二生目 計画、交渉、実行
一月三十一日、橘花蓮音は死亡する。二回目である神風託は最初にそう仮定した。
スタートは蓮音の未知のウイルス感染が発覚した一月二日から、タイムリミットはおおよそ三十日。
「最初にやるべき事はウイルスの特定だけど……多分これが一番の難題かもな」
ウイルスの正体が不明である以上、薬が完成するのを待つしかないようにも思える。しかし託の考えは違った。
(正体不明とはいえ、薬だけが治療の鍵とは限らない。肝炎ウイルスみたいに特定の臓器に限られるなら移植の可能性がある。それに同じウイルスの前例があれば救える可能性が上がる筈)
託は最初にパソコンを開き、過去の事例や資料を読み漁る判断をした。
「新しいウイルスの発見は南極の凍土の中からが多いけど……ここ十数年で人体に害のあるウイルスの発見報告は無しか。ならもっと前に発見されたウイルス?だとしたら感染の事例がある筈……」
データも文献も無限にある。ネットで調べれば何万件とヒットする。
そこから有用な資料を厳選して、治療の糸口を見つける作業。
本当にそんな資料があるのかすら怪しい中で、延々とマウスを動かし続ける。
それ以外に出来る事も無いからと、託は必死にネットを漁った。
一時間、二時間と、異常な程の集中力でパソコンに噛み付いている間に、とうとう十二時間が過ぎた。
朝八時から始まり、飲まず食わずで夜八時になった。
(収穫は殆ど無し……まあそうだよな。前例があるならニュースにでも取り上げられるだろうし、前例があったならそれはもう正体不明とは言い難いもんな)
恐らく、蓮音が患った病は彼女が最初の発病者だ。資料があるとは思えない。
(……ああクソ、空腹で集中出来ない。一旦飯にしないとだな)
空腹感が疲労感と共に押し寄せて、託は溜息混じりに席を立った。
(さっさと食べれる物の方が良いな。冷凍食品でも食べよう)
託はそう考えて、冷凍庫から電子レンジで温めるだけのパスタを取り出した。
(明日からは蓮音が家に来る。どうにか回避しないと、タイムリミットまでに間に合わない。無難なのは用事があるからと外に出る事だけど……それだと家のパソコンを使えないから効率に支障が出る。次のステップにはもう少し時間が掛かるから、明日だけでも家にいたい。あまり気は進まないけど……明日は蓮音を家に帰そう。まずは理由から……)
食事の間も頭を休める事はせず、託は明日からの計画を立て始める。
何かヒントがないかと蓮音の手帳を開くと、一つの言葉が託の目に留まった。
(何事も無かったかのように振る舞って……か。これなら……)
「……取り敢えずご馳走様。さてと、もう少し頑張ろう」
長考に耽っている間に皿が空になっていた事に気付き、託は料理と食事の跡を片付けてから早足で部屋に戻って行った。
と言ってもこの日はひたすら資料を探す事にしていたので、食事前と変わらずただ無心にマウスを動かし続けた。
深夜三時を回った時、六時間以上経過していたと託自身が気付いてようやく布団に入る。
起きたら全部夢になってないかと恐怖を覚えつつも、睡魔には抗えずに長い長い一日が終わった。
◇
翌日午前六時、まだ陽も登っていない暗い時間に託は目を覚ました。
(日付は……一月三日。夢じゃないんだな)
恐れていた事が現実にならずに済み、託は安堵で胸を撫で下ろしたが、すぐに冷静になって次の事を考える。
(蓮音はいつも八時に来ていた。今日も例外なくそうだった筈。それで俺はいつも蓮音に起こされていた……なんだか懐かしいな、大して時間が経った訳でもないのに)
完全に目が覚めてはいるものの、寝たふりをしないといけない事を自覚した託は布団にくるまった。
顔まで完全に隠した状態でまぶたを閉じれば、長い黒髪を乱して笑う少女の姿が映る。
(蓮音……大丈夫、絶対助けるから)
奇跡としか言いようのない、もう二度と会えないと思った大切な人にもう一度出会える。その事実に対して託はなんとも言えない高揚感を覚える。
同時に自身の目的を見失わないよう、何度も護るべき人の名前を心の中で呼んだ。
(……少し、眠くなってきたな……)
目が覚めたとはいえ三時間しか寝ていない。再来した睡魔が緩やかに託を誘う。
(まあ、目的さえ忘れなければ…………)
そう思ってもう一度睡眠を取ろうとしたその時だった。
「託ー、起きてるー?」
窓が開く音と共に、聞き慣れていながらも懐かしい声が聞こえてきた。
託は飛び起きてその声の主を確認したい本心を抑え込み、布団が剥がされるのをじっと待つ。
「もう、休日でも朝はちゃんと起きた方が良いって何回言ったら分かるかなー?」
(お前は母親かよ)
休日の朝に数えきれない程繰り返したその掛け合いも、懐かしく感じて託の目からは涙が出そうになる。
「……こんなふざけた事も、もう言えなくなるのかな……?」
弱々しく紡がれた言葉に託の胸がチクリと痛む。
まるで死ぬ前の人の心を盗み聞きしているようで、罪悪感と共感性の苦痛が託の心に響いた。
「……ううん、私なら多分大丈夫。って事で……託、そろそろ起きろー!」
「うっ……寒」
布団を奪い取られ急な冷気が体を襲い、演技と関係のない本音が出てきた。
「もー、休日でもちゃんとした時間に起きないと損だよー?」
「……何回も聞いた。お前は俺の母親か」
「母親じゃないけど、姉かも?」
今まで通りテンプレートを返し、軽口で返されようやく託は体を起こす。
目の前に映ったのは長い黒髪の、再会を心の底から願った相手、立花蓮音。
その事実に、託はただただ涙を堪えた。今泣いてしまえば、怪しまれてしまうから。
(あぁ蓮音……また会えた……)
本当なら、今この瞬間に蓮音を抱き締めたい。託には相思相愛であるという絶対の確証がある故、許される事も分かっていた。
それでも今はやはり我慢して、静かな託を不思議そうに見ている蓮音と真剣な表情で向き合う。
「……蓮音、なんか顔色悪いぞ?」
「え、そう……かな?」
「うん、風邪でも引いてるんじゃないか?」
本当は、普段と殆ど見分けがつかない程いつも通りだ。
しかし蓮音は昨日、自身に掛かっているウイルスの存在を知った。気に病んでいる今なら騙せるだろうと託は踏んだ。
「……確かに、ちょっと風邪気味かも。でも大丈夫だから、遊ばない?」
蓮音は彼女らしくなく気丈に振る舞い、大丈夫だと託にアピールする。
「駄目だよ。ちゃんと病院行って安静にして、遊ぶのはまた今度。な?」
「……はーい。でもすぐ治るから、また明日!」
「え、明日?ちょっ、蓮音……」
納得してくれたかと思いきや、一方的に約束を取り付けて蓮音は出ていってしまった。
(……今はやるべき事に集中しよう。明日は置き手紙でも書いておけば大丈夫だろう)
託は彼女を追うような事はせず、自身の目的を優先してパソコンを起動した。
(データとして存在しないのは分かった。なら大きなグループに手当たり次第連絡をする方が効率的だ)
パソコンで病院グループの電話番号を調べ、スマホでコンタクトを取り始める。
「……もしもし、そちらの病院グループの細菌学担当職員に掛け合って頂きたいのですが……」
◇
一体どれだけ電話を掛けたのか、ネット検索で出てくる連絡先に電話しきった昼過ぎ頃に、託はベッドに倒れ込んだ。
「数時間掛け続けて三件……しかも内二つは一泊しないと帰って来れないときた」
数十の内三。その数字が表すように、託の言葉をまともに受け止めてくれたグループは少なかった。
ある所では悪戯だと思われ、ある所では講演会の案内をされ、とにかく散々だった。
(真面目な話だっていうのに……はぁ)
先入観なのか何なのか知らないが怠惰である事に違いないだろうと、託は電話先の声に対して恨みの念も込めて溜息を吐いた。
「……むしろ三グループも訪問許可が出たんだ。ポジティブに捉えておこう」
不幸中の幸いか、ぜひ話したいと答えた三グループはどこも小さくない。託にとってはそれだけでも収穫だった。
(うーん……金が必要になるよな。日雇いバイト入れて、なるべく貯めとかないと)
託にとってこの一月は二度目、本来であれば蓮音が病気を患っている事など知らないものの、一度同じ時を経験しているので把握している。
しかしその事を、託が同じ時を繰り返している事を、知っている人はいない。そこが問題なのだ。
訪問するのは三箇所、内二箇所は日帰りが難しい場所にある。宿泊するのはほぼ確定だろう。
そうなると絶対に必要になるのが金、それも周囲を頼れないとしたら自分の金だけが頼りになる。
(忙しくなりそうだな。親からの許可が出ているだけマシだけど)
バイトも、給料の利用の自由も許されているため、行動は制限されないのが本当に幸運だったと、託は安堵した。
「予定を組もう。今ある金なら日帰りは出来るし、明日にでも行こう。他二箇所は放課後にバイトして土日で訪問するしかないか。少しでも資金を抑えるために新幹線を使うべきか?それと……」
メモを取り出して計画を箇条書きしていく。出来る限り綿密に計画を立て、教えてもらった連絡先に日程の交渉をする。平日は日雇いバイトを詰め、資金繰りも企てる。
その他諸々、全て終わらせ気付いた時には、陽は完全に沈みきって夜になっていた。
「ふうぅ~……ようやく組み終わった。けどまさか半月掛かるとは……」
金ばかりはどうしようもない事もあるが、託にとって理想的とは言い難い結果だった。
(薄々気付いていたとはいえ、やっぱり複雑だな)
蓮音の病気を治すチャンスができた嬉しさより、そこまでに四週間の内二週間を要する事への焦燥感が大きかった。
(それでもやらないと。俺が死んででも蓮音だけは……)
死んででもだなんて言葉だけなら簡単だと思うが、形だけでも覚悟しないと託は割と絶望的な現状を受け入れられなかった。
「冬休みは明日までか。明日の訪問で少しでも近付ければ……」
仰向けになって手を伸ばせば空を掴んだが、託には確かな手応えがあった。それが希望という名の、神の御手なのか単なる偶像の手なのか、今は分からない。
(明日は早い。蓮音には置き手紙で伝える事になるけど……明後日までに言い訳を考えておこう)
言及してくるであろう蓮音を欺くための嘘を考えながら、託は早々に意識を飛ばした。
◇
早朝、出掛ける準備も整った状態の託は窓から隣の家を覗く。
カーテンは開いているが、隣の部屋は窓際にベッドがあるので寝ている人の姿は丁度見えない。
「……行ってきます」
それでもお構いなしに呟き、置き手紙を残して託は部屋を出た。
見送る人はいない。いなくていいのだ。
寂しそうに微笑み、これから奇跡だけを頼りに奔走する彼の最初の一歩に手を振る人は、必要なかった。
(目的地までは電車で四時間と更にバスで三十分……遠いとはいえ観光目的じゃない時点で日帰り圏内だな。話す時間はそれなりに用意してくれているらしいし、一発で当たらなくともかなり近付けるかもしれない)
不安が無い訳ではなくとも、大きな期待を寄せてまだ人気の少ない道を駅に向かって進む。
その片手には、共にタイムリープした手帳を持っていた。
(俺の周りの物が一緒に時間を遡ったとすれば、この手帳がある時点で俺は直前の服装のまま目を覚ますのが道理の筈だ。けどそうじゃなかったって事は、こいつにヒントがあるかもしれない)
目覚めた一月二日に存在してはいけないもの、それは託の記憶とこの手帳の存在。この二つだけがイレギュラーであり、それが偶然じゃないのであれば手帳に何か隠されていると託は予想した。
今日この手帳を持ってきたのは、長い移動時間でもう一度細かく読み込む事が一番の理由、もう一つは蓮音に手帳を発見される事を回避するためである。
電車に乗って、ここからは二時間で乗り換えまた二時間で到着する駅からバスに乗って三十分。手帳を読み切るには十分な時間だろう。
(読み返すなら一月からか……いや、時間が余るだろうしもう少し後ろから読んでみよう)
託が手帳を適当に開けば、蓮音の思い出が幾つも綴られている。
(中学の修学旅行か……懐かしいな、蓮音はこういう催し事でもいつも一緒だったな)
むしろ隣にいない事の方がない事に気付いた託は、電車に一人で乗っている現状を少し寂しく思った。
『一月一日、二人で年越しをしたけど、年中行事に興味が無い託を起こし続けるのは大変だった。本当は初詣も行きたかったけど、今年も一緒にいる事を条件に許してあげた』
その文章を見た託は、久しぶりに口角を上げて笑った。
(お前は俺の主人か何かかよ。確かに初詣は眠気が凄くて断ったけど!)
ここでは数日前の話だが、託からすれば一ヶ月前の事。日記を読まない限り思い出せなかった筈だ。
(今年も一緒だなんて言いつつ、当分まともに遊べないのは……申し訳ないな)
幸いにもその罪悪感をあまり感じないのは、曲がりなりにも蓮音のためだと託自身が思っているからだろう。
(沢山遊んで、大切にしよう、蓮音の病気が治った時には)
託は微笑んで、一月一日のページを閉じた。
(……今頃怒っているかな、なんで何も言わずに出掛けるんだって)
中学生の頃一度、日頃の感謝も込めて蓮音に誕生日プレゼントを渡そうと企てた事がある。託はその時蓮音に内緒で外出したのだが、帰ると蓮音が怒っていたのを鮮明に覚えている。プレゼントのためだと答えると、泣きながら謝ってきた事も然りだ。
(懐かしいな、どんな物を渡せば良いのか分からなくって取り敢えず色々買ってたな。財布から始まりキーケースにマグカップ……ぬいぐるみは流石に驚かれたっけ。買い過ぎて来年以降は気持ちだけで良いって、結局怒られたよな)
あの頃の事は書かれているだろうかとページをめくっていると、一番最初のページに辿り着いた。
『初めて託が誕生日プレゼントを買って帰ってきた。最初は託が私の誕生日を覚えている訳ないと思って、いつもと変わらず怒った。すると託は無言で紙袋を渡してきて、早々に宿題を始めたから、なんなんだと思って紙袋の中身を取り出すと託が使うとは思えない可愛い物が沢山入っていた。困惑して誰かに送るのかと聞くと、誕生日プレゼントって一言だけ答えてくれた』
『正直びっくりした。自分の誕生日すら覚えないから、他人の誕生日なんて覚えている訳がないと思っていた。だからすごいびっくりしたし、そうだと知ってから酷い事をしたと気付いて泣きながら謝った。託は優しくって、別にいいよと許してくれた。後になってから買い過ぎだと少し怒った時も申し訳なさそうにしてたから、本当に私には優しいと気付いたし、私がその優しさに甘えていた事にも気付いた。だからこれからはもっと優しく接する事を心掛けようと思う』
記憶の中の蓮音以上に、現実の蓮音は重く受け止めていたらしいし、色んな事に気付いていたらしい。
(俺が蓮音に優しいのは、大体蓮音の方が正しいから頭が上がらないだけなんだけどなぁ……。宿題を始めたのも蓮音にそう怒られたからだけど……この感じは誤解されているんだろうな)
過大評価されている感が否めないながらも、悪い気がしない託はその認識の違いを楽しんだ。
(そういえば蓮音がやけに優しくなったのもこの頃からだったな。最初の方はぎこちなかったけど)
それまでは事あるごとに大声で呼ばれてはお説教を貰っていたが、この誕生日の頃を境に態度が柔らかくなったのを託は覚えている。
(だらける事を教えてしまったが故に、蓮音の方が部屋を汚すようになってたりしたな。流石に汚し過ぎだって、立場逆転で俺が注意した事もあったな)
実を言うと蓮音にゲームを教えたのも託だったが、託にとってあれは黒歴史という扱いになっている。
というのも蓮音がどハマりしてしまい、朝から晩まで二人で遊んでしまったのが原因だ。
(多分今まで抑えていたものが一気に来たんだろうな。元々興味関心は強かったらしいし)
蓮音は昔から自制心が強く、逆にそれが足を引っ張っている。そう感じていた託がゲームを勧めた結果、今まで付けていた枷が全て外れてしまったように遊びまくった。
(それだけなら良い思い出だけど、その後が……)
二人揃って中学三年生なのに丸一日受験勉強に手を付けず、蓮音の母親に一週間のゲーム禁止命令を受け、最終的に戒めとして保存された。
久しぶりに苦い昔話を思い出した託は揺れる天井を仰ぎ、苦笑いを浮かべた。
(蓮音はどう感じてたんだろう。笑う機会も増えてたしあまり悪い気はしていないとは思うけど……)
優しく接する事を決めた蓮音は確かに優しくなったが、その裏で苦悩があったかもしれない。そう感じた託は、閉じかけていた手帳を開き直して次のページに進む。
『優しくすると決めたのは良いけど、中々難しい。我慢しているけどすぐ怒りそうになる。こんなにも短気な私を見放さなかった託の偉大さに気付いた』
『片付けをするようやんわりとお願いすると、託は意外とすんなり受け入れてくれた。やっぱり毎回怒る必要なんて無かった。とは思いつつ、そんなにすぐ動けるなら自発的にやりなさいと言いたい』
『接し方を変えて以来、託の方から来る事が増えた。というのも、私の方から行くと何かしら指摘しちゃうからと訪問する頻度を減らした結果、暇な時間が増えたらしい。それ以来、託は来る度に色んな物事を持ち込むようになった。宿題だったりお菓子だったり本だったり、効率的な体の休め方を持ち込んできたなんて言って二人で昼寝した事もあった』
その文面を見た時、飲んでいたコーヒーが気管に入ってむせた。と言っても電車内なので静かに、託は一人で悶絶した。
(ふ、二人で昼寝って……流石に俺は床で寝たよな?誤解を生みそうな表現は辞めて頂きたい……)
反射的に添い寝という言葉が浮かんできたものの、気管に飲み物が入る地獄を経験した託は一周回って冷静に記憶を掘り起こした。
(流石に中学三年生にもなって二人同じ布団なのは少しなあ……。ああでもほぼ毎日一緒にいるんだし普通なのか?)
幼馴染でお隣さんという最早家族と言っても遜色のない距離で育ってきたので、託にはその辺りの距離感が掴み切れなかった。
とはいえ男子中学生で自室を持っているなら母親とも一緒に寝ないので、異性である時点で普通なら一緒に寝る事は無い。そこだけは蓮音に対する恋情というフィルターが託の思考を邪魔していた。
(ともあれ楽しそうではあるな。良かった)
直接楽しいと書かれている訳ではないが、文章からはストレスを感じなかった。上手く成長した結果と捉えても問題無いと託は判断した。
『今日は託がゲームを持ってきた。初めてやると言ったら託は手取り足取り教えてくれて、すっかりハマってしまって気付いた時には夜になっていた。流石に怒られたし禁止令も出されたので、一週間後からはある程度節度を保ってやる事にした。怒られはしたけど、すごく楽しかった』
一ページ捲った先の最後の文を読んで、託はホッと安堵した。楽しんでくれていたという手応えが事実になり、あの悪しき思い出も少しばかり良い物に変わったのかもしれない。
(ゲームは好きになってくれていたけど、あの事件が嫌な記憶として残されているかもしれなかったし、それは俺としても嫌だったから……良かったぁ……)
一年を超える期間を置いての達成感で心がスッキリした託は、少しばかり余韻に浸ってから真剣な表情になる。
(仮説を立てよう、知識の範囲で。何か分かるかもしれない)
顎に手を当てて、手帳に記されたウイルスの情報を基に多くの疑問に仮の答えを当てはめていく。蓮音はいつ、どこで、どうして感染したのか。なぜ蓮音だけなのか。考える項目は多い。
(まずはどうやってウイルスが体内に入ったのか。人から人には感染しないらしいけど、それなら食べ物から体内に入った線が一番濃厚だよな。けど……それだと本当にどうして蓮音以外の感染者がいないんだって話になる。なら暗殺?いや、国家の要人じゃあるまいしそんな馬鹿げた事あるわけないか……じゃあ他の可能性は……)
挙がっては消えて、また挙がっては消えてを繰り返して、託は苛立ったように髪に指を通して乱暴に乱す。
(クソッ、不明要素が多すぎて辻褄が合わないんだよな。専門家なら分かるかもだけど……心配になってきた)
例えるなら接続詞以外の全てが空白になった穴埋め問題。それほどに難解であり、普通に考えて解ける筈が無い。解けるとしたら、空白に入る言葉を全て暗記しているような、すらわち専門家のような人くらい。一般男子高校生の託は、あまりにも無力だった。
とはいえ託もそれは理解している。だから専門職の人に直接会って聞いてみる事にした。
頭では理解しているつもりだが、タイムリミットがある事による焦燥感が、何も分からないまま思考を止めることを許さなかった。
(仕方ないから次にいこう。どこで感染したかって話だけど……感染する一ヶ月前からの行動で予測できるかも)
託は手帳を捲り、去年の十二月からの蓮音の記録を読み込む。
(ファミレス、本屋、病院……そして九割が俺の家。この中に本当に感染源があるのか?ファミレスも本屋も人はそれなりに入るだろうから蓮音だけ感染の可能性は低いし、病院で感染は意味が分からない。残るのは俺の家だけど……ならこの十六年間どうして全く影響無くて今更感染するんだ?そしてその場合どうして俺は感染していないんだ?)
どこで感染したのかも、どうして感染したのか同様に答えは出ない。手帳には日にちも記入されているので、いつ感染したのかも考えるだけ無駄だろう。
自力での予測を諦めた託はそっと溜息を吐き、手帳は鞄に仕舞ってスマホを取り出した。
(次の駅で乗り換えか……二時間って結構短いな)
集中力が極限まで高くなっていた一昨日と比べれば長いものだが、常に頭を回していた二時間はかなり短かった。
そんな事を考えている間に電車が止まり、託は乗り換えのために降車した。
(次の電車は十分後だけど……向かいに止まっているので間違いなさそうだな)
線路を隔てた先にある電車は先程乗っていたものより古いのか、ボックス式の配置をした椅子が窓から見えた。
アプリで時刻表を確認しても間違いないので、席に座れるうちに乗車しようと託はやや急ぎ足でホーム同士を繋ぐ橋を渡る。
その途中、スマホから着信音が鳴り、託は一旦足を止める。
『案内する前に君を見つけないといけないので、外面的特徴を教えて下さい』
それは今日訪問する医療法人の先生からのメールだった。
『黒いパーカーに、グレーの長ズボンです。到着した際にこちらから連絡します』
託は身に着けている服を伝えて、返信に備えてスマホを持ったまま歩き出して電車に乗った。
階段を降りて乗車するまでの間に着信音が聞こえなかったので、返信は無いだろうという事で託はスマホを仕舞った。
空いている席は無いかと辺りを見渡し、一番近くの誰もいない席に座った。
(意外と空いているな。まあ中心地に行く訳でもない電車ならこんなものなのかね)
託はまだ冬休みとはいえ、世間では三ヶ日が過ぎて平日ムードが漂っている。地方行きに乗る人は少ないのかもしれない。
(この電車で終点まで行って、そこからバスで三十分……バスさえ乗り間違えなければ大丈夫だな)
小さな溜息と共に、託は車窓からまだ昇り切っていない太陽を覗く。
(明日のこの時間には登校しているんだろうけど、乗り気になれないよな……)
学生社会人誰しも抱える憂鬱とはまた別の憂鬱を抱えて、託はもう一度深く溜息を吐いた。
「そんなに溜息ばかりだと、幸せが逃げてしまうよ?」
「……どなたでしょうか?」
誰もいないと思っていた託の向かいに、一人のスーツの男性が座っていた。
淡白な笑みを浮かべて突然話しかけてきた男性に一瞬目を丸くして驚いた託だが、すぐに平静を装って対応した。
「おっと自己紹介を忘れていたね。本日、君とお話をする鳥谷朝日だ。神風託君で間違いないね?」
鋭く、澄まされた黒い眼で託の表情を伺いながら、鳥谷は名刺と共に軽い自己紹介を済ませた。
「間違いありませんが、なぜここにいるんでしょうか?駅で待ち合わせる予定では……」
「確かに先日の連絡でもそう伝えたが、私が個人的に君に興味を持ったのでね。こうして一足早く対面する事にしたのだよ」
何を考えているのか分からない笑みはそのままに、淡々と質問に答える鳥谷に託は軽い寒気を覚えた。
「……そんなに身構えなくても、別に食べようなんて思っていないよ。私は誤解されやすい性格なのでね」
「多分、そういう所が誤解を招くんだと思いますよ」
託が警戒を強めた事を見透かしたかのように弁明した鳥谷に、託は正解の意も込めて溜息混じりに返答した。
「まあ、その通りなんだろうね。それは別にどうでも良くて……この状況、君にはむしろラッキーなんじゃないか?」
「話せる時間が増えるという事ですからね」
落ち着いた表情、落ち着いた声音で返すと、鳥谷は目を丸くして意外そうに託を見つめた。
「もう少し喜ぶかと思ったのだが……」
「色々事情がありまして。時間が増える事自体は嬉しいんですけど、手を上げて喜ぶ事は出来ないです」
「なるほど。今日君が私を訪ねたのも、それと関係があると見た」
見事に言い当てられ、託は首を縦に振った。
その挙動を確認した鳥谷は無機質な、しかし強い関心を持った笑みを浮かべた。
「それじゃあ、話してもらおうかな。その新たなウイルスについて」
鳥谷の言葉を合図に、託は真剣な表情で口を開いた。