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Relife  作者: 橋本 海里
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二生目  罪の意識

 午後九時半、金曜日という事で駅周辺の居酒屋は賑わっていた。その賑わいに比例して、駅構内にも家に帰ろうとする酔っ払いがそれなりに見られた。

 微かにアルコールの匂いが漂い、酔った人の多くがスーツを着崩している中で一人、酒気も無くスーツも整った男性がいた。

「……持って来ましたよ、鳥谷さん」

 託が不透明な袋を差し出しながら声を掛けると、鳥谷は無言のまま微笑んでその袋を受け取る。

「……上手くいったみたいだね。うん、素晴らしい」

 中身を確認した鳥谷は微笑みを崩さず託に称賛を送ったが、その目は笑っていなかった。

 ただ静かに、託の目の奥を覗いている。まるで心を見透かしているように。

「勿論、犯罪であることは承知しています。それが分からずに行動した訳でもありません」

「それなら尚更分からないよ。普通なら誰しも法だけは犯したくない筈なのだけど……」

 大体を察した託が自ら答えると、正解だったらしく更に次の問いが鳥谷から発せられた。その目には、少しばかりの好奇心の色を織り交ぜて。

「まあ、普通じゃないって事なんでしょうね」

「それはそうだろうね。少なくとも君は並の高校生と一線を画している」

 二つ目の問いは行動原理についての質問だったのだが、託はそれを理解した上で適当な答えで誤魔化した。

「……話せない事なんだね。じゃあ、今回の事を警察に通報すると言ったら?」

「そんな事すれば、俺は鳥谷さんに脅されてやったと証言しますね。実際、器具を提供してくれたのは鳥谷さんですから」

 鳥谷の脅しは冗談だ。互いに利害が一致している現状、そんな事出来る筈が無い。なので託も冗談半分の脅しで対抗した。

「ふっ、それでは逮捕されるのは私だね。通報なんてしないから安心してほしい」

 観念したように両手を軽く上げて、簡単に言質をあげた。記録はしていないし、口約束程度だが。

「その言葉、信じますからね」

「それで良いんだよ。それではまた、何か分かったら連絡する」

 雑談も程々に、鳥谷は改札を通って帰路に就く。

 時刻は午後十時前、託も急いでアルコールの回った駅前から脱出した。

(明日はまた別の場所、しかも遠いからまた早く起きないと……)

 朝早くに家を出て、昼から夕方の時間に到着するような場所。泊まりも確定しているので、なるべく体力を温存しておきたい。

(しんどいけど……ちゃんと解決に向かっている。一ヶ月くらい、辛抱しないと)

 託はハードスケジュールに深い溜息を吐きながらも、確かな前進を感じて期待に胸を膨らませた。

 肌に突き刺さる冷気も、今だけは痛くなかった。


  ◇


 翌朝、一泊分の荷物を背負った託は電車の中で寝ていた。

 今回の目的地は鳥谷の頃とは比べ物にならない……片道九時間の超長距離移動となっている。

 そのため託は補導されなくなる朝四時に家を出発したのだが、おかげでとんでもない寝不足を抱えた状態で始まった。

(うん……まだ寝れる…………)

 寝不足ゆえにすぐに眠れるが、駅に着いてブレーキが掛かるとたまに目が覚めてしまうので中々熟睡出来ない。

 起きてはもう一度浅い睡眠、この繰り返しである。

(……うっ、はぁ……はぁ……今回は悪夢だった)

 浅い睡眠だと人は夢を見るらしく、託も寝る度に何かしらの夢を見る。平和な夢だったり、悪夢だったり。

 悪夢を見れば毎度うなされて起きるのだが、穏やかな夢はそれはそれで心地悪いらしく、大きな溜息を吐いて目を覚ましていた。

(今月は安息なんてないだろうし、変に期待するより分相応な夢が良い)

 願望の混ざった夢よりも、より現実的な夢を。そっちの方が託にとっては活力になった。

 そうして覚醒と睡眠を繰り返し、一度目の乗り換えまでの三時間で体を休めた。

(電車が来るまで結構時間があるっぽいけど……手帳でも見るか?)

 乗り換え駅での待ち時間が長い事を知って、託はおもむろに手帳とスマホを取り出す。

 といっても手帳の内容から得られる情報はもう無く、託にとって蓮音の記録を読む行為は思い出に浸るためのものだった。

(忘れたくないからな。これから蓮音とはあまり話せないだろうし)

 強制的に眠らせたので、蓮音は昨日の夜の事が夢だと錯覚するだろう。

 そうなれば気まずさと申し訳無さで、彼女から話し掛けてくる事はおそらく無くなる。話し掛けてくるとしても謝罪だろう。

 つまり、託は蓮音との接触を最低限に減らせるのだ。

 それは蓮音に隠れて動かなければならないこの問題において、大きなアドバンテージとなる。

 ただ、理屈で分かっていても精神的にはつらい側面もある。本来、託にとって蓮音は大切な人なのだから。

 これから長い期間、蓮音に接触出来ない。なら思い出だけでもという事で、託は新たな情報も無い手帳を持ち歩いている。

 一緒に取り出したスマホを見れば時刻は午前七時半、普段は遅くてもこの時間には蓮音が起こしに来ている。

(……噂をすれば)

 丁度、スマホが小刻みに振動する。蓮音からの電話だった。

「もしもし」

『あ、もしもし……出掛けてるの?』

 電話に出ると、蓮音は挨拶の後に少し間を開けてから弱々しい声で尋ねてきた。

「ああ、少し遠くにな」

『……そっか、うん。あ、あのね……昨日の事なんだけど……』

 託の予想通り、蓮音は申し訳無さそうに例の話を持ち掛けてきた。

「昨日の事?悪いけどさっぱり記憶に無いな。放課後はバイトから帰って飯食って風呂入って寝たし」

 ここで蓮音は寝ていたと明確に答えたら怪しまれると思い、託は遠回しに昨日の夜はずっと一人だったと暗示する。

「で、それがどうした?」

『え、えっとね……ごめんね、昨日会う予定だったのに……』

 考える暇を作って勘付かれる可能性も考慮して、託は更に答えを急かす。

 すると蓮音は息を詰まらせながら、昨日の事を夢だと錯覚して謝罪した。

「……そんな事もあったな」

 十分に気負っているように感じたので迷ったものの、その錯覚を事実として焼き付けるために、託は約束の存在を再認識させる。

『ごめんね……私が過干渉だったのが悪かったのに……託はちゃんと話そうとしてくれたのに……ごめんね、ごめんね……』

 理解してほしい事もあるにも関わらず、罪悪感でいっぱいの蓮音はただただ自虐と謝罪の言葉を電波に乗せた。

「……もうそれ以上はいいよ……」

 電話越しにも伝わる蓮音の心の傷に、託は耐え切れなかった。これ以上謝られると、意図的にそうさせた託の心の方が壊れそうだった。

 そしてこれ以上の謝罪は要らないと伝え、僅かに沈黙が走る。

「……そろそろ電車来るから……切るよ」

 始発駅なので電車自体はもう停まっている。託は蓮音の答えを待たずに、スマホに映る赤い丸を押した。

 時間的な要因もあって駅は土曜出勤する人で賑わってきたが、託にその喧騒は届かない。

 電話越しの蓮音の声が耳に残り、深く刻み込まれていた。

(切り替えないと……こうなる事だって分かっていたんだから)

 最善だと思って、託自身がこの結果を望んだのだ。むしろプラスに捉えるべきだろう。

(……ごめん、蓮音。今だけは忘れるから)

 伝えられない謝罪を心の中で呟き、それ以上彼女の事を考えるのは辞めた。

 今の託は未知のウイルスと、そこから発症する不治の病を、意味も無く追うだけの存在である。

 他でも無い、託自身がその身に催眠術を掛けた。

 であれば蓮音の手記を読む必要も無く、託は手帳を鞄に仕舞い込んだ。

 思い出なら少し時が経っても、いなくなる訳じゃないからまた取り戻せる。蓮音は今、時が経てばいなくなってしまう。

 少し前まで言っていた忘れたくないなど、理想でしかない。より合理的に考えて、託は全てを忘れる事にした。

(……あ、乗り遅れないようにしないと)

 思い出したかのように、次の電車が待つプラットフォームに向かう。

 託が纏う雰囲気からは、もう罪悪感など消えていた。

(鳥谷さんとの間だけで今出来る事は全部やったと思うけど……まあ、何かしらの新しい発見はあるだろ)

 遠出にも関わらず、託の期待値は低かった。

 確かに、ウイルスの正体や特徴も掴めていない現状でやれる事は多くない。むしろそんな戯言にしか聞こえない状況で大量の資料を漁れたのだから、予想より大きなものを得られただろう。

 正直な所、今はもう鳥谷からの連絡を待つしかないと託は思っている。

(それに今回の場所は……微妙だよな)

 失礼に当たる事を思いながら、スマホに保存していたメモを眺める。

 『遺伝子研究が経済的要因で無期限休止』『研究員による横領』『必要以上の懲戒』等々、そこには不穏なワードが箇条書きで並べられている。

(目的地……サクラ医学のここ二、三年のデータがこれだとな。期待し過ぎは酷か)

 先日の電話を掛けた日に、電子新聞一時間分から抜粋した情報だけでこれだけの不祥事が見つかった。その時点で託はさほど良い結果が出るとは思っていなかったが、それでも専門家の話なら意味があるだろうからと駄目元で訪問する事にした。

(空振りだったら軽く二万弱飛ぶ訳だし、何かしらの手掛かりだけでも見つかりますように)

 託も流石に使った金額を気にして、心の中で切実な願いを呟いた。


  ◇


 移動中は眠ったりニュースを読んだりして、ようやく着いたサクラ医学本社。託はそこの受付で足止めをくらっていた。

「一体どういう事ですか?担当の職員が音信不通って……」

「申し訳ございません、交通費は払いますので日を改めてお越し下さいませ」

(バックレられたって事か……会社が会社なら職員もそれ相応だな)

 託は不満やら呆れやらが混ざった溜息を吐いて、即興で代案を考える。

「……別の職員の方では駄目でしょうか?」

「申し訳ございません、そちらも不可能です」

(嘘だな。ここの規模を考えれば即答できる訳がない)

 事前調査でもサクラ医学の従業員数はここだけで二百人はいる。夜勤の事も考えて常にいる人数はそこまでではないとしても、一人で全員のスケジュールを網羅出来る数ではない筈だ。

(……最初から真面目に対応するつもりなんて無かったんだろうな。この人も妙に慣れているし)

 従業員がバックレるなんてイレギュラー以外の何物でもないのだが、託の前にいる受付の女性はここまでの対応に落ち着きがある。

 組織ぐるみでの行いだとは考えづらいが、従業員による問題が日常茶飯事なのだろう。

(そう考えれば横領事件やらも納得がいくな。まったく酷い会社だ)

「あの、あまり長居されるのは困ります。お待ちの方々もいますし」

 胸中で毒を吐く託に受付の女性が帰るよう暗に伝えてきた。その声音は鋭くなっており、託は敵意すら感じた。

「そういう事ならそうします。こちらとしてもあまり長居はしたくないので」

 こんな所に……と零したくなったが、面倒な事になりそうなので託は大人しく受付ロビーを後にする。

 空も青くまだ昼間ではあるが、帰るには時間が怪しい。

(さてどうするべきか……やっぱりサクラ医学について詳しく調べるべきか?何か隠しているだろうし)

 そしてその内容は、恐らく遺伝子研究に関わるものだと、託は確信していた。

「……まあ、取り敢えずチェックインかな」

 わざわざ外をうろつきながら考える事でもないため、託はホテルへ歩き出した。道中、サクラ医学の悪口をスマホにメモしながら。

(ネットに書き込まないんだから感謝してもらいたいね)

 蔑むように鼻で笑いながら、スマホを仕舞うと少し足を早めた。

 と言ってもホテルまで大した距離がある訳でもなく、十分程度で到着してチェックインもすぐに済んだ。

 部屋に入った託は、何となくベッドに寝そべって天井を見上げる。

「……一体何をしているんだ、俺は」

 呆れているような、疲れ果てているような、苛立っているような。大きな溜息を吐いて、託は軽く目を閉じる。

(……やっぱり、完全に忘れるのは無理だな)

 時間経過で濃い霧に隠れていた蓮音の記憶が、無気力の中で不意に戻ってきた。

 それだけで張っていた心の糸が緩んだものだから、託は早々に忘れる事を諦めた。

(忘れられないなら気を付けないとな。学校での距離感とか)

 電話越しですら酷く心苦しいのだから、対面での会話で本音を抑えきれる自信が託には無かった。

「……さて、少し調べるとするか」

 念のためと持ってきていたノートパソコンを開く託の動きは非常に緩慢で、結果を全く期待していないのが見て取れた。

 そして案の定と言うべきか、可笑しい程に探しても探しても詳しい情報が見つからない。

 ただ一つ分かったのは、遺伝子研究のスローガンとして『人類がより健康的な生活を送れる未来を創る』と掲げている事だけ。託からすればどうでもいい事であり、その結果がアレなので嘲笑モノだった。

(っていうか、そんな言葉掲げるんなら話くらい聞いてもらいたいものだね)

 託は心底つまらなさそうに検索タブを閉じ、パソコンの電源を切った。

 出来る事が無くなってどうしようかと途方に暮れていると、スマホから着信音が鳴り響く。

(……鳥谷さんか)

 鳥谷から電話が掛かったという事は、十中八九血液検査の事だろう。

「もしもし、何か分かったんですか?」

『随分と本題までが早いね。そんなに気になるかい?』

「当然です。雑談は後にして下さい」

 託が淡々と本題に迫ると、電波の先で鳥谷が苦笑する。

『分かった。とはいえ最初の一歩だからあまり期待しないでね……。問題のウイルスが見つかったよ』

「……次は何をするんですか?」

『培養して……まあ色々段階を踏むから、君が思うよりずっと簡単じゃないよ』

「……お見通しですか」

 託が治療薬を欲している事から鳥谷は質問を先読みして、次の質問を否定し始める。

『薬は一ヶ月では難しいかな』

「それじゃ駄目なんです。過程を飛ばす事は出来ないんですか?」

 託は食い気味に、無理難題だと理解した上で鳥谷に尋ねる。

『話は終わっていないよ。薬は難しいけど、臓器移植の可能性が残っている』

「……ドナーを待てと?」

 そんな時間は無いと、託は低い声で暗に伝える。

『違う。君が臓器を提供すればいい』

「つまり死ぬのは俺だと」

『まあそう言うよね。ただそれも違って、延命措置だよ』

「……はい?」

 鳥谷の言葉に、託は頭が疑問符で埋まって言葉を失う。

『ワクチンは治療薬より開発が容易なんだけど、ワクチンは予防であって感染者には意味が無い。だから託君にワクチンを打つんだ。ここまで言ったら分かるよね?』

「……俺の体で抗体を作って、そこに感染した臓器を移植する」

『そういう事』

 託は冷静に答えを導き出したが、信用出来ないのか口元に手を当てて思考する。

「……それで治療出来るんですか?」

『いいや、薬が完成するまでの延命にしかならないよ。臓器を移植するだけだと、ウイルスを減らすだけに留まるだろうからね』

「まさか……移植を繰り返すんですか?」

 託の頭に思い浮かんだ方法はこうだ。

 蓮音の感染した臓器を、ワクチンで抗体を付けた託の体に移植する。

 託の抗体で治療されている間に、蓮音の方に移植した託の臓器がウイルスに汚染される。

 もう一度移植する。これの繰り返し。

「……そんな事したら体が持ちません。手術の負荷で死ぬのがオチですよ!」

 それは言ってしまえば人体実験のようなもので、道徳やら倫理を踏み外した方法。

 加えて手術の負荷が原因で死ぬ可能性すらあるのだから、託が簡単に首を縦に触れる筈が無かった。

『この方法でしか治す方法はないよ。それとも、臓器全部入れ替えて君が死ぬかい?』

「なっ……!」

『まあ、それは私としてもお断りだけどね。さて、答えを聞こうか』

 考える時間も与えずに、鳥谷は託に回答を迫る。

 ただ、この二択であれば託も答えは決まっていた。

「…………分かりました。前者でいきましょう」

 躊躇いながらも、託は薬が完成するまで耐える道を選んだ。

「ただ、一つ条件があります」

『うん、取り敢えず聞こうかな』

「……どちらかが死ぬ状況になった時は……俺を殺して下さい」

 あくまでも蓮音を助けてほしいと、そのためなら自分は死んでも良いと、これまでの命を懸ける意気を覚悟に変えた形で託は鳥谷に依頼した。

『そうかい……分かった。約束しよう』

「そうならないよう、願っておきますけどね」

『まあ、命の選択を必要とする前に薬が作れればいい話だからね。善処するよ』

 鳥谷の最後の一言は、約束するだとかの言葉よりもずっと信用出来た。

 その瞬間だけ、託の顔からも安堵の笑みが浮かんだ。

『……それで、私の話は終わったけど、託君から何か話したい事はあるかな?』

 鳥谷が会話の主導権を託に渡すと、託は待ってましたと言わんばかりに口を開く。

「一つ聞きたい事がありまして……サクラ医学はご存じですか?」

『……勿論知っているよ。かの有名な会社がどうかしたのかな?』

 託が確認すると、知らない筈が無い鳥谷は皮肉たっぷりに聞き返してくる。

「さっき訪問したんですけど、職員が音信不通だからと門前払いされたんです。それと、サクラ医学のやっていた遺伝子研究のデータが不思議なくらい見つからないんです」

『なるほど、それは確かに違和感があるね』

「鳥谷さんなら何か知っているんじゃないかと思ったんですが、どうですか?」

 業界の人なら一般人の知りえない情報を持っているのではと託が尋ねると、電話越しにうーんという鳥谷の唸り声が聞こえる。

『……いや、私も分からないよ。社内で情報統制があったという噂が流れてきただけで、それっきり音沙汰無しだね』

「そうでしたか。って事は本当に情報統制があったんでしょうね」

 であれば今日の一件も頷ける。そしてそこに何かヒントがある可能性を託は感じた。

『そうだね、多分何か裏がある。こっちでも探ってみるよ』

「ありがとうございます」

『それじゃあ、また連絡するね。失礼』

 その言葉を最後に通話は終了し、託は控えめにガッツポーズをしてベッドに倒れた。

(……一歩ずつ、着実に進んでいる)

 その事実が、託に僅かながらも希望を見せた。

「っと、こういう時こそだな」

 油断してはならない。道が見えてきた時ほどそれを見失わないように、より一層気を引き締めなければならない。

 それを理解していた託は喜ぶのは辞めて、もう一度パソコンを開く。

(俺は俺の出来る事を最大限やろう。少しでも蓮音を助けられる可能性を上げられるなら、時間なんて惜しくない)

 サクラ医学の隠し事もだが、今日のような事が無いように来週の訪問先も調べておかないといけない。やる事には困らなかった。

(サクラ医学の方は時間が掛かるとして、次の所は……病院で似たような症例を探すんだよな)

 それを思い出して、託はふと一つの考えに辿り着いた。

「……無駄じゃね?」

 症例探し、事案探しは鳥谷の所で大量の資料を見て、皆無である事が分かった。

 それにウイルスを見つけた今となっては、わざわざまた遠出してただ似ているだけの病気を探すのは無意味な気がしてならなかった。

「……断るか、適当な理由でも付けて」

 託は何も得る事は無いだろうと結論付けて、来週の予定を空ける事にした。

(よし……サクラ医学の方に手を付けるか)

 託が指を動かしたその時、またもやスマホの着信音が鳴る。

 見知らぬ番号、託は一瞬出るかどうか迷う。

「……いや、やばそうだったらすぐ切るから問題無い。うん……もしもし」

 結局、電話に出る方が良いだろうという事で託は応答する。

『突然すみません、本日面会するはずだった者です』

「……はあ」

 声はヘリウムガスで変えられており怪しさは満点だが、託とサクラ医学の人間でしか知らない情報を名刺にしてきたので、判断しかねた託はどっちつかずな声で返す。

『明日十一時に本社の最寄り駅にお越し下さい。それだけです。手短に済ませて頂く事をお許し下さい。それでは』

「えっ?ちょっ……」

 託が言葉を発する暇もなく、本当に手短に、要求だけ話して電話は切られてしまった。

(……けど、悪戯電話とは思えないな。一応……明日の十一時か)

 嘘を吐いているようには思えなかった託は、その時間をスマホにメモして脳の記憶にも焼き付けておいた。

 その後はサクラ医学関連の検索だが、残念ながら案の定、特に何の進展も無く一日が終わった。


  ◇


「う……んー……。久しぶりに良く寝たかもな……」

 翌日、託が起きたのは午前九時だった。一時に寝たので実に一週間ぶり、何なら一度目の最後は蓮音が死んでから長い事寝ていなかった事もあり、加えて三日ぶりの快眠だった。

 おかげで体が軽く、頭も以前より冴えている。

(まだ時間に余裕はあるし……取り敢えず風呂に入るか)

 昨日は食事もとらずにいつの間にか深夜になり、睡魔が限界まで近かった託はそのまま布団の上にうつ伏せになって泥のように寝てしまった。

 頭が冴えているせいもあって、空腹感も酷いが体がとてつもなく気持ち悪い。

 幸い、部屋にはシャワー室が備え付けられている。託は着替えを準備してそこに飛び込んだ。

(この後はコンビニなりで食料を調達して、十一時に駅に着いていれば良いんだよな)

 予定を脳内で組み立てている内に洗い終わり、てきぱきと身支度を済ませる。

(全然余裕だな……ニュースでも見て時間を潰すか)

 そう考えてリモコンを手に取り、テレビを点ける。

『本日のニュースです。先日未明、サクラ医学本社に何者かが侵入した姿が防犯カメラに捉えられました。当時従業員は全員退勤済みで、窃盗の被害も今の所は確認されていません。犯人はフード付きのロングコート、サングラスとマスクで全身を隠しており、警察は未だに特定に至っていません』

 画面が出てきた瞬間、何ともタイムリーな話題が映し出されて託は苦笑いを浮かべる。

「まさか……な」

 託は嫌な予感がしながらも、首を振って偶然だろうとテレビを消した。

(うん……そろそろ行くか)

 時間に余裕はあるが、居心地が悪くなって予定より早くチェックアウトを済ませた。

 その後はコンビニで朝食のサンドイッチを購入して、駅前で四十五分後に控えた十一時を待つ。

(うぅ……寒い……)

 忘れてしまいそうになるが今は一月、外で四十五分間立っているのはかなりきつい。

 そこから十五分後、肌にチクチクと刺さる冷気に慣れてきた頃、託の方に歩いてくる人影が見える。

 他の通勤する人々の波にも動じず、一直線に向かってきている。

(多分、この人だろうな)

 託は直感でそう感じ取ると、姿勢を整えて体ごと人影の方に向ける。

 そして、託との間に一人分の距離を空けた場所で足が止まる。

 厚手のロングコートを着込み、マフラーで口と鼻をサングラスで目を隠して、ニット帽を被ったロングヘアーの……女性だと託は判断した。

「随分早いですね。俺が言えた事じゃないですけど」

 試しに託から話し掛けてみるが、返事は無い。電話でも声を変えていたため、やはり身元が特定されるような情報は隠していると見えた。

「……俺から言いたい事はありません。対面出来たので早く要件を教えて下さい」

 話すつもりも、積極的に関わるつもりも無いと託が暗に伝えると、女性は鞄から紙の詰まったクリアファイルを出して、託に渡す。

 人目の付かない場所で見て下さい。

 一番上の白紙には手書きでそう書かれており、託は危ない匂いを感じ取る。

「……研究の詳細ですか?」

 託が尋ねると、女性は小さく頷く。

「今朝のニュース……貴女の事ですよね」

 周りに聞こえないよう小さな声で、託が確信を持って再度尋ねる。

 しかし次は何の反応も示さず、サングラスを介して託を見つめている。

「……大丈夫です、警察には言いません。これは有効活用させて頂きますね。ありがとうございます」

 託が貰った物をリュックサックに仕舞って頭を下げると、女性は何も言わずに歩いて去っていった。

(……さて、帰ろうか)

 女性はもう振り返らないだろう。託はまだ後ろ姿が見える内に改札に向かって歩き出した。

 それが不法侵入によって手に入った物である可能性も、託は理解した上で受け取り、持ち帰る事にした。

 そこに罪悪感など微塵も無い。サクラ医学が隠しているモノを知る権利の上で知るだけだと、むしろ自身に正当性すら抱いていた。

 足取りは軽く、今の託はいつになく調子が良かった。

 また帰りに九時間、託がその事に気付いて肩を落としたのはそれから一時間後の話。

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