第三章「それから」
第三章 「それから」
1・Perfume
2・Where are you going?
3・Begin to start
1・Perfume
アパートの近くの、小さな児童公園。母子でにぎわう午前中の時間も過ぎて、小学生の下校前の・午後の早い時間帯なら、誰もいない。
(もっとも、「残暑」とは言えないような熱気も、最高潮に達した昼下り。出歩く人すらまばらだ)。
僕はポツンと一人、日陰のベンチに座って、菓子パンとポテト・チップスを食べていた。
(アパートから見える距離にある、駄菓子屋みたいな雑貨店。そこで買った物だけど…「ポテト・チップスが食べたくなる時は、野菜が足りてないから」が僕の自持論)。
明るい昼間なら、部屋にこもっているより、人々の生活が感じられる屋外の方が、安心できるけど…すっかり落ち着いていられるはずも無い。ソワソワ・キョロキョロと、あたりをうかがいながら、昼メシともオヤツともつかない食事をしていると…
(あまり頻繁に訪れて、皆が労働に勤しんでいる時に、「不審な挙動をして」いると、『不審者注意!』の貼紙でもされかねないけど)。
『?』
ユラユラと陽炎燃えたつ・残暑の陽射しに照らされた、公園の向こう側。「いかにも夏」な、黒いツバ広のレディース・ハットをかぶった、小さな人影がひとつ、現われた。
『たまたま偶然?』
いやいや、こんな偶然なんて、ありっこない。だいたい、まっすぐコチラにむかって、歩いて来る。意図したものだという事は、明白だ。
「なにか用?」
僕の前に現われたのは…大小二匹の犬を連れた、あの女の子。相変わらず、小さい方は愛想が良いけど、大きい方はプイと横を向いて無愛想だ。
(夏のワンコは、暑さに舌を垂らしてハア・ハアしてるものだけど…二匹とも、平然としている)。
「あの、パパに…いえ、父に会っていただけますか?」
いきなり本題!
『え?』
もちろん、求婚の言葉じゃないけど…
「きのうのコト?」
僕が下から見上げるようにして、そう問うと…
「コクン」
女の子は無言でうなずく。でも…
『さて、どうしよう?』
僕は訝しんだ。それも当然だろう。だいたい…
『なんで、この子が知ってるの?』
僕のそんな素振りを見て女の子は…
「だいじょうぶです。わたしたちは…あなたの味方」
そう言われても…何を根拠に、信じたらいいのか?
「あいつらと、戦ってるの」
さらに、そう付け足してくる。
『あいつら?』
何のこと?
『?』
とその時、女の子が入ってきた入口の前に、あのオートバイ。
「ブオン!」
こちらの姿を確認すると、真っ黒いシールドを降ろして、走り去る。
『なるヘソ!』
何が「なるヘソ」なのかは、はっきりしないけど…「納得」な気分にさせるには、それで充分だった。
「わかったよ」
どうやら…
『ハッキリさせとかなくちゃ、いけないようだ』
パンを食べ終えた僕は、袋にゴミを突っ込みながら、立ち上がる。
『運転手つき?』
乗り込んだのは、あの時の黒塗りの高級車だけど…
(さすがに、小学生と無免許の浪人生では、運転は法的にムリ?)。
『相互同時通話?』
ドライバーは…左耳にイヤー・フォンを差し、いかにもな黒いスーツを着た、精悍な顔つきの男性。
『もしかして…きのうのスナイパーは、この人?』
クルマの方も…明るいところで、よく見れば…どうやら要人警護仕様の特装車。
(防弾ガラスや、地雷を踏んでも破壊されない車体。パンクしても走り続けられる「ラン・フラット・タイヤ」が装備されているのだろう)。
あの晩と、同じ配置で…「クロ」が助手席で、僕がその後ろ。女の子は「シロ」と、僕の右側。
「ヨシ・ヨシ…」
エアコンの効いた、快適な車内。僕は「シロ」をあやしながら…
「君は、なんて名前なの?」
女の子に訊いてみる。
「…かなえ…」
そう返ってきた。
「どういう字、書くの?」
「叶える」「適える」「敵える」などなど、いくつかあるけど…
「願いを叶えるの…かなえ」
シロの頭を撫でながら、そう教えてくれる。
「かなえチャンか」
名前から答えたという事は…苗字は告げたくないのだろう。それ以上は、訊かないことにした。
「おとうさんは、何をしてる人なの?」
普段の僕は、世間話などは苦手なのだけど…子供が相手なら、わりと平気だった。
「コンサルタント」
『?』
「経営コンサルタント」なんて言葉は、聞いたことがあったけど…
『そんな事で、食べていけるの?』
「くわしいことは、しらないんだ」
だんだんと馴染んできたのか? 「子供言葉」になってきた。
「へえ〜!」
そんな感じで咄々と、たわいも無い話を続けて、車内の時間を過ごす。
(運転席の男は…僕たちの会話は聞こえているのだろうけど、無言のまま微動だにしない)。
やがて、新たに開発されたウォーター・フロントの高層ビル街に入り、そのひとつの地下駐車場に滑り込む。
「…」
無言のまま車外に立つ「喪服の男」みたいな黒服の男と、ワンコ2匹に見送られ…
(強面が、大小・二匹の犬のリードを引いて突っ立っている姿は、なかなか非現実的な絵柄だ)。
ここからは、かなえチャンに導かれ、エレベーターで階上へ。
「パパ、おにいさん」
女の子は、ガラス張りのオフィスの奥にいた男性に、声をかける。
『おにいさん?』
男兄弟しかいない僕にしてみれば、小学生の女の子に、そんなふうに呼ばれるなんて…なんだか良い響きだ。
「ああ」
振り向けば…落ち着いた茶色っぽいブレザー・ジャケットの前を開けた、あの時の紳士。
「大丈夫だったかい?」
僕の方を向いて、そう声を掛けてくれるが…
『?』
あの時…つまり、初めてこの人と出会った時に、最初にかけられたのと同じ言葉。
『そういう事なの?』
なんだか、わかったような気がする事が、ひとつ。
『おそらく…』
あの時の「ひと言」。「大丈夫だったかい?」は、自分の娘の事を心配したのではなく…
『きっと…』
「僕を気にかけて」の言葉なのだろう。
『だいたい…』
考えてもみれば、サイレンのように・けたたましく鳴くであろう小犬と、もしかしたらクマだって・怖気づくような大型犬。
『僕一人なんかより、よっぽど頼りになる』
そして「おとうさん」は、かなえチャンに向けて…
「クロは?」
と声をかける。
「だいじょうぶ。いつもと同じ」
それで安心したように…
「そうか」
そう呟く。
『?』
なに? どういうこと? 僕にはサッパリ、意味が通じないんだけど…
「かなえは、ママのところに行ってなさい」
そう言われ…
「は〜い」
と返事をして、部屋から出て行く。
「まあ、お座り下さい」
部屋を入った左側に据えられた、濃い茶色の応接セット。低姿勢で示された、高級そうな革張りのソファー。慣れない事に、その先端に、チョコンと腰を降ろすと…
「何か飲むかな?」
そう訊いてくれるけど…
「いえ、今は…」
大人と二人きりでは、緊張してしまって…それどこじゃない。
「それでは、これで」
そう言って手渡されたのは、良く冷えた炭酸飲料「ドクトル・ペッファー」のペット・ボトル!
「わたしは昔から、このクスリっぽい味が好きでね。妻には、『不健康だからやめろ』と言われてるんだけどね」
そう語りながら、「ゴクリ!」とひと口。
「もっと寛でもらって構わないよ」
高そうな椅子が気になって、両手でボトルを握ってチビチビやっていた僕に、そう声をかけてくれる。
「実のところ、あまり値のはる物は、わたしの趣味に合わないんだけどね…仕事柄、見栄っぱりな人物も多くてね」
『なるヘソ!』
おそらく、昨夜の事もあるし…多分に、僕を和ませようと、してくれた事なのだろう。そんな「気遣い」のできる、「人となり」がわかるような「やりとり」があったせいか? 一気にリラックスできる気分になると…
「さて、どこから話そうか?」
そこで「おとうさん」は、右手にペットを握って立ったまま、腕組みしながら窓の方を向いて、考え込む。そこで僕は…
「あいつらは…きのうの出来事は、いったい何なんですか?」
率直に、「まず第一に知りたい事」について、訊いてみる。
「うん」
おとうさんは、左手をアゴに当てながら振り向いて…
「君も聞いてるだろ? 総合病院での一件」
そう語り始める。
「ええ」
テレビを見ない僕だって、あれだけの大事件だ。知らないはずがない。
「あそこから逃げ出したモノのようなんだ」
じゃあ…
「じゃあ、あれはやっぱり人間」
僕の発した・そんな言葉に、難しい表情をしながら…
「んむ…ただし、死人だけどね」
死体が動きまわる?
「どうしてなんですか?」
一段と険しい顔つきになって…
「未知のウイルスの可能性がある」
そう返答してくる。
「新種の?」
今の時代。あり得ない話じゃない。
「いや…君も聞いた事があるだろ、その昔、国内のとある街が、まるごとひとつ、滅んでしまった話を…」
『え?』
「あれは、ホントの話だったんですか?」
質問とも感嘆ともつかない僕の言葉。それには答えず…
「人間としての生命反応は終わっているはずなのに、活動しているんだ」
まさに「ゾンビ」じゃん!
「じゃあみんな、あんなふうに撃ち殺された?」
すると即答で…
「いや」
否定の言葉が入る。
「人間というのは…いや、人間に限らず生物というものは、死後発動する酵素を持っていてね…死体を腐らせるというね。だから通常は、放っておけば、かってに腐敗してしまうんだ」
そう説明してくれ…
「昨夜の人たちだって、今日には絶命していただろう。死体が死ぬというのも、変な表現だが」
続けて、そう語る。
「それで総合病院での件も、自然終息したわけだが…」
ならば、どうして…
「どうして、秘密にしてるんです?」
あんな目に遭った僕としては、断固、納得できない。
「インフルエンザなどと違って、社会に及ぼす影響は無視できないからね」
そうかな〜?
「それに、即効性のウイルスのようだ」
え?
「かみつかれるなどの、じかの接触で感染するようだが」
そこまで聞けば、一番気にかかるのは…
「それじゃ、ゆうべの一件で僕は…」
すると、おとうさんは微笑みながら…
「いままで発症していないという事は、君は大丈夫ってことだ」
そう請け負ってくれる。そして…
「今はまだ、それ以上の事は言えない。なにしろこちらも、わかっている事が少なくてね」
そうは言われたけど…
『まだ、それですべてじゃない』
そんな気がしていたのだけど…突拍子もない出来事の後。気を取り直していたつもりでも、混乱は残っていただろうし、何より僕は、『全身全霊』疲れ切っていた。それ以上「根掘り・葉掘り」詮索する気力は残っていなかった。それに・その時…
「コン・コン」
ドアがノックされ、白いYシャツに・黒いパンタロン姿の女性が入ってくる。
(裾広がりの、「パンタロン」あるいは「ベル・ボトム」タイプのGパンは…大流行した時に青春時代を送っていた祖父によれば…通称「ラッパ(ズボン)」なんて呼ばれていたらしい)。
『?』
歳の頃は、27〜8?
(「オバサン」というほどじゃないけど、僕からすると、ずいぶんと大人に見える)。
軽くウェーブのかかった・長めの黒っぽい色の髪に、淡い褐色の肌。
(僕の頭の中には『黒真珠』という言葉が浮かぶ)。
『アイ・シャドウでも塗ってるの?』と思わせる、クッキリと縁取られた茶色い瞳の眼。
『ハーフ? それともクォーター?』
(一応ことわっておくけど…これは・いまだに日本の慣用句的言葉で、『もっと適切な表現があれば、そちらを使いたい』と思っている)。
でも、少子・高齢化が、極限の状態まで進んだ今の日本。「外人さん」という言葉が『死語』になるくらい…どこへ行っても、その存在は珍しくもない。
(最近は逆に、かつて「先進国」と呼ばれた国々からの流入の方が、多いくらいだし…むしろ「出稼ぎ」先を求めて、日本から出て行く日本人も、急増中らしい)。
今では、いろんな血が混じり始めた島国「ニッポン」。自分たちのことを、いまだに「単一民族」だと思い込んでいる人たちの反発も根強いけど…
(数十年前から続く慢性的な「不景気」なのに、恒久的な「人手不足」ゆえ、「移民制度」の見直しや「難民受け入れ」の条件緩和に、『喧喧囂囂』して…さらには「自衛官」や「公務員」採用等の、国籍などの基準の廃止・撤廃の動きに『侃侃諤諤』とし…様々な意見や憶測が入り乱れ、すでに長年月、結論が出ないまま、収拾がつかない状態になっている)。
たとえば、「現実」を実際的・学術的な視点から眺めれば…
※「日本語」は、ユーラシア北部の「ウラル・アルタイ語系」に属する言語。
※日本人が主食にしている「ジャポニカ米」の原産地は東南アジア。
※『古事記』や『日本書紀』は、南洋系の神話に北方系の逸話で編まれた物。
要するに…
※北方の「ツングース」などの騎馬民族系。
※『中原』の「漢」などの大陸民族系。
※南方の「マレー」などの海洋民族系。
そこから出来上がった者が「日本人」だという事がわかっていて、『大和民族』と呼ぶならかまわないけど…
『もともとメインの血液型がよっつもあるって事は、それだけ混血が進んでるってことだ』
(僕は、そう思っている)。
そして地理的には、まさに最果ての地。「極東」に位置する「ジパング」。
(「ジャパン」の語源になったこの言葉は、イタリアの冒険的旅商人「マルコ・ポーロ」先人の、『東方見聞録』に記された単語。中国語の発音「日・本」から派生したとも云われる)。
紀元前の「イスラエル」からの『失われたユダヤの十支族』。その末裔が、この島にまで、流れ・たどり着いたという話だって、あながち、有り得ない事じゃない。
(日本の神道には、「古代ユダヤ教の影響が、色濃く残っている」という説もあるけど…僕の自説によれば、ニッポン男児のほぼ全員が、いつの間にか植え付けられている「割礼信仰」こそが、その一番の証左だろう)。
きっと僕は、そういったものにばかり関心を示し、正統的な勉強…「年号を憶える」などの「丸暗記」モノは、大嫌いだった…をしないから、「歴史」の点数がイマイチなのだろう。でも…
『あら?』
僕に気づくと一瞬、その「キレーなオネーさん」が、そんな顔をしたのを、僕は見逃さなかった。
「教授、これ、きのうの報告書です」
そう言いながら、ファイルを差し出すけど…
『きのう?』
なんか気になる。
「秘書の小池くんだ」
おとうさんが、「こちらは…」と僕を紹介しかけたところで…
「コイケ・ケイコです」
そう言って、「教授」の言葉をさえ切った!
『ヤッパ、なんか怪しい』
そして・まるで、あらかじめ用意してあったかのように、名刺を差し出してきた。
「はあ、どうも」
(「名刺」とは本来、両手で受け取るものなんだそうだけど…「履歴書」も書いた事が無い半人前の僕は、利き手の右・片手で受け取る)。
『小池恵子』
「○子」だなんて、父方の曾祖母と同居していた「大伯母さん」(ひいバアちゃんの娘=ジイちゃんの姉だ)みたいな名前だ。そう思ったけど…そのエキゾチックな瞳に、『ピン』と来るものがあった。
(その流暢すぎる日本語。少なくとも、生粋の「日本育ち」なのは、間違いないだろう)。
「わかりました。それでは、正式な記録文書は、後ほどお願いします」
それに…そう答える、この「教授」と呼ばれる人物は、いったい何者?
『なかば強引に、ここまで連れてこられたんだ』
そのくらいの質問、失礼には当たらないだろう。そこで…
「ところで…ここでおとうさんは、何をしていらっしゃるんですか?」
ケーコさんが立ち去った後で、訊いてみる。
「かなえチャンは、コンサルタントって言ってましたけど…」
教授は、レポートに目を通しながら…
「技術顧問とでも言えばいいのかな。企業と契約して、技術指導を行なっているんだよ」
そう教えてくれる。
『ふ〜ん』
それに、大学での講義や、セミナーを開いたりもしてるんだそうだ。
「いわばブライダル産業…企業間の結婚相談所みたいなものだよ」
科学も産業も、多様化・細分化した現代。
「たとえば数学と物理学」
教授ははじめに、そう語り出した。
「数学者と物理学者は、方向性や方法が違っても、同じ事を考え・研究していることがあるんだ。お互い、気づいていないがね」
『?』
どういう事?
「だが、視点や見方を変えてやると、うまくつながる事があったりして、躍進につながるケースがある」
『う〜ん』
何を言わんとしているのか?
「工業などの産業分野でも、技術革新なんて言葉を聞くだろ」
『まあ…』
聞いた事くらいは、ありますけど。
「科学者が発見した熱膨張の理論を、技術者が応用して、蒸気機関を発明したようなものさ」
『!』
『産業革命』は、機械を動かす動力源を得たことで、一気に開花したワケだけど…
「その間を、とりもつような仕事内容だよ」
『なるヘソ!』
経済学の本に書いてあった。「経済成長」=市場規模の拡大。「経済発展」=技術の進歩による進展。
「大変そうですね。どちらの知識も持ってなくちゃいけないなんて」
僕が、そう感想を述べると教授は…
「そうでもないさ。それぞれの分野は、とうぜん専門家の領域たからね」
そう言って謙遜するが…
「ただし、あちこちにアンテナを張り巡らせて、常に新しい技術や理論に、目を光らせていなくちゃならないけどね」
さらに付け足して…
「それに、それらの可能性を嗅ぎ分けられる程度の、知識とカンは必要だね」
でも…
『それとこの件と、何か関係があるの?』
僕は、そう思ったのだけど…
「でも、平気そうで安心したよ」
教授は、報告書を机の上に置きながら…
「場合によっては、心のケアーも必要かなと思っていたんだけど…」
『精神的ケアー?』
だったら、お医者さんの仕事じゃないの? それに…
『撃ち殺された人たちと違って僕ばかり、ずいぶん特別待遇だ』
そんな「申し訳ない」気もしたりする。
(「何かが起こる」。きっと僕は、ヘンな妄想癖があったから…すでに心の準備ができていて…乗り切ることができたんだろう)。
「さて!」
教授の転句のひと言。少なくとも今日は、これで「ひと段落」のようだ。
「また何かあったら困るから…」
『また…?』
もう・あんな経験、コリゴリなのだけど…
「誰かに送らせよう」
そう言ってくれたけど…
「大丈夫です。電車で帰りますから」
「痩せガマン」して、いちおう「断り」をいれる。
(それに、日課の「日々トレ(ーニング)」も、果たさなくてはならない)。
「でも、あまり寝てないんじゃないかな?」
たしかに、ほとんど徹夜みたいなものだったけど…
「もう平気です」
そう言って立ち上がるが…
『(ア)レ?』
「立ちくらみ」…と言うか、「貧血」気味なのか?
『また、あんな事があったら、もうダメだよ』
足元がフラついている。
「きのうの一件もあるし…無理をしない方がいい」
それで…
「は…あ」
素直に受けることにして、今度は無口な「喪服の未亡人」に先導されて、地下の駐車場に降りると…
『?』
目の前には、真っ赤なオープンの・二座席のスポーツ・カー。
『これって、国産?』
ピカピカに光ってはいるけど…ただし、かなりの年代物。
「乗って」
そう言って、サン・グラスを掛けて右の運転席に座るのは、先ほどの女性。「コイケ・ケイコ」…さん。
「お・お邪魔します」
そう言って、左の助手席に乗って…
「バタン!」
ドアを閉めると…
「クン・クン」
と、こちらに鼻を鳴らすような仕草をしながら…
「なるほど…たしかにアナタ、いい匂いがするわね」
『ハア〜? いきなり何だよ!』
だいたい…そんなこと言ったの、いったい誰?
「女の子にモテるでしょ?」
そして…いきなりの不躾な質問!
「そ・そんなこと、あるわけないでしょ!」
今まで「彼女」なんて、いたこと無いのに…。
(オッちゃんとだって、まだ、友達同士の「お付き合い」程度。「彼女」と呼べるような間柄じゃない)。
「波長が合う子なら、イチコロよ!」
『なんて言葉遣い!』
女性も、このくらいの歳になると…
『こんなに、なっちゃうの?』
でも・それで、突然、蘇った記憶がある。
(あれから今まで、一度だって思い出した事がないのに)。
「とってもイイ匂いのする人がいるんだって…」
カッちゃんのひと言が、始まりだったけど、遡ってみれば…
最初に『接近遭遇』を果たした模試の時。たしかにエアコンの風は、僕の方からオッちゃんの方に流れていたし…
いわんや、満員電車で密着した件。
『もしかして…』
(前にも述べたけど僕は…そういった・どうでもいいような・チョットした・何の役にも立たない出来事や情景を、いつまでも憶えている人間だ)。
「思い当たるフシがあるんじゃない?」
『エッ?』
そう声がして、「ハッ!」と僕は、我に返る。少しの間、物思いに耽っていたみたいだ。
「いつだったか、アタシの十数年来の…いえ、数年来の…」
『アレ?』
いま・ここで、歳をゴマかした?
「愛読している、国内唯一の超常現象専門誌に、こんな記事が載ってたわ」
そう彼女が語るところを、要約すると…
『アメリカだったか? イギリスだったか?』
たしかに、血筋正しい名家の出だったらしいが、ルックス的には「十人並み」。むしろ地味な、売れない三流小説家。しかし…いつも美女をはべらかしていたんだそうだ。その女性たち曰く…
「あの人は、とっても好い匂いがする」
口ぐちに、そう語っていたらしい。
『それって、フェロモンみたいなもの?』
そうも思ったけど…
「父親の『匂い』と『臭い』」
「女性は、父親と同じ匂いを持つ異性に惹かれる」と言う学者がいるけど…
(それなら、「家庭内の不和」は減るだろう)。
「おとうさんのパンツと、一緒に洗濯しないで!」
思春期をむかえた女子が、父親の「臭い」を不快に感じるなんて、よく聞く話だ。
(こちらは、「近親相姦」の防止に役立つだろうけど)。
不仲な親子がいる一方で、いくつになっても・気持ち悪いくらい仲の良い父娘もいる。そこで、再び登場するのが…
「すべてのものには『対極』がある」
という『双対原理』。それからすれば…「匂いと臭い」「通説と異説」…どちらも有り得る話だ。
(でも僕らの大部分は、普段の生活において、その『双対原理』の中間あたりの所に分布して、功労者にも犯罪者にもならずに、毎日『平々凡々』と暮らしているわけだ)。
『でも僕の体臭は性別不問?』
たしかに僕は、曾祖父母・祖父母・両親から親戚一同に至るまで…
「この子は、いい匂いがする」
そんなふうに言われた記憶がある。
(もしかすると僕は、オッちゃんのお父さんと、同種あるいは異種の匂いを持っている?)。
「異説を語るには、通説も知らなくちゃならないから、新たな視点が開けるわよ。あなたも大学に受かったら、読んでみて」
『なるヘソ!』
おもしろそうだ。そして…
「距離をつめなさい。女は匂いに敏感なの!」
「女性解放論者」の女史は、そうおっしゃる。
「ガンバレ若者!」
そう言いながら、左コブシで「グー」して見せ、右肩を突いてくる。
「はあ…」
かなわないな〜。
(「フェミニスト」という言葉には、『女に甘い男』という意味もある)。
「シフト明けだから、そこのドライブ・スルーでコーヒーでも買っていきましょ」
そう言って走り出す。当然、マニュアル車だ。
「ブオン!」
ひんやりと薄暗い地下の駐車場を駆け上がり、まぶしいくらいの・夏の太陽の下へ。
「オープン・カーって、オートバイみたいに風を切るのかと思ってたけど、まったく風が入って来ないんですね」
僕は頭上にむけて、手の平に風が当たる所まで腕を伸ばす。
「バイクに乗ったこと、あるの?」
『え?』
そう言われてみれば…
「ええ、後ろなら」
たしかに、きのうのアレが、最初で最後だ。
「70年代の道交法改正前までは、日本でもノー・ヘルでバイクに乗れたそうよ」
ふたたび…
『え?』
何のこと?
「キキッ!」
そうこうするうちに、カフェのドライブ・スルーに乗りつける。でも…
「このクルマ、エアコン無いんですか?」
商品待ちの間、アタマの真上から・夏の陽射しで照らされた僕が、そう苦情を口にすると…
「本物のスポーツ・カー乗りに、クーラーなんてものは不要なのよ!」
『今どき、マジかよ』
「現代っ子」の僕じゃなくたって…マニュアル・シフトはともかく…「エアー・コンディショナー」未装備の車に乗った事のあるジャパニーズが、いったい・どれほどいる事か。なのに…
「第二次世界大戦の戦闘機乗りみたいに、暑さはガマンして、寒い時にはフライト・ジャケット着るの!」
そう力説されると…
『はい・はい。わかりましたよ』
心の中で、そう悪態をつくしかなかった。しかし…
『初めて会った(?)のに、なんだかそんな気がしないな』
しょっぱなの「匂い」の話で、妙に打ち解けた雰囲気になったせいだろうか? それとも、昨夜の出来事で、「アドレナリン」が放出されっぱなしで、気分がハイになっていたのか?
(「アドレナリン」とは、緊張状態や非常事態の時に、体内で合成・分泌される興奮剤だ)。
僕にしては珍しく…
「小池さんって、秘書なのにシフト制なんですか?」
次々と言葉が出て来る。
「政治家なんて、三人くらいは秘書がいるものよ」
『ふ〜ん』
でも…
「ファ〜!」
湾岸道路に入って、夕暮れ時の心地好い潮風を感じながら・快調に移動していると…(半屋外だけど)クルマの中という安心感も手伝ってか…張り詰めていた緊張が、一気にゆるんだみたいだ。
『コーヒー1杯くらいじゃ、とてもじゃないが目が覚めない』
「一人暮らし」になりたての頃。一時間おきくらいに、マグ・カップでコーヒーを「ガブ飲み」していると…そのうち、ドキドキ動悸が激しくなって、気分は悪くなるし、フトンに入ったものの目がさえて眠れない。「コーヒーの飲み過ぎだ」という事に気づいたのは、同じ事を何回か繰り返した後だった。
「クウ〜…」
だんだんと…コックリ・コックリ…ウトウトしてきた。はじめから少々、意識が朦朧としていた僕は、夢ともつかない状態で、続けて・こんな事も思い出していた。
あれは高二の秋。
地元の公会堂で催された、某女性アイドル・ユニットのライブ。たまたまチケットが一枚・手に入ったので、一人で観賞に行った時。やはり一人で来ていた左隣りの女性(カッコ:間違いなく年上)が、ステージそっちのけで、僕に話しかけて来る。隣県から来たという・そのお姉さんは、閉幕後、ホールから出た所で僕を待ち伏せて、さかんに「おごるから、一緒にゴハン食べよう」と誘ってくるのだけど…残念ながら僕には、「年上」の趣味は無かったし、ガツガツくるオネーさんが恐くって、「門限があるから」と、逃げるようにして帰った記憶がある。
『あんがい僕も、マンザラじゃないのかもしれない』
そんな事を思い返しているうちに…あんなオゾマシイ出来事があったことも、すっかり忘れて…いつの間にか、深い眠りに落ちていたのだけど。
『?』
どのくらい経ったんだろう?
「着いたわよ!」
そんな声で目を開けると…
『アレ?』
薄暗くはなっていたけど…見慣れた大根畑が、目に映る。
「それじゃね」
寝ボケ眼のまま、無言で降り立ち…青白い煙りを残して走り去る、赤いオープンのスポーツ・カーを見送った後で、フト気がついた。
『そういえば、あのクルマ…ナビなんて付いてなかったよな?』
2・Where are you going?
『健康診断?』
翌朝。気を取り直した僕が、学校に着いてみると…
(なにより僕は、オッちゃんに会いたかった)。
『予備校に、そんなものがあるの?』
校舎の脇の路上に、レントゲン車や健診車が並んでいるし…
『いつから貼ってあるの?』
掲示版にも案内があるけど…おまけに、「無料」なんだそうだ。
「タケルくん!」
オッちゃんは僕のことを、そう呼んでくれるようになった。
「だいじょうぶなの?」
そう訊いてくる。
「うん。ちょっとコーヒー飲み過ぎたみたい。一時間おきくらいに、マグ・カップでガブ飲みしてたらさ…何だか気分が悪くなってさ」
僕は自分の体験談を、今回の言い訳に使ってみた。
「それに、ちょうど検診だなんて…体調が悪い時に診てもらうくらいの方が、ちょうどいいよね」
僕は、「もう平気」といった、「軽いノリ」を演じて応じる。
(もちろん、「あの件」や「その後の出来事」については、黙っていたけど)。
「検尿」に始まって、「身体測定」や各種検査。「レントゲン」に「診察」。そして…
『健診って、血なんか採ったっけ?』
最後の「採血」で終了だ。
『まあ、くまなく調べてくれるなら、ありがたい事だ』
その時は、その程度にしか思っていなかったのだけど…
「どうしたの?」
その日の夕方。今日も二人で、あの公園のベンチに座っていたのだけど…
「ん? なんでもないよ」
そうは言ったものの…僕は「うわの空」。
(まだ、あんな事があった翌々日だ。当然だよね?)。
ここのところ帰りは、北回りの路線で帰ることが多くなった。ようするに…僕はオッちゃんと、なるべく長く一緒にいたかったし・一緒に乗る満員電車が、嫌いじゃなかった。ナゼって…言わなくても、わかると思うけど…否応なしに、息もかからんばかりの距離で密着しなくちゃならないからだ。
…ソワ・ソワ…
でも今日は、それどころじゃない。夕暮れが近くなり、闇が迫ってくると思うと…一昨日の夜の記憶が蘇ってくる。
「熱でもあるんじゃない?」
そう言って、僕の額に手を当ててくる。
『ドキッ!』
急に触られて、「ビクッ」としてしまう。
「あ! ごめん。ビックリした?」
オッちゃんは、あわてて手を引っ込める。神経が過敏になっている証拠なのだろうけど…
『残念無念!』
初めての「ボディー・コンタクト」だったのに。
(健常時の僕だったら、「大感激なシチュエーション」なところなのだけど)。
僕は・きっと、あたりをうかがい、キョロ・キョロしていたのだろう…当然オッちゃんも、不審に思ったみたいだ。
『いっそのこと…』
「気まずい空気」になりそうだったので、そこで…
「オッちゃんは、幽霊とかって信じる?」
試しに訊いてみるけど…
「わたし、霊感ないからな〜」
軽く去なされてしまう。
「じゃ、妖怪は?」
そう続けるけど…
「エ〜、幽霊と妖怪って、違うの?」
まったく興味はなさそうだ。
「それじゃ…ゾンビとかは?」
『単刀直入』に、質問してみたけど…
「わたし、ホラー映画とか苦手なの」
『ダメか〜?』
僕は、『いっそ正直に、あの話をしてみよう』と思ってみたのだけど…
(教授には、「まだ誰にも、口外しないで欲しいんだ」と念を押されていたけど)。
「でも…いったいどうしたの、きょうは?」
いっそう沈んでしまった僕の態度を見て、気づかってくれるけど…
「ううん。何でもないよ」
夜が近づくにつれ、やっぱり不安が募ってくるし…
『このまま、ここにいようかな?』
独りの部屋に帰ると思うと、何だか・とっても気が重い。そんな時…
「そろそろ帰らなくちゃ」
オッちゃんは、そう言いながら、バッグを右肩に提げる。
「うん」
どうしよう?
「僕はもう少し、ここで涼んでから帰るよ」
オッちゃんは、心配そうな眼差しで、僕を見下ろしてくれたけど…
「ゆっくり休んだ方がいいよ」
そう言い残して、振り返って手を振りながら去って行く。
「ふう」
でも、オッちゃんが立ち去るのと入れ違いに…
「キャン!」
小犬の鳴き声がする。
『?』
声のした背後に目をやると…
「今度はなに?」
またまた僕の前に現われた、小さなメッセンジャー。今宵も二匹が、控えている。
「ママに…いえ、母に会っていただけませんか?」
『今度はお母さん?』
次は何が出てくるのか?
『医者か弁護士、博士か先生?』
でも僕は、なかばホッとして、政府御用達(たぶん)の防弾仕様のクルマに乗り込む。
「バタン!」
でも今度は・この後、違った一大事が待っていた。
(結論から先に言ってしまえば…どうやら・この時、僕たち=僕とかなえチャンは、カッちゃんに目撃されていたみたいだ。きっとカッちゃんは、僕たち=僕とオッちゃんの様子でも、偵察していたのだろう)。
「おかあさんは、何をしてる人なの?」
僕は、前回「教授」と呼ばれるお父さんに会った時のように、この前と同じ黒服の男が運転する車内で、かなえチャンに訊いてみる。
「お医者さん」
『なるヘソ!』
答えは、だいたい想像していたものだった。
『きっと…』
教授が言っていたように、「心のケアー」でもしてくれる、精神科かケース・ワーカーの先生だと思っていたのだけど…
「キュ・キュ・キュ・キュ!」
すっかり陽も落ちた時間。夜の高速道路を走って、教授と面会した・あのビルの地下駐車場へと降りて行く。
「チ〜ン!」
この前とは違うエレベーターで、ひとつ上の階の、同じ造りの廊下へ。
『表情ひとつ変えない、無口な黒服の男女は苦手だな〜』
地下駐車場から建物への入口で、前回の退出の時と同じ黒服の女性に引き継がれ…そこから僕だけ、一番奥の部屋に案内される。
「コン・コン」
ノックの後で扉が開かれると…
『女医さん?』
長い黒髪に・黒縁のメガネをかけた、白衣を着た色白の女性が、重厚な感じのデスクのむこうに座っている。
(かなえチャンが「ママ」と呼ぶのだから、教授と同じくらいの年齢なのだろうけど…開放的な明るい感じの教授のオフィスと違って、難しそうな・ブ厚い本がビッシリの書棚に囲まれた室内。圧倒されそうな荘厳な雰囲気だ)。
「博士、ご案内しました」
黒服の女性は、そう声をかける。
『今度は博士?』
その声で、机の上に開かれた書類(らしき物から)顔を上げると…
「ごくろうさま」
「博士」と呼ばれた白衣の女性は、そう言って立ち上がる。
(アニメのキャラなら、「融通の利かないところが、たまにキズ」的な、クールなインテリ・タイプの委員長ってトコかな)。
「わざわざお呼び立てして、申し訳ありません」
『そんな…』
僕ごときに、そんな言葉遣いをされると…予想通りだけど…かえって恐縮して、気おくれしてしまう。
「どうぞ、こちらへ」
そう言われ、デスクの正面のイスに。なんだか、「心療内科」か何かの診察を受けてるみたいで、落ち着かない気分だ。
「さて、何から話そうかしら?」
『教授と同じような出だしだな』
ただし「女言葉」だけど。
「まず…きょう、アナタからいただいた血液だけど」
『今日? 僕の血?』
どういうこと?
「あら、ゴメンなさい。言ってなかったわね」
『それじゃあ…』
ヘンだとは、思っていたけど。
「採血を行ったのは、アナタだけ」
『どうりで』
やっぱりだ。
「今日の健康診断。あれは私たちが仕組んだものなの」
『私たち? そんな事が、できるの?』
何か背後に、「大きな力」でもあるの?
「でも、何も出なかったわ」
『ハア?』
何のこと?
「いい? 大切な事だから、良く聞いてね」
『眼力つえ〜』
デスクに身を乗り出し・にらみつけるような眼差しで、僕を見据えて…
「そこで今度は、アナタの遺伝子を調べてみたいの」
『?』
なんで?
「そこまでやるとなると、本人に承知しておいてもらわないとね」
『倫理的な問題?』
かつてイギリスでの出来事。保険会社が、契約者の癌に関わる遺伝子を、本人の承諾なしに・勝手に調査して訴えられた事があった。
「アナタは・もう未成年じゃないので、契約とかはできるけど…」
『はあ』
「誓約書」とか「同意書」ね。
(「未成年」以上「成人」未満の・十代の人間の、ローンやカードなどの契約に関する悪質なトラブルが相次いだ事から、その後、「きちんとした説明を受けた」という連名の同意書の作成・提出が義務付けられた)。
「至急の事だったので、こうして御足労ねがったワケ」
『どうやら…』
博士が言いたい事は、ひと段落したみたいだ。身を起こして、イスの背もたれに寄りかかる。でも僕にしてみれば…
「どうしてですか?」
『サッパリわからないよ』
これまでの話の内容だけじゃ、判断しかねる。
「アナタは、何か特殊な遺伝子を持っている可能性があるの」
『はあ〜? 何か特殊な?』
僕なんかが?
「何でそんな事がわかるんです?」
『血液検査じゃ、何も出なかったと言うし』
それ以前に、何でそんな事がわかったの?
「シロが嗅ぎ分けてくれたわ」
『?』
博士の答えは、意外なものだった。
「犬の嗅覚は、場合によっては、人間の一億倍にもなるの」
『なるヘソ!』
「盛りのついたオス犬は、8キロ先のメスの存在を知覚できる」なんて話を聞いた記憶がある。
「シロとクロは、それ以上に、格段にすぐれた能力があるわ」
博士は、そう説明してくれる。
『じゃあ、やっぱりあの二匹は…』
「遺伝子操作でもされた、ハイブリッ(ドなんですか?)」
僕が、そこまで言いかけた時だ。
「あの二人は違うわ」
声が聞こえた後方を振り返ると…コーヒー・カップを二つ載せたトレーを持った、かなえチャンが立っていた。
「そうね。あの子たちは違うわ」
おかあさんが話を続けている間、かなえチャンは…デスクの上に、ソーサーに載ったカップを並べてくれる。
「聞いたことはないかしら。たとえば…人生を終えようとしている人に、寄り添う犬や猫の話」
末期の患者がいる病院の「癒し猫」の逸話。
『きっと、死の臭いがわかるんだ』
死んだ人間が・あるいは死期が近づいた人間が放つ臭いが、あるんだろう。
(何かで読んだ、香水の配合師の回想を思い出す。そんな仕事ができるくらいだから、「匂い」には敏感で、人にも其々の体臭があるんだそうだけど…ある時、電車で久しぶりの知人に出会う。『この人、匂いが変わったな』と思った間もなく、その人が亡くなった知らせを聞き、『あれが「死臭」というものなんだ』と悟ったという話だった)。
また、「ガンの臭いを、嗅ぎわける犬」の話など…
『僕も、もしかすると』
匂いには、敏感な方の人間なのかもしれない。体臭の変わった人・ワキガや加齢臭は、常時でているわけじゃないし・ある種の、強い薬を服用している人・何かの病気の前後に、生臭さを放つ人など…それに気づけるくらいの「鼻」は持っていた。
「シロとクロは、特別に優れた嗅覚を持つ親同士を掛け合わせて、生まれてきた兄弟」
博士は、そう解説してくれたが…
『あんなに大きさが違うのに?』
犬は見かけによらないものだ。
「そして、必要な臭いを憶えてもらったわ」
おまけに、シロの方が年上なんだそうだけど…
『麻薬捜査で活躍する、警察犬みたいだ』
でも匂いは、記憶の中などで再現したり、言葉で伝える事が難しい。
『それは・いったい、どんな臭い?』
(何かたとえる物があれば、わかりやすいけど)。
「『絶対音感』って、聞いたことある?」
『はあ?』
まあ一応、名称くらいは。
「それを持っている人は、一度聴いた音を、記憶する事ができるらしいけど…それと似たようなものかもしれないわね」
それにしたって、それがどんな匂いなのか、経験してみなけりゃわからないと思うけど…
「あの日は、驚いちゃった」
そこで、かなえチャンが話し出す。
「生きている人で、シロが反応して、クロが黙っている人に出会ったのは、おにいさんが初めてだったし…」
座っている僕と、同じくらいの高さで目線が合う。
「それに、動いてる人に、二人が揃って反応するのも初めて」
『動いてる人?』
かなえチャンと初めて会った晩。そして、あの事件に巻き込まれた夜。
「いつも、死んでる人だったのに…」
あのとき目撃した、存在感が希薄で、物質界から浮いたような男たち。
「あんなに大勢の人がいるのにね」
(たしかに都会の方が、人が多いぶん、見つかる確率が高くなるだろう)。
『無罪と有罪』
犯罪者みたいだけど…さしずめ僕は「重要参考人」で、あいつらは「犯人」といったところ?
「かなえは、もう寝る時間よ」
ママに戻った博士に、そう言われ…
「はあ〜い!」
かなえチャンが、引き伸ばした返事をしながら姿を消したところで…
「これ以上は、遺伝子を解析してみなくちゃ、わかりそうもないの」
僕に異存はなかったけど…
「ところで…シロは何に反応して、クロは何に反応するんですか?」
聞きたい事が、まだあった。
「クロが反応するのは…感染している事を意味するわ」
『なるヘソ!』
それで初めて教授に会った時、クロの動向を気にしていたわけだ。
『つまり…』
クロが感知するのは、感染者の放つ「死臭」みたいなものなんだろう。
「シロは…」
博士は続けるが、そこで・しばらく言いよどむ。
「まだ仮説にもならない仮定の段階で…」
はっきりとした答えを口にしないまま…
「だからアナタには、ぜひとも協力してもらいたいの!」
いきなり切り出してくる。
「人類の存亡にかかわる事になるかもしれないから」
『人類の存亡って…』
そんな大袈裟な。
「調べるって言っても…アナタにいただいた血液で、いまのところ充分よ」
「人類の存亡の危機」まで言われたら、断るのも気が退けるし…ハナから、特に異存は無かった。
(「献血した」くらいの気分だ)。
「誓約書とかは?」
「印鑑」なんて習慣も…ごく一部の例外をのぞいて…もう残っていない。
「それは、コッチが書く物ね。一切口外しないとか…研究の目的以外に使わないとか。アナタが必要ならね」
それが、それほど重要なものとも思えなかったのは…欧米と違い…「契約の社会」の外で生きている日本人だからだろうか?
「いらないです」
即座に、きっぱりと言い切った。
「そう。良かった」
やっと博士は、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。
(そういった事は…夫である「教授」と違って…まったく気にかけない人のようだ)。
「お医者さんなんですか? かなえチャンが言ってましたけど…」
僕もコーヒーをすすりながら、気になっていた事を訊いてみる。
「わたしは、こんなでしょ。あまり人当たりが良くないから…実務の方は苦手なの」
「そうですね」とも言えないけど…
「それで研究の方に進んだのよ。やってみたい事もあったし…」
何の研究をしているのか尋ねてみれば、「内科」とか「外科」みたいな単純な答えじゃなくて…
「専門は、免疫学や遺伝子工学」
『アタマいいんだな』
教授と博士の娘じゃ、かなえチャンなんて、生まれつき出来が違うわけだ。
「でも博士なんて、すごいですね」
僕みたいな人間からすれば、素直な感想。
「そうでもないわ。わたしは、ひとつの事しかできないから」
『謙遜?』
それだけ出来れば、充分じゃん。
「でも、たとえば主人は…たとえて言うなら、オーケストラの指揮者」
なるほど、わかりやすいたとえ。やっぱり、アタマが良い人は違う。
「まとめ上げる力や、応用が利く柔軟さがあるんだけど…何が違うのかはわからないけど…それは案外、生まれ持ったものなのね」
そう言って、飲み干したコーヒー・カップを置く仕草は、かなり疲れてるみたいだ。
「それに、あの人…主人には、借りがあるの。何をしても消えない・一生かかっても償えない借りが…」
真剣な話は、そこで終わったけど…
「あら、いけない。初めて会った人に話すような事じゃなかったわね」
『疲れてたから?』
第一印象と違って、意外と「人間臭い」人だった。
「ありがとうございました」
帰路は、いつもの黒服の男性の運転で、僕の住むアパートの下まで。礼を言って、二階の通路に上がると…
『?』
向こうからやって来る人影。
『!』
僕は一瞬、身構えるが…
「どうした? 浮かない顔して」
今夜もホロ酔い加減の和男さんだ。
「夜遊びの帰りか?」
そんなこと、してないです
「それとも、試験の結果でも悪かったのか?」
そんなんじゃないです
「じゃ、勉強のしすぎじゃないのか?」
おやすみなさい
隣りに人がいるのがわかっているだけでも、何だか安心するけど…
『特別な遺伝子?』
それって、いったい何?
その晩は、そんな事を考えながら眠りに就いたのだけど…
『どうしたんだろ?』
今夜はオッちゃんにメールしても、返事が返ってこない。
『何か、あったのかな?』
先に事実を話しておいたけど…この時点での僕には・まだ、事の真相を知る由もなかった。
※ ※
「どうしたの?」
朝一番で、オッちゃんを探した僕は…
「メールしても返事くれないし…電話しても出てくれないし」
でも…
「プイ!」
今朝のオッちゃんは、何かそっけない。
「何か、隠し事があるんじゃない?」
下校の時刻になって、やっと口を開いてくれたと思ったら…そんな返答が返ってきた。
『隠し事って…?』
もしかして、あの事件のこと?
「カッちゃんから聞いたの」
『ハア?』
「あんな時間に、小学生くらいの女の子を連れて、どこかに行ったって」
『見られてた?』
たまたま、『僕たちがいるのでは』と思ってやって来たカッちゃんに、勘違いされそうな一部始終だけを、目撃されていたようだ。
「そういう趣味があるなんて、知らなかった!」
『いや、違うって』
「何だか様子がおかしいから、心配してたのに…そんな事だったのね。サヨナラ」
有無を言わさぬ態度で、足早に立ち去って行く。
『チョ・チョット待ってよ』
昨晩の、ソワソワと・挙動不審な態度が、余計に・疑いに拍車をかけたのだろう。
『あの事件のことは、話せないし…』
話したところで、今この状況では、すぐには信じてもらえそうにないし…
『どうしよう?』
取り残された僕は、途方に暮れる。
『かなえチャンに直接会って、言い訳してもらうのが、一番手っ取り早くて・確実なんだけど…』
だいたい僕は、かなえチャンの連絡先を知らなかった。
『あの事件の事もあるし…』
頭の中は、混乱していた。
『こんな時に一番最適で、最善・最良の方法は…』
幸い選択肢の数は、そんなに多くない。
『そうだ!』
一瞬ひらめいた僕は、サイフから、あの時もらった名刺を取り出す。
「キャハハハ!」
スマホの向こうから、笑い声が響き渡る。
「神妙な声で、『相談があるんです』なんて言うから、あの件についてかと思ったけど…恋の悩みとはね〜」
通話の相手は、あの「ケーコさん」だ。
「笑わないでくださいよ。しょうがないじゃないですか!」
考えてみれば僕は、あちらのスジの人の連絡先は、彼女の番号しかしらなかった。
(僕は、オッちゃんと別れた下り坂の突き当たりの、駅のホームが見える・線路脇から電話していた)。
「だいたい、悪いのはソッチの方なんだから」
どこか表にいるのだろうか? 雑踏の気配が伝わってくる。
「わかった・わかった、わかったわ」
『きっと、笑い過ぎて流れた涙を拭いてるんだ』
そんな空気が伝わってくる。
「手はずを整えましょ」
(ケーコさんの声の向こうでは、電車のドアが閉まる時の・サイレンのような信号音が鳴っている)。
そして…僕が気が気じゃないひと晩を過ごした、翌日の夕方近く。所は、昨日と同じ・予備校から駅に向かう、ゆるい下りの一本道。
「あの…あたしがストーカーに遭った時…あのおにいさんが助けてくれたんです」
先に、かなえチャン一人にだけ…カッちゃんと一緒に、坂道を下ってくるオッちゃんの前に飛び出してもらって、そう告げてもらう。
『見事な役者っぷり!』
そのあと四人で、駅前のカフェテリアへ。
(今日・この場には、例の二匹には御遠慮ねがった)。
「これで、疑いは晴れた?」
この件で僕は、逆に「男っぷり」を上げたつもりになっていたのだけど…
「でも、あの子はどうかな?」
『?』
オッちゃんは、(ケーコさんか・あの黒服の男が待つであろう方角へむかう)かなえチャンの後ろ姿に目を遣りながら、そうつぶやく。
「まだ子供だよ」
実際ぼくは、そう思っていた。
「でも、あと10年もたてば…」
オッちゃんは遠くを見る目で、ポツリと言うけど…
『まあ、とりあえずは…』
これで「一件落着」だ。
「ふう!」
3・Begin to start
「ふう!」
もう9月も半ば近いというのに…
『暑い!』
「何かが起こりそう」な、どんよりとした熱気のこもった、晩夏の暑さの残る晩だった。
「でね〜…」
カッちゃんも交え三人で、夕暮れ時のいつもの公園で、ダベッていたのだけど…
(電車が通り過ぎるたびに、熱風だけど空気が動くので、少しはマシだった)。
「キャ〜! ヤダ〜!」
二人は何ごとかで、キャッキャッと盛り上がっている。でも…
『とてもそんな気分には、なれないよ』
ずっと毎晩のことだけど…やっぱり暗さが増すにつれ、不安が頭をもたげる。
(夜になると目がさえてしまうので、「気を紛らわす」意味もあって勉学に励んでいたから……成績の方は、かなり上向いてきたけど)。
そんな時だった。
『?』
目の前を通り過ぎる、フードの付いた、レイン・コートみたいなテカテカの黒い外套。
『ビクッ!』
駅の方に向かって行く、その後ろ姿に…
『なんかにおう』
そんな雰囲気が、漂っている。
(そりゃ中には…肌が弱いのか? 潔癖症なのか? 真夏でも、長ソデ・マスクに帽子を目深にかぶり、首にはタオルまで巻いているオバチャンもいるけど)。
「そろそろ行こう!」
僕は二人をうながして、立ち上がる。
「どうしたの? きょうも、何かヘンだよ」
オッちゃんはチラチラと・こちらの様子をうかがい、気にしてくれている事は、わかっていたけど…
「ううん。何でもないよ」
でも何だか、今日は特別な胸騒ぎがする。
「それより、早く帰ったほうがいいよ、今夜は」
僕は、そう言ったのだけど…
「なに? どうしたの?」
話の途中で腰を折られたので、カッちゃんは不満顔だ。
「いいから、早く!」
僕は二人をせかすようにして、足早に駅にむかう。
『これで、ひと安心』
二人が改札をくぐったのを見届けたところで、僕は向きを変えて歩き出したのだけど…
「キャ〜!」
「ウワ〜!」
さっきの方角から、一斉に悲鳴が上がる。
『?』
振り返ると…
『しまった!』
オッちゃんたちが向かった・ホームへの階段やエスカレーターの方から、改札に向かって殺到する人の群れ。
『やっぱり!』
何かが起こったに違いない。
『いそげ!』
刑事ドラマの新米デカは、「とにかく・まず走る」って相場が決まってるんだ!
『チッ!』
僕は、こちらに向かって来る人混みをかき分け、改札の方を目指すけど…
『まずい!』
ましてや、夕方の混雑どき。なかなか前に進めない。
『オッちゃん!』
改札の両脇に巡らされた柵。その手前側になる・右翼までたどり着いたところで、二人の姿を発見するけど…
『ヤバい!』
オッちゃんの後方で、群衆にもみくちゃにされ・逃げ遅れたカッちゃんに、後ろから男が飛びかかる。
『!』
そして男は…前にのめるように押し倒したカッちゃんの首筋に、かみついた。
「オッちゃん! 逃げるんだ!」
男は・その後、奥の方に横っ跳びで、新たな獲物めがけて襲いかかるが…
「ムクッ!」
起き上がったカッちゃんは…顔面蒼白。髪を振り乱し、白眼が真っ黄色に変色している!
「クソッ!」
次々に柵を乗り越えてくる人々で、僕も身動きが取れない。
「ブオン!」
でも・その時…
「ピ・ピ・ピ・ピ〜ッ!」
けたたましいクラクションの音と共に、一台のバイクが駅の構内にまで走り込んできた。
『あのバイクだ!』
そのバイクは、僕の目前で、尻を右に振って「ブレーキ・ターン」でピタッと止まる。
「メット貸して!」
『そこに誰が入っているのか?』
僕にはお見通しだった。
「イタタタ…」
そう呻くライダーは一切無視して、あごヒモがほどけるのも・もどかしく、両手でヘルメットを引っ張り上げると…
「オッちゃん!」
そう叫びながら、そのメットを両手で振りかぶって…
(僕は生まれつき、肩が弱いみたいだ。それで球技が苦手なんだろうけど…ただし、もともと背筋だけは、異常に強かった。それで、体育の時間のサッカーの「スロー・イン」だけは、僕の出番だった。それに・これなら、コントロールもバッチリ)。
「それっ!」
生涯最高! 一度きりの渾身のパス!
「行っけ〜!」
それをオッちゃんは、右に上体をひねってキャッチ!
「ヨッシャ〜!」
そして右足を軸にして、90度左に向きを変え…
「ドスン!」
まさに飛びかからんとする・元カッちゃんの顔を目がけて、ヘルメットを放つ。
「ヤッタ!」
顔面に強烈なトスをくらって、元カッちゃんがひるんだスキに…
「コッチだ!」
フェンスを飛び越え、オッちゃんのもとに走り寄って、手を取る。
「白鳥くん! 早く!」
皮ツナギ姿のケーコさんが、大きく腕を振って叫んでいる。
『?』
後ろを見れば…
『ゲッ!』
両手・両足で四つんばいになって、走り寄ってくる影。
『ヤバッ!』
とても、元カッちゃんとは思えない動きだ。
「タンッ・タンッ・タンッ…」
すぐ背後まで、迫った足音が…
「バサッ!」
飛び上がるような音に変わった、その時…
「ブシュ〜ン…」
そんな飛翔音が頭上をかすめ…
「ボムッ!」
次の瞬間、続いて・何かが破裂したような爆裂音が轟く。
「カッちゃんは?」
オッちゃんは、振り返ろうとするけど…
「見ちゃダメだ!」
『後ろで何が起こったのか?』
僕にはわかっていた。
「急いで!」
僕たちがケーコさんに先導されて、路地とも言えないようなビルとビルの谷間を抜けると…
『?』
路地の出口をふさぐようにピッタリと、バックで駐車したワン・ボックス車。開かれた後方のハッチバック・ドアから、中に駆け込む。すると…
『?』
左右の壁ぎわに・縦向きに据え付けられた、棚のようなベンチ・シート。その薄暗くなった右奥から…
「遅かったな」
そう声が掛かる。
『やっぱりだ!』
細くて・長い銃身の先に、トウモロコシみたいな形をした物が付いている。
『カービン銃?』
右眼に装着した・眼鏡みたいな物を、上側に折り上げたのは…
(何となくは、予想していたけど)。
やっぱり和男さんだった。
『なるヘソ!』
シートに横向きに座った和男さんは、よく見れば、闇に溶け込むような漆黒の戦闘服に、身を包んでいる。
(僕はオッちゃんを左奥に座らせて、その右隣りに腰を落ち着ける)。
「ちょっとアナタ! アブナイでしょ!」
最後に乗り込んだケーコさんは、後部扉を閉めながら、和男さんにむかって怒鳴り始めた。
(ドアが閉まると同時に、クルマは速攻で動き出す。ちなみに…横向き座席なら、シート・ベルトが無くても違法じゃない。自衛隊の兵員輸送トラックは皆、そんな造りになっている)。
「ああ、ワリー。衛星データーにリンクできない、屋内の有視界射撃だし…人混みだったんでな」
そう言って弁解するけど…
「髄液がかかっただけだって、感染するかもしれないのよ!」
右・後部に陣取ったケーコさんは、興奮状態だ。
「わかってるよ」
こうなると、和男さんも形無しだ。
「なんでアナタが前の職場クビになったか、わかる気がする〜」
どんな世界にも、それぞれの人間模様があるみたいだけど…
(前部の運転席に座っているのは、いつもの黒服だ)。
「ちょっと待って下さいよ、二人とも」
そこで、僕が口をはさむ。
「僕はいいとして…」
僕は、いつの間にか腕を回していたオッちゃんの左肩を、いっそう引き寄せる。
「あら、ゴメンなさい」
ケーコさんも、ハッと我に返って…
「このまえ以来のコンバット・シチュエーションだったから…ついエキサイトしちゃって」
そう言って、真横を向いて座り直すけど…
「だいたいアナタたち、いったい何者なんですか?」
こっちこそ、怒りたい気分だ。
「二人とも、回分みたいな名前なのってるけど…どうせ偽名なんでしょ?」
僕がそこまで言うと、和男さんが…
「まあそれは、アッチに着いてからにしようや」
それでひと区切り。
『それは・そうと…』
僕の左腕の中で、僕の胸に寄りかかるようにしていたオッちゃん。
『今度こそ僕は…』
確実に「男を上げた!」と思っていたんだけど…
『?』
フッと僕を見上げた、オッちゃんの最初のひと言は…
「あの女の人は誰? 知ってる人?」
『アイヤ〜!』
日本の昔の映画に登場する中国人役の俳優さんが、今なら「アチャ〜!」という場面で口にするセリフ。
『中国の人って、ホントにそう言うのかな?』
それに気づいた僕は…
『日本人は言わないよな』
そう思っていたのに…
『なんで?』
日本人である僕の口から…心の中でだけど…とっさに『アイヤ〜!』なんて言葉がや出るなんて、自分でも思ってもみなかった。
(きっと、曽祖父が観ていた、古い日本の戦争映画のせいだろう)。
「どういう関係?」
『今度はこれかよ!』
「ロリコン・シスコンの変態野郎」
(たぶん・まだ、「マザコン」のレッテルは貼られていない…はずだ)。
恋をするって、大変なんだな〜!
※ ※
「ふう〜!」
フライパンに敷いた油に、ボンヤリと自分の顔が映る。
『どうして、こんな事になっちゃったんだろ?』
そこにキャベツとモヤシを投入して、塩コショウを振りかける。
「ジュ〜ッ!」
(僕が初めて「あんなこと」を体験した晩。和男さんが気をきかせて、「肉々しくない物」を差し入れてくれた経験を活かし、「生々しい物」は避けてみた)。
昨夜は各所で、同時に事件が起こった。たしょう免疫のできていた僕と違って、オッちゃんは、かなりのショックを受けていた。ただ単に、「事件が発生した」というばかりでなく…
「カッちゃんが、わたしに襲いかかってくるなんて…」
中学で・私立の女子校に入ってからの六年来の親友を、突然、あんな形で失ったオッちゃんの心の内は、はかり知れない。
「仕方ないよ。発症した時点で、相手が誰かなんて、わからなくなってるんだから」
僕は、そんな事しか言ってあげられなかった。
(血液の体内循環速度は、時速200キロ。心臓から出た血液は、30秒以内で戻ってくる。忍者モノの漫画で、毒ヘビに噛まれた箇所を切って・口で吸い出すシーンがあったけど…『事実無根』。アッという間に、全身に回ってしまうらしい)。
「まあ、食べなよ」
僕が作った「野菜炒め」に…『ゾンビ除け』になるなんて、まったく信じてないけど…「お米」を炊いて、「海苔」と「冷奴」を添えた和食。
(「ひとり暮らし」を始めてから僕は、この程度の事なら、自分で出来るようになっていた)。
「うん…」
ひと息ついて冷静さを取り戻したオッちゃんは、目の当たりにした現実に気づき、かえって沈んで・落ち込んでしまった。僕だって…
『これから、どうなっちゃうんだろ?』
世間一般には、「パンデミクス」…
(「全国的」あるいは「世界的」大流行の病気=「パンデミック」の複数形。この件とは関係ないだろうけど…こちらの真夏・むこうの真冬に発生した南米のパンデミックや、現在アフリカ大陸でも、蚊やハエを媒介とした致死性の高い伝染病が大流行中らしい)。
そう報じられていたけど…戦後はじまって以来の、『戒厳令』並の厳戒態勢が敷かれていた。
(もっとも今の日本に、そんな制度は残っていないけど)。
それで、自宅に帰る術をなくしたオッちゃんと…自分のアパートに戻る方法の無かった僕。
(あの後、和男さんとケーコさんに連れてこられたのは、教授や博士に招かれた、あのビル。そこに、僕とオッちゃんは避難していた)。
教授と博士の姿は見えないけど…ケーコさんも和男さんも、黒服の男女も、忙しく立ち回っている。
「何か手伝いますか?」
僕がそう聞いても…
「あの子のそばにいてあげなさい」
そう言われたっきりだったし…第一、ここにいるのが一番安全だった。なんたって、頼りになる用心棒「シロ」と「クロ」もいる。
「仕方ないね」
それで僕たち…僕とオッちゃんは、このビルの一室で、夜を明かす事になったのだけど、ただ…
「お・に・い・さん!」
女の子が、ダダをこねる時や、不満をあらわにした時の節回し。
(ついでに「お・と・う・さん!」や「お・か・あ・さん!」も、みんな同じ抑揚になるのはナゼ?)。
かなえチャンは、何だか不機嫌だ。
「おねえさん」
オッちゃんの事を、そうは呼んだものの、なんだか・よそよそしいし…
『なんで?』
そんな、あわただしい・ひと夜が過ぎた翌朝だった。
「これがテロだとしたら、すでに日本は『戦時下』と言える状態でしょう」
テレビ解説者は、そう述べたてていた。
(普段は、テレビをまったく見ない僕だったけど…さすがに「釘づけ」だった)。
オッちゃんが、ソファをフラットにしたベッドで、再び寝入ったところで…僕は、帰ってきたケーコさん・和男さんと一緒に、休憩室的な部屋で多画面モニターでテレビ報道を見ていたのだけど…
『なるほどな』
監視カメラの映像によると…
・発券機の横に、フードをかぶった人物が置き去りにした黒いバッグ。
・それに目ざとく気づいた浮浪者が、それを手にする光景が映っている。
・やがて、カメラの死角になった柱の陰から、その浮浪者が身を躍らせて飛び出してくる。
そして、あの惨劇になった。
「いよいよ始まったみたいね…一斉蜂起」
とケーコさん。
「まったく9・11だなんて」
と和男さん。
「『アメリカ同時多発テロ』の日ですね」
と僕。
「あら、よく知ってるじゃない」
とケーコさん。
「これでも一応、受験生ですから」
僕は、さも得意気に、そう言ったのだけど…
「わかりやすい暗号だろ」
と和男さん。
『?』
どういうこと?
「日本人ではピンと来ないかもしれないけど…ナイン・ワン・ワンは、日本の119番よ」
ケーコさんが、そう言うけど…
『?』
まだ飲み込めない。
「アメリカで、救急車や消防車を呼ぶ時の番号だよ」
和男さんが、そう解説してくれる。
『なるヘソ!』
「事実か・どうか?」はともかく、なおさら・いっそう、それで「陰謀説」が生まれたワケだ。
(昔から、『真珠湾攻撃』や『同時多発テロ』は、「開戦の理由を作るために、わかっていながらやらせておいた」アメリカ政府が仕組んだもの…というウワサがある)。
それは、独裁国家でもない限り、戦闘規模の拡大した『ナポレオン戦争』の頃から、「民意」が獲得できなければ、指導者層が勝手に戦争を始めることが不可能になったからでもある。
(表現が悪いので、勉強した事がなく・単に字面だけで逆の意味に解釈している人が多いけど…「文民統制」という言葉の正確な定義は、民主主義的議会制や資本主義的経済制度の国家においては、「国民の同意」、つまり協力がなくては、何も始められないという事だ。だから、『日中戦争』や『太平洋戦争』開戦だって、軍部の独走とばかりは言えない。『日清戦争』『日露戦争』と勝ち続けて、うかれていた日本国民にも非がある)。
「アメリカに行ったら911…おぼえておきなさい」
ケーコさんが、そう教えてくれたところで、教授が姿を現わす。
(ついでに言っておくと…日本で「海難事故」が起きたときは「118」番。『海上保安庁』だ)。
「どうでした?」
和男さんが、テレビから目をそらして、入ってきた教授の方に振り返る。
「芳しくないな」
二人が座るテーブルの前に、資料であろう紙束を投げ出した教授は、眼の下に隈ができている。たぶん…
『徹夜明け?』
デスクのむこうのチェアーに、ドサッと腰を降ろし…
「最近、奴らの動きが活発になってきたとは思っていたんだが…」
左手で眉間のあたりをもみながら、背もたれにもたれるように反り返る。
「まだ、大きな行動を起こせるほどの組織力があるとは、思えないんだが…」
つぶやくように、そう続ける。
「どういうことなんですか?」
何やら、暗躍している勢力が存在するような言いっぷりだけど…
「何かの組織なんですか?」
新参者の僕には、何の事やら、サッパリだ。
「そろそろ君にも、知っておいてもらわなくちゃな」
教授は・そう言いながら、上体を起こす。
「さて! 何から話そう?」
そこで僕が…
「何が目的なんです?」
そう問うと…
「もちろん、世界制覇よ」
とケーコさん。
「と言うより、地球奪取かな」
と和男さん。
「僕らを、奴隷にでもする気なんですか?」
僕は想像してみる。
「そんな生やさしいものじゃない」
教授は、僕の空想を即座に否定して…
「最終的には、人類を滅亡させて、この地球を改変するつもりだろう」
『人類虐殺?』
『地球改造?』
そんな…大袈裟な。
「それで、あのウイルスを開発した?」
あの殺人的効果なら、大量の虐殺・殺戮には、お誂えむきだろう。
「いや、それもチョット違うんだが…」
そこで教授は、言葉を濁す。
「奴ら『コンキスタドレス』に言わせれば、『レコンキスタ』という事になるんだろうが…」
『?』
「世界史」で聞いた事がある、歴史用語だ。
「征服者」とは、16世紀に、中南米を征服したスペイン人のこと。
「国土回復」は、8世紀に、イスラム教徒に奪われたイベリア半島を、キリスト教徒が奪い返した出来事だけど…
『それと・これと、いったい・どういう関係があるの?』
余計に、話がややこしくなった気がするけど…
「過去の昔から、日本のみならず世界中で…」
教授は、さらに続ける。
「政治や宗教・民族や国籍などの思想や価値観の違い、富や権力・武力を中心にしたものなど、ざまざまな結社や団体が創設されてきたわけだが…」
たしかに・いまだに、怪しげなカルト教団的な宗教団体や、かたよった主義・主張を持つ政治結社の出現は、後を絶たない。
「今の世界には、『闇の勢力』とでも呼べるような、新たな組織が台頭してきているんだよ」
闇の勢力?
「まだ、世界的なネットワークを構築するまでには、至ってないんだがね」
そこで…
「それも、日本を中心にね」
と、和男さん。
「なんで日本なんですか?」
僕が、そう問うと…
「日本で組織されたからよ」
と、ケーコさん。
「どんな人たちなんですか?」
当然のごとく僕は、そう訊いたのだけど…
「人…?」
そこで教授は、不可解な反応を見せる。
「人と呼べるかどうか?」
『どうして?』
何やら、意味深な言い回しだけど…
「まあ、ひとまず…そういう事にしておこう」
『なんで?』
ひょっとして、「宇宙人」とか「異世界人」とか?
「奴らは、戸籍を持ってないのよ」
と、ケーコさん。
「皇族と同じだよ」
と、和男さん。
『どういうこと?』
無知な僕には、まったくピンと来ない。
「皇室の人たちは、戸籍を持っていないんだよ」
教授が、二人の後を受ける。
『なるヘソ!』
さすが、「天上人」らしい。でも…
「だから、本人たちの意思だけでは、結婚もできないんだよ」
と、和男さんが教えてくれる。
『マジ?』
それって、「民主主義の理念」に反してない?
『そんなところに生まれたら、大変なんだろうな』
「社長になりたい」というのは、よく聞く話だし…「出世したい」という人も、たくさんいるだろうけど…
(かつて、「天皇の地位を狙った」との風説のある、奈良時代の「道鏡」禅師じゃないけど)。
「天皇になりたい」という人には、会ったことがない。
「親は選べない」と言うけれど…血筋的に、無理な事がわかっているから?
『なら、「新皇」を称した、平安時代の「平将門」公みたいに、王様や皇帝でもイイんじゃない?』
そう思ったりもするけど、そんな人にも出会ったことはない。
『なのに…』
それ以上の事を企んでいるなんて…
「いつごろからなんですか?」
そんな壮大な計画。どれだけの年月で、やり遂げようとしているんだろう?
「たしか、まだ君が生まれる前の頃だったかな?」
教授は、記憶をたどるような表情を見せながら…
「だから、知らないかもしれないけど…ある宗教施設から、戸籍を持たない子供が保護された事があるんだ」
『無国籍?』
「まあ・その子に関しては、単に届け出をしていなかったというだけなんだが…」
『どうして?』
「教祖の子供じゃないかと言われたもんさ」
和男さんが、あきれたような口調で付け足す。
「それが発端になって、発覚したんだが…」
教授に続いて、ケーコさんが口をはさむ。
「その世界がすべてとなってしまった狂信的信者に、世間の一般常識なんて、通用しないのよ」
『わからない事じゃない』
僕だって、好きで「日本人」…どころか、「人間」なんかに、生まれてきたワケじゃない。気づいたら「人間」で、「日本人」だっただけだ。だいたい、それ以前に…
『僕は僕になりたくて、生まれてきたんだろうか?』
(もっとも、『誰かみたいに』と思った事はあるけど、『誰かになりたい』と思った事は一度も無いから…「人間」として生まれてきた以上、『僕は僕』でいいんだと思う)。
「実際かれらは、理想の王国を築くつもりでいたんだが…」
教授の、そんな言葉を聞いて浮かんだのは…
『昭和』の初期に「満洲事変」を起こし、『王道楽土』『五族協和』をスローガンとした「満州国」建国にかかわった人たち。きっと先頭に立ったのは…「アメリカ合衆国」が「イギリス連邦」から独立したように…独立国家の建設を夢見ていた、理想主義者ではないかと思っている。
(ちなみに「事変」とは、「宣戦布告」なしに勃発した戦争のことだ)。
そんな事に思い至った時点で、つい口をついて出たのは…
「選民思想を持った民族主義的オカルト集団」
スラッと出てきたのは、そんな長ったらしい言葉。
「ん? まあ、それに近いね。くわしい中身や内容については、まだまだ不明な点が多いんだけどね」
教授は僕の言葉を、なかば肯定してくれる。
「で、その事件の結末は…どうなったんです?」
僕が、誰とはなしに訊いてみると…
「教祖様が姿をくらまして、サッパリさ」
和男さんが、両手を広げて・肩をすくめる。
「数年間、土の中にでも埋まってたんじゃない」
ケーコさんが、サラリと言うと…
「おい!」
和男さんが、急に声を荒げる。
『?』
ケーコさんは、「テヘッ!」って顔をするけど…
「まあ、だいたいの見当はついているんだがね」
教授が、間に割って入る。
『なんか、変な展開』
でも…
「でも僕には、闇の組織みたいな話は、信用できないんですけど…」
ケーコさんは、『どうして?』といった表情。
和男さんもキョトンと、キツネにつままれたような顔。
「どういうことかな?」
教授も、『僕の発言には承服しかねる』といった呈だ。
「よく『陰の勢力』が、裏から人類を操っているなんて陰謀説があるけど、そんなモンは、あるわけがない」
僕の強い口調に…
「どうしてかな?」
教授も押され気味みたいだけど…
「いつの時代も権力者というものは、人一倍・自己顕示欲が強いものでしょ? 自分より劣っていると思っている一般人に、好き勝手な事をさせておくはず、ないじゃないですか。表の世界に出ないなら、それなりの理由が必要でしょ?」
そこで、ひと区切りを入れた僕は、続けて…
「永遠の命でも保障されているなら、待つこともできるだろうけど…」
一気に・そこまで言い終わると…
「ゴホン!」
そこで教授が咳払い。
「ひとつにまとまる以前に、内部の覇権争いが表に出たり、崩壊しちゃうんじゃないですか?」
最後に、問題提起。でも…
『?』
むしろ僕は、自分で自分にあっけにとられた。
『大人相手に、意見するなんて…』
どこに、こんな自分がいたんだろ?
『僕の中の「闇の勢力」?』
しかし幸い…
「なるほど!」
教授は・うなずいて、まともに受け止めてくれる。そして…
「奴らも『一枚岩』じゃないかもしれないって事か」
そうつぶやいては・考え込むように、部屋の中を歩き回りながら…
「そういえばわたしも、若い頃、いま君が述べてくれたような事を、友人に語っていたよ。ちかごろでは、知識や経験にばかり頼って、直感が足りなくなっていたようだ」
そう言った後で…
「そろそろわたしも、引きぎわかな?」
ポツリと一言、そう付け足した。
「ところで…それと、もうひとつ」
教授が、さらに話を続けようとしたところで、僕は…
「その前に…僕からも、もうひとつ」
と、教授の言葉をさえぎる。
「次は、11月の『ここのか』か、1月の19日じゃないですか?」
僕は…推測だけど…そうヒラめいた。
「ん?」
三人は、はじめ『何のこと?』といった顔をするが、すぐに気づいたようで…
「どうしてかな?」
和男さんもケーコさんも、こちらに耳をかたむけたところで…
「だって119…日本で緊急車両を呼ぶ時の番号ですよ」
『ハッ!』
三人は、顔を見合わせる。
「なるほど…」
教授は、考え込む時の「お決まりのポーズ」=左手をアゴに当てながら…
「その前に、何とかしなくては」
そうつぶやいた後で、こちらに目を向け…
「ところで…」
気を取り直したかのように…
「さっきの話の続きだが…君には・しばらく、姿を隠してもらいたいんだよ」
そう言ってくる。
「おそらく・すでに、君の存在は、奴らに知られてるからね」
いきなり・そんなこと、言われても…
「僕はイヤです!」
きっぱりと、断りを入れる。
「オッちゃんは…彼女は、どうなるんです?」
当然の帰結として…
「僕の存在が知れているなら、彼女だって…アブナイじゃないですか!」
はっきりと、抗議する。
「うう〜ん」
教授はしばし、考え込んでから…
「わかった! なんとかしよう」
という訳で…
「タラ〜ンッ!」
(アメリカ人が、いまだに使う口語式「信号音楽」)。
さっそく、その日の午後。
「それで、これなんだけど」
ケーコさんが、ソファに並んだ・僕とオッちゃんの正面に座りながら、広げて見せてくれたのは…
『安全・安心な場所で、受験勉強に専念!』
そんなチラシ。
「なんですか、これ?」
両手で広げて、読んでみると…
「良くデキてるでしょ」
要するに…よくある「転地セミナー」みたいなものだ。
「本物っぽいですね」
とは言ってみたものの…
「教授のアイデアよ」
策としては秀逸だけど…ご丁寧に、「後援:学生応援会」なんて、半世紀も前のような・古臭い架空の団体名まで入っているのが、かえってウソっぽい。
(自分で語っていた通り、そろそろ「退き際」なのかもしれない)。
「でも和男さんは、『できれば一家をあげて、疎開してもらいたいところなんだ』って、言ってましたけど」
僕が、そのチラシをテーブルに置きながら言うと…
「疎開って…いったい今は、いつの時代?」
「あきれ返った」という素振りでケーコさんは…
「だいたい、ニンニクやお米だなんて、迷信よ。アイツ単純なのよ」
和男さんが、いないのをいい事に、さんざんまくし立てる。
「ふたりは、仲、悪いんですか?」
僕が、『これは困ったぞ』という表情を造って、尋ねてみると…
「え?」
一転、『意表を突かれた』という顔つきに変わって…
「いや・まあ…まあ、仕事だからね」
とりつくろうように…
「射撃の腕は、マアマアだし…仕方ないでしょ」
そそくさと引き上げる。
『へへ…まんざらでもないくせに』
僕はオッちゃんと顔を見合わせて、腹の中でほくそえむ。
『とにかく…』
なにより親を納得させるのに、「事件のあった、この街をはなれて…云々」というのが、効果絶大だった。
(あまりウソ臭くならないように、別途料金は必要だったけど…超格安)。
「秋期集中ゼミ」という名目で、僕とオッちゃんは、しばらく・この街を離れることになった。