邂逅
四月も末の頃。
多くの日本の人々が新たな門出を迎え、既にその環境に慣れ始めていた。ある者は自身の居場所を見いだし、または作りだし、またある者は慣れない環境に心身を疲弊させ音を上げていた。
さて、そんな中で本日も彼、坂田 悳は自身の通う私立旭ヶ丘高等学校までの通学路を歩いていた。家を出てから電車に乗って一駅行き、そこからバスに乗って五キロの道を行く。バスを降りてからは丘の上にある学校までの坂道を百メートルちょっと歩いて行く。
坂道には旭ヶ丘高校の生徒達がいくつかの群を成して歩いており、先日のトピックス、今朝のニュース、これからの予定など他愛も無い話をしていた。
悳もこの坂道を上りながらいつものように何か面白いことでも起きないかなと考えていた。高校入学以来、これと言って特別な事が起こったことは無く、素敵な出会いなんかも無く、非常に起伏の無い高校生活を歩んでいる。今日もなんら事件なんか起きないんだろうなと思いながら、悳は坂を上り終え、校門を抜けていった。
*
「えー、と言うわけで、二次関数のグラフはこのような形になります。」
午前11時20分。三時限目の数学の授業中。教壇に立つ先生の二次関数の説明を受けながら生徒達が黙々とノートにペンを走らせているところ。
ボキッ
「あ・・・・・・」
悳がグラフの線を修正しようと消しゴムをかけたとき、五ヶ月間使い続けてきた消しゴムはぐにゃりと曲がり折れた。
悳の最後の中学時代を支え、受験さえ共に乗り越えた消しゴムは、今やその姿を炭でもって灰色に染められ、巻かれているカバーは表面のロゴがかすれており、大きさは親指第一関節の先の半分ほどに小さくなっていた。そんな消しゴムの最後の輝きは今まさに潰えたのだった。
(あー、やっぱり予備を買っておけば良かった。帰りにコンビニにでも寄って行くかな。)
自身の不用心さを嘆いた悳は折れた消しゴムの半分を使い、その授業を終えたのだった。それから、休み時間の間にクラスにいる友人達に予備の消しゴムを借りようと思ったのだが、誰も予備の消しゴムなど持っていなかったために、悳はその後の授業も指先ほどにまで小さくなった消しゴムで乗り切るしか無かったのだった。
そんなこんなで昼休みを迎え、午後の授業へと入り、遂に下校時間となった。やはり本日も取り上げて特別な事など何も起こらず、非常に平穏な日々を過ごすことができ、悳は部活へ向かうための準備を進めていた。そんな悳のところに一人のクラスメイトが声をかけてきた。
「おい、トッキー。今日は部活休みだって。先生が休みらしい。」
彼の名前は大谷 海斗。悳とは中学時代からの付き合いであり、この高校でも同じ部活に所属している。ちなみに、トッキーとは悳のあだ名である。
「え、なんかあったの?」
「噂によるとノロらしい。」
「ああ、それは休むな。」
そういうことで、悳達の部活は休みとなった。
「それじゃあ、一緒に帰るか。」
海斗がそう提案する。二人は家がそこそこ近所にあり、同じ駅を利用して通学している。なので、部活帰りなどはいつも一緒に帰っているのだ。
「ああ。そんじゃ途中でコンビニによって良いか?」
「別にそれくらいなら・・・・・・」
海斗が言おうとしたとき、彼のポケットに入っているスマホが音を立てた。彼はそれを取りだして画面を見ると、ゲッと言って顔をしかめる。
「悪い、また母ちゃんに買い物頼まれた。俺は先に帰らせてもらうよ。じゃあな。」
海斗はそう言ってそそくさと教室を出て行ってしまった。彼の母親は現在三人目の子供を妊娠中であり、よく彼にお使いを頼んでいたのだ。悳達が入っている部活は文化部の中でもかなり緩い感じのものだったので、彼が下校後すぐに帰るのはよくあることだったのだ。
「・・・・・・さて、俺もとっとと帰りますか。」
悳は机の中にあった教科書やノートをすっかり鞄にしまい込み、席を立って帰ろうとした。その直後、悳は後ろからまた声をかけられた。
「あの、ちょっといいかしら。」
その声に悳は少し驚いて後ろを振り向く。なにせ、彼女から声をかけられるのはこれが初めてであったからだ。そこにいたのは悳の隣の席に座っている少女神崎 律であった。
彼女は校内でも噂になるほど容姿が端麗であり、また、頭脳も明晰であることから、男子の中では時々話題の人物となった。
しかし、かといって悳にとってはそれほど興味のある人物でも無かった。もちろん悳も花の男子高校生。彼女の一人でも出来ないかなと考えることはある。だが、学校生活を送る中で異性同士がお互い交流する場面というのはそうそうある事でも無い。悳ともっとも交流がある女性は同じ部活内の先輩ぐらいだ。なので、クラス内では結局男子とつるむ事が多くなってしまっていた。
「えっと・・・・・・何?」
悳は驚いた事もあって非常に素っ気ない返事を返してしまった。
「貴方は確か坂田くんだったわよね。これから帰りだと思うんだけど、途中でコンビニには寄らない方がいいわ。」
「何で・・・・・・!」
何でそれを。と言おうとして悳はつぐむ。彼女が先ほどの海斗との会話を盗み聞きしていた可能性に思い至ったからだ。しかし彼女は悳の言葉を「なぜコンビニに行くなと言うのか」と受け取ったらしく、彼の言葉にこう切り返した。
「詳しい事は言えないけど、今行くと貴方にとって良くない事が起こるわ。だから、コンビニには絶対行かないように。」
律が言い終えると。廊下の方から彼女の友人が彼女を呼んだ。律はそれに応じ、悳の持っていた疑問を全て無視して去って行ってしまった。
「・・・・・・何だったんだ、今の。」
あまりにも唐突で一方的な展開に悳はどうして良いか分からず、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。それから彼はとりあえず帰ろうと言って、荷物をまとめて帰宅したのだった。
帰りの坂道の途中、部活に所属していない生徒や部活が休みとなった、またはさぼった生徒の中に悳の姿があった。彼は先ほど律から言われた言葉の意味をずっと考えあぐねていたのだった。
(うーん。さっきのは一体何だったんだろう。)
律から言われたことはあまりにも言葉足らずで、その意味を受け取ろうにも判断材料が少なかった。
なぜコンビニに行っただけで悪いことが起きるのか。その悪いこととは一体何なのか。そのそも、いつ、どこのコンビニに行ってはいけないのかなど、彼女に聞きたい事は山ほどあったが、当の本人は友達と一緒にさっさと帰ってしまったため、悳は消化不良のまま帰らざるをえなくなった。
しばらく考えて彼女の言葉の真意をいくつか思いついたものの、結局のところどれも本人に聞かなければ分からないことだったため、いつしか悳はそのことについて考える事をやめて、今日の宿題の遂行計画や今やっているゲームの攻略などに意識を向けたのだった。
坂を下りきった悳は帰りのバス停に向かった。たどり着いたバス停には旭ヶ丘高校の生徒や一般の人々が列をなして並んでいた。
(あーそうか。今日は部活が無いからバスはまだ来ないな。)
いつものような部活帰りであれば帰りのバスはほんの二、三分で到着するのだが、今回のように部活が無い時などは十五分ほど待たされるのだった。
悳はポケットからスマホを取り出して画面を開く。スマホの中にはいっているゲームアプリはどれも昼休みの間にスタミナを使い尽くしてしまって出来ない。かといってSNSなどを見る用事も特にないため、これで暇つぶしをすることは出来そうに無かった。
だが、実のところ悳には暇つぶしの案は持っていたのだった。それは、最寄りのコンビニに寄ることだ。高校からもっとも近くにあるコンビニまでは歩いて五分ほどかかる。高校の生徒達は帰りの際にこのコンビニをひいきにしているのだ。もちろんコンビニ側も生徒達を狙ってここに建てたのだろう。
往復十分ほどかかるこのコンビニであれば悳の暇つぶしにはぴったりだった。しかし、悳はこの案にあまり乗り気では無かった。直前に律から言われた忠告が気になってコンビニに行く気にはなれなかったのだ。
少しばかりの間悳は悩みあぐねてから、きっと悪いことと言ってもそれほど深刻な事は起きないだろう。なんらかの冗談か何かに違いないと思い、コンビニに行くことにしたのだった。
*
「いらっしゃいませー。」
コンビニに入ると男性店員のやる気の無い挨拶が迎えた。
このコンビニはその立地から、いつも旭ヶ丘高校の生徒達でごった返している。しかし、今日はかなり様子が異なっており、高校の生徒はおろか一般の人たちすらその姿は無く、店員と悳以外は誰も中にいなかった。
(・・・・・・なんか今日は変な日だな。)
悳は妙な違和感を感じつつもそれほど気にとどめる事も無く、文房具の置いてある棚へと真っ直ぐ向かい、消しゴムを手に取ったあと飲み物を買おうとジュースのある棚へと向かった。
(うーん、いつものように水にするか、それともコーラにしようか。小遣いは限られているからな。)
悳は棚の前でうーんうーんと悩み、しばらくしてこれに決めたとレモン果汁入りコーラを手に取ったとき、事件が起きた。
「いらっしゃいませー。」
コンビニの中に一人の男が入ってきた。男の服装はファスナーをしっかりと閉めた紺色のジャケットと色の落ちたジーンズであり、赤色のキャップとサングラスに黒いマスクで顔を完全に覆い隠していた。
男はおぼつかない足取りでレジに向かうとカウンターの上に大きなバッグを置き、ポケットから抜いた果物ナイフを店員に向けた。
「・・・・・・れ、レジにある金、全部、バッグに、入れろ。」
店員にのみ聞こえるような小さな声で男は店員を脅す。その態度は非常に頼り無いものであり、強盗に押し入ったとは思えないほど迫力が無かった。店員も男の様子には違和感を抱いたが、突きつけられるナイフに対する恐怖が勝り、素直にバッグの中に金を詰めだした。
(うわ、マジか。強盗とか始めて見た。)
コーラを手にレジへと向かおうと足を向けていた悳はそんなレジの有様に驚き、とっさに近くの棚に身を隠していた。悳は棚の影から目だけを出してレジの様子を伺う。
男は相当焦っているのか、店員に向かって早くしろと怒鳴り散らしており、店の中を見渡す様子も無かった。ナイフを持つその手は小刻みに震えており、呼吸も乱れている。店の中にほとんど人がいない間に強盗に入ったのを見ると、男は数日前からコンビニの客層を確認していたようだが、どうやら本番に緊張する質のようだった。
店員も男にはやし立てられながらバッグにお金を詰めているものの、時間稼ぎのためかその動きは非常にぎこちないものだった。
(まあ、とりあえずここは110番だな。)
悳はやけに冷静にポケットからスマホを取り出し、110番の番号を押そうとした時、後ろから首を掴まれ、後ろに引き倒された。驚きと恐怖で情けない悲鳴を上げそうになるのをなんとか押しとどめ、自身を引き倒した人物を確認する。
なんとその正体は学校で悳にコンビニに行くなと忠告をした神崎 律その人だった。彼女は真剣な表情で口元に人差し指を当て、静かにしろとジェスチャーをしていた。
「警察には既に連絡してあるわ。だから静かにして。」
彼女は非常に小さな声で悳にそう言った。
「・・・・・・なんで俺を引っ張ったんだよ。」
悳もなるべく声を殺しながら彼女に自身を引き倒した理由を問いただした。彼女が悳を引き倒したおかげで彼は悲鳴を上げそうになったのだ。聞かないわけにはいかない。
「あの男が振り返りそうだったからよ。あのままだった貴方は見つかっていたわ。」
「はあ?」
彼女からの答えは納得のできるものではなかった。なにせ彼らがいるところからは棚が邪魔をして犯人がいるレジはさっぱり見えないからだ。なのに、どうして彼女は男が振り向きそうだったと分かるのだろうか。
新たな疑問を悳は彼女に問いたかったが、これ以上声を出すと犯人に気づかれる可能性を危惧して、それ以上言葉は発しなかった。
二人して棚の影に隠れていると、しばらくして店員は男のバッグの中にお金をすっかり詰め終わり、男はそれを持ってコンビニを飛び出したのだった。
それから男が見えなくなってすぐに遠くの方からパトカーのサイレンの音が近づいてきて、すぐにコンビニに警官が到着した。
警官は悳と律、それと店員に少しばかりの間事情聴取を取った後、すぐに犯人の男の調査をするためにパトカーに乗って去って行った。
(はあ、まったくとんだ日だった。)
強盗に巻き込まれるというとんでもない事件に見舞われた悳は、素直に隣にいる彼女の忠告を聞けばよかったと後悔した。しかし、今は悲嘆に暮れている場合でも無い。先ほどから彼女に聞きたかった疑問をすぐに問いただした。
「・・・・・・なんで俺が強盗に巻き込まれる事が分かったんだ?」
「・・・・・・私、未来が見えるのよ。」
律から帰って来た答えは全く訳の分からないものであった。
「ラプラスの悪魔って呼んでいるわ。」