透明少年
「謝らないでよ」
「謝らないでよ。」
あの日君はそう言った。
あのバス停で。
冷たい雨が降っていた、あの日に。
僕と同じ、痣をつくって。
淡い空があの日によく似ていたからか、僕は昔の事を思い出した。
高校生だったときのこと。
生きるのに精いっぱいで、家に帰れば毎日殺されかける。
そんな日々に絶望を浮かべて、この世のすべてを呪っていた。
消えない痣と、心が軋む音。
「いっそ楽になりたい。」
そう思うことだってあった。
でも、死ぬ勇気がないから。
無理だった。
そんな弱い自分も嫌いだ。
こんな僕でも、優しくしてくれる人がいた。
あのバス停でいつも出会う、彼女だ。
年は僕と同じぐらい。
学校に行っているのかもわからない、長い髪の少女だった。
彼女は僕と同じ痣を浮かべていた。
真っ白い肌に着いた赤黒い模様は,その白肌に咲いた花のようだった。
「誰も私のことなんていらないの」と彼女は笑う。
その目はどこか寂しげで、瞳の奥が黒く塗りつぶされていた。
「少なくとも、僕は君の事を必要としているよ」僕がそういうと、彼女は嬉しそうに笑った。
一度だけ、将来の事を話したことがある。
「僕、大学に行きたいんだ。」と僕が言うと、
「絶対いけるよ。」と嬉しそうに言う。
「でも、あいつらが金を出すとは思えないし、いけないんだ。」
「早く自由になりたいんだ。」
僕は夢を語った。
僕は、彼女に夢を聞くと。
「私に未来なんて、ないから。」
と彼女は答えた。
そんなことないなんて、簡単には言えなかった。
彼女がどんなことを考えて、そんなことを言っているのか僕にはわかっているから。
彼女との時間は、楽しかった。
同じ苦しみを分かち合い、傷を舐めあった。
誰もいないところで、傷を見せ合っては慰めあった。
抱きしめて、唇に触れて、お互いのぬくもりを感じていた。
他の誰かが見たら、恋人同士に見えるのかもしれない。
でも違う。
恋とはまた違う、僕たちだけの関係なのだから。
彼女と過ごした後、家に帰ると大人たちの怒号を浴びせられる。
痣が増えていくばかりで、苦しかった。
家に帰ってからでも、ぬくもりを感じられるようにと彼女が手紙を書いてくれた。
これで、今日も一日生きられる。
この手紙は、僕のたった一つの宝物だった。
ある日、その手紙を父親が燃やしてしまった。
僕の中にある何かが、こみあがってきた。
怒りに近い、執着心だった。
それから、ぼくは家を飛び出し、あのバス停に行った。
当然、こんな時間に彼女がいるわけもなく、一人でベンチに座った。
いろんなことを考えた。
いっそ、全部なくなってしまえばいいと思った。
あの家を燃やしてしまえばいいと思った。
そうしたら、全部なくなる。
あの家も、あいつらも。
全部。
ゆっくり、ゆっくりと溶けていく。
そんな想像をして、一人で泣いた。
空が明るくなり始めていた。
視界が青くなりはじめ、ため息をついた。
今日も、いつものバス停には彼女がいる。
それだけを頼りに、僕は日々を過ごしていた。
いつものように、バス停で彼女を待っていたが、今日は彼女が来なかった。
こんなこと初めてだった。
それから何か月も、彼女はバス停に来なかった。
もう、春が近づいている。
あれから毎日、彼女を待っている。
彼女のあの痣も、あの匂いも、あの黒髪も、全部覚えているのに。
卒業式のあと、僕はあのバス停に足を運んだ。
すると、見慣れた小さな影がそこにあった。
僕は、彼女の名を呼んだ。
彼女が振り向く。
彼女の目には眼帯がつけられていて、前の傷よりも痛々しかった。
彼女にいろいろなことを聞いた。
だが、一言も話してはくれなかった。
しばらくの間、沈黙が続いた。
すると、彼女の重い口が開いた。
「これを渡したくて。」
受け取った紙袋の中には、大量の札束が入っていた。
「大学、頑張ってね」
彼女が微笑む。
なにひとつ変わらない、あの笑顔で。
「こんな大金・・・どうして」
僕が彼女に問う。
「君は自由になって」
と彼女は言った。
「君はどうするの?」
と僕が言うと、彼女は
「あなたにだけは、幸せになってもらいたいの。」と言った。
視界がぼやけて、たくさんの青が僕の中からあふれてきた。
僕は自由になれるのに、きみは自由になることができない。
また、あの苦痛に耐えなければならない。
こんな大金があれば、違う街に行って暮らすことぐらいできるだろう。
彼女はそれをしなかった。
僕のために。
こんな僕のために。
「次のバスに乗れば、あなたの行きたい街に着くよ」
「あっ、ちょうど来たみたい。」
「早く行って。」
僕はバスに乗ることができなかった。
無理だった。
僕には、その痣を消すことができなかった。
「ごめん。」
僕がそういうと、彼女は
「謝らないでよ」と言った。
彼女は泣いていた。
僕はバスに乗った。
雨が窓ガラスにあたっていた。
僕は君を見た。
傘をさして、背を向けていた。
その背中が遠ざかっていく。
その長い髪も、
小さな背中も、
優しい声も、
小さな手も、
君の傘の色も、
全部覚えてる。
君がいない世界で、僕は自由になっても透明なままだ。
君を見捨てた。
それだけは確かだ。
ごめん。
あれから数年後、僕はあのバス停に行った。
痣も消え、君との接点がなくなってしまったようで悲しかった。
バスを降りて、ベンチに座った。
「ただいま。」
そういって、ベンチに花束を置いた。
かじかんだ手を、ポケットに入れて微笑んだ。
「また、会いに来るからね。」