腐りゆく命
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うわ〜、やばい奴が出てきちゃったなあ。
これこれ。何ヶ月前に口つけたか分からない、飲みかけペットボトルだ。みんな部室をほぼ私物化してるから、いつかやるんじゃないかと思っていたが……処分だな、こりゃ。
お前さ、自分の部屋とかでものを飲み食いとかしてるか? 俺は家が厳しくて、許してくれねえんだよ。絶対に食べかすとかをこぼして、虫が湧くからってさ。いつも台所で食べることを呼びかけられている。
そりゃ、人間の身体を太らせるほどのカロリー含んだ食いもんだ。奴らからすれば、ほんのひとかけらだったとしても、飢えをしのぐには十分すぎる量だろう。ありがたがって、本能のままにたかるっていうのも、自然な行いかもしれん。
そう、自然なこと。俺たちは自然をねじ曲げ、自分に心地よい環境を作ろうと、今に至るまで心を砕いてきている。だが、砕いた心の破片はガラスと同じように、誰かの素足を傷つけているのかもしれないと、俺は最近、思い始めた。
こいつは友達の話なんだが……良かったら、聞いてみないか?
友達は小さい頃から、親の買い物に荷物持ちとして付き合っていた。
夏場だと、生の魚は傷みが早いし、冷凍食品類も家まで持たない。往々にして買った物を詰めるカウンターの脇、ドライアイスメーカーのお世話になる。
友達はその時間がささやかな楽しみだった。スーパーの出口付近に置いてあるガチャガチャや、ミニクレーンといった遊戯台を眺める時間ができるからだ。
お菓子や携帯ゲームの引換券が手に入る可能性があるそれらを、いつかはやってみたいと思っていた友達。けれど、買い物だけが用事の母親は、その前をさっさと通り過ぎてしまう。呼び止める勇気は、湧かなかった。
ドライアイスが注がれる間、遊戯台へ目をやる友達。ガチャガチャとミニクレーンの間には休憩用のベンチがついているんだが、今日はそこに男性がひとり、座っていた。
身なりがいいとはいえない。着ているワイシャツ、被っているソフト帽、青いジーンズに黒いスニーカー。そのいずれもが、ほつれたり穴が空いていて、かなりくたびれている。うつむき気味に目元を隠していて、かろうじて見える口には、おつまみのするめらしきものをくわえていた。
「汚いなあ」と子供心に感じつつも、ドライアイスの補充が完了。母親の下へ戻っていく。帰る際には彼の前を通る必要がある。母親が気にも留めずにずんずん進んでいく中、友達はほんのわずかに、男性を見やって歩みを緩めてしまったらしい。
ふと顔を上げた男と視線があった。寝不足なのか、両目の下にはクマができ、ほおも痩せこけていて、皮を一枚はがしたら骨がのぞくのではないかと思うほど。その茶色い虹彩が友達をとらえている。
思わず声を上げそうになりながらも友達は前へ向き直り、自分を引き離しかけている母親の背中を追いかける。親の車が発進するまで、あの男がまた現れるんじゃないかと、肝を冷やしていたそうだ。
家に帰るとすぐに「ものが傷むといけないから、冷蔵庫へ入れちゃって」という母の指示。これもすでに何度かしていること。野菜を野菜室に、魚類をパーシャルルームに入れて、飲み物も突っ込むと、ようやくひとごこちがつく。
買い物前に入れたパックの麦茶は、もうほどよく色づいていた。たっぷり冷蔵庫で冷やされた一杯は乾いた喉にうってつけだが、コップに注いで口をつけると、わずかに違和感。かすかに生ゴミの臭いがしたんだ。
一緒に飲んでいる母親は問題ないところを見ると、自分から臭うのかもしれない。あのスーパーでの男性を思い出してしまい、友達はその日、3回シャワーを浴びたそうだ。
それから数日後。家にあったアイスが切れてしまい、近くのコンビニへ買いにいくことになった友達。今回は親がそばにつかない、「ひとりでのお買い物」だ。友達は財布を受け取り、最寄りのコンビニへ向かう。
だが中へ入ることははばかられた。コンビニのゴミ箱は当時、まだ店外の入り口脇へ置くのが主流。よそで買い食いしたものの袋なども、通りかかったついでに放り込みやすかった。
そのゴミ箱の前に人がいる。しかもゴミを捨てているというより、狭い口の中へ手を突っ込み、中を漁っていたそうだ。こちらに背中を向けているが、そのくたびれた服装は、スーパーで見たあの男のもの。
思わず後ずさりする友達。でもここを諦めるとなると、次のコンビニまではそれなりの距離がある。「歩きたくない」と「近寄りたくない」が、頭の中でがっぷり四つを組んでいたが、男の追撃が決め手となる。
漁っていた彼が取り出したのは、破かれたおにぎりの包装、数枚。その内側に残るのりや、米粒に、男はかじりつき始めたんだ。
頭の中の「近寄りたくない」が、「歩きたくない」を思いっきり押し出した。友達はすぐさま次のコンビニへ向かって走る。それなりの距離を離してから、ちらりと一度だけ後ろを見やって、背筋が凍りそうになった。
男はがっつく手を止めている。スーパーで会った時のように、じっとこちらへ顔を向けていたんだ。
正直、しばらく外へ出たくなかったが、まだ学校は夏休み前で授業がある。登校せざるを得ない上、その日は運がなかった。
家を出てすぐの車道に、鳥だったものの残骸があったんだ。すでに何度も踏まれたらしく、肉はぺしゃんこにつぶれて絨毯のようになっている。車のドライバー達も、察した者はそれをかわしていくが、歩行者はそれだけじゃすまない。
腐臭が漂ってくるんだ。友達はもちろん、大人達の中にも鼻をつまむ者がいた。
――帰りには、無くなっているといいんだけど。
そう思ってしまったのが、運の尽きだったのかもしれない。
学校にいる間、友達は麦茶を飲んだ時と同じ、生ゴミの臭いに悩まされた。朝から着ている服はもちろん、今日はじめて着る体操着からも同じ臭いがする。給食も然りで、どうやら自分にこびりついているらしかった。
自分から出るもののせいで、自分が苦しめられる。こうも見せつけられると、ショックだ。今日は好物のすき焼き風煮だったのに、ひとくちくわえるのさえ、数分近い格闘を口内で繰り広げねばならない。
お残しは休み時間も食べさせられるが、それでも残さざるを得なかった。授業が始まる直前、特例措置としてオカズごとにラッピングがされ、キッチンペーパーに包まれる。「家でちゃんと食べろよ」という、先生のありがたい言葉と共に。
ショックを受けっぱなしの一日で、帰りの足取りが重くなる友達。すっかり鼻は馬鹿になってしまったようで、自分の臭いはもう嗅ぎ分けることができなかった。あの臭いがしみついた給食の残りも、食べずに家のゴミ箱へ捨ててしまうつもりだったそうだ。
だが、家の前まで来た時。あの男がまた姿を見せたんだ。今度は家の真ん前で、避けて通れない。その上、今は人も車も通らないのをいいことに、これまで以上の醜態を見せている。
鳥の死骸はもうない。だがそれがあったであろう箇所を、彼は犬のように這いつくばって、なめ回していたんだ。コンビニ前で見せたような、必死の形相で。
逃げよう。そうきびすを返しかけたが、直前に男がこちらを見る。しかも今度はそれだけでなく、四つん這いのまま思いがけない速さで友達の足にすがりついてきたんだ。
とっさのことで動けない友達。叫ぼうとする口を、汗ばんだ男の手がすかさず押さえてきた。漂う臭いは、今日一日、学校で嗅ぎ続けのと同じものだ。
泣きそうになる友達に対し、男は意外なくらいにしっかりする口調で尋ねてくる。
「君、持っているんだろう? 食べ物を。分けてくれないか?」
給食の残りのことだと、すぐに分かった。友達は叫ばないことを条件に、手を口から外され、ランドセルの中からキッチンペーパーの包みを取り出す。
驚くべきことだった。数時間の間にラッピングされたすき焼き風煮の具もタレも元の色を失い、黒と緑が絶妙に調和したものに変わっている。生ゴミの臭いもまた、いっそう強烈になり、まずさを引き立てている。あまりに早い傷み具合だった。
男性はそれをラップごと奪い取ると、ラッパ飲みの要領で、美味そうに口の中へ流し込んでいく。ものの数秒で飲み干し、ラップに残った汁もペロペロとなめとった男は、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。そして友達に向き直る。
「迷惑をかけたね。どうしても傷んだものが必要で、君に協力してもらったんだ」
――あの臭いは、やはりこの男の仕業……! でも、どうして? 身体もしっかり洗ったし、臭いが移ったままなんて考えられない。
友達の思案を察したのかどうか、男は腕を組んで続ける。
「冷蔵庫。非常に便利な道具だ。一定の低温に保つことで、腐りゆく定めにあるものを延命させる。人が生み出した、命の操作技術のひとつだろう。
でもね、腐敗とはもともと、それを神様が召し上がる兆しなんだよ。食べきれないもの、捨て置かれたもの、人目につかないもの……これらはすべて、神様のものだったんだ。
それが冷蔵庫のおかげで、人間はすぐに食べないものをとっておくことができるようになってしまった。場合によっては、何ヶ月、何年も口にしないものを、大事に大事に溜め込むことができる。己の不当な行いを、無理やり正当化するんだ。なかなかひどいと思わないかい?
だからこうして、見苦しい真似をしなくちゃいけなくなる。腐敗を探し、作らなくてはいけなくなる。君が持ってきてくれて助かったよ。もしも残さなかったら、あのまま君を腐らせなきゃいけないところだった」
男性はそのまま去って行く。一刻も早く家に飛び込みたかったのに、男の姿が見えなくなるまで、友達の足はすくみ、口はこわばって何もできなかったとか。
身体の自由が利くようになると、友達は自分の部屋に飛び込み、その日はもう外へ出なかったらしい。あの身体からの異臭は、気づいた時にはもう、きれいさっぱりなくなっていたとのことだ。