そこにいるのは白い猫、でも名前はクロ。
田畑家で飼われているペルシャ猫は、いつも機嫌が悪そうな顔をしている。それもそのはず、その猫は自分の名前を気に入っていなかったのである。
「ニャ」
「こらダメでしょう、クロ~。餌を散らかしちゃ」
そう、その猫の名前は『クロ』という。だがしかし『クロ』という名前の響きが気に入らなかった訳ではない。なぜなら猫の名前といえば『クロ』は定番であって恥ずかしくはないし、語呂も良くて愛着がわきやすいからである。ただ一つ問題だったのは、田畑家で飼われていたその猫の身体は、とても白かったということだ。
つまり、その猫の毛並みは純白であったのにもかかわらず、なぜか毎日、飼い主からは『クロ』と呼ばれ続けていたのである。
「ニャ~」
「ん? 何、もっと餌が欲しかったの?」
その猫の名付け親である飼い主(田畑信一郎・三十六歳)は、変わり者である。
なぜなら、穿いている靴下はいつも左右の色が違っていたし、食事の際には菓子パンであろうとカレーライスであろうと何だろうと、全てケチャップをつけて食べるのが習慣だったからである。
まぁしかし、こんな男でも一応、家族はいるのである。同い年で、腰まで伸びる長髪が似合う美しい妻と、小学五年生になった可愛い一人娘である。
それでも現在、男は単身赴任中であり、家族とは離れ離れの生活を送っている。月に一度、家族と会えるか会えないかという暮らしであるが、男はそれほど寂しくはなかった。
なぜなら男の住む部屋にはいつもクロが待っていてくれたからである。仕事から帰宅した男をいつも玄関で出迎えてくれたのは、大人しく上がり框に座っていたクロだった。クロは男が帰宅したのを見届けると、機嫌が悪いのか悪くないのかわからない顔で、しっぽをゆらゆらと揺らしながら、猫用の寝床へと戻っていくのである。その癒しの光景は男にとって、一日の仕事の疲れも吹っ飛ぶものであった。
その癒しを提供していたクロは、男が単身赴任をする前から家族全員で飼っていた猫である。
男が単身赴任をすると決まったときも、当初は妻と娘の二人が、クロのことを引き続き面倒を見る予定だった。しかしそれは、男が家族と離れ離れになる日に変わってしまったのである。
「じゃあね、あなた。身体には気をつけて」
「バイバイ、お父さん……」
男が転勤先へと引っ越す日、妻と娘は上がり框に立って別れを惜しんでいた。二人のその目には涙が浮かんでいる。一家の大黒柱が遠くの町へ行ってしまうのだから寂しいのであろう。
それは男も同じだった。愛する家族を残して自宅を去るのがあまりにも辛かったのだろう。
その男は、二人と別れる間際になって、たまたま自分の足元にいた『クロ』をその腕の中に抱き締めたのである。そしてそのまま、クロを抱いたまま、男は小走りで自宅を後にしたのだった(そのため現在、男の住む部屋にはクロがいるという訳である)。
その日、妻と娘は悲しい涙を流しながら見送っていくはずだったが、猫を抱いて逃げた大黒柱の後ろ姿を見た瞬間、その感動は消えてしまったようだった。
「ちょ、ちょっと何? 何で勝手にクロを連れていくのよ、信じらんないっ」
「お父さんのバカァ~~~うわぁ~ん(涙)」
その一件があってから、男は月に一度、家族と再会したとしても、娘は一切口を利いてくれなかったという訳である。
*
「本当にお前は、クロワッサンが好きだよなぁ~。やっぱり『クロ』という名前にして正解だったな」
「ニャ」
日本晴れのある日のことである。その飼い猫はついに、自分の名前の由来に気がつくのであった。
つまり、その猫の名前は色からきているのではないということを知るのである。その飼い猫の正式な名前は、『クロワッサン』という。そう、クロワッサン、略して『クロ』なのであった。
男の住む部屋には、日曜日の正午になると、クロワッサンの良い匂いが立ち込める。
なぜならそれは、男がつい先ほど買ってきた自分の昼食だからである。猫はその匂いに気づくと、しっぽをピンと真っ直ぐに立てて男の足元へとすり寄ってくる。そして、男が手提げ袋からクロワッサンをとり出すと、その猫は今までに見せたことのないような微笑みの表情になるのである。
それはとても貴重なことであった。その猫は普段、飼い主に笑顔を見せるなんてことは決してしなかったのである。いつも機嫌が悪そうな顔で部屋の中を行ったりきたりするのが日常だったのである。例え、男が猫じゃらしで興味をそそろうとしても、お腹いっぱいになるまで餌を与えたとしても、とても綺麗なメス猫の写真を見せたとしても、クロはいつも不機嫌そうに飼い主のことを見上げるだけだったのである。
そんな猫が、なぜかクロワッサンの匂いを嗅いだときだけ、目を細め、口角を思い切り上げて、笑ったような表情を見せるのである。
という訳で、それに気がついた飼い主が、その猫のことを毎日、『クロ(ワッサン)』と呼び続けていたのである。
クロは、良い匂いにつられてリビングにあるソファーの上に居座った。目線の先には、卓袱台があった。卓袱台の上には、美味しそうな匂いのするクロワッサンがお皿に置いてあった。
しかし、クロは決してクロワッサンを食べるということはしないのである。
なぜならそれは、飼い主と決めたルールだからである。猫は猫用の餌だけを食べて生きていく、という決まりを律儀に守っていたのである。
それに、その美味しそうな匂いのクロワッサンを食べてしまったら、もうそこで楽しみが終わってしまうことを猫は知っていたのである。食べずにずっとクロワッサンを眺めていれば、永遠にその良い香りを嗅ぎ続けていられると思い込んでいたようである。
だがしかし、そうして香りを楽しんでいた五分後には必ず、邪魔者が現れるのであった。
それは、ケチャップを片手に持った飼い主である。猫が見ている前で、男は満足そうにクロワッサンを全て平らげてしまうのである。
おかげで猫の機嫌は悪くなる一方である。そんなときクロは、邪魔者の身体を思い切りパンチするのであった。
「痛ぁ~い」
「ニャァ」
飼い主は自分の身体をさすりながら、口を尖らせて文句を言うのだった。しかし最後には必ず、「ごめんよ、でもこのクロワッサンは僕だけのものなのさ」と謝って、そのお詫びに、クロの頭を優しく撫でてあげるのであった。
頭を撫でられていたその猫も変わり者である。
なぜなら本当は、頭を撫でられて嬉しいくせに、飼い主の前では絶対に喜ぶそぶりを見せないからである。
クロは機嫌が悪いのか悪くないのかわからない顔で、しっぽをゆらゆらと揺らしながら、飼い主に背を向けて自分の寝床へと戻るのであった。寝床にあったクッションに隠れるようにして丸くなると、その猫はやっと素直に微笑むのである。頭を撫でられたことが嬉しかったようである。
「クロ~? クロ~? どこ行った~?」
飼い主の呼ぶ声が聞こえてくる。
自分の寝床で丸まっていたペルシャ猫は、その声を聞いて、いつものように不機嫌そうな顔に戻った。そして、けだるそうに身体を起こし、飼い主のもとへゆっくりと歩いていったのである。




