上
彼女の、体育祭で少し日に焼けた指が動いた。
毎日駒をつまむ人差し指の腹の部分はわずかに平べったくなっていた。
前へと一歩、歩兵を静かに前進させると、角行を進めるための道が開かれることになる。肩を覆う長さまで伸びた髪の毛を一つ結びにした彼女は、こちらを挑戦的な瞳で見つめ、口元を上げた。
毎日この笑顔を見るたびに、僕の心臓は大きく跳ねる。
僕はおずおずと右手を伸ばし、飛車の前にある歩兵を動かした。いつもはずっと室内にいるし、体育祭では保健室に救護班としていたため、その指は病的なまでに白い。
対局はいつものように進んでいく。
盤は何年も使われてきたため、所々がへこんでいた。
駒の中には書かれた文字が消えかかっているものもある。
銀将を盾に飛車を進めた僕は、ちらりと今いる公民館の大部屋前方の、ホワイトボードを見た。一昔前の病院のような白い壁に沿うように置かれた、やはり白いそのボードには、「中学二年 宮福ありさ・中学二年 有本大樹」と書かれていた。
僕らの隣に、対局時計は無い。
この町に一つしか無いとはいえ、所詮小学生のために開かれている「将棋教室」だ。
とりあえず基本のルールだけ、時間は気にせずゆっくりとやって欲しいというのが先生のモットーらしい。四十代前後の彼女にとって、最近何故かしきりに僕を市や県の大会に誘っているものの、基本将棋は楽しく頭を動かすためのゲームらしかった。
無理矢理入れさせてもらっている僕らだ、彼女の思想に文句を言う資格は無い。
不意に彼女が「角行」と書かれた駒を盤の真ん中辺りまで飛び出させる。
「角は斜めに動かせる駒。縦と横に動かせるこの飛車と並んで、かなり動きの大きい駒なの」
僕が初めて幼馴染の彼女に手を引かれこの教室のドアを開いたとき、彼女はそう言っていた。これが駒の中で一番好きなのだとも。
「だって考えてみて、これほど元気のいい駒っていないでしょう? 真っ直ぐに突撃する香車は何だか軽いイメージだし、一歩横に行って二歩上に行く、この桂馬って駒もかなり跳ねるけれど、何となくひねくれていて好きになれない」
どんなゲームかすら分かっていない僕に向かって、彼女は頬を膨らませて言った。金将は偉そうだ、銀将はいざとなったときは役に立つが何となく頼りない、と。
そしてランドセルを部屋の隅に放り捨て、ありさはじゃあ早速始めよ、ルール教えたげる、と微笑んだ。
いつも子犬のように付き従っていた僕に、選択の余地は与えられなかった。
僕もそれをよしとしていた。
彼女の、少し濃いピンク色をした唇が動くたびに、心臓は跳ね上がり瞬きの回数が多くなった。
彼女のことを強く意識するようになったのはこの頃からだ。こうして僕らは毎日、学校が終わるとここへ通うようになった。二人でひそかに将棋同好会、なんて言っている。
僕は明るい茶色をした将棋盤の中心で陣取る角を見た。溜息をつくと、前進させていた飛車をまた一つ、前に進める。
ありさの方を見ると、なぜか目を見開き、盤を食い入るように見つめていた。
そして次の一瞬、目が合う。
「……どうしたの?」
思わず声が出る。
ホワイトボードの隣で折り畳み式の椅子に座る先生はボブカットの黒髪を揺らしこちらを見たが、すぐに近くにいる小学一年生同士の対局へと視線を下ろした。
「ううん、なんでもない」
顔を上げた彼女は僕の目を見てそう消えるような声で呟いた。そして飛車が通る道を作るべく、歩へと手を伸ばした。