二生目 喧嘩別れ
翌朝、目を覚ました託は少々憂鬱そうに体を起こした。
どこにでもいるような高校生であれば、この憂鬱さは冬休みが明けた事からくるものだろう。しかし託は、それとはまた別の憂鬱を抱えていた。
(夢である事を願いはすれど、やっぱり叶う訳ないよな)
託の持つ憂鬱とは、難しい現実に対するものであり、正直今更だと本人も分かっていた。
それでも寝間着の袖に隠された注射の痕が、自身の背負った任務の重さが、改めて気分を沈ませた。
(……こんな事考えるのは無意味だな。言い訳でも考えておこう)
託は他の事を考えて気を紛らわしながら、鈍重な動きで朝の支度を始めた。
顔を洗い、制服に着替え、机に座ったタイミングで託の動きが止まった。
(……朝飯買ってくるの忘れた)
普段は前日の夜にパンを買っているのだが、昨日の夜は帰宅するのが十時前だったので買い物に行けなかった。
朝食がない事に気付いた託は、溜息を吐いて腰を上げる。
(買って食べながら登校するか。多分丁度良いだろ)
最寄りのコンビニまでは徒歩で往復二十分程度だが、学校とは逆の方向にある。朝食を買って一度家の前を通って、それから登校すれば良い具合に時間を潰せる。
一応歯磨きだけしていつもより早く家を出た託は、制服のまま学校と逆方向に進む事に違和感を覚えながらも、耐え難い空腹を満たすために足を動かした。
(歩きながら食べるとなると片手で食べれるもの……まあ最悪エナジーゼリーとかでも買えば良いか)
そんな事を考えていればいつの間にかコンビニに到着。適当に見回して一番美味しそうだったたまごサンドを購入して、家の方向に戻りながら腹を満たしていく。
(丁度家の前を通る頃に食べ終わりそうだし、ゴミだけ捨ててから行こうかな)
サンドイッチを食べる速度と家までの距離が都合良く一致し、残骸をそのまま持っている事に抵抗があった託からすれば運が良かった。
そんな事を考えている内に自宅が見えてきた。補足を入れるとすると、ついでに同じ学校の制服を纏っている見慣れた人影も見えてきた。
「……あれ?出掛けてたの?」
託の存在に気付いて、人影の正体……橘花蓮音が駆け寄ってきた。
「あ、ああ……朝飯を買いにな。それじゃ……」
託は頬を引き攣らせて、愛想笑いも程々に早々と家に逃げ込もうとする。
「昨日、夜になっても帰ってこなかったけど、どこ行ってたの?」
「え、えっと……内緒。十時には帰ってたから問題無いよな?」
行った場所を教えれば観光に行ったと間違えられ、更に問い詰められる。蓮音の性格上、必ずそうなると分かっていた託は論点をずらしてどうにか有耶無耶にしようとする。
「なら取り敢えず悪い事はしていないのかな……?それでどこに行ってたのかだけど……」
「ちょ、ちょっとゴミ捨ててくる!」
誤魔化す事に失敗したので、蓮音の返事を待たずにドアを閉めて一旦仕切り直す。
(ど、どうする?このまま家にいたら学校に遅刻するし、蓮音を先に行かせようにも今まで一緒に登校していたから確実に怪しまれる。やっぱり上手い事誤魔化すしかないけど……)
玄関に座り込んで急ぎ対策を練るも、長考出来ないのもあって洗練された策が思いつかない。
(やっぱあの方法しかないのか?滅茶苦茶嫌だけど……あれしかないよなぁ……)
託は内心で大きな溜息を吐いて、中途半端ながらも覚悟を決めてドアを開ける。
「……お待たせ」
「そんなに待ってないよ。それで、昨日はどこに行ってたの?」
「その事なんだけど……言いたくない」
案の定尋ねてきた蓮音から目を逸らし、託は拗ねた子供のような返事をする。
「……言えないような所に行ったの?」
「言え……ない、蓮音には。法には触れてないとは言っておく」
「ふーん……」
頑として答えない姿勢を貫いていると、蓮音から不満そうな声が聞こえてきた。
「私には言えない所……あっ……」
「……どうした?」
託から聞き出すのを諦めた蓮音は自力で答えを見つけようと思考を回し始め、すぐに何かに気付いたような声を上げた。
「か、彼女できたの?もしかして」
「……は?」
揶揄われているのかと疑い、託は一瞬だけ眉間に皺を寄せる。が、蓮音が至って純粋な瞳で顔を覗いてきたので、すぐに表情から邪気を払う。
「いいや、できてないし、作るつもりもない」
託はあり得ないと言わんばかりに首を振る。
「俺としてはこのままいない方が気が楽だしな」
「……そっか、うん。ごめん、変な事聞いたね」
託の言葉に、蓮音は安堵のような表情を浮かべる。
しかしそれとは対照的に、託は口元に手を当てて見えないように困惑の表情を浮かべる。
(おかしい……蓮音が恋情を自覚したのは十五日の筈で、前回とは別の行動をとっているとはいえ早過ぎる)
まだ自覚していない可能性も捨て切れないが、託としては先程の蓮音の表情は無視出来なかった。
「……そんなに嬉しいのか?」
「ふぇ?そんなふうに見えた?」
託からの問いに蓮音は首を傾げ、逆に聞き返してきた。
「……いや、見間違えだな」
色々と疑問は持ちつつも、ここは一旦泳がせてみる事にした。
「ふーん……まあいいや。早く行こ、遅刻しちゃう」
蓮音も何か言いたげではあったが時間の事を考えたのか、あっけらかんとした笑みを浮かべて託の手を引く。
「ちょ、落ち着けって、時間もまだ余裕だろ……」
と、口では言いつつ、託は自身の手を掴む蓮音の手を払う事はしなかった。
(……言えたなら、どれだけ楽なんだろう)
託はされるがままに引っ張られながら、胸の奥が温かくなるのを感じると共に非常にもどかしい気分になる。
初めて蓮音を失った一度目に初めて存在を知り、二度と感じる事はないと思っていた感情を再び感じる事が出来た。
叶う事なら、本来の目的を捨ててもう一度同じ時を過ごしたいまである。後悔すると分かっていても、目の前に転がる一瞬の幸福を拾いそうになる。
そんな心の内側を全て伝える事が出来たなら、どれだけ楽に過ごせるのだろうか。
(……駄目だ。一刻の感情に任せて動いても良い事なんてない。もっと先を見据えて考えないと)
甘い言葉の誘惑は邪念だ。短絡的で、間違っている。心の内を吐き出した所で、蓮音を失えば楽に過ごせる訳がない。
その事を理解している託は脳裏をよぎる邪念を振り払って、自身の手の自由を奪っている蓮音の手を掴んでブレーキを掛ける。
「おとと……託?どうしたの?」
「あー……先に言っておかないといけない事があってな。ちょっと金が必要になって、暫く遊べないと思う」
放課後になれば毎日蓮音が遊びに誘ってくる。そのタイミングで断れば今朝のように問い詰められるだろうという事で、託は登校中で深堀り出来ない今の内に伝える事にした。
「……どうしてそんなに急にお金が必要になったの?」
「言えない。俺自身の問題だから」
案の定、蓮音は不満そうに理由を尋ねてきた。その事を想定していた託は嘘にならない程度で介入しづらいような答えを選んだ。
しかし、今回の蓮音は不満げな表情だけで抑えるような事はしなかった。
「託の問題って……納得いかないよ。ちゃんと教えて」
「納得してくれ。人に言えるような事じゃない」
「私にも言えない事って何?物心付く前から一緒にいて、家族みたいなものなのに……どうして教えてくれないの?」
「……蓮音には関係無いからだよ」
蓮音から思った以上の猛抗議を貰い、託はつい嘘を吐いてしまった。
そうしてぶっきらぼうに吐いた言葉は、まさに最悪手だった。
「関係無いって……そんな言葉で誤魔化さないでよ!今までみたいに一緒に助け合えば良いじゃん!?どうして何もかも隠して……」
「そんな悠長な事言っていられる問題じゃないんだよ!一緒に一緒にって、それは助け合いじゃなくて依存なんだよ!そろそろ何か一つくらい自力でやってみろよ!」
託の言葉は完全に衝動的なそれだったが、それを抑える理性は働かなかった。
この時の託は、秘密を隠す事に必死だった。助ける方法を探しているなんて蓮音に伝えて、希望を持たせたくないから。希望の分、失敗すれば絶望するから。
「託、最近変だよ。どうして……いつもみたいに……」
「だから、誰にも言えない問題があるからだよ」
少しばかり冷静さを取り戻したものの、託は弱々しく伸びてきた蓮音の手を振り払った。
それがトリガーとなり、蓮音は黒く澄んだ瞳を潤ませて、来た道を走っていってしまった。
「…………ごめん、蓮音」
(俺は……最低だ)
過干渉気味ながらも蓮音は託の事を考えた発言をしていて、託もそれは分かっていた。
それでも秘密を話す事だけは出来ず、勢いのままに突き放してしまった。
胸に突き刺さる無数の針は罪悪感の重さだと、託はその苦痛を噛み締める。
(それでも進まないと……全て話すのは目的が達成された後だ)
蓮音との間に生まれた溝も、全てが終われば埋める事が出来る。そう考えた託が振り返る事はなかった。
◇
結局その後、蓮音が学校に来る事はなかった。
蓮音とは初めての喧嘩だったので謝りたいのだが、内容が内容なので謝るにしても弁明が難しく、返って拗らせかねないので託から謝りにいくような事は出来ない。
(……まあ謝らないでいても拗れるか。全部打ち明けるような真似をする必要が無いだけマシだけど)
どちらを選んでも結果はあまり変わらない気がするので、それなら何もしない方が身のためだと託は判断した。
(この後はバイトだし、家に帰る必要が無いのは幸いだったな)
蓮音の事だから、少し頭を冷やせばちゃんとした話し合いで解決出来る。早ければ既に託の部屋で待っているかもしれない。
しかし話し合った所で秘密は隠し続けるのだから、仲直りしたとしてもそれは表面上だけのものだろう。
(逆に気まずくなるし、余計な事して明日蓮音と会えなかったら大問題だからな)
いつでも取り出せるよう鞄の中に隠された注射器と睡眠薬。この二つを明日の夜使うために、それまで蓮音との接触は避けた方が正解だろう。
そう考えれば、今朝の喧嘩も明日に繋がるとも取れて僅かに気が紛れた。
(……つっても結局気掛かりなんだよな。好きだし、すぐにでも謝りたい訳だし。はぁ……きっつい)
あの時は突き放すために酷い事を言ったが、託にとっての蓮音は本当なら愛してやまない相手だ。このまま険悪な関係を続けるのは精神的に相当痛い。
助けたいという意思だけが、胸を締め付ける罪悪感を和らげていた。
(……謝るのは当然として、お詫びに何かしよう。全部終わってからになるけど)
謝罪だけでは気が収まらないので、いつも蓮音がしてくれていたように、託も蓮音が最大限喜ぶような事をお返ししようと考えた。
「……っと、少し急がないと」
スマホで時刻を確認すればこのままだと勤務先に着くのがギリギリになりそうだったので、託は速度を上げて目的地に急行した。
◇
「ただいま……」
午後十時前、五時から入って四時間超のバイトを終わらせた託はヘトヘトになりながら、およそ十四時間ぶりに家のドアを開いた。出迎える人は勿論いない。
(学生は勉強するのが仕事なんて言われるけど、そうだとしたら今日は十時間以上働いたな……)
誰が見る訳でもない愛想笑いを浮かべて、笑えない冗談を心の中で呟く。
夏休みに短期バイトを入れた事はあったが、学校がある日にバイトを入れる事はなかった。そのため今の託は過去最大の疲労で誰から見てもだるそうな表情をしていた。
(明日は三時間で終わるけど、その後にもっと重いのがあるからなぁ……)
一昨日に託が組み込んだのは全て単発バイトなので、労働時間に違いがある。明日は一番長くて五時から八時のバイトだった。
おかげでその後に鳥谷からの仕事をする時間ができたが、今日の時点で既にどのバイトの肉体的な疲労よりもその仕事への精神的疲労が一番だった。
(覚悟は決めてた筈なんだけどな)
今やろうとしているのは、助けたい相手を自ら傷付けるという事。それが抱える矛盾は大きく、頭で分かっていても体が抵抗している。
少し袖を捲って手首を覗いてみれば、昨日作った小さな跡が肌を変色されていた。と言ってもグロテスクなものではなく、赤い斑点を作っている程度だ。
その程度なのだが、それを見るなり、指先が託の意思とは関係無く震え始める。
(……落ち着け、自分の体なんだから制御しないと)
綺麗な方の手で跡を隠すように手首を握り、数秒に渡って深く息を吐く。
震えが収まれば隠した場所は見ないようにして、さっさと自室に向かった。
(風呂は入るとして飯は……別にいいかな、食欲も大して無いし)
託は自分に言い聞かせる。
空腹ではないのかと聞かれれば空腹ではあるのだが、託自身はまず食べる気が無いらしい。
実際、腹からは小さな悲鳴が聞こえているが、本人はそれを無視している。
(……うん、さっさと体洗って寝よう)
何か考えようとすれば腹の音が気になってしまうため、託は思考を放棄して早く寝る事にした。
運が良かったのは疲れ果てていたおかげか、普段より早い時間かつ空腹状態での就寝でもすんなり寝れた事だろう。
◇
(……あれ?)
視界が開けた託は、普段通りの自室で、なぜかベッドに座っていた。
しかしどういう訳か、隣には昨日喧嘩したばかりの蓮音も座っている。
(蓮音……どうして……)
「嘘つき」
唐突に蓮音が放った言葉に、伸ばしていた手が止まる。
「何も知らないフリして、誤魔化しながら裏で動いてるんだね」
(……そうだよ。俺はまだ諦めたくないから)
「だからわざと突き放したんだ?」
(うん、バレたらなんで知ってるんだって話になるから)
なぜバレたのかは分からないが、事実として蓮音に気付かれたので、託は観念したように素直に答える。
「託にとって、それは正しい?」
(……正しいとは思えない。けど最善だったと思う)
託はこれで良かったと思いつつも、冷酷な選択をしたという負い目を感じていた。
「私のため?」
(恩着せがましい事は言うつもりなかったけど、詰まる所そうだな)
託が頷くと蓮音は優しく微笑み、首を振った。
「……もっと見て、もっと考えて。正解は他にあるよ」
蓮音がそう呟いた途端、託の視界が段々と暗く霞み始める。
(待って、どういう意味……)
手を伸ばすが蓮音には届かず、次の瞬間には完全な黒に染まった。
「う……夢、か……」
蓮音と喧嘩した翌朝、奇妙な夢を見て託は目を覚ました。
(正解は他にある、か……いや、所詮は夢の中だけの都合が良い話だな)
託は今日に至るまで、十分過ぎる程考えた。その上での行動なのだから、それ以上となると夢だけのご都合展開だろう。
(今日、俺は蓮音に酷い事をする。後戻りは出来ない……。夢の中だけど、最後に笑顔を見れて良かった)
睡眠薬で眠らせ、蓮音本人の意思に関係無く採血を強行する。今までは目を逸らしていたが、託はこれが触法行為である事を知っていた。
知っていた上で、鳥谷が持ち掛けたこの話に乗ったのだ。
(……さっさと準備しよう。まだ蓮音と会う時じゃない)
嫌な話から逃げる目的が半分、本来の目的が半分で、託はベッドを飛び降りた。
学校で会う分にはクラスという集団なので、誰かと話していれば蓮音も介入してこないと思うが、二人きりの状況ではきっと話し掛けてくるだろう。
(いつも登校時間になると迎えに来る。だから蓮音が家にいる間に登校しないと)
託の考え得る蓮音との接触を避けるための唯一の手段だった。
時間的にも余裕があり、託は登校時間より三十分は早く全ての準備を終わらせた。
「この時間なら登校している人なんていないだろうな。まあ、蓮音以外から隠れる必要もないんだけど」
なんて面白くもない無駄口を叩きながら、やけに重いドアを開ける。
その瞬間、変わらぬ住宅街と一緒に高校の制服……蓮音の姿が目に映った。
「……お、おはよう」
蓮音は託の姿を捉えると、気まずそうにしながらも託に聞こえるように一言呟いた。
「あ、ああ……おはよう」
(なんで……いつもより圧倒的に早い時間なのに……)
かろうじて返事はしたが、託の頭では混乱の渦が巻き起こっていた。
「あ、あのね……昨日の事、謝りたくて……」
「そのためだけに、こんな早朝から家の前で張り込んでいたのか?」
蓮音は目を伏せながら、普段からは考えられない程気弱な事を言い出した。
驚いた託が被せるように尋ねると、おずおずといったふうに頷いた。
(結構気に病んでるみたいだな。本当なら今すぐに許したいけど……)
「……八時半に俺の部屋に来てくれ。それまでに俺も色々整理する」
託は計画を確実に成功させるために、わざと心が追い付いていないような演技をした。
「う、うん。ごめんね、こんな朝早くから……」
「いや……別にいいよ」
弱腰な蓮音にやりづらそうにしならがも、託は返事だけはして学校に向かって歩き出した。
(……なんでこんなに優しくて、相手を気遣える人が死なないといけないんだよ。なんで蓮音なんだよ)
自分か、いっそ知らない誰かに感染してくれれば良かったのにと、託はやるせない気持ちで髪を乱しながら、自身が生きるこの世界に叶わぬ恨み言を吐いた。
後ろを歩く足音は自分のそれよりテンポが早く、託の聴覚に存在を主張してくる。
託にはそれが懸命に生きる音に聞こえ、より心に突き刺さった。
(やらないと……法を犯すにしても、手段は選んでいられない)
今、耳から胸に入ってくる音が消えないように、いずれまた隣で聞けるように、託はそれが悪事だと分かっていても手を染める覚悟をした。
◇
午後八時半、今朝の一件以来、学校でも蓮音は託に一言も話し掛けてこなかった。
きっと託が気持ちを整理するために何も言わないよう配慮したのだろう。託もその事は分かっていて、彼女の深慮さに感服していた。
そしてバイトが終わって帰宅した託は蓮音が待つであろう自室に向かう前に、キッチンで麦茶を一杯用意する。
そこに鳥谷から貰った睡眠薬を入れ、完全に溶けるまで混ぜ、それをお盆に置いてようやく部屋に向かう。
(……この先に、蓮音がいるんだよな)
託は一度大きく深呼吸をして、ドアを開ける。
「ただいま……」
「おかえり、託」
部屋は照明が点いており、託が呟きながら入室すると、見慣れた少女が優しい声で迎え入れた。
「……ごめん、少し待たせたかな。これ、飲んで」
これから何が起こるのか知る由も無く、自身と仲直り出来ると思って目を輝かせている蓮音に、託は一瞬だけ体が動かなくなった。
それでも加速する鼓動を抑え、蓮音の柔らかな笑顔に呼応して笑みを浮かべて、睡眠薬入りの麦茶を彼女に勧める。
「ありがとう。それじゃあお言葉に甘えて頂くね」
託の持つ緊張とは裏腹に、蓮音は嬉しそうに麦茶を手に取り、飲み干した。
「……それじゃあ、昨日の事について話そう」
「うん、まず私から話してもいい?」
託が切り出すと、蓮音は真面目な表情で声を挙げた。託も、分かったとだけ答えて了承した。
「えっとね……まず最初に、ごめんなさい。今まで隠し事とかしてこなかったから動揺して、託に話す事を強要しちゃった。本当に、ごめんね。次からは過干渉にならないように気を付けます」
蓮音はあの後かなり反省したのか、当時の自身の精神状態も理解した上で、託に深く頭を下げる。
「でもね、一つ理解してほしい事が……あの時、私が託の話に首を突っ込もうとした事なんだけどね。私は、託を本当の家族だと思っていて、大切だし大好きだし、助け合いたいと思っているの。だから……本当は全部相談してほしい……託が困ってたら……少しでも、手を貸したいから……」
終盤は薬の効果でうつらうつらしていたが、蓮音は全て言い切った。そして、薬が回ったのか急に気を失って前に倒れる。
そのままいけば机に頭をぶつけるところだったが、そうなる前に託が彼女の肩を支えて、ベッドに寝かしつけた。
「……ありがとう、蓮音。全部、分かっているよ。蓮音が俺を家族同然だと思っていて、俺の事を大切にしてくれている事。だから前回死んだ時も……病院から俺に直接連絡が来たんだよな」
蓮音の気持ちは、彼女が遺した手帳で全部分かっていた。
それでも今、託の目には涙が滲んでいた。
(おかしいよな、再認識しただけなのに……手帳を使った文字伝いの言葉と内容はなんら変わりないのに……)
再認識のせいなのか、蓮音の声で直接聞いたせいなのか、どちらが涙の理由なのか、託には分からない。
ただ、泣きたいくらいに胸が苦しかった。一度失った、特別な気持ちに触れた気がして。
しかし、感傷に浸っている暇は無い。今起こった事、これから起こる事、全て夢にしないといけない。
(……よし、始めよう)
涙を拭い、託は鞄から注射器と、こればかりは折れやすいからと棚に隠していた採血針を取り出す。
その二つを組み立て、今一度蓮音の状態を確認する。幸せそうに、穏やかな寝息を立てていた。
(……落ち着け、失敗は許されない。確実に成功させて、鳥谷さんの所に持っていくんだ)
震える手を抑え、深呼吸の後に息を止め、鼓動と鼓動の間の一瞬の静寂。その瞬間に、針を手首の血管に突き刺す。そして、ゆっくりと血を抜いていく。
「……………………っぷはあ……!」
一分にも満たない作業、それが託からすれば千秋の時と同等に思えた。
結果は成功。鳥谷から指定された量の血を採取する事が出来た。
しかしそこには喜びも、達成感も存在しなかった。
「蓮音……ごめん」
血の入った注射器をプラスチック製の袋に入れた後、託は謝りながら蓮音を彼女の部屋のベッドに戻した。去り際に布団も掛けておいて、まるで最初からそこで寝ていたかのように工作して。
(よし、補導される時間になる前に急ごう)
時刻はおおよそ九時、寒空の中、託は鳥谷の待つ最寄り駅に向かって自転車を漕いだ。
もう戻れないという罪の意識、蓮音を利用し騙した事への呵責、その二つの結晶である彼女の血液、その三つを抱えながら。