この話はもう辞めよう。君とのタッグも継続する」

「ありがとうございます」

 鳥谷が降参と言わんばかりに両手を上げると、託は怖いくらいの笑みを浮かべていた。

「まあ……俺じゃないですけどね」

 資料を盗んだのは別の人である事を託が後出しで伝えると、鳥谷は安堵とも取れる表情を覗かせて溜息を吐く。

「確かに、自分がやったとは一言も言ってなかったね」

「そういう事です。安心して下さい」

 それはそれで別の罪に問われるので駄目なのだが、倫理の枷が緩んでいる二人には些末な事らしい。

「採血の件も、盗まれた資料を俺が持っている事も、警察にはまだバレていないでしょうし、一ヶ月は持つと思います。その間に薬を作って俺の目的が達成されます。その後は自由にこき使って下さい」

「そんな事一言も言ってないけど……」

「それだけの恩って事です。差し出せるものだってそれだけですし」

 その前に逮捕されるかもしれないが、蓮音が来月も生きているのなら、託にとってその先はどうでも良いのだろう。

「……バレなければ、犯罪じゃありませんから」

 不意に出てきた最低な言葉は、今の託の感覚を表すのに最善の言葉だった。

「はは、本当に君は恐ろしいね。目的のためなら抵抗が無い」

 鳥谷はどこか吹っ切れたように笑い、畏怖の念も込めた賞賛を託に送る。

「君は信頼するに値する。だからとっておきの情報を教えるよ」

「とっておき……ですか?」

 託が首を傾げていると、鳥谷は紙をもう一枚取り出して机の上に置く。

「細菌を見つけたんだ。このウイルスを抑制する……ね」

「っ……!」

 鳥谷の言葉を聞いた瞬間、託は思わず椅子を後ろに吹き飛ばしそうになる。

「……それは、想定外の事なんですか?」

 しかしすんでの所で立ち上がるのを堪え、座り直してから冷静を装って尋ねる。

「うん。ウイルスを破壊する物質を探す過程で、まさか別の病原体が感染と進行を抑制する事が分かるとはね」

「……なるほど」

 託は口元に手を当て、俯いて今一度熟考する。

(感染進行を抑制するって事は治す訳ではないんだよな。それに別の病原体だから、そっちの病気で死ぬ可能性もあるのか)

 本音を言えばすぐにでも活用したい。しかしリスクに見合ってなさ過ぎる。ちゃんと考えれば分かる事だ。

「……その細菌を使うとしたら、俺の体に投与するんですか?」

 今はまだ使い物にならないが、託はその上で将来的な利用方法を鳥谷に尋ねる。

「うーん……君ともう一方にも投与出来るならそれが一番だけど、流石にそれは難しいよね。感染した状態だと、人体の許容範囲で抑制出来ないかもしれないしね」

 だから託だけの投与になると、鳥谷は控えめに首を振って暗示した。

 そして最初に間があった事から察するに、この細菌には何か重大な欠点があり、使用する事は無いと推測出来た。

「……とっておきというか、俺には話さなくても大丈夫だった情報ですよね?」

「うん、君はもっと目に見えて進展がある場合に限りそういうモノを必要とするだろう?」

 まさしくその通りだったらしく、託は正直に頷いた。

「気分を害したなら申し訳無いと思うけどね」

「そんなに狭量ではありません。この程度で激怒していたら、昨日一昨日は大事件が起こってましたよ」

 実際、理性のタガが外れた人間は恐ろしい。託自身がそうなりかけたのだから、確信を持って言えた。

「まあ……人は案外脆いからね」

「現実味を出さないで下さい。誓って、それだけは絶対にしませんよ」

 何かあった時の事を考える鳥谷を止めて、絶対的な道徳のラインだけは踏み出さないと宣誓する。

「目的を達成してはい終わり……とはいきませんから」

 託が生きている今はこれからも続く。汚い大人のためにその全てを捨てるのは御免という事だろう。

 だから先も見据えて、最低限の道徳は守り続けなければならない。

 人を殺めてはいけない。当然の事ながらも、その感覚を託は再度頭に刻み込んだ。

(なにより、蓮音が責任を感じるだろうしな。それだけは本意じゃない)

 実際にはそこにあるのは託のエゴだが、自分と他人では見ている世界が違う。故に意識と感覚にズレが生じる事がある。

 そのズレが結果的に蓮音に乗っかってしまうなら、それは望ましいとは言い難い。

 道徳などという半ば綺麗事のような言葉より、こちらの配慮ような考えの方が託には似合っているかもしれない。

「……まあひとまず安心かな。君の事だからああ言った手前、そう簡単に手は汚さないだろうし」

 鳥谷は安堵の表情でそう言うと、卓上のクリアファイルを全て鞄に仕舞って、代わりにメニューを広げる。

「もう互いに話は終わりで良いよね?」

「はい、俺は帰りますね。お金も持ってませんし」

「私の奢りだよ。夜食にどうかな?」

「……じゃあ、少しだけお言葉に甘えます」

 話す事も無い状態での相席は気まずいので、託は帰ろうとする。がしかし鳥谷に止められ、周囲の香りもあってもう少し留まる事にした。

 奢りなので何を頼もうかと連なる写真と値段を見て、託は思わず苦笑いを浮かべた。

「た、高い……」

「はは、それなりに良い所だからね」

 個室の時点で大体察しは付いていた託だが、想定を上回る価格にはメニューを眺める事しか出来ない。

 自分が払う訳でもないのに注文を躊躇う託を見て、鳥谷は珍しく軽やかに笑った。

「……一番安いので、お願いします」

 帰るべきかどうか、悩み抜いた末に答えを出して鳥谷に注文する。

「まあ、君がそれで良いなら何も言わないよ」

「良いんですよ。後からこの時のお返し云々の話になるのは面倒なので」

 とは言いつつも、本心では普段手を出さない値段に気が引けていたりする。

「金銭トラブルを避けるのは素晴らしいね」

「そう思うなら奢りなんて提案しないで下さい」

 託は冷静に突っ込みを入れながらも、ちゃっかり千円分程奢ってもらった後に何度も頭を下げてから帰宅した。

(今日も色々あったな……結構早いけど、さっさと寝て明日に備えよう)

 まだ月曜日なのにも関わらず疲れ果てている体を癒すべく、風呂に入って九時前には泥のように寝てしまった。

 カーテンは掛かっているが窓は開いており、寝ている間にも冬の冷気が部屋に立ち込める。

 素の適当さが出た結果である。しかし起きる気配が無い託は、これが原因で蓮音によく怒られていた事すら忘れているのだろう。


  ◇


「……んー……くぁ……」

 翌朝、もう何日ぶりかも分からないが、久しぶりに普段通りの時間に託は目を覚ました。

(うーん……昨日は早く行った結果二人になった訳だし……ゆっくりやるか)

 昨日は互いに早く来てしまったので、今回は登校時間ギリギリに到着するよう計画する。

 そうなると割と余裕があるのだが、変にゆっくりすると遅刻しそうなので、託はいつも通りのペースで朝のルーティーンを進める。

(にしても寒いな。これで風邪引いてないのは運が良い)

 そう思いながら、ワイシャツのボタンに苦戦する。余裕を持って行動した事が早速活きたようだ。

 普段より長い時間を掛けて制服に着替え、後は十分後に登校するだけとなってベッドに腰掛ける。

 一階からインターホンの音が聞こえたのは、丁度その時だった。

(こんな時間に……誰だろう?)

 待たせるのは失礼なので、託は早足気味に階段を降りて玄関に向かう。

「すみません、どちら様で……って、おばさん?」

 扉を開いて目に映ったのは、久しく会っていなかったそれなりに見慣れた人……蓮音の母親だった。

 隣人にも関わらず急いでやって来たのか、微かに荒い息遣いと焦燥感を剝き出しにした表情が見て取れる。

「た……託君……」

「どうしたんですか?こんな朝早くに……」

「娘が……蓮音が……うっ……!」

 蓮音の母は嗚咽と共に膝から崩れ落ち、その場にうずくまってしまった。

「蓮音……?蓮音がどうかしたんですか?」

「すぐに……あの子の部屋に行ってあげて……」

 まるで質問の答えになっていないが、とにかく緊急事態なのは託にも伝わった。

「分かりました。家、お邪魔しますね」

 ここで自分までパニックになってはいけないと冷静を装い、蓮音母の横を通り抜けて橘花宅の二階に足を進める。

 そして開きっぱなしのドアの先、蓮音の部屋に飛び込んだ。

「はぁ、はぁ……蓮音……?」

 入ってすぐ、ベッドの方に視線を向けると軽く口を開いて目をつむっている蓮音がいた。

「……起きろよ。まだ……その時じゃないだろ……。お前が死ぬのは一月末……二十日以上あるだろ……?」

 託は弱々しく呟きながら、蓮音の手を握る。

 ……冷たい。冬の冷気すら可愛いくらいに、その手は冷たかった。

「なんで…………なんでこんなに早いんだよ……。頼む……頼むから……目を開けてくれ……」

 震えるその声は、もう届いていなかった。

 託はこの瞬間、蓮音の二度目の死を悟った。


  ◇


 同日昼の堤防の上、託は曇り空の下で病院からの帰路に付いていた。

 足取りは重く、体幹も崩れてふらついている。

(……死因、ウイルスだったな)

 そこは、託の予想していた通りだった。

(急死だったのは……直前の体調不良が関係しているって言ってたな)

 確実なものではないが、医師の見立てではそれは病気のストレスが原因だとされ、それが急死の原因の一つだと考えられた。

(……蓮音のストレスは俺からのものだ。何度も蓮音を傷付けた)

 …………きっとそうなのだろう。

(ああ、俺のせいじゃないか。助けたいと言いつつ、逆に蓮音を苦しめた。俺が殺したんじゃないか)

 頑なに蓮音を避け続け、突っぱね続けた。

 考えればそれが蓮音に悪影響なのは分かる事だった。しかしその前に考えるのを辞め、自分の行動が正解とばかり思っていた。

 高過ぎる勉強代を払って、それに気付かされた。

 曇天は雨天に変わり、大粒の水滴が降り注いでくる。

(……あ、手帳……なんで持ってるんだ?それにこの付箋は……?)

 堤防を降りる階段の傍で、託は蓮音の日記帳を落とし、首を傾げる。

 今着ている制服で手帳の入るスペースがあるのはブレザーだが、蓮音の日記を仕舞った記憶は無い。

 そしてその手帳には、覚えの無い赤の付箋が挟まれていた。

(取り敢えず拾わないと……)

「……あっ…………」

 一歩踏み出して手帳を拾う。

 バランスを崩したのはその時だった。

(……痛い)

 託は長い石製の階段を転げ落ち、河川敷の砂利に背中と後頭部を打ち付けた。

 全身打撲と骨折だろうか、自分の体なのに動く気配が無い。

「て……ちょう……は、持って……る」

 肌が見える手首から先は雨で血が流れて、奇跡的に手帳が赤で染まる事は無かった。

 僅かに残った力で手帳を顔の真横に置いた時、赤い付箋のページが開かれる。


『託と初めて本気で喧嘩した。助け合いだと思っていた事を依存だと言われてしまって、私はその場から逃げて、学校を休んだ。後になって、お金というセンシティブな問題に口を出そうとした私が間違っていると気付いた。明日、ちゃんと話し合って謝ろう』

『朝一番で会いに行ったら、託は夜に落ち着いて話し合う機会を設けてくれた。仲直り出来ると思ったのに、私は寝過ごしてしまった。夢の中で言いたい事だけ言って、現実で託がくれた時間を捨ててしまった。私は最低だ』

『翌朝に託は出掛けていたから、電話越しでもいち早く謝る事にした。応答はしてくれたけど、やっぱり私のやってしまった事は許されなかった。託の最後の言葉が、表していた。もう、戻る事は出来ないと思う。全部、自分で蒔いた種だ』

『託と会うのが怖いから早い時間に登校したけど、私より早く託が登校していた。やっぱり最後の月で託と喧嘩別れはつらくて、我慢出来ずに話し掛けてみたら、託は答えてくれた。それだけで嬉しかったのに、欲張って初詣の事なんて聞いてしまった。託は覚えていなかった。そしてそのまま始業まで戻って来なくてようやく、嫌われたんだと気付いた』

『全部、私が悪かった。話してくれたのは情けだったのに、それにも甘えて、最後には突き放された。当然の事だと思う。嫌いな人とは話したくないから』

『託に嫌われて、この先どう生きていけば良いのか分からない。もう生きる意味が分からない』

『ごめんね 託』


 意識が薄れていく中で、一言一句が脳に焼き付けられる。

 傷の痛みなど無くなり、弱まる脈拍の中で胸に激痛が走る。

「はす……ね……。ご……め…………」

 謝罪もままならず、託は涙を流しながら息絶えた。

 季節にそぐわぬ豪雨の音だけが、取り残された。

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