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ファクターズ  作者: 綾埼空
四話 〈犠牲児〉
99/131

黒猫の噂

 少女は夜の街を駆ける。


 星の下。月の下。しかし街灯は存在しない。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 音は駆ける時地面に叩きつけられる靴音と絶え絶えな息のみ。


「ぐっ」


 一瞬酸素の足りない脳を酷使。


 地面を蹴る。


 悪路を走る。


 夜を駆ける。


 氷上を滑る。


 逃げる。逃げる。逃げる。逃げる。



 にゃあ、とどこかで猫が鳴いた。



 曲がり角。慣れない裏道を懸命に踏みながら曲がる。


 しかしその先は、行き止まりであった。


 すぐに長い髪を翻させ振り返る。天から注ぐ光に、青の瞳が反射する。


 が、


「こ、来ないでぇぇぇ!!」


 酸素を要求する全身の命令を無視して、少女は叫んだ。


 目の前。暗闇から浮き出るように、一つの人影があった。


 必要最低限だけが収められたような細い身体つき。背は一七〇の前半といったところだろうか。八月は終わりに近付いているとはいえ、まだ暑さは厳しいというのにラフなパーカーやジーパンを着た特異な姿。そして−−白と黒が入り混じった頭髪。


 目立つところしかない少年だった。


 彼は口を開いた。決して紳士的でない笑みと共に。


「そろそろ死んでくれや。なぁ」


 歯をガチガチと鳴らし、震える少女。


 生存本能を最大限に発揮し、少年の頭上に鋭利なつららが生まれる。


 月明かりを反射し、人間を串刺しにしようと落ちるつららは−−しかし少年に触れたところから消え去った。


 その抵抗に苛ついたらしく、舌を一回打って少年は不快げに喋る。


「なあ、痛くしないつってるのにそんなに死にたくないか?」


 その質問の意図を理解しないまま、少女は首を激しく縦に振る。


「そうか。なら、質問に答えろ。内容次第では助けてやるぜ」


 残虐性しか感じさせない声音。しかし命が助かるなら、と従う事とした。


「質問だ。お前、処女か?」


「な、何を?」


「訊いているのはオレだ。で、どうなんだ?」


「…………」


「早く答えろ!」


「そうです!」


 その答えに、笑みに下卑たものが混じる。


「ならオーケーだ。オレは処女じゃないと燃えなくてな。せいぜい耐えてくれや。乱暴にしかできないからよ」


 一歩、少女の元へと近寄る。


 カツン、と足音。


 それが、限界だった。


「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ!!」


 精神の堤防が崩れ去った。


 少女の幼く、そして恐怖に染まった悲鳴が夜の静寂を裂く。しかし聞き届ける者は居なかった。


 そして−−幾つもの軽い音が響き渡った。それはまるで黒板を爪で引っ掻いた時のような、本能的に忌避する嫌な音色。


 それを引き起こした少年は、頭に手を当て、


「たくっ、こういうのは趣味じゃねえんだけどな」


 その場から立ち去った。少年の姿はすぐさま闇へと消える。


 そして先程悲劇が起きようとしていた場所には、衣服の乱れは存在しない少女の寝姿。


 ただそれは、全身の関節が稼働域とは逆、或いは限界を超えて曲げられていた。


 鮮血で紅く染まり綺麗に畳まれたその姿は、まるで達磨のよう。


 月明かりに照らされる死体。その背後に構える壁に猫の影が映り込む。


 故に世間がその猟奇的な殺人を知る事は−−ない。




 そして夜は、何事もなかったかのように更けていく−−



◇ ◇ ◇ ◇



 八月二十八日。金曜日。


 夏の暑さがまだ抜けきらぬ朝。仰ぎ見れば雲が流れる空は快晴。日はまだ東に。


 早朝と言うには遅く、しかし昼にはまだ早すぎる。


 そんな時刻。


 ブレザーこそ腕に掛けられたり持っていなかったりするものの、スーツに制服と基本的に畏まった服を着た人々が闊歩する中、一人だけ異様に視線を集める少女が居た。


 金糸のような髪を陽光に煌めかせた、空色の瞳を持つ少女。ワイシャツの上に焦げ茶色のワンピースがかかり、スカート丈は膝上ながらも若干長めに穿かれている。そのどこかドレスにも見えるシルエットは、見る者にとある名門大の附属中学校の生徒だと認識させる。


 周りの視線を一身に受ける少女の名は、アルニカ・ウェルミン。


 期待と希望で瞳を光らせ、彼女は通学路・・・を歩む。






 それは、一つの約束だ。


 八月の二十六日。彼女は不思議な体験をした。


 俗に幽霊、と呼ばれる少年と出逢ったのだ。


 彼女が持つ〈空の操手〉の力は、空と付くものをあまねく操る。空間はその最たるものだ。彼女はこの体験から、通常の人間より脳が処理する人物の数が多いと知ったが−−それは後日の話。


 少年−−灯は、過去にMGR社日本支部の地下で行われた多重才能デュアルアビリティー開発の被験者だった。


 脳の余剰空間に発現させる特殊才能アビリティーを現出させる器官−−それが脳領域空間アイデンティティ。ただでさえ無駄のない脳に新たな器官を生み出すのだから、夜霧であろうと生命の保障ができるのは一個まで。


 しかし、特殊才能は脳領域空間一つにつき一つまで。


 故に多重才能開発は、脳を弄くり回し、無理矢理隙間を見つける、或いは造る事で二つ以上の脳領域空間を宿らせるというものであった。


 被験者に選ばれたのは、脳の成長が著しい幼い子供達。


 しかし脳は神の領域。細胞を操るまでに高められた夜霧の科学が下地にあろうと、余剰な場所を見つけ出したり造り出したりはできなかった。−−否、正確には別のアプローチで成功の光明は見え始めていた。


 だが、余りにも倫理に外れた研究は遂に見つかり、結果を残せぬまま、少年少女の屍の山と共に凍結された。


 灯は、その中で未練を持って死んだ一人。


 彼はその思いを抱えて、十年という長い年月を誰にも気付かれない幽霊として経た。


 彼と触れ合い、結局擦り切れた精神を前に何かを与える事はできなかったけれど−−一つの願いを託された。


 それは、十年の思い。灯の年齢が十五、六歳だった事を考えると、それは当たり前の願いなのかもしれない。


 そうただ一つ−−学校に行きたいというものだったのだ。






「−−カさん、アルニカ・ウェルミンさん」


 閑散とした長い通路。数センチの横幅を持つ柱を間に挟み、目に見えるだけでは四つの部屋が横並んでいる。


 自らが呼ばれているのを今更ながらに気付いたアルニカは、教室に漂う戸惑いの空気に頭を抱えそうになる。


 できるだけ小さな力で扉を横開く。


 充満している期待や戸惑いの空気が、逃げ場を得たとばかりに襲いかかってきた。そう感じたのは決して〈空の操手〉だからでなく、転入生が漠然と抱える不安や希望のためだろう。ましてや、学校などがなかった世界に居たアルニカ。その思いは人一倍だろう。


 だけれど、視認すればその気持ちは霧散する。


 廊下に居た時から感じていた気配。膨大な燃える力を秘めながらどこか親しみやすい。


 大きく見開かれたくりっくりの瞳、軽く跳ねた黒のポニーテールで驚きを体現する少女。


 久澄飛鳥。アルニカの恩人である久澄碎斗の妹であり、まだ公開はされていないものの、世界初の『科学魔術』−−朱雀の右翼−−保持者。


 目と目が合い、笑み。


 そのまま教師の横に並んで、


「アルニカ・ウェルミンと申します。親が日本とK共和国とのハーフなためこんな容姿ですが、皆さん仲良くしてください」


 用意された台詞を明るく言い、一礼。


 喧騒が巻き起こる。それは、戸惑いや不安が受け入れに変わった音色。


 教師に「お前の特殊才能見せてやれ」と言われると共に自分のために用意された席を指差され、アルニカは自らに関する情報を想起する。


 書類上の特殊才能は、空間転移。


 故にアルニカは魔力を練る。ティラスメニアとは多少異なり、地からせり上がってくるような力の固まりを魂を燃料に練り上げる。


 完成された魔法はその効力を現実世界に形作り、結果をもたらす。


 次の瞬間、アルニカの姿は自分の机の上に在った。場所は窓際寄り、飛鳥の横。転入の手続きやらなんやらまで全てこなしてくれた奈々美が持つ権力から、たった数十分の出来事であろうと飛鳥と友達だと知ったために気を使ってくれたのか。もし本当にそうならば、奈々美の事はかなり警戒しなければならないのだが、この世界の常識を知らないアルニカは凄いなー、と思う程度で、そこまでは思わなかった。


 そのため、不思議に思わず目を更に見開く飛鳥へ会釈。


 遅れて「おぉー」と感嘆の声がクラス中から沸き立つ。教師も「机の上に立つな、馬鹿」と窘めているものの、結果自体には満足そうな表情を浮かべている。


 A点からB点へ跳ぶ。物理事象−−この場合の物理事象とは、普通の人間一人が起こしうる現象でなく、現在機械的に存在を実証できる理論−−をねじ曲げてはいるものの、結果だけ見れば空間転移の中でも一般的なもの。


 けれど、発現しにくい才能だけに、中学生の幼い心は高揚を隠せないのだろう。


 次いで理由を付ければ、空間転移はそれがどんな効力をもたらすものでも、無条件でランク3に位置される。この世の法則をねじ曲げる事は、イコールで常識の埒外にあるアルファに辿り着く可能性を秘めているという事だからだ。


 しかし基礎形態自体が物理事象を超越する才能は、その先にあるレベル2−−附加−−が生まれにくい。


 その唯一の実例であるのが現ランク一位、己世界。彼の才能は、素粒子単位から三次元上に存在する物質を創造できるもの。レベル2は、自らの心を現実に反映させる事で三・一次元という次元を創造し、一定空間をそれにずらすもの。


 これにより北極への進入自体は可能になったのだが、三次元に存在する物質に触れる事ができないため、外交上の問題で実施はされていない。


 この事からも分かる通り、物理事象をねじ曲げる才能は飛躍的に北極の謎へと迫れる。


 しかし六十年−−黎明期には非道な実験も度さえ超えなければ黙認されていた節のある−−でたった一人しか現れなかったのを考えれば、今の現状がいかに悲観すべき状況かが解る。


 が、分母が増えれば、その分だけ可能性は広がる。


 そんな事情を、かいつまむ程度には勉強、或いは奈々美に教えてもらていたアルニカは、周りの反応の大きさに驚く事なく、やや苦い笑いを浮かべながら机を降りた。


 そのまま自らの席に着く。


 見知らぬ顔の参列により起こる可能性のあるどよめきを回避するため、始業式後にアルニカの転入は行われた。


 ので、この後は夏休みの宿題を教科別に集め、教科係が各受け持ちの先生へと渡せば夏休み明け一発目の学校は終了となる。


 長い休みからの移行には、教師陣にも様々な用意を必要とさせる。無論、そんなものは夏休み中に終えようと思えば終えられるもので、実際は後の二日間を含めて生徒達の心を完全に切り替えるための日にしかすぎない。


 故に、


「アルニカさん、どういう経緯で日本に?」「アルニカさん、開発受けて一発で空間転移を!?」「好きな食べ物は?」「K共和国について教えてもらっても?」「うちの試験に合格するなんて、いつから日本に居たの?」「それ親のどっちかがK共和国出身なだけで、日本で育っただけなんじゃ……」「それもそうか」「いや、断定はいけない。かなり頭がいいのかもしれないし」


 などと言う、姦しい質問責めがアルニカを襲った。


「は、ははは」


 それに驚き顔で乾いた笑いを発しながらも、アルニカはその一つ一つを解きにかかった。


 灯の事を、頭の片隅に置きながら。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






「猫?」


 夏休みの終わりを告げる始業式を終え、自らの席に着いた久澄碎斗はそう聞き返した。彼の唯一の特徴とも言える感情の宿らぬ瞳は、細められた瞼により呆れを含んでいるように見える。


「そう、黒猫」


 久澄の目の前の席に居座り呟き声で対するのは、藍色髪をした少女−−夜霧萌衣。通常でかなり冷たい表情も、今はさらに磨きがかかっていた。


「今話題なのよ。人口特殊才能保持者製造計画を利用した、とある特殊才能保持者への実験。そこには必ず黒猫が居るから、関わりたくなければ離れろってね」


「どこで話題なんだか……で、そんな物騒な話題をなんで俺に?」


「心配だからよ。あんた、猫好きでしょ」


「まあ、動物の中では一番好きだけど……よく知ってんな」


 その言葉をどう曲解したのか、顔を赤らめ、


「いいでしょ別に!」


 彼としては適当に言ったつもりだったので、その声の大きさに若干驚く。周りも一瞬空気が固まるが、主が萌衣で相手が久澄だと分かるとすぐに自分達の世界へ戻った。


 その反応を見て「またやっちまったー」と頭を抱える萌衣に「ドンマイ」と励ます。


「まあ、黒猫ね。気を付けるよ」


「そうしてちょうだい」


 長い溜息をこぼし、萌衣は話題を変える。


「それにしても、魔術師の宣戦布告。どう思う?」


 そうその話題こそ、今一番矢面に上がっているもの。黒猫の話について、どこで話題になっているのかといったのも、その件があるからだ。


「どう思うと言われてもな……」


 困ったように返す久澄。彼も基本は普通の高校生。特殊な情報を知っているわけでもないため、答えも世論と何ら変わらないものとなる。


「やっぱりアルファみたいな何かが起こるんじゃないかとか、どこが戦場となるのか。その程度の曖昧な不安しかないさ」


「だよねー」


 萌衣は久澄の机に突っ伏した。


「正直魔術師を舐めてるわけじゃないけど、戦いなんて数がものをいうからね。特殊な、それこそ戦略級−−核レベルの武装は互いに抱えてるだろうから、魔術師一人に対し、百でも千でも当てられるこっちが有利に違いないから、そういう被害を少なくしたり、人知を越えた某が介入するのを気にかけてればいいんだろうね」


 それが世間一般における第二次マジックサイエンスウォー開戦への意識。


 魔術師の本拠であるバチカン、アジア大陸の大半を抱える新R帝国が沈黙を保っているのは不気味と言えば不気味だが−−だからといい大きな変化は見受けられない。


 あるべき日常が、あるがままに消化されていく。


 凪。或いは、嵐の前の静けさ。


 今は、そのような時期だと誰もが感じていた。


 そしてチャイムが鳴り響く。


 帰りのホームルームの開始を告げる音色だ。言い替えるなら、学校の終わりを告げる音。


 各々が自らの席に戻り−−音もなく扉が横開く。


 入ってきたのは、一人の女性。


 女性にしては長身。けれど顔、胸、四肢が幼いアンバランスさを秘めたスーツ姿は、今日の県立臥内がだい高等学校では教員だという証明。(MGR社日本支部は一つの県として日本国から認可されている)


 彼女の名は薄宙小詠。この一年二組の担任にて教師の鏡と日本支部で有名な人物だ。


「それではぁ〜、帰りのホームルームを始めますぅ〜」


 一区切り毎に母音で伸ばす独特の喋りは、その甘ったるさに比例して幼い声にて行われた。


「とぉ〜、猫屋君は安定の公休ですがぁ〜、皆さんに一つ残念なお知らせがありますぅ〜」


 その語り口とは裏腹に、秘められた声音は真剣そのもの。


 クラスの全員がただならぬものを感じ、気を引き締める。


「今日日を以て、風間君がこの日本支部自体を、退学しました」


 甘ったるさの抜けた言葉。それは、誰の間にも等しく突き抜けた。


「風間が……辞めたんですか」


 質問風に、しかしその実自らに現実を認識させるために呟き声を発したのは、黒縁眼鏡が特徴の気難しそうな少女。


 先導岬。風間集と共にこのクラスの代表を勤めていた。


「そうです。口止めされていたんで言えなかったのですが、体育祭の時から決定していました」


 嫌な沈黙がクラスを包む。しかしそれは、彼の喪失の大きさを意味するものではない。


 このクラスは、良くも悪くも個々の人物の灰汁が強い。例え一人の笑かし役が居なくなったところで、それは懐古すべき思い出へと変わるだけだ。


 彼らの中にあるのはただ一つ。何故今の時期に、というものだ。


 もちろん退学が簡単にできるものでないのは分かっている。様々な手続きや検査を踏まなければならない。


 だから理由は違うとかっている。


 けれどそれは確かに、一つの起爆剤として作用する。前例があれば、人はそれを理由に動き出す事ができる。


 もし。そんな考えがないわけではない。


 戦火はどこで始まるか解らない。水仙蒔華は、MGR社に対し宣戦布告をした。


 ならば、今から日本支部を離れ、MGR社との関係を切っておいた方が安全ではなかろうか。


 風間集の退学は、クラスにそんな考えを浸透させた。それはやがて、校内へ波及していくだろう。


「それではぁ〜、皆さんさようならですぅ〜」


 このまま停滞させては最悪の結果を生みかねない静寂を破ったのは、小詠のそんな声。


 しかし小詠にも、この悪い流れを断ち切る言葉は見つからなかったようだ。


 ホームルームの終わりを知らせるチャイムが響き渡った。







 廊下と教室の喧騒が混じり合う中、久澄はスクールバッグを肩に掛け立ち上がった。


 向かうのは混み合う出口でなく、二人の少女が何やら話し合っている席。要件があるのはその内の一人だ。


「酸漿、ちょいいいか?」


 背の中辺りまである黒髪をそのままに流した姿は純日本風。


 もう一人、彼女と語らっている少女も日本人形のような髪型をしているが、それとはまた違った感が存在する。


「和ヶ原さんがいいのなら」


 答える声には、感情が欠落している。


「わ、わたしは、大丈夫、だよ」


 おどおどというより、最近はただ単に癖になっているように聞こえる和の喋り方は、気のせいではない。それだけ彼女も、久澄に心を許しているという事だ。


「んじゃあま、少し借りていくね」


 久澄も久澄とて、それなりに歩み寄っているつもりだが、和だけには柔らかい口調をしてしまうのは直せない。


「じゃあ、少しお待ちを」


 そう断ってから、奈々美は立ち上がる。


 彼女を先導する形で、久澄は教室から出た。


 昇降口へなだれ込む生徒達で溢れかえる階段を使わなければ比較的空いている廊下。しかし用があるのは上なため、敢えて遠回りをして歩んでいく久澄。


 そのまま沈黙。体育祭の件から、安易に奈々美へ踏み込むのはどうにも躊躇われた。


 しかし向こうには、あの対話はそんな隔たりを感じる理由にはならないようで、彼女の感情がない声が背に届いてきた。


「久澄さん」


「何だよ」


 話しかけられた分には普通の対応ができる程度の警戒らしく、久澄は普段通りの声音で答える。


「アルニカさんに頼まれて、妹さんと同じ中学校に通えるよう、手続きしておきましたので」


「分かった」


 礼は言わない。小さく無意味な警戒だろうが、その程度には距離を取っている。


「?」


 奈々美の脳内に浮かぶ疑問符。実際に首を傾げてその思いを形にしたのは、礼儀を重んじる久澄のそんな態度に対してではなく、


「驚かないんですね」


「ん? ああ」


 そう言葉を返したところで、少し教室で時間を潰したような三年生の集団が降りていく階段に足をかける。


 奈々美もそれに倣い二段後ろに右足を乗せ、言葉を待った。


「別段驚く事ではないだろ。あいつは好奇心旺盛だしな。まあ、アス……俺の親類を知ってんのはともかくとして、同じ中学校に入れたのには思うところはあるけれど」


 言葉の後半から、剣呑なものが混じり始める。


 しかしそんな声はのらりくらりと躱わし、会話を続ける。


「意味はありませんよ。それにあなたの親類だから知っていたのではなく、上が監視している飛鳥さんの情報からもろもろの事を知ったのですよ。そしたら偶然、アルニカさんとお友達らしいので、あれやこれやと手を回してみただけです」


「それはそれは」


 それから、沈黙。階段を昇る。昇る。


 辿り着いたのは、机と強化ゴムで形成された古典的なバリケードの前。周りを確認してから隙間を縫い、屋上へ繋がる扉の前で久澄は足を止めた。


 理想を言えば屋上が解放されていればよかったのだが、過去にあった自殺防止の伝統を活かしつつ、太陽光発電のために敷き詰められた黒い板があるため使用は不可能なのだ。


「で、ご用件とは?」


「『いちのくひょうか』って名前に聞き覚えは?」


 単刀直入な問いかけに、同じく単刀直入に質問を返した。


「魔術的な意味で付けられた名は、漢数字の九でいちのくに氷の火で氷火。魔術師の一人ですが……何故その名を?」


「二日前、実家に帰省した際、母校の前で襲われた」


「ふむ……で、情報が欲しいと」


 演技っぽく顎に手を当て考えるような動作をした後、久澄の心の裡を暴き出す。


「話が早くて助かる。けど、俺の話なんか信じられるのか? その、言っといてなんだが、あれくらいの化け物じみた存在がわざわざ俺なんかに接触し、戦闘をしたなんて……」


「彼女を淀みなく化け物と認識している時点で、事実だと証明されましたよ。まあ、久澄さんの疑念も正しいものなのですが」


 奈々美は瞼を閉じ、開く。彼女の過去を詳しくは知らない久澄は、その意味に気付く事はなかった。


「取り敢えず人口魔術師であるわたしの情報は、MGR社寄りになっているのを前提に聞いてください」


 「分かった」と肯定の意を示す久澄に、奈々美は話し始めた。


「彼女は魔術界史上最強の魔術師にして、最悪の犯罪者です」


「最強、ね。……まあ確かに、二つの魔術を扱うのは異例だろうし」


 最強という言葉に思うところのある久澄は、しかしそれを奈々美にさえ聞こえないように呟くだけで思考の埒外に送る。


 そして続けられた言葉に、奈々美は返した。


「そうですね。生まれもった高い魔力量がなければ、氷か火、どちらか片方に偏っていた事でしょう」


「九氷火を除いて俺が見た事がある魔術師は、お前や錠ヶ崎寧々さん、それに結神契だけだけど、一線を画していたな、あれは。空間ごと事象改変できる魔術師なんて考えた事もなかった」


 今思い出しても身震いできるとばかりにワイシャツの袖から覗く腕に鳥肌を立てる久澄。


 下手に魔術のルールを理解し、また数多の死線を潜り抜けてきた経験が、彼に恐怖を刻み込んでいた。


「おかしい……というより、必然なんですかね……」


 対して、眉根を顰める奈々美。


 感情らしいものは感じられないが、それでも演技っぽさがないその動作に久澄は疑念を覚える。


「どうしたんだ?」


「……いえ……いや、隠し立てする必要性はないと思うので言いますが、そこまでの事象改変は、その道では最強と謳われている寧々さんでも不可能なんです。から……」


「九氷火の事象改変が、最強に成り上がった?」


 切られた言葉を次ぐように、久澄は告げる。


 それが何を意味するのか、解らない程鈍くはなかった。


 例えば、魔術界にとって偉業とも言える二つの魔術保持者の名がどこにも記録されていない事。


 例えば、それと同じように、最強の事象改変使いが錠ヶ崎寧々と記されているのに、最強の天災使いについてはデータがない事。


 それは、一つの事実を浮き彫りにする。


「そりゃそうだよな……」


 脈絡もなく、思考を言語化させる。


「あれ程の力なら、最強って言われても当たり前か」


 久澄は九氷火に次ぐ実力とされる水仙蒔華を知らない。


 けれど、それでもそれが当たり前だと、なんとなしに理解していた。


「失礼」


 帰結された思考に、奈々美の言葉が被さる。


 その体は、どこか焦っているように見えた。


「寧々さんにこの事実を知らせなければならないので、わたしは暇させていただきます」


 走り出す奈々美。


 その背に久澄は、言葉を投げかけた。


「和ヶ原さんには俺から事情を説明しとくから」


「ありがとうございます」


 そして奈々美の姿は視界から外れ、僅かな布すれの音だけが久澄の耳に届いてくる。


「さて」


 久澄も階段を降り出す。


「ま、あらかたの情報は仕入れられたかな」


 −−あなたにはまだ利用価値がある。


 脳内をよぎる九氷火の言葉に苦いものを感じながらバリケードを抜け、久澄は自らの教室へ足を進め始めた。







 教室で萌衣と会話しながら奈々美を待っていた和に、虚偽だらけの説明で帰った事を告げた久澄は、一人で帰路についていた。


「碎斗君」


 女性の声でそう呼び止められたのは、彼が懇意にしている商店街の前。


 そう呼ぶのは、この世界では三人しか居ない。


 そのうちの二人が男。ついでに言えば、久澄にとって憎むべき人物だ。


 忌々しい奴らを思い出したと、自分の無警戒差に内心で舌を打ちながら、久澄はいつも通りの無表情で声の方を向いた。


 さばさばとしながらも清潔感溢れる黒髪をポニーテールにまとめ、日に焼けた健康的な肌は化粧っけを感じさせない。


 いつも通りの姿だと視認した久澄だが、すぐにその意見は変わる。


 ほんの小さなものだが、気付く。


 黒真珠のように光る瞳に、僅かながら影があるのに。


「お久し振りです、姐さん。それに、いつもアルニカがお世話になってます」


 しかしそれには敢えて触れず、久澄は姐さんこと−−安城冷夏に頭を下げた。


「ああ、久し振り。行方不明と言われてたけど、どうやらただ単に関所の不備だったらしいね」


「ええ、困ったものですよ」


 心の全くこもっていない爽やかな笑いを浮かべながら、空々しく告げた。


 だが普段がそんな感じの久澄は不審に思われる事はなく、


「それに、アルニカちゃんにお世話になってるのは私の方だよ」


 どうやら予想通り自分の事を話していたらしい。


「そのアルニカから聞いたんですが」


 そして久澄は、狙った流れのままに言葉を紡ぐ。


「猫屋、行方が分からないらしいですね」


 それに冷夏の瞳に宿る影が一際大きくなったのを、久澄は見逃さない。


「……碎斗君も、分からないのか」


「俺がこの街に戻ってきた時にはもう、猫屋は学校休んでいましたから。それで、いつから居ないんですか?」


「三ヶ月前。碎斗君と同時期に、計も姿を消したんだ」


「そうですか……」


 嫌な偶然だ、と久澄はしかめそうになる顔を意識的に無表情とした。


「ごめんね、引き止めて。分からないならいいんだ」


「いえ。こちらも力添えできずすいません。お詫びじゃないですが、今度野菜買わせてもらいますよ」


 困ったような笑顔で手を振る冷夏に、頭を下げてから向き直る。


 猫屋の失踪と風間の退学。


 ティラスメニアに跳ばされる前まで悪友だった二人の消失。


 漠然とした嫌な感じを抱えながら、久澄は帰路へと足を戻した。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






 黒い壁紙に覆われた部屋を、紫色の光が照らす。


 そこには強化ゴムで造られた、黒色の円卓が一つだけ置かれていた。


 囲む影は五つ。


 夜霧新、己世界、夜霧冷夢、夜霧裂、そして猫屋計。


 暗い部屋では全てが黒っぽい映るものの、ある程度の輪郭までなら認識できる。


 ここで行われるのは、上下関係のはっきりした歪な円卓会議。


「さて、九氷火と水仙蒔華の行動で第二次マジックサイエンスウォーの開戦は避けられないものとなりました」


 現状を改めて整理するように告げる、夜霧新。


「ま、てな訳で皆さんに進めてもらっている計画を急いでほしいんです」


人工特殊才能児計画アビリティーチルドレンプロジェクトの方は、なんやかんやと順調ですよ」


 不気味な声音を響かせたのは、一番目ファーストの夜霧冷夢。


「『傀儡児』の方は理想値を上回り、安定。『犠牲児』を利用した天津目葉の成長も後二人で見られる事でしょう」


「こちらは試験段階も終わった」


 平坦な声音は、二番目セカンドの夜霧冷夢−−夜霧裂。


「五位と一位を除くランク4の『Rise=Above(ライズ=アバーブ)』化、また『HOME HElP ROBOT』へ組み込み成功。後は量産するだけだ」


「やっぱり俺様の才能は機械化できなかったようだな」


 ハッ、と高圧的に言うのは、特殊才能ランク一位−−己世界。


「ロボットには心がないからな」


「まだあんたそんな・・・・言ってんの? 『Rise=Above』を組み込んだ『HOME HElP ROBOT』は、脳領域空間の容量のデカさから特殊才能を行使するだけの道具になる。けれど、思考能力さえ確立できればあんたの才能なんて簡単に組み込める」


「どうかねぇ〜」


 あくまで馬鹿にしたような己世界に、夜霧裂はさらに噛みつこうとする。


 しかしそれを意図せず制する動きがあった。


「じゃあ、俺は今夜の準備があるんで退席させてもらいますニャ」


 立ち上がるのは、猫屋計。


「俺が呼ばれたのだって、つまりは催促でしょう?」


 問いかけは夜霧新に。


 彼は無言の笑みで返した。


「チッ」


 それに舌を打ちながら、計は部屋から立ち去った。


「野蛮ですのね」


「はは。ま、彼も僕には思うところがあるんだよ」


 笑いながら、腰を上げる新。


「経過報告は受理した。てな訳で、解散」


 告げると、夜霧新と己世界の姿が物理的に消える。


 彼らは本社から投影された立体映像にすぎない。


「じゃ、うちも量産の方書類書かなきゃいけないから戻る」


「そう、じゃあね二番目ワタシ


 別れ、ただ一人残った冷夢は背もたれに背を預け、部屋を見渡す。


 そしてボソッと呟いた。


「新クンの中二趣味もどうにかならないものかね」






 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






 月夜の晩。煌めく星星と漆黒のカーテンは、人工的な光で文明を示す人類の営みを見下ろしていた。


 行き交う人々の波は、大学生の姿のみ。


 十八歳以下の外出許可時間は既に過ぎ、学者達は研究所に籠もっているからだ。


 しかしそれでも、私服でうろつく高校生や中学生は絶えない。


 そうした夜遊びのすぎる子供達は『警備隊』に呼び止められ、職務質問がなされる。


 本日四区の端でも、集団で練り歩いていた幼い顔つきの少年達が呼び止められていた。


 こうして今日も大達人の力によって子供達の平穏と安全は守られる。


「最近はこの街も治安がいいとは言えないのに、なかなか減りませんね」


「いざとなれば自分の才能で応戦できるとか馬鹿げた事を考えているんだろう」


 先程補導した子供達を自宅まで送る『警備隊』のバンを見送るながら、二組の男性が各々の思いを吐露している。


 それを横目に私服姿の高校生−−久澄碎斗は街を歩んでいく。


 夜出歩くのに慣れているのか、不自然な固さはない。それに大人びた顔と身体つきが功を奏し、『警備隊』の目に引っかかる事はなかった。


 彼が夜道をふらついているのに、特別な理由はない。


 ただ単純に、いつも目にする町並みとは違ったものを見てみたかったのだ。それに、夜風に当たれば夏の暑さで火照った身体を多少ながら和らげられる。


 久澄の中で渦巻く漠然とした『何か』は、彼が感じている以上に心に負担をかける。下手に動きにくいだけに、それはかなりの不安を久澄にもたらしていた。


 ティラスメニアの時と似たような空気だが、違う。


 下手に事情を知り片足を突っ込んでいる状況は現実感を持たせる。


 自分の預かり知らぬ間に何が蠢いているのか。


 そういった全てに押し出されるように、久澄は夜の街に出た。


「けど、行く場所なんてないしな」


 学生の住まう区である四区は夜中に空いている店は少ない。成人した大学生用に開いた店をくぐり、高いお金を払ってまで飲み食いする程お金もない。


 ので、ぶらりぶらりと歩む。


 取り敢えず気が済むまではうろつこうと決意する。


 そんな時だった−−向かい風が吹く。


「んっ?」


 夜風の中、久澄の鼻孔に平穏な夜の街に似つかわぬ臭いが引っかかった。


 慣れ親しんだそれを、間違えたりはしない。


「−−っ!!」


 久澄は駆け出した。


 夜では目立つため、鬼神化は行わない。


(出血量は大した事なさそうだけど、出方がおかしい!)


 血の、それも風に乗って届く程度には出た何かしらの外的要因の絡む臭いは、久澄に余計な事を考えさせない。


 地を蹴る。人の波はその胴体視力で予見し、つま先を軸に身体を捻って最短距離で抜けていく。


 向かい風を裂き、大通りから外れた所にある裏路地に。周りに人の影はない。血の臭いで定かではないが、この先にもたむろしている不良等は居ないだろう。


 久澄は迷わず鬼神化を使用。


「っ!?」


 胸の当たりに鋭い痛みが一瞬走ったが、それを気にしている場合ではないと駆け出す。


 疾走。途中に氷の張った地面があり、斜め前に跳躍。地面に足が着く前に横にそびえる壁に足が引っかかり、また斜め前に跳躍。それを繰り返して抜けた。


(臭いが濃くなってきたな)


 空気が冷たいと感じながら、久澄は地を蹴る力を強めた。


 そして。


 ザッ、と足を止めた。


 久澄の目の前には、間接は駆動域とは逆に。また曲がらない骨すら畳むように折られ、胴体の方に寄せられた達磨のような少女。


 まず生きていないその姿をそう思ってしまった事に舌を打ちつつ、久澄はその少女を担ぐ影を睨み、目を見開く。


 月と星の光しかないが、久澄にはそれだけで十分。


 黒髪をさらに黒く染めたような髪。その頭頂部には、まるで猫耳のように逆立つ二房の髪が。腰の部分から、上着を軽く押しのけ伸びる黒毛の尻尾はゆらゆらと。


 その黒猫を思わせる特異な姿こそイメージとは異なるが、その人物を久澄は知っていた。


「猫屋……なんでこんな所に……」


「クズミン……」


 忌々しそうに呟かれたその呼び名、声は猫屋計のもの。


 向こうも信じられないものを見たかのように大きく開かれた目には、月のような黄色とその真ん中を縦に走る黒色の線が特徴的な猫の瞳が収められていた。


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