三生目 覚悟を決めて
先日、託と蓮音は確かな恋愛関係を手に入れた。今までの特別親しい幼馴染から、ずっと隣に立つに相応しい関係に変わった。
結果から言えば、それは正しい選択だった。それは何十日も過ごした上での、託の感想である。
朝、蓮音が起こしに来る。と言っても彼女自身は悪戯のために来ているのだが、託には侵入する時の音で毎回バレている。それでも泳がしていると、布団に潜り込んだり手を握ったりした後にようやく満足して声を掛ける。
日中、平日なら二人で登校して下校し、放課後は二人で仲睦まじく過ごしている。そして学校でも隣の席という事もあってそれなりにいちゃついている。と言っても休憩時間中に二人きりで会話する時間が増えたり、手の接触が増える程度の慎ましいものである。ちなみに周囲の視線だが、託は最早開き直ってその全てを受け入れてる。
休日なら二人で外出し、日帰り圏内でちょっとした旅行にも行った。学生の分際で旅行レベルの遠出は本来難しいのだが、蓮音の母が『残りの時間、娘には少しでも楽しんでほしい』とかなりの額の資金を託にも恵んでくれたため、大分余裕があった。
夜は逆に、託が蓮音を寝かしつけに行く。朝の蓮音と違って託は悪戯をする気も無く、優しく頭を撫でたりしている。しかし蓮音からすればあまりに物足りず、毎日数十分程引き留めてキスまでしてから帰している。最近では朝もキスしようかと蓮音は悩んでいたりする。
そんな甘い生活の中も、来月には終わる。託はそれを忘れる事無く、むしろ日が経つにつれてより強く意識する。だからこそだろうか、一人になる夜の寝る瞬間以外は普通のカップルを謳歌していた。まるで忘れるように、または忘れさせるように。
そうして時は過ぎ、一月二十八日土曜日早朝。託は普段より少し重いリュックサックを背負って家の前に立っている。
「おまたせー」
適当にスマホをいじっていると、隣の家から同じくリュックサックを背負った蓮音がひょこっと出てきた。
「別にそこまで待ってないよ。それじゃあ、行こうか」
「うん!」
蓮音は朝の割に元気な声で頷いて託の手を取り、軽い足取りで出発する。
彼女が命を落とす前の最後の週末、二人は一泊二日の旅行に出掛ける事になった。秘密裏に蓮音の母に予定を空けてもらったりしての、完全サプライズの形だった。
「ちなみに、あの後ちゃんと寝れたか?」
「んーん。昨日はもう寝るだけだと思ってたところだったから、完全に起きちゃって……あんまり寝れなかったと思う」
泊まり掛けの旅行を告知したのは昨晩の事。蓮音の方の準備は彼女の母がやってくれていたので、託はギリギリまで引き付けての就寝三十分程前に告げたのだが、あまりに蓮音が喜んでいたので目が覚めてしまったのではと案じていた。
そして案の定、蓮音からはその趣旨の言葉が返ってきた。
「移動中は寝てても良いからな?荷物も俺が持つし……」
「それはダメ。ちゃんと自分の荷物は自分で持つよ。それに……託も寝れてないでしょ?」
「うっ」
蓮音の指摘に託が思わず声を漏らす。
実のところ、今日の事が楽しみで熟睡出来なかったのは蓮音だけではなかった。
「私に隠し事は出来ないよ?」
「うぐっ……すみません」
「えへへ、一緒に寝よっか」
本当に悪いと思っているかどうかは別として謝る託に、蓮音は頬を緩めて答えかどうか怪しい答えを口にする。
「乗り過ごしそうで寝れないんだよなぁ……」
「一駅前で起きるから大丈夫!」
蓮音は自信満々な表情で宣言するが、なんとなく信じれない託は寝ないようにしようと思った。
◇
電車を乗り継いでの移動は三時間に渡り、蓮音はその間ずっと寝ていた。そして逆に託は一睡もしていなかった。
そして目的地の一駅前、一周回って眠気が飛んだ託に肩を揺すられ蓮音も目を覚まし、無事に降車して初めて外の景色を目に映した。
「ほ、本当に来ちゃった……」
開口一番、蓮音はまだ信じられないと言わんばかりに目を輝かせて呟く。
「今なら間に合うけど、帰るか?」
「意地悪言わないで!ちゃんと今日明日楽しんでから帰るんだから!」
冗談半分の質問をする託に頬を膨らませて反論する蓮音。眠気も完全に飛んだようで、かなり忙しなくも見える。
「それで、最初はどこに行くの?」
「近くの足湯。その先はまだ決めてない」
託があっさりと無計画を白状すると、蓮音は不満気に眉を曇らして託をじっと見つめる。
「どこ行くか全く聞いてないからな。それで蓮音が楽しめない所行っても微妙だろ」
「だからと言って何も決めてないのはどうなの?」
「失礼な。ちゃんと蓮音が興味ありそうな場所はピックアップしているし、バスの時刻表もメモしている。行こうと思えば大体どこでも迷わず行けるからな?」
託は得意気な笑みを浮かべると、びっしりと文字が埋められたスマホ画面を見せる。よく見ると確かに、十数箇所の観光スポットの情報、下にスクロールすると時刻表が記されていた。
「こ、こんなに沢山……いつ調べてたの?」
「一週間くらい前から蓮音が寝た後とか、食事中とかに毎日少しずつな。結構な労力を使ったぞ」
サプライズだから隠さないといけないという縛りの中では時間に余裕が無く、メモされた情報の質と量以上に大変な作業だったと、託は思い出してまた胃に穴が開きそうになる。
「そういう事だから、これは計画的な無計画であって、まったく問題無い」
「確かに……。決めつけてごめんね、託」
託の説明を聞いて納得したらしく、蓮音は申し訳なさそうな表情で謝罪の言葉を口にする。
「いや、誰だって蓮音と同じように返すだろうし、謝らなくていいよ」
託はどんな反応をされるのか大体を察していたらしく、朗らかな笑みを浮かべながら蓮音の頭を撫でる。
「ん……子供扱いしてない?」
「流石に嫌だったか?」
「そうじゃないけど……ううん、やっぱり嫌なのでやめて下さい」
最初は撫でられる事を恥じらってた蓮音だが、嫌かと聞かれて顔を上げると託の悪戯っぽい笑顔が目に入り、ジト目で頭の上の手を引き剝がす。
「おっと、揶揄おうとしたのがバレた」
「意地悪」
「ごめんって。痛い痛い」
託があっさりと白状するとそれも癪に障ったのか、蓮音は掴んでいた託の腕を思い切りつねった。
「ふぅ、すっきりした。それじゃあ、案内よろしくね?」
「……ま、これでおあいこだしな。分かったよ」
清々しい表情で圧を掛けられ、託は少し間を置いてから諦めて頷くと、地図アプリを使って歩き出した。
小競り合いの後ではあったが、託は僅かに触れた蓮音の手を反射的に握る。
「……えへへ」
驚きより嬉しさが勝った蓮音は痛くない程度に強く握り返し、年齢より子供っぽくはにかんだ。
「ねえ託、足湯の後は海に行きたい」
「よく海が近いって分かったな」
「スマホ覗いたから……だめ?」
「いいや、そうしようか」
◇
「久しぶりの海……だけど、やっぱり寒いね……」
足湯を体験した後、二人は海水浴場に隣接された駅でバスを降りた。外に出た途端に冷気が身を包み、蓮音は体を震わせながら呟く。
「冬だから海水浴なんて夢のまた夢だしな。んで、これからどうしたい?」
「うーん……取り敢えずご飯食べたいな。出来れば海が見える場所で」
少し考えてから蓮音が自身の腹をさすると、呼応するように音が鳴り彼女の頬が赤くなる。朝食もまだなのだから仕方の無い事ではあるのだが、だからと言って恥ずかしくない訳ではないだろう。
「……ぷっ、あははは、せっかくの旅行ならこっちで食べるって話だったもんな。近くに喫茶店があるらしいから、そこで朝食にしようか」
「う、うん……そうする」
託が堪え切れず口を開けて笑うと、蓮音は俯きながら小声で賛成した。
そうと決まればと託は彼女の手を引き、海岸に沿って五分程歩いた所の喫茶店に入る。
「蓮音は何食べる?」
「うーん、一応あんまり沢山は食べないつもりだけど……」
「足りるか?」
「た、足りるもん!私そんなに食太くないし……!」
蓮音が拗ねたような表情で反論する。ただ託があまりに面白可笑しく揶揄うので、蓮音としては強く抗議したいのが本音だ。もっとも、静かな喫茶店でそれは難しいだろうが。
「ふーん……ま、蓮音がそれで良いなら。んで、何食べるんだ?」
「……これ」
「おーけー。先にどこか座っててくれるか?」
「はーい」
託が腹の音から派生した会話を適当に終わらせて普段通りの態度で注文を聞くと、蓮音はまだ不満を残しているような素っ気ない態度でタマゴサンドを指差した。次の頼み事にも周囲からは普通に見えても、託から見たら確かな反抗の意思が見えた。
(少しライン越えだったかな。ちゃんと謝っておかないと)
託は蓮音の背中を眺めて反省しながら、向き直って注文画面を操作する。蓮音のリクエストしたタマゴサンドと、託の朝食。後は独断で選んだ飲み物。決して安くはなかったが、資金には余裕があるので躊躇もなかった。
支払いを済ませて番号札を貰い、蓮音の座る席を探すが中々見つからない。理由は単純で、彼女の取った席は柱の裏だったから。
十中八九わざとだろうと託は微かな不満を感じたが、仕返しだろうと甘んじて受け入れて、席に向かうと蓮音の前に座る。
「はい、お水」
「ん?ああ、ありがとう……」
託が完全に着席したのを確認して、蓮音は本当に水の入ったコップを渡す。託は少なくともあっちから話し掛けてくる事はないだろうと思っていたため、ワンテンポ遅れてそのコップを受け取る。
「えっと、ごめんね。ちょっとムキになり過ぎちゃった」
「い、いや、こっちこそごめん。食べ物関連はまずかったよな」
更に予想外に、蓮音が託より先にしゅんとした表情で謝った。託もその姿を見て慌てて謝るが、お互い軽く頭を下げた状態で微妙に気まずい雰囲気が流れる。
「……切り替えよっか」
「まあ、この状態は良くないもんな」
先に蓮音が呼び掛けて、それに応じて託も頭を上げる。しかし切り替えたところですぐに話題を振れる訳もなく、再び微妙な沈黙が訪れた。
「……なあ蓮音、次はどこ行きたい?」
「う、うーん……何があったっけ?メモ見せてもらってもいい?」
「ああ、ちょっと待ってて……」
次は託が均衡を破り、蓮音に次の予定を尋ねる。蓮音もこれ幸いにと話に乗っかった。
振った話題が良かったのもあり、先程までの気まずさは払拭されてそこそこ盛り上がる。そうして話している間に持ってきた札の番号が呼ばれて託が二人の朝食を持ってきた。
「はい、タマゴサンドとオレンジジュース」
「ジュースまでありがとう。託は……カレー?」
蓮音は自分の朝食を受け取るタイミングで託の頼んだであろうもう一品を覗く。そこにはどちらかと言うと昼食サイズの、普通ではあるが朝食にしてはボリュームのあるカレーライスがあった。
「託ってそんなに大食いだったっけ?」
「いや、何なら小食な方だな」
「じゃあ食べ切れないんじゃない?それ」
「うん、無理かも」
「えぇ……」
蓮音の質問に即答で完食不可能を宣言する託。蓮音は困惑の声を息と共に吐き出した。
「頼む蓮音、手伝ってくれないか?」
「え?」
託は体の前で手を合わせて蓮音に懇願する。突然の事に蓮音が驚きの声を零したのは言うまでもない。
しかしその驚きは徐々に変化して、蓮音から喜びの色を滲み始める。
「ま、まあ……タマゴサンド食べきってからだけど、それでも良いなら出来るだけ協力するね!」
「ほっ……ありがとう」
笑顔で応える蓮音に、託は安堵の息を吐いて感謝の言葉を紡ぐ。
(よし、これで蓮音も満腹まで食べれるな)
どうやら安堵したのは蓮音が手伝ってくれる事にではなく、蓮音が腹を満たせる事に対してだったらしい。
実は最初蓮音がメニューを見ていた時、彼女の視線が今ここにあるカレーで止まっていたのを託は見ていた。だから贖罪のつもりでカレーを自分の分と称して買ってきたのだが、先程の反応で答えは一目瞭然だった。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
蓮音が満面の笑みを浮かべて合掌したのに合わせ、託ももう一度手を合わせて食べ物に感謝を述べスプーンを持った。
(……美味いな。俺も腹が減ってない訳ではないし、普通に食べきれるかもだけど……)
託が気付かれないよう蓮音の顔を覗くと、タマゴサンドを美味しそうに食べ進めながらも時々目線がカレーの方に向いているのが分かる。やっぱり全部食べきれるは許されなさそうだった。
気にはなれども自分が起こした災いだからと許容して食べ続ける。
「……ごちそうさま」
託がカレーを半分程食べきった頃、蓮音は一足先にタマゴサンドを完食して合掌する。
「美味しかったか?」
「勿論。託は?」
「普通に美味い」
「そっちじゃなくて、食べきれる?」
蓮音はすぐにスプーンを持たず、完食出来るかどうかを託に尋ねる。
「あー……どうだろ、まだ分かんない」
「そっか、じゃあまだ手伝わない方が良いよね」
もしかしたら満腹になったのではと託が言葉を濁すと、蓮音は少し残念そうに作り笑いを浮かべて引き下がった。
(……もう少し食べたら蓮音に手伝ってもらうか)
すぐに手伝ってもらわないのは、蓮音に自分の表情を見て判断したと考えられて遠慮されるのを避けるためで、託は残り五割の内一割程食べて一旦手を止めた。
「……なあ蓮音、食べるか?」
「え?さっきまでまだ余裕そうだったのに……」
「後から膨れる事あるだろ?だから完食は出来なさそうだなって。そういう事だから、食べてくれないか?」
「あー……」
突然過ぎて疑ってかかる蓮音に、託は用意しておいた言い訳を使い苦しそうな表情を作って懇願する。蓮音もその表情を見て、納得したような声を漏らす。
「じゃあ手伝うけど……流石に二人同時に同じカレーをつつくの良くないと思うから、先に託が食べれるだけ食べてからにするね」
「ん、分かった」
託は蓮音の言葉に頷き、どれくらいまで食べようかと決して残りが多くないカレーを見て思考する。
(取り敢えず、もう一割食べて三割にすればいいかな?)
そう考え、皿の上に残っている四分の一を食べてから、新品のスプーンと一緒に蓮音の前にパスした。蓮音は嬉しそうな笑みを浮かべて残りのカレーをもらうと、やはり足りなかったのかパクパクと食べ進めて数分で空になった。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
「ありがとな蓮音。ちなみに行く場所は決めたか?」
蓮音が幸せそうに満腹だと腹をさするのを横目に、託は感謝の言葉と共に次の予定を尋ねる。
「登山……って言っていいのかな?小高い山の上に展望台があるって書いてたから、そこまで行きたいなー」
「分かった。近くに美術館とかもあるけど、どうする?」
「あ、そっちも行きたい!」
「じゃあ夜までそっちになるだろうし、ホテルのチェックインだけ先に済ませよう。この荷物を終日背負うのはきつい」
一泊なので大した荷物ではないのだがそれでもある程度は重いので、託は早く物理的な肩の荷を下ろしたいと伝える。
「確かに。ずっと重い物持って過ごして、夜疲れて寝るだけなのは味気ないもんね……。先にホテル行こっか」
「決まりだな。えっとここからのバスは……」
予定が確定して託が最短ルートを調べ始めた。
◇
「あぁ~、疲れたぁ……」
今日を楽しみ尽くした夜七時。ホテルに戻って部屋に入ると、蓮音が広々とした畳の上に倒れ込んだ。
「そこそこ歩いたからな。帰りは一時間くらい海岸線を歩いたし」
「でも楽しかったね。冬だから温まって丁度良くて、日没が早いから夜景も見れた。しかも晩御飯は良いお店の海鮮盛り合わせ、ここも地上十階露天風呂付きのすごく良いお部屋で、こんなに贅沢しちゃって良いのかって感じ」
蓮音は気楽に語るが、託は水を差しそうで口を噤む。それはきっと、これだけ贅沢出来る理由に蓮音の死が関係しているからだろう。
「……ねぇ託」
「ん?どうした?」
「んーん、やっぱり何でもない。先にお風呂入っていいよ」
「?……分かった」
何を言おうとしていたのか皆目見当も付かないが、寝転がって足元から見上げてくる蓮音の表情は少し寂しそうに見えた。気にはなるがそれでも詮索するのは野暮だろうと託は彼女の言葉に従い、白地に青い花が落とされた寝巻き浴衣を持って風呂場に向かった。
露天風呂のお湯を張りながら自身はその内にシャワーを浴び、体を洗ってからもう一度外に出ると、既に溢れ出して縁からお湯が溝に流れ落ちていた。
託は軽くお湯を止めてから湯船にゆっくりと体を沈める。温泉を引っ張ってきているからなのか、なんとなく疲労にに効いているような気がするようだ。
(贅沢……か。これから何十年も生きていける事の方がよっぽど贅沢だよ。勿論、蓮音がそうじゃない事は分かっている。蓮音にとってはこれが人生最後の最高の思い出……だと思う。でも、これを贅沢なんて……言わないでほしかったな)
先が長ければ確かにこんな経験は贅沢な事だろう。だが蓮音はそうではない。むしろ残り短い命でこんな人並の贅沢では足りないくらいだ。もし未来があれば、今回の旅行で使った金額など簡単に貯まる。託は、蓮音にこれを贅沢と思ってほしくなかった。普通の幸せだと思ってほしかった。
(まあ冗談かもしれないし、どちらにせよ最期に蓮音が幸せでいてくれれば良いんだ。こんなのは俺の感情なんだから、それが蓮音を邪魔するような事はあるべきじゃない)
鼻まで湯に沈めて、気泡と共に託はエゴという毒を抜く。静かな空間に、ブクブクといった音だけが流れている。
自分の中でそれなりに整理がついた時、まったくリラックス出来ていないのに体は温まり過ぎている事に気付いてゆっくりと立ち上がる。そして段差に座って腰から上を湯船から逃がし、のぼせないよう体を軽く冷やす。
(また蓮音が死んだら、やり直しになるのかな?そしたら今回と同じ事を繰り返すだけだろうけど……もう少し上手く立ち回れたかもな。けどまあ、大きく見てやる事は変わらないよな。最期の瞬間、その直前まで少しでも幸せにしてあげるのが俺の使命だ)
まだ数日残されているが、託はここまでの一ヶ月弱を振り返り次を見る。病気を治す考えはもう捨て去り、少しでも死に対する不安を拭う事を最優先に考ていた。
(……欲を言うなら、一年前からやり直したかったな。一ヶ月だけ生を授かっても、もう二度と春夏秋を過ごす事はない訳だし)
これからもきっと、この冷たい季節だけを過ごすとなる。もう蓮音が生きている春夏秋冬を見れないと考えると、少し寂しい気持ちに肩を掴まれた。
と言ってもこれは託の欲望なので、最終的に忘却してしまう。
(結構冷めたし、もう一回浸かってから……)
『託ー、のぼせてない?大丈夫?』
もう一度入浴しようとしたところ流石に長風呂が過ぎていたのか、すりガラス越しに蓮音の声が響いて聞こえた。
「大丈夫、もう少ししたら出るよ」
『あ、そういうつもりじゃないから、入ってていいよ』
「そうか?じゃあお言葉に甘えて……」
託は湯船に入り直す。冷めないよう少量のお湯を入れ続けていたため十分温かく、今度こそは雑念を払ってリラックスする事にだけ集中する。
その時、脱衣所の方から戸が擦れる音が響いて、次に水溜まりに足を付ける音が響く。
『ねぇ託……一緒に入ってもいい?』
託は屋外にいるので蓮音との間にはもう一枚すりガラスの引き戸があり、鮮明に彼女の姿は見えない。が、ぼかしの掛かった先に、白いバスタオルか何かに身を包んだ立ち姿が見えた。
「そ、それはちょっと……タオルもないし……」
『託の分も持ってるから、それ巻けば大丈夫』
「いや、だからと言って……」
『だめ……かな?』
託はすぐに目を逸らしたので蓮音の姿は見えていないが、声の距離的にも隔てているドアの手前まで来た事を確信する。それはそうと、寂しそうな声で縋られて、断るのは託には不可能らしい。
「……タオル、そこに置いといてほしい。蓮音が体洗っている間に取るから」
『……うん、ありがと』
蓮音は託の指示通りに、引き戸を少し開けてその隙間から白いタオルを放り込み、しばらくしてシャワーからお湯が流れる音が聞こえてきた。
(ふぅ……まさか蓮音がこんな行動に出るなんて……)
これまでも偶にキスする事はあれど、恋人らしい行為の大半はハグか添い寝くらいなもので、今回は完全に虚を突かれた様相である。託は驚愕しつつバスタオルを拾い腰に巻く。
『……タオル巻いた?』
「ん?ああ……巻いたよ」
『そ、それじゃあ……背中洗ってほしいな……』
「……え?」
これには聞き間違いを疑い、託は間を置いてから暗に聞き返す。
『せ、背中、洗って……!』
二度も同じ聞き間違いをする事はありえない。蓮音は確かに、託に背中を洗うようお願いしていた。
「それは……体に触る事になるけど……」
『いいよ……託なら、触ってもいいよ。……だめ?』
「……分かった」
託は基本的に不純なものは嫌いで、これまで理性を捨てかねない行為は行わないよう自粛していた。本来であれば一緒に入浴する時点で待ったを掛けるのだが、大好きな彼女に縋られてはどこまでも断れないようだ。
戸を開き、極力蓮音の姿は見ないようにしつつ、泡立ったタオルを貰い彼女の後ろでしゃがむ。
「……じゃあ、お願いします……!」
「……うん」
蓮音はほんのり頬を赤く染めながら、ゆっくりと身に纏った白衣を外す。長い黒髪は前に持ってきているため、託の目の前には真っ白で隠すものなど何も無い綺麗な肌が開かれている。託は一瞬だけその白く艶やかな背中を視界に入れ、慎重にタオルを当てて優しく擦る。
「ん……もっと強く擦って大丈夫だよ?」
「そんな事言われても、傷を付けそうで出来ない」
本当は託も力弱い事には気付いているのだが、それでも変わらず微弱な力で、背中の中心だけを擦っている。
(だって、変に手を滑らせて事故ったら……堪えられそうにない)
心の中で託は本音を叫んだ。
実の所、同じ空間にいるだけならどんな格好でも視界に入れなければ耐えられる。しかし一度触れてしまえば、理性のタガが緩んで際限無く触れてしまいかねない。それを止める自信を託は持ち合わせていなかった。
「……じゃあせめてもっとしっかり洗ってほしいな。ちゃんと目を開けていれば出来ると思うんだけど」
「ぐっ……分かった。けど、どうなっても知らないからな?」
「最初に言ったじゃん、託なら……いいよ」
(またそんな……はぁ、もう知らないからな……)
警告はしたとして、託はゆっくりと目を開く。そしてそれまでより広く、蓮音の背中全体を泡まみれにする。
「ふあぁ……人にやってもらうのって意外と気持ち良いんだねぇ……」
「俺は気が気じゃないけどな」
緊張もほぐれて心地良さそうな声を上げる蓮音に、ハラハラしながらも真面目に背中を洗う託が野次を入れる。実際は大分慣れてきて心拍もそこそこに落ち着いてきているのだが、変に動かれて事故が起きるのを回避するには丁度良い理由になっていた。
「託もこの後やられてみる?」
「それは断る。こっちも終わり、のぼせない程度にくつろげよ」
「え?私、一緒に入るって言ったよね?」
蓮音が首を傾げながら引き止めると、立ち上がって風呂場を後にしようとする託の体が固まり、軋む音が聞こえそうな動きで振り返る。
「……冗談だよな?」
「んーん、先にお風呂入っててね」
苦し紛れに頬を引きつらせながら聞き直す託に、笑顔の蓮音から無慈悲な言葉が返ってきた。
「……やっぱり駄目ってのは……」
「託が嫌なら出てもいいよ。私は一人で入るから」
「っ……」
最後の言葉は明らかに託に配慮した言葉だった。きっと乗っかっても許されるだろうが、その言葉を放つ蓮音の表情は寂しく、悲しいものだった。
「……先に入ってるけど、のぼせる前に来てくれ」
「え、本当に大丈夫だよ?」
「いいって。俺だって……彼女に一緒に風呂入りたいなんて言われたら嬉しいし……」
恥ずかしいが蓮音が負い目を感じないようにと、託は思った事をそのまま告白する。そして返事を待たずに逃げるように露天風呂の方に逃げた。
「……ふふっ、私も一緒にお風呂は入れて嬉しい。と言うか、託が私を思ってしてくれる事なら全部嬉しいよ」
シャワー室に取り残された蓮音は言葉の通り嬉しそうに微笑み、託には聞こえないように思っている事を呟いた。
一方で託は浴槽に顔まで沈めて、水中で思い切り羞恥を吐き叫ぶ。ちなみに周りに音が漏れる事はなく、傍から見たらただ潜っているだけにしか見えない。
(ま、まあ、バスタオルしてるだろうから……大丈夫だろ……)
そう自分に言い聞かせながら、顔を出すと大きく深呼吸する託。そしてまた体を冷やすために段差を使う。後ろで聞こえるシャワーの音の影響で中々冷えなかったが。
そうやって時間を潰している内にシャワーの音は止まり、引き戸の動く音が後ろで聞こえる。
振り向いて目に映った蓮音は長い黒髪を後頭部で団子にまとめ、バスタオルを巻いて体のラインを抑えている。しかし見えている手足だけでも、水が滴って十分に煽情的だった。
「えへへ、託と一緒にお風呂に入るなんて、一ヶ月前じゃ考えられなかったよね」
「まあ……そうだな」
蓮音がだらしなく頬を緩ませて可愛らしくはにかみ、これは良くないと感じた託はすぐに目を逸らす。
「恋人なんだから、そんな露骨に避けないでほしいなぁ……なんて。横、失礼するね」
「……ん」
託が小さく頷くと蓮音は隣に座り、手を握って肩にもたれ掛かる。すると肌同士が触れ合い、冬の外気で冷たくなった託の体表に熱が移っていく。
「冷たい……託は寒くないの?」
「芯の方が温まってるからな。それを言ったら蓮音の方こそ寒いだろ」
「寒いけど、託がこうしてるから。私は一緒にお風呂入るって言ったから、託がちゃんと肩まで入んないなら私もずっとこうしてるよ?」
蓮音は悪戯な笑みを浮かべながら託に選択を迫る。ただ、入らなければ蓮音が風邪を引きかねないので、実質的には入るの一択である。
「……はいはい。ただし、変な気は起こすなよ?」
「変な気……いつも通りにしてればいいの?」
「まあ、そう思ってくれれば大丈夫だろ」
少なくともこれ以上理性を攻撃してくる行動はないだろうと考え、託は軽く溜息を吐きながら肩まで浸かる位置に移動する。後ろで蓮音が何か思いついたような、小悪魔的な笑みを浮かべている事には気付きそうにない。
「ねぇねぇ、端まで行ったら外の景色が見えたりするのかな?」
「多分見えると思うけど……どうだろうな」
託もしっかりと見ていた訳ではないので、確認しに浴槽の奥へ向かう。
「あー、見えなくはないけど……危ないかもな」
腰を下ろし、肩まで浸かった状態で見えるのは遠方の小さな光で、下の景色を覗くには身を乗り出す必要があった。一応落下防止柵はあるがあくまで子供用で、託や蓮音では無いにも等しいサイズである。
「そっか、空はよく見える?」
「まあ、こっちは暗いし、結構よく見……」
満天の星空を眺めながら蓮音の質問に答えていると、両脇から手が伸びて託の前で繋がる。同時に背中にも柔らかい何かが当たり、自分以外の心臓の音が伝わる。
「本当だ。晴れてて良かったね」
「……」
右肩口から流れた甘い吐息が頬に触れ、呼吸に合わせて鼻に入る。託は唯一自由に動かせる左手を湯船から出し、深い溜息と共に両目を覆った。
「……変な気を起こしたと思ってる?」
「あぁ……当然」
「残念、いつも通り抱き着いているだけでした」
いつもはバスタオル一枚ではないのだが、その反論が思い付く程の余裕はとっくに奪われている。ゆえに託は黙り込むしかなかった。
「……託にも可愛いところはあるんだね」
「……揶揄ってるのか?」
「勿論。いつも余裕そうに振舞っているけど、後手に回るとこんなにも初心なんだなって」
託が怒っているように尋ねても、それが気丈だと気付いている蓮音は悠々と答える。悔しく思いながらも、託に返せる言葉は無い。
「……もう出ていいよ。私も少し浸かったら戻るから」
蓮音は託の反応を確認すると何を思ったのか、少し寂しそうな笑顔を浮かべながらも手を離して託を開放する。突然の事に困惑した託が振り向いてきても、まぶたを閉じてリラックスしているふりをした。
「……分かった」
状況が全く飲み込めない託だったがのぼせる寸前まで火照った体は無視できず、蓮音に取り合う気がないのも相まっておぼつかない足取りでその場を後にした。
(何だったんだよ、あれは……)
託は未だにぼやけている頭で蓮音の行動の意図を探るが、答えが見つかる気配はない。数十秒もすれば諦め、寝巻き浴衣姿で水を飲んだ後に並べて敷かれた布団の上に倒れ込んだ。
(……布団、敷いてくれたんだな)
感謝しないといけないなと思ったが、今は出来そうにない。託本人はその事を一番よく理解して、取り敢えずもう一杯水を飲みにいった。まだ体が熱く、寝るのは無理そうだ。
(…………行ったよね?)
一方の蓮音は、託がシャワー室の戸を閉めた音を聞いてまぶたを開き、水中にある自身の両手を眺める。
(成功しちゃったって事は……私が押し続けたら託は抵抗出来ないんだよね……?)
蓮音も恥ずかしくなかった訳ではない。もし羞恥の心を持っていないのならば、最後に視界を塞いで逃げたりしなかっただろう。証拠に、今はのぼせそうな程に顔が熱く、口元は湯船に沈めて隠している。
(ここまで押しちゃったら、後は倒すだけだよね……。大丈夫、託ならきっと受け止めてくれるから……)
自身の体を抱き締めながら、最後に大量の空気を泡に変え、ゆっくりと立ち上がる。
脱衣所には託の着ていた寝巻き浴衣がもう一着、ただし籠の中に隠された状態で用意してあった。
それに着替えてからドライヤーで髪を乾かし、脱衣所と寝室を隔てている扉の前に立つ。
「すぅ……ふぅー……」
蓮音は息を整えてから、覚悟を決めたようにドアノブを掴んだ。