下
僕らは結局将棋崩しに決着をつけないまま、片付けを始めた。四畳半の部屋を出て、ありさが先ほどまでいた大部屋に戻る。
二人の間に、会話は無かった。
蛍光灯の明かりをつけると、小学生も帰ったのだろう、誰もいなかった。僕達の将棋盤と駒達は片付けられないまま、まだそこにいた。
「宮福さん、慌てて出て行ったのかしら」
先生の声が聞こえて後ろを振り向く。
その手には、彼女が必死になって書いていたノートと、あの将棋セットがあった。
先生はノートの後ろの方を開いた。
それに目を通した瞬間、悲しそうに口元を無理矢理上げる。
すぐにそれを僕に見せた。ページは先生の瞳の色のように黒く染められていた。そこには、一つの言葉しか書かれていなかった。
その言葉だけが、そのページの見開き分、一面に書かれていた。
「くやしい」
くやしい、くやしい、くやしい……と、まるで何かの呪いの言葉のようにそれらは綴られていた。
先生は有本君、と口を開いた。
僕はその目を見て、固まった。彼女の黒檀のような瞳は、真っ直ぐに僕を映し出していた。
その中に映る自分は米粒位小さかった。
しかしその後、彼女は沈黙した。僕はうつむき、唇を噛んだ。
気づかれていたのだ。僕がわざと、手を抜いていることに。
「僕は、間違ってなんか、いません」
出た言葉は途切れ途切れで、言い訳にすらなっていなかった。ただ強がっているだけだった。
「友達は大切にって言うじゃあ、ないですか。大切なものは、守らなくちゃ、いけないんでしょう……」
間違っているのは分かっていた。
それでいて教室を辞めると言った彼女に対し僕は怒ったのだ。
僕は何をやっているのだろう。
将棋盤に置かれた王は、まだ金や銀に攻められたその状態を保っていた。
ありさの弱さに気づいたのは、一年前だ。桂馬は歩に捕まりがちだし、すぐに角を進めたがる。角を中央に置くというのはよくある手ではあるが、序盤から出しすぎるとすぐ相手の護衛駒の餌食となる。
将棋においてもっとも大切な先を読むという行為が、彼女は苦手のようだった。
しかし僕は、それを見ないふりしていた。僕にとってのアリスを、失いたくはなかった。アリスは、間違っていることは間違っていると言い、あきらめるようなことはせず、いつも笑っているような人物だったはずだ。
ありさは違った。僕があの角を無視して飛車を進めたとき、彼女は何も言わなかった。ありさはアリスのような強い人間ではなかったのだ。
一体僕は、彼女にどれだけのものを求めていたのだろう。
「後から来た人に、しかも怒ろうにも怒れない大切な人に、追い越され、置いていかれる気分、あなたには分からないでしょうね……」
先生は遠い目をして次のページを何気なく捲った。
僕は顔を上げ彼女の方を見たが、やはり何も言えなかった。
何もできない真っ白な手を見て、ありさのあの日に焼けた手を、そして対局しているときの笑顔と真剣そうな表情を思い出していた。
先生は僕の方にノートを向けると、前のページとは対照的に真っ白なページを指差した。
そこには中央に小さく一文だけ、丸い字で記されていた。
「もう一度、真剣勝負、したかったな」
駒が盤とぶつかる、あの心地よい音が聞こえた気がした。
僕は黙ったまま、先生の手からプラスチック製の将棋セットとノートを取った。自分の学生鞄を肩にかける。既に頭の中は彼女の笑顔のことしかなかった。
ノートは長年使ってきたからか端が丸くなっていた。将棋セットはパッケージの隅が削れ、中身がのぞいていた。
支払い済みシールは無理に取ろうとしたのか途中まで剥がれ、その裏は箱の紙の部分が張り付き灰色になっていた。
先生は静かに微笑んでいる。
不安と後悔、そして羨ましさの混じった瞳がこちらを見ていた。
不意に僕と話すときの真剣な表情と、さっきの台詞が頭の中を回る。
……僕は初めて、何故勝負にこだわらない彼女がしきりに大会に誘うのかを理解した。
自分自身にはどうすることもできない罪悪感で一杯になった。僕はどれだけ、ありさと先生を傷付けてきたのだろう。自然に視線が下を向く。
その時、頭上から澄んだ声が聞こえてきた;。
「今なら間に合う。帰りの列車はまだ来てないわ」
先生は僕に何かを握らせた。指を開いていくと、そこにあったのは将棋崩しで先生が取ったはずの、あの角行だった。
行の字が消えかかっているそれは、しかししっかりとそこに存在し、手のひらの上で確かな重みを保っていた。顔を上げると、そこには寂しくも美しい大人の姿があった。彼女の瞳は揺れ動いていたが、その口元は緩やかに上を向いていた。そっと渡された駒を握り締める。
「先生、僕、次の大会に出てみます」
少し驚いた顔をした彼女は、そう、とだけ言った。
その瞳に向かって僕は一つ頷くと、ノートと将棋セットを抱え込んだ腕に力を込めた。