第十話
ピピッと体温計の音が鳴る。
表示されているのは、39.8という数字。
なかなかの高熱である。
「可憐、死なないでくれ」
清太郎が悲痛な叫びをあげる。
(人間、この程度では死なないだろう...)
可憐はそんな父親を冷ややかな目で見ながら思う。
「風邪ですか?」
診察に来ている担当医に問う。
「はい、普通の風邪ですね。人間これくらいでは死にませんよ」
可憐の読み通りただの風邪であった。
「お父様も安心なさって下さい」と清太郎に向けて言う。
「やはり、雨に濡れたのがダメだったのでしょうか?」
「当たり前です。」
バッサリであった。
(だって前世はそのくらいで風邪なんか引かなかったし)
なんとかは風邪を引かないというやつである。
「とりあえず、二、三日は安静にしておいて下さいね」
「はぁい」
「わかりましたね?」
(なぜに、念押しを...)
「はい」
念押しに若干の恐怖を覚えた可憐は、きちんと返事をした。
菖蒲はきっと自分のせいで風邪を引いたと思うだろうな、と可憐は罪悪感を覚える。
(学校に行ったら謝ろう)
そう考え、可憐は意識を手放した。
(ここ、どこ?)
さっきまでベッドにいたはずなんだけどな、と不思議な気持ちになる。
あたりに広がるのはどこか見た風景であった。
(今世ではないな)
キョロキョロと辺りを見渡す。
(ああ、そうか)
前世の私がいた世界か、と。
そこには見覚えのある少女がいた。
何度も鏡で見た姿。
西園寺可憐の前世、西崎華恋だった。
『おはよう』
華恋に1人の少年が話しかける。
「......はる、と?」
幼馴染みの柴崎晴翔だ。
181cmの高身長に、爽やかで整った顔。
人付き合いがよく、運動神経抜群で、サッカー部のエース。
勉強には多少難があれども、ここまでの優良物件ともなれば、モテない筈がなく、学校にファンクラブが出来るくらいに人気がある。
『おはよう、晴翔。どうしたの?』
『一緒に学校行こうぜ』
晴翔は華恋にそう言う。
行ってはいけない、と可憐が言う声も聞かず
、二人は学校の方向へ歩いて行ってしまった。
これから何が起こるか知らずに。
西崎華恋はいたって平凡な少女だった。
サラリーマンの父と専業主婦の母の元に生まれた。
母親同士の仲がよかったのもあり、隣の家に住む晴翔と一緒に過ごす幼少期を過ごした。
特に何事もなく小学校を卒業し、中学校に入学した。
男子の成長はおよそ中学入学頃から始まる。
すなわち晴翔の成長期がやってきたわけである。
急に伸びた身長、男性らしくなった体つき。
元々気さくな性格な彼をほって置く女子はいなかった。
日々何通もラブレターを受け取り、告白される。
しかし、彼は依然として彼女を作ろうとはしなかった。
学校のアイドル的存在の同級生に、同じ部活の後輩に、憧れの先輩。
そんなより取り見取りな面々に告白されても、である。
曰く、好きな人がいる、と。
彼が一体誰のことを好いているか。
毎日毎日、彼を目で追っている者なら分かる。
それが幼馴染の西崎華恋だと。
皆納得できなかった。
なぜあの娘なのか。
なぜあんな何の取り柄もない女なのか、と。
その嫉妬は刃へと変わり、何も知らない華恋へと襲いかかったのである。
けれども幸か不幸か、華恋は晴翔と同じクラスであった。
恋する乙女は好きな人の前では可愛くありたいものである。
よって、堂々と嫌がらせをされる事はなかった。
せいぜい持ち物が壊れたり、無くなったりするぐらいであった。
しかし、高校に入学すると同じクラスではなくなってしまった。
檻から解放された猛獣達を止める術が失われてしまったのである。
怒れる猛獣は華恋へと近寄っていく。
そこから先は言わずもがなである。
辺りの景色が変わり、華恋は複数人の女子生徒に囲まれていた。
『ねえあんた、あたし達晴翔に近づかないでって、言ったよねぇ?なめてんの?』
リーダー格らしき少女が、華恋の胸ぐらを掴んで言った。
それを合図にしたかの様に、取り巻き達が次々と罵倒の言葉を浴びせ、暴行を加える。
『私が何をしたって言うのよ!』
『晴翔に色目使っただろ!』
全くもって心当たりがなかった。
『何のことよ!』
『ふーん?とぼけるんだ?』
とぼけるも何も、知らない事は知らない。
しかしながら、恋で辺りの見えない彼女達にはその事が分かるはずもなく...華恋への暴力は悪化の一途をたどった。
『私、何もしてないじゃない!』
日々理不尽な暴力にあっている華恋は、この怒りを、悲しみを、どこにやればいいのか分からなかった。
ただ苦痛に耐える毎日はひたすらに辛かった。
しかし、周りに心配をかけるわけにはいかない。
これに耐えれば、幸せな日常が戻ってくると信じていた彼女は現実を忘れる事にした。
ネット、ゲームに始まり、最終的に元々好きだった読書に落ち着いた。
更に、お気に入りの小説に出会えたのが良かった。
その小説というのが、『永遠の愛を君に誓う』であった。
平凡な少女はどんな嫌がらせを受けても、何を言われても諦めなかった。
そして最後には愛を貫き、玉の輿である。
おそらく少女は、そんな姿を自分に重ねたのであろう。
きっといつか救われる、また笑える日がやってくる、と。
そう信じていたのである。
再び辺りの景色が変わり、華恋と晴翔は公園にいた。
『ねえ、話って何?』
話なら別にいつでもいいじゃないか、と言う可憐を無理矢理引きずって来たのである。
公園にポツポツとある薄暗い街灯が二人の顔をぼんやりと照らす。
『その、俺と付き合ってくれないか?』
『よく分からないんだけど?』
『好きなんだ』
想定外だった。
一瞬からかっているのかと思って顔を見ると、晴翔の顔は真剣そのものだった。
『......どう、して』
華恋の口から零れ落ちた微かな声。
その声は風にさらわれて晴翔には届かなかった。
『別に返事は今じゃなくていい』
晴翔はそうとだけ言ってどこかへ行ってしまった。
この時、華恋達は誰かに見られているという事を考えに入れていなかった。
もし、それを考慮してさえいれば、最悪の事態だけは避けられたかもしれない。
しかし、歯車は動き出してしまったのだった。
また景色が変わり、華恋は学校の屋上にいた。
周りにはあの取り巻き達がいる。
『どういうこと?』
『何のことですか?』
鋭い視線が華恋を突き刺す。
『晴翔に何色目使ってんだよっ!』
『何のことですか?』
『ふざけんなっ!』
きょとんとした華恋の表情が気に食わなかったのであろう。
少女は華恋を突き飛ばす。
『何でお前みたいなのが晴翔に告白されんだよ?なあ?』
ようやく言葉の意味を、そして今までの行為の意味を理解した。
しかし、時すでに遅く、嫉妬に狂った女は華恋にも、そして本人達にも止められなかった。
ブレーキの壊れたり車は止める事ができないのである。
暴力はエスカレートし、華恋は端に追い詰められていく。
どんっ、と突き飛ばされ、華恋の身体が柵に勢いよくぶつかる。
長い間放置され続け、風化していた柵がそんな衝撃に耐えられるはずもなく......華恋の身体は空中を舞う。
『やばっ』
ヤバいと言いながらも誰も華恋に手を伸ばそうとしない。
『逃げろ!』
誰が言い出したのかも分からない言葉が、華恋の耳に届く。
(ああ、死ぬのか)
ゆっくりと自分の身体が落ちていくのを感じ、車が突っ込んで来た時ってゆっくり見えるんですよ、とテレビで言っていた事を思い出す。
いつの間にか居なくなっていた取り巻き達のいた所を眺め、虚ろな瞳で華恋は言う。
『ふふふっ......せめて、普通の幸せが欲しかったかな』
泣いたような、笑ったような顔をした。
長い時は終わりを迎え、華恋の身体は地面に叩きつけられた。
コンクリートの上に広がっていく赤、赤、赤。
(私の血も赤かったんだ......)
どくどくと流れる自らの血を見て、今更ながらに生きていた事を実感した。
(お父さんとお母さん、心配するだろうな)
親より先に死ぬのは親不孝者のする事だ、という言葉を聞いた時は、まさかこんな事になるとは思ってもみなかった。
不思議と痛くない身体に華恋は死期を悟る。
『ごめんなさい』
親不孝者で、と後に続く言葉口にする事なく、華恋は息を引き取った。
華恋が死んで数日後、晴翔は華恋が虐めにあっていた事を知った。
それも自分のせいで。
華恋の父親と母親は『晴翔君のせいじゃない』と言ってはいたものの、その瞳は『お前のせいだ』と物語っていた。
そう思うのも仕方がない。
警察による事情聴取に対して、少女達は『私達は晴翔のためを思って...』と答えているのである。
もちろんその事は伝わっているだろう。
(何がいけなかったんだ?)
告白したことか、華恋を好きになったことか。
それとも、出会った事すら間違いだったか。
(もし、この世に神様がいるのなら......一体何が正解だったんですか?)
晴翔は写真の中の華恋の笑顔を見ながら、涙した。
「......れん。可憐っ!」
耳元で大きな声がして、可憐は飛び起きる。
「おはよう、可憐。随分うなされていたけど大丈夫かい?」
ぐっしょりと汗で濡れた身体を見て、嫌な夢であったことを思い出す。
「おはようございます、お父様。少し怖い夢を見ただけですわ」
そう言うと、清太郎は笑って可憐を抱きしめる。
「そうか。僕がいるから、もう怖くないよ」
小さい子をあやすようにする清太郎を見て、いつぶりだろうと考える。
「ふふっ、そうですわね」
(たまにはこういうのも悪くない、か)
久しぶりに感じる人の温もりに、可憐は胸が熱くなった。