中
「負けました」
僕はそう言うと、頭を下げた。彼女も小さくお辞儀をする。
「疲れた……」
周りを見れば、ほとんどの子供達が対局を終え、帰る支度を始めていた。その表情は笑顔と、悔しそうな顔との二つに分かれている。
微笑ましくてつい口元が緩んだ。
彼女は顔を上げ、首を振って一つ結びにした髪を揺らした。
そばに置かれた中学校の学生鞄から一冊のノートと下敷き、筆箱を取り出す。ノートの見出しには「将棋同好会 記録と反省」と丸っこい字で書かれていた。それを見つめ、彼女は鮮やかな向日葵の花のように笑った。
「いつもよりちょっと調子が悪かったみたいだけど、どうしたのかな? 寝不足? いつものアニメの見すぎかな」
変にテンションの高い彼女は、こちらを向いて矢継ぎ早にそう尋ねる。僕は苦笑いをしつつ答えた。暑くも無いのに背に一筋、汗が流れる。
「昨日は木曜日だったから。ありさも一回見てみなよ。『間違っていることは間違っているもの。私は逃げない! あなた達なんかに屈したりはしない!』……最高だった」
ヒロインのアリスが魔法少女に変身して悪の軍団と戦う、そんな物語に僕は毎週胸を弾ませている。
実際に放映している時間帯は学校に行っているため録画して帰宅後見ることにしている。
正しいことは正しい。
間違っていることは間違っている。
そのキャッチフレーズが素晴らしいのだと、僕はぎこちなく彼女に言った。
それは幼稚園児向けのTVアニメであって大樹が見るようなものではないのだけれどね、とありさは呟く。
その顔を見て、僕は眉をひそめた。
彼女の表情が、先ほどとは打って変わって寂しそうだったのだ。
「間違っているものは間違っている……か」
彼女は小さく笑ったが、視線は下を向いていた。
あまりの豹変ぶりに戸惑いながら同じように盤を見下ろすと、金と銀が僕の王将の前で王手をかけていた。さらにその少し後ろ側には角の姿もある。彼女お得意の詰め方だ。
彼女側には取られた僕の飛車と金。
これでは今どこかに逃げたとしても、確実に王は取られてしまう。護衛をなくした彼は、一人金達に追い詰められていた。
ガラス張りにされたドアの外を見れば、日が落ちるのが早くなってきたのもあるのだろう、真っ暗になっていた。あまり手入れが行き届いていないのか、腰の高さまである細長い草が静かに揺れている。何かに責められている気がして、僕は思わず目を背けた。
ありさは壁際まで行くと、正座をしてノートに文字を綴り始めた。
下敷きを敷いてはいるものの、膝の上で書いているからかぐらついているように見える。その姿はただ反省を書いている割には必死そうだった。
何を書いているのか気になり、近寄ろうとする。
その瞬間、彼女はノートを閉じるとそれを胸に抱き、こちらを睨みつけた。
思わずえ、と声が漏れる。
今まで彼女がこんな表情を見せたことは無かった。
いつも笑っている魔法少女アリスのような彼女は、僕の憧れだった。
しかし今は敵を見つけたような目でこちらを見ている。
僕は目をそらした。
次の瞬間、ありさは一つ肩を震わせ、何かに気づいたかのようにこちらを見返した。しまった、口が小さくそう動いた。
「ごめん、なんか最近疲れてて」
そうかすれた声で言い訳すると、再びシャープペンシルを握り直す。平らな人差し指の腹の部分が、それのグリップ部分に吸い付いていた。まるでそれは、逆に彼女から何かを吸収しているようだった。
先ほどありさが動いたからだろうか、鞄が横倒しになって中身がこぼれていた。夏休み明けの数学のテスト、国語のプリント、理科の模試の結果、それら全てに、高得点が書かれていた。それらより離れたところに一つだけ、小さな箱が打ち捨てられるようにして存在している。箱には百円ショップの支払済みシールが貼ってあった。プラスチック製の将棋セットだ。僕は男子に似合わない真っ白な指でそれに触れた。
「有本君」
不意に名前を呼ばれて振り返る。先生だった。
彼女はいつも通り、もうすぐ県で中学生の大会があるが出ないかと尋ねてきた。いつもより妙に表情が真剣だったが、僕は小さく首を振った。それを見た彼女は溜息をつき、肩につかない位の黒髪を指ですくと
「じゃあ、久しぶりに相手をしてくれないかしら」
と言った。