中 その2
ありさの邪魔をしてはいけないからと、僕らは一つ隣の、小さな和室へと移った。四畳半ほどしかないその部屋は、少し黄ばんだ色をした襖を閉めると、まるでそこだけ切り取られて孤立してしまったかのように静まり返る。
「それでは始めましょうか」
先生は教室の中でも最も古く、傷んでいる将棋盤を持ってきていた。他と比べるとへこみが多い。駒はまだ手のひらサイズの箱に入れられたままだったが、僕は正座をしお願いします、と頭を下げた。
彼女はにっこり笑うと、駒の入った箱のふたを開けた。先生の人差し指は、日頃の家事のためかひび割れてはいるものの健康的な肌色で、短く切られた爪は淡いピンク色で染められていた。
先生は箱の下の部分を持つと、盤上にひっくり返した。
遠心力の働きで、箱は駒が外に転げ落ちる暇もなく、小さな音をたて将棋盤の網目模様の上に着地した。続いてそっとそれを上に持ち上げる。駒達は綺麗な長方形を保ったままだった。手前の方にある角行は、行の字が消えかかっていた。
僕は首をかしげながら言った。
「将棋崩し、ですか?」
小学生達が遊びでやっていたのを思い出す。音をたてず、一本の指のみでひたすら駒を盤の外まで運び点数を競う、そんなゲームだ。音をたててしまうまでそのプレイヤーはいつまでも駒を移動させることができる。この世の現実を表している気さえする、妙に奥の深い遊びだ。
「そう。ルールは知っているでしょう?」
はい、と情けない声が出る。先生の瞳は墨のように黒く、何もかもを吸い込んでしまいそうなくらい澄んでいた。
「じゃあ有本君から」
僕はありさと将棋を指すときのようにそっと指を伸ばした。先生の視線がこちらに向いているのが分かる。将棋崩し自体は知っていたが、やったのは一度か二度だ。
僕がどれを取ろうか迷っていると、先生は不意に
「有本君はやっぱり、大会とかには出ないのかしら」
と言った。彼女の声は不思議と震えていた。僕はやはり首を横に振る。
「先生にとっての将棋は、頭を動かすためのものなのでしょう?」
適当に言ったこの一言で、目の前にいる女性は何故か黙り込んだ。小さくごめんなさいね、と呟く。答えないまま、目の前に集中する。
最初に指が触れたのは角だった。横向きに立てられたそれは、いつもの感触とはまるで違っていた。触れた瞬間、長年触られていない冷たさを感じた。足場がへこんでいるのか、それはひどくぐらつく。ささくれ立っているのか、木の幹を触っているような感覚が人差し指を通して伝わってくる。わ、と不安の声が上がり、それは安定しないまま小さな音をたて倒れた。裏面の龍馬のかすれた字が現れる。ずっと、ありさのあの睨みつけるような目が頭を離れなかった。
先生は倒れた角を取ろうとしなかった。山の反対側にある歩を見つけると、人差し指ですばやく手前に引いた。盤外に落ちたそれは、彼女の前に並べられた。
「有本君」
歩の隣にあった、横向きに立てられた金を人差し指で押さえつけながら、先生は言った。
「宮福さんから、何か聞いているかしら」
振られた本題に、首を振る。彼女が何かを隠していることは分かっている。友達なら何でも話して、とTVの中で以前アリスが言っていたのを思い出した。僕らは友達ではあるはずだったが、ありさは何も言わない。自然と眉が寄る。
先生は少しためらいの表情を見せた後、口を開いた。
「彼女、今日で将棋教室を辞めるんですって」
その瞬間、僕は立ち上がった。息が詰まるのを感じた。
彼女の寂しげな笑顔と僕を睨みつける瞳が頭の中で回る。衝撃でぎりぎりのバランスを保っていたいくつかの駒と、先生が押さえていた金が倒れた。その音で僕は我に返った。彼女は不安と自己嫌悪を混ぜたような、複雑そうな顔をしていた。真っ黒な瞳は揺れ動いていた。僕は自分ですら分からないほどの小さな声で、謝罪の言葉を口にした。先生は押さえていた指を離し、座って、と手のひらを見せた。
「あきらめるなんて、聞いていません」
自分のこぶしを握り締める。爪が皮膚に食い込むのを感じる。僕を将棋の世界に誘い入れた彼女が、自ら退くなんて考えたことも無かった。アリスだって言ってたじゃあないか。あきらめちゃ駄目だと。私は逃げないのだと。ありさはアリスではなかったのか? 将棋盤上の龍馬を睨みつけたが、それは何も言わずにこちらを見ているだけだった。
「何故、ですか」
声はどうしようもなく震えていた。
先生は何かを憐れむような、悲しむような、そんな顔をして下を向いた。
「間違っていることは間違っているかもしれない。でも、正しくないことが間違っているとは限らない」
あなたには分からない、唇が小さく動く。私もそんな体験をしたことがある、とでも言いたげだった。僕は腰を下ろし、乱暴に倒れた金を人差し指で盤外まで出した。正面から自分を否定された気分だった。縦向きに立てられた飛車に指をかける。角を取る気にはなれなかった。一気に引こうとしたせいか、飛車はむなしい音をたて、倒れた。先生は素早くそれを取った。そのまま金、桂馬、香車を盤外へ出していく。
僕は耐えられずに口を開いた。
「彼女は、間違っています」
その時、僕の台詞をさえぎるようにして大きな物音が壁の向こうから聞こえてきた。先生が驚いた表情で襖を開く。
そこには、座り込んだありさがいた。困ったように、腹が平らになった人差し指で頬を掻く。しかしその口元はへの字に曲げられ、目は潤んでいた。再び息が詰まった。そんな、よくある子供向けのアニメでもあるまいし――。状況がうまく飲み込めないまま、僕の目は大きく見開かれ、喉の奥が焼けるように熱くなる。
「今まで、ありがとう、ございました」
彼女は深々と頭を下げ、立ち上がるとそのまま走り去っていく。はるか遠くで、公民館のドアが開閉される音が聞こえた。
先生の言葉と、アリスの言葉、そしてありさの言葉が頭の中で反芻した。
先生は何も言わずに、角を盤外へ落とした。