二生目 鳥谷朝日
「なるほど、現実味もあって興味深い話だね。ひとまず嘘ではないと判断しよう」
託が話せる事を全て話した後、鳥谷はメモを取る手を止めて口を開いた。
「ただ、正確にこのウイルスだと言えるものはないかな。風邪程度の症状しか出ないのに死ぬというのは聞いた事がない」
「まあそうでしょうね」
鳥谷はお手上げと言わんばかりに首を横に振ったが、託は気にした様子も無く淡々と頷いた。
(まだ日が浅いから情報が回っていないんだろうな。つっても、それだけが目的じゃないから問題無い)
「……というか、先程の話のどこに現実味があるんですか?」
元は託の話した内容の事なのだが、鳥谷の返答の中でそこだけは腑に落ちなかったのか、託自ら尋ねた。
「いや、話に現実味はないよ。専門家の集まりのようなグループ内で誰一人知らない事を、なぜ一般人である君が知っているのか不思議で仕方ない」
「じゃあなんで……」
「目を見れば分かるよ。君は嘘を吐いていない、もしくは本当に些細な嘘であって伝えたい内容に影響していない。違うかな?」
鳥谷という男は一体どこまで人の心を覗けるのだろうか。底の知れない男を前に託は軽く身を揺らす。
「……まあ、嘘は吐いてませんよ」
「隠している事があるんだね?」
「詮索しないで頂けると助かります」
「そうかい、ならこれ以上は辞めておこう」
あまりにあっさりと手を引いたので、そうするよう頼んだ側である託の方が訝しげな視線を向けた。
「ここは従った方が良いと思っただけだよ。君とは仲良くしたいからね」
鳥谷は相変わらずの淡白な笑みで受け流すと、おもむろに視線を窓の外に向けた。
「これは私の憶測だけど、ほぼ無症状という事は脳からの信号を消されたか、寝ている間に強い症状が出てそのまま死んだかのどちらかだと思う」
「寝ている人の感覚を知る人はいない……という事でしょうか?」
「その通り。全ての事象はそれを五感のどれかで感じる自分がいて初めて成立する。だから無症状という結果なのであって、もしかしたら症状はあるかもしれない」
その説明を聞いて、託は鳥谷に話していない内容も踏まえて納得がいった。
死の前日すら普通に遊んだ蓮根が、次の日の朝に隣の部屋で息を引き取っていた理由に矛盾しない初めての答えだった。
(最期の夜、寝ている間に症状が出てそのまま死に至った……)
託の背筋に冷や汗が流れる。それには様々な事への戦慄が入り混じっていた。
たった一晩で人の命を奪える程の症状が、隣の部屋で、たった一人の幼馴染に降りかかっていた。どこか一つだけ切り抜いても十分な衝撃だが、その隣で何一つ知らずに寝ていた自分がいた事の方が恐ろしく衝撃的だった。
(何も分かっていなかった……理解しているつもりだったんだ)
最初、二度と動かない蓮音と対面した時も、蓮音がどんな死に方をしたのか完全に理解していなかった。そして今日に至るまで、託は目を逸らしていた。
その事を自覚して、託は俯いて表情に深い影を落とした。
「……静かに息を引き取った。そう表現される事は多い。でもそれは人間の意識下での話で、本当は無意識の中で悶え苦しんでいるかもしれないね」
「そう……ですね」
悟ったような言葉が胸に突き刺さり、言葉に詰まりながらも託はそれを受け止めた。
一向に顔を上げない託を鳥谷は横目で静かに見据え、何かを感じ取ったのか鞄から一枚の写真を取り出した。
「……これは?」
「私の祖母の写真だよ。三年前に亡くなったが……幸せだったと言っていた」
その写真には皺だらけの顔で、満面の笑みを浮かべる年寄りの女性が座っている。
ただそれだけの、背景も真っ白な写真。だというのに、託の目はその写真に写る表情に釘付けになっていた。
「様子を見るに君も大事な人を失ったんだろう?そう考えれば未知のウイルスの症状を君が知っている事にも説明がつく」
「……その通りです」
鳥谷は恐らく、託の失った者を祖父母辺りと勘違いしている。
厳密には幼馴染、それも今はまだ生きている人なのだが、託はそれを隠したまま鳥谷の言葉に頷く。
「それがとても悲しく、つらい事なのは私にも分かる。しかし託君、その人は亡くなるまでの間、不幸の連続だったかい?」
(……決して、不幸じゃなかった)
言葉には出なかったものの、何度も首を振って鳥谷の言葉を否定する。
「そうだよね。その人はきっと幸せだった。先程話した、死ぬ瞬間の無意識の中では……その幸福が苦しみから守ってくれると私は思うよ」
託はその言葉に、必死に頷いて肯定した。
それを見て鳥谷は初めて柔らかい顔で微笑み、前かがみになっていた姿勢を伸ばす。
「そしてその死ぬ瞬間も、その人が残した遺産だと私は思う。そのデータが、同じ病を患った次の人の寿命を延ばす事に繋がって、次の人がより多くの幸福を抱えて命を散らし、同じ事を繰り返す……そうして人はより幸せになる。私はそう思う。勿論、生きる事が一番のデータだけどね」
「……そうなのかもしれませんね」
鳥谷は託では辿り着かない程先の未来を見ていた。
託にはそんなに先を見る力は無いし、死ぬ瞬間すら遺産という考えには特に曖昧な立場のため、はっきりとイエスかノーで答える事はしなかった。
(鳥谷さんは人間全体で世界を見ているのかな……俺には無理だ)
鳥谷と託では見ている世界の角度が違う。鳥谷は上から目の前の人の先の人まで見ているかもしれないが、託はもっと下から、目の前の人だけを見ている。それが蓮音だ。
託にとっては、蓮音が世界と言っても過言ではない。結局は、その先の人まで気に掛けられないのだ。
(俺の世界は俺の五感が働いている中だから……その外の世界は俺には関係無い場所なんだよな。結局)
全ての事象は自分の五感があって成立するように、託の世界は託の五感の範囲でのみ成立するのである。
だから託はその世界の中にいる人だけを助けたいのであり、それがもたらすデータだの外の世界の人への影響だのは興味無かった。
(自分の知る範囲だけで良いってのは、傲慢なのかな)
託は内心で首を傾げた。
どこまで行っても託は託として生きているのだから、託の意識の外にいる人の事を考える事は不可能なので、どうする事も出来ない。
(意識の外の人に聞こえてたら批判されるかもだけど……結局意識の外だから、批判も認識出来ないから成立しないんだよな)
結論として、傲慢でも良いという考えに託は至った。
(俺は鳥谷さんとは違うから、それでも良いよな)
託は鳥谷を立派だと尊敬する反面、なりたいともなれるとも思わなかった。
「……そろそろ良いかな?」
「あっ、すみません、まだ続きがありましたか?」
かなりの時間浸っていたのか、鳥谷は困ったように笑いながら託に声を掛け、託もそれに慌てて反応する。
「いや、もうすぐ降りるから声を掛けただけだよ」
「ああ、お気遣いありがとうございます」
「……その様子だと、かなり色々考えていたようだね」
鳥谷はそう言うとおもむろに腰を上げ、託を待たずにドアの方に向かって歩き始めた。
「……まあ、それなりに」
託はぽつりと呟き、鳥谷の後に続いて立ち上がった。
「他の人の耳があったから避けていたけど、事務所に着いたら期待してね」
「え?分からないって話じゃ……」
事の経緯を話した時、鳥谷は確かに首を横に振った。それが全ての答えだと思っていた託は首を傾げる。
「正確に答える事が出来ないってだけで、一部該当する存在が無い訳では無いよ。それに名刺にも書いてあるけど、私はウイルス関連の研究者だからね。一般人の知らないデータも沢山ある」
その声は自信に満ちていて、託は微塵も疑わずに首を縦に振った。
後は事務所に到着するまで会話も無く、鳥谷は仕事、託は明日からの計画というふうに、互いのタスクを進めていた。
◇
「この部屋は完全防音だから、情報が漏れる事も無い。だから何でも聞いてほしい」
鳥谷の所属する医療法人本部事務所……と言っても所有する研究施設の一角に内蔵された小さな事務所の、少ない会議室の中で一番良い部屋で鳥谷はそう言いながら大量の資料を机に広げる。
「よく使わせてもらいましたね。一応普通の研究者の一人なんですよね?」
託は辺りを見渡しながら不思議そうに尋ねる。
鳥谷曰く、この部屋は余程の事でも無い限り役員でも使わせてもらえないらしい。
「まあ、結構な信頼を得ているって事なのかな?他の場所に勤めていた事のある人は本来中々使えないらしいけど」
「鳥谷さんはここ一本なんですか?」
引っ掛かる部分でもあったのか、託は鳥谷の目を見ながら質問する。
「……本当は内緒なんだけどね、賄賂を渡したんだよ」
鳥谷は託を一瞥した後に、堂々とカミングアウトした。
「それは……犯罪に当たるのでは?」
「別に贈賄罪に当たるような事はしてないよ。賄賂っていうのは比喩表現だから」
鳥谷は落ち着いた様子でそう答えると、一枚の資料を指差した。
「……ウイルスの編集?」
「私が前の勤め先で研究していた事だよ。このデータを渡したんだ」
託が大きく印刷されたタイトルを読み上げると、それに呼応して鳥谷が先程の賄賂という言葉の意味を答えた。
「内在性ウイルスといってね、人間の遺伝情報にはウイルス由来とされている配列が存在するんだ。そこに着目して、人類の進化を促進するようなウイルスを作成、人に吸収させて内在性ウイルスとして遺伝情報に組み込む。そうする事でより健康的な生活を送れる未来を創るのが目的の研究だよ」
鳥谷はより詳しく説明した後に、懐かしそうに資料の文面に指を這わせる。
「結構いい所まで進められたと思うんだけどね、途中で資金が尽きて無期限の一時休止が告げられたんだ。それで休止中に色々あって、半ば不当解雇ながらも追い出されてしまった」
「で、その仕返しに資料を丸々持ち去ったと」
「まあそうなんだけど……よく分かったね」
「そりゃ、笑ってるので。鳥谷さんが」
前の場所を辞める話をしている鳥谷は笑っていて、託からすれば悪い記憶とは思っていないように感じた。であればそれ以上に何か良い事でもあったのだろうと、そしてそれは恐らく資料持ち去りの件だと、容易に想像できた。
「ふむ、私もまだまだだね」
「一体何を目指しているのか問いたいですが、それより優先すべき事がありますので。……その資料、少し覗いてもいいですか?」
託は強引に話を戻し、鳥谷の手にあるウイルス編集の資料の閲覧を要求する。
「勿論、ここにある資料は全部見ていいよ。少し難しいかもだけど」
「その時は説明お願いします」
一言だけ頼みを入れておいて、託は鳥谷から彼の研究資料を借りる。
とはいえ託は専門家でもなければ知識がある訳でもない素人なので、基本書いてあることはぼんやりとしか理解できない。
しかし託はそれを重々承知していて、解決策も立てた上でここにいた。
「鳥谷さん、この研究で悪性のウイルスは作成されましたか?」
「?……まあ、悪性ウイルスを編集していたから、一割くらいは出たよ」
「その中に元のウイルスより強力なモノは?」
「ちょっと待て、まさか私達の研究に君の探しているウイルスがあると思っているのかい?」
「質問に答えて下さい。この方法で調べるのが一番効果的だと思うので」
「……二度あった。一度目は処理した事を確認出来たが、二度目は私がメンバーから外されて解雇されるまでの間の出来事だったから新種のウイルスが出たとしか知らない」
「メンバーから外されたのは計画休止後だったのでは?」
「そうだが事後処理……後片付けで見つかったんだ」
「なるほど、それなら辻褄も合いますね。それで次は……」
鳥谷がどれだけ訝しげな表情を浮かべても託は目もくれず、淡々と質問し続ける。途中からは鳥谷も諦めたのか、特にこれといった表情の変化も見せずに答えるようになった。
「一旦最後の質問にします。いかなるウイルスも破壊する事が出来る薬は作れますか?」
「……まさか、作れと言うのかな?」
「はい、可能なら」
託はようやく資料から目を離し、鳥谷と目を合わせて答えた。
しかしここまでノーと言わなかった鳥谷が、ここにきて溜息と共に首を振った。
「託君、そんな薬を投与したら逆に体がボロボロになる。破壊する薬は作れるが、ウイルスだけとなると不可能だ」
「そうですか。それなら相殺する事は?」
「……ちゃんと資料を読んでいたみたいだね。質問ばかりだったから疑っていたよ」
あまりにも落ち着き払った託の問いに、鳥谷は驚きのあまりか拍手を送った。
「一度目の悪性ウイルスの処理で、別のウイルスを使って相殺したらしいですね」
「そうだね。だがそれも難しい。もう一種類のウイルスを使っている時点で体内の免疫が仕事をするから未知のウイルスの方が有利だし、それに……」
一度呼吸を置いてから、鳥谷はもう一度口を開く。
「症状が出ないという事は免疫力を抑制する効果がある可能性があり、その場合新たに投入したウイルスが免疫も巻き添えにするかもしれないんだ。対ウイルスとはいえ、ウイルスである事には変わりないからね。それが呼び起こす結果は……分かるね?」
鳥谷が鋭い眼差しで問うと、託もその危険性は理解できるのか、生唾を飲み込んで頷いた。
「だから単純に薬しかないんだけど……人の体内から採取したウイルスだと少なすぎる。もっと濃度の高いサンプルが必要になる」
「……そのサンプルが存在する保証は?」
「無いよ」
無慈悲だが、当然の答えだろう。託は自身の髪を掻き乱しながら資料を読み直す。
「…………休憩しましょう」
行き詰まったので一度リフレッシュしようと、託は買ってきた麦茶を飲む。
託が中身を半分程飲み干した辺りで、それを静観していた鳥谷が口を開いた。
「そういえば第一にウイルスを特定出来ていなかったね。血液を採取してきてくれないかな?」
「……理由を伺っても?」
人体から採取したウイルスでは少な過ぎると話したばかりだと言うのに、鳥谷の頼みは矛盾している。
そして血液採取という事は必然と注射を必要とする。目的が明らかでない限り、託は蓮音を傷付ける事はお断りの姿勢だ。
「助けたいなら、駄目元でもやってみるべきだろう?」
「ちゃんとバレてましたね。そういう事なら、やってみます」
鳥谷の言葉は感染者……すなわち蓮音の生存を言い当てるものであり、託はあっさりとその言葉を肯定した。
「ちなみに、どうして本人がいないんだい?そしてどうして君は一ヶ月後に感染者が亡くなる事を知っているのかな?」
鳥谷は問いただしながら今までに無い程冷たい笑みで託を見据える。しかし、託からは一切の動揺が見られない。
「……話していない事自体が答えですよ」
託は自身が二度目の時を歩んでいる事と、蓮音の存在以外のほぼ全てを話しているため、隠していたその部分が見つかるのは時間の問題だと分かっていた。
そしてそれが鳥谷にバレた時、こうして探られる事も、託はおおかた予想していた。
それすら分かっていても話さないのは、何としてでも隠し通すという託の覚悟の表れだった。
「……君も中々難しいね。ただこれだけは教えてほしい。何歳の人間から血液を採取する事になるんだい?」
「それを知って、どうするんですか?」
「君は話したくない事は徹底して避けようとするね……。まあ答えると、君にこれを渡すからだよ」
一瞬呆れたような表情を見せた鳥谷だったが、鞄から錠剤の入った瓶を取り出した。
「それは……睡眠薬ですか?」
「そう、採取時にこれで寝かせておけば起きる事がないからね。ただし同時にそれくらい効果が強いから、誤った量を服用させると体に害を及ぼすんだ」
「だから年齢が知りたいと」
託の言葉に鳥谷は頷き、瓶から錠剤を数粒取り出す。
「基本的に十二歳以下なら一錠、十八以下なら二錠、そこから四十辺りまでは三錠、四十以上は健康状態で変える必要がある」
「それなら二錠です。体重も平均程度でしょうし、特に考慮する必要も無いと思います」
正確な年齢は答えず、最低限必要な情報だけを伝える。鳥谷も託のスタンスに理解を示したのか、何も言わずに取り出した錠剤から二錠だけを小さな袋に入れた。
(チャンスは一回って事かね。まあ間違えて大量に飲ませるよりマシか)
「水かお茶に混ぜて飲ませることをお勧めするよ。他の飲み物だと異変に気付かれるかもだからね」
「分かりました。受け渡しはいつにしますか?」
「私がそっちに赴くとしよう。託君の都合で決めて良いよ」
「では今週中、多分明後日になりますけど、夜に駅で受け渡します」
「金曜か……土日は何か予定があるんだね。ならそうしよう」
互いに無駄な事は話さず、淡々としながらもスムーズに予定を組み終える。
「それじゃあ、残りの時間でする事は分かるね?」
「採血の練習ですよね」
「正解。被検体は私と君の体だけど、異論はあるかな?」
「ありません。この話になった時点で覚悟していた事です」
これから何度も自分の身に針を刺すというのに、託は全く恐怖を見せない。
「そうか、なら早速取り掛かろう。少し待っててね」
「はい」
練習のための道具を用意しに鳥谷が部屋を出ると、託は机の上で散らかっている資料を一箇所にまとめ始める。幸い複数枚からなる資料はホチキスで止められていたので、資料が混ざる事はない。
(昨日の今日でこんなに沢山……どうしてこんなに向き合ってくれるんだろう)
集めきってかなりの厚みになった紙の山を前にして、いかに鳥谷が本気なのかが読み取れ、その熱意に託は感謝を通り越して困惑する。
利害の一致もあるのだろうが、ここまで協力的なのには更に裏があるのではと探ってしまう。信頼はしていても、信用出来ていないようにも思える。
(……いや、仮に真意が別の所にあったとしても、俺は蓮音を助けれるならそれで良い)
命を捧げろだとかの無茶苦茶な要求でもなければ、いくらでも言う事を聞ける自信が託にはある。それだけ、この先訪れる運命を覆す事は託にとって大きな恩なのだ。
(切り替えよう。傷が多いと蓮音にバレかねないから、絶対失敗しないくらいの意気で取り組まないと)
一度深呼吸をして、目の前の事以外の雑念を振り払う。
扉が開く音がしたのは、丁度その時だった。
「さて、心の準備も終わったようだし、早速始めよう……と言いたい所だけど、場所を変えようか」
注射器が入っているであろう革製の鞄を持った鳥谷は、部屋を見回してから託に提案する。
「え?他の人に見つかるとまずいのでは?」
「いや、この中にある注射器は私の物だから問題無いよ。それに元々今日は午後から有休を取ってたからね。サボりにはならないよ」
鳥谷曰く注射器の所持自体は大丈夫であり、時計を確認すれば既に午後一時を回っていたので時間的にも問題無い。
「でもわざわざ場所を変える必要は無いでしょう?外からも見えませんし……」
「なるべくこの部屋を血で染めたくないからね」
首を傾げた託に対し、鳥谷は苦笑交じりに誤解を生みそうな言葉で答えた。
とはいえ意味は分かったので、託は自身の手首に指を当ててそこに注射を打った場合を想像してみて、途中で止めた。
「確かに移動した方が良いですね……けれどもどこへ行けば良いんですか?」
「それじゃあ私の車にしないかい?」
鳥谷の提案を聞くや否や、託は困惑したような表情を浮かべる。
「迎えに来て頂いた時はバス使いませんでしたっけ?」
「気分転換だよ。特に深い意味は無い」
「えぇ……」
あまりにもあっさりとした答えに、託は逆に困惑の色を強めた。
「……まあ、分かるよ」
鳥谷は複雑な理由でもあるかのような言葉を残して、部屋を後にした。託もそれに続いて部屋を出た。
そして現在、駐車された鳥谷の車……の中を覗いて託は納得した。
「滅茶苦茶……散らかってますね」
「昨日まで人が来るとは思ってなかったからこっちに手が回らなかったんだ。なんせウイルス関連の資料を出来る限り沢山調達してくれなんて言われたからね」
「うっ……それは本当にありがとうございます」
本当なら普段から車内を清掃していない鳥谷が悪いので託の言葉は真っ当なものだが、それ以外の事に手を回してくれていたと考えるとあまり言及出来なかった。
「車を使うような事にならなければ良かったんだけどね」
「いや駄目でしょう。運転中に後ろから物が飛んできますよ?」
車の後部座席には大小様々な物が積み上げられており、見てる方もひやひやするくらいである。
「助手席にあった物を移したからね。代わりにちゃんと二人座れるから大丈夫。ほら乗って」
「……分かりました」
託が渋々助手席に乗り込んだ後、鳥谷から注射器を一本、膝の上に置かれた。
「始めようか。と言っても実践より説明の方が長いよ。むやみに血を抜いたら危険だからね」
運転席で淡白な笑みを浮かべる鳥谷の言葉に、託はゆっくり、深く頷いた。
そして一月の早い日没まで、車の中での危険な指導は続いた。
◇
「綺麗に血管に刺せるようになったね。五本で出来るようになったから自信持っていいよ」
「そんなにすごいんですか?」
「多分ね。私は一本目で成功させたけど」
「自慢したかっただけでは?」
駅まで送ってくれるという鳥谷の車で、やれる事をやり切った二人は雑談を交わしていた。
「うーん……意外と飛んでこないものだね」
「後ろの物ですか?正直運が良いだけだと思いますけど」
先程から停止を発進をする度に後ろの積み荷が揺れて、託はいつ自分に襲い掛かってくるのかという恐怖すら感じていた。
「車に乗せるような事にならなければね」
「また言いますか?駄目ですよ」
「駄目なんだろうけど、言葉の意味が違うよ」
鳥谷に半分否定されて、託は困りながらも首を傾げて思考する。
暫くして、鳥谷の示す本当の言葉の意味を理解した。
「俺が鳥谷さんの車の存在を認知していなければ、車内は綺麗だったという事ですか?」
「いや、まず車すら無かった事になるよ。と言っても、託君の意識の中でだけどね」
託は鳥谷と最初に会った電車での話を思い出す。鳥谷は『全ての事象はそれを五感のどれかで感じる自分がいて初めて成立する』と言っていた。
「やっぱり駄目じゃないですか」
「君が私の車の存在を認知していなければ、そこに車は存在していない事になって、今みたいに駄目と言われる事はなかったよ」
「もう五感で感じたので、駄目ですね」
頑なに自分の意見を変えずに駄目出しをしていると、鳥谷はそれが滑稽に思えたのかクスクスと笑っていた。
「君のその頑固さは長所として働いているね。きっとこれからも役立つよ」
「そうだと良いですけどね。……?」
託は何の考えも無く答えたが、鳥谷が少し心配そうな表情を浮かべているのを見て一度言葉の意味を考え直す。
「……タイムアップだよ。駅に着いた」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
託が深くお辞儀をすると、鳥谷は託の肩に手を置いて口を開いた。
「君は頑固だ。自分の信念を曲げない。これからも頑なに進み続けてほしい。その頑固さがきっと君を助けてくれる。それじゃあ、また会おう」
「……はい、ありがとうございました」
鳥谷の手が離れても託は頭を下げたまま、彼の姿を見ることなくもう一度お礼を言葉にした。
(……帰ろう)
託は暫くしてから、一月という事もあってまだ大した時間でもないのに暗い空を眺めながら、心の中でそう呟いて駅の改札へ向かった。