三年前の夏、救いと破滅と
――正しくあり続け全てを救ったものが英雄と呼ばれるのならば、それを夢想した人間は何なのだろうか。
みんなが幸せであれば、自分は不幸になってもいいという考え方は、本当に誰かを救えるのか。
ただの自己満足で、結局自分を救っているだけではないのだろうか。
自分を救えないものに誰かを救えるのか――少なくとも、誰かを救っているつもりで自分を救っているような偽物に、誰かへ手を差し伸べられるわけもないが。
遠い夏の日の夢を見る。
あの時少年は絶望した。「なんでなんだ」と。
あの時女性は微笑んだ。「愛している」と。
それは甘く苦い、お互いの傷からこぼれる血を舐め合うことしかできなかった吸血鬼たちの、破滅の軌跡。
うだる夏の夜に二人は出会い、別れた。互いが互いを殺した。殺しあった。
紅き月が浮かぶことで始まり、紅き月が沈むことで終わる――ただそれだけの物語。
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打撃音と怒号の声が響き渡っていた。
その気合には蝉すらも逃げ出す。東の空に瑠璃がかかり始める頃。
市立笹上中学校の構内の一角、各学年三クラスずつある生徒全員を集めても余裕があるほど巨大な体育館に隣接した小さな格技場から響いていた音だ。軽いものが打ち合う音かと思えば、芯のあるものを打ち抜く音に変わり、やがて音は止む。
うだる暑さが絡みつく中で、なおその部屋は熱気で蒸らされていた。
室内にいたのは八人。うち三名は格技場の半分を占める畳の上で身体を打ち付け合う柔道着姿の男子生徒たち。五名が今横一列に正座をして並び、防具を解いている剣道部員だ。
竹刀は左手に置き、籠手を取って面を外す。この時の解放感と爽快感は、コールドスプレーのような無機質さともメンソールの突き刺す冷たさとも異なる優しい冷たさがある。身体にのしかかる疲労が一瞬消し飛ぶくらいだ。
胴を膝立ちになって垂れも脱ぎ、右手側前に既定の形で置く。
上座にいる男子生徒の号令の下、黙とうや礼をして、剣道部の部活動は終わった。
がやがやと喧騒が生まれる。
まとめた防具は端の棚に。
一人の女性部員を除いた四名は竹刀を抱えて男子更衣室件部室へ向かう。
柔道部との兼用である部室は、元は倉庫を利用したものでコンクリートが剥き出しとなっている。今年は珍しく女子部員が入るということで備品の倉庫を清掃したため、女子更衣室もあまり変わらない。向こうの方が日が入りやすいので明るさは違うが。
床にはせめてもの、と言うように分厚いマットが敷かれており、空いた隙間に竹刀立てが置かれ、調整用の竹刀が乱立している。個人の竹刀はそれぞれが携帯する形だ。
談笑しながらもてきぱきと着替えていく。半袖の白ワイシャツに下は紺色無地の長ズボン。ネクタイの締め方には性格が現れるが、だらしない者は一人もいなかった。
胴着はハンガーにかけて日の当たる場所につるす。
柔道部も活動を終え、部室の男臭さが一気に増した。
「と、わり」
雑談で埋め尽くされる中、明確な意思のある声が走った。
先程上座にいた生徒だ。回りの生徒より一つ二つ大人びた面持ちは、引退を迎えた三年生だからである。最後の大会を終え、引退こそしたもののぎりぎりまでは、と夏休み中は普通に参加しているのだ。元は部長である。
「塾あるから先に帰るわ。掃除頼む」
それに倣うように二人の男子生徒も帰宅を宣言する。いつも通りの流れだ。
「久澄、頼むわ」
「ん、了解」
久澄、と呼ばれた覇気がなく緩い顔をした黒髪の少年は、なんてことなさげに頷いた。他の面々と違って、長袖シャツをまくって半袖にしている。
「お前らなー」
元部長も注意はすれど、本人の性格を顧みてか強くは言わなかった。
「じゃ、頼む」
「はい、お疲れ様です」
足早に出ていく三人に挨拶をし、出入り口の流し台の淵に掛けた雑巾を濡らして、板張りの上を疾走する。
どたどた、と境目に沿って駆ける。視界の端で動きがあった。
「じゃあ、久澄君、鍵よろしくね」
「はい。お疲れ様です」
柔道部の生徒たちに立ち上がって礼をして、ぞうきんがけを再開する。
ぱっぱと汚れを取り、姿勢を見る備え付けの鏡や窓を閉じ、鍵を取って部室の鍵を回す。
肩に背負った竹刀袋を気にしつつ一礼をして道場から出て、皮靴を足になじませながら雑巾を洗って元の位置に戻す。
格技場の扉を閉めた。振り返りざまに既知の人物を認めた。
「あれ、今日も待ってたの?」
「当たり前でしょう」
さっぱりと切った黒の髪が紺色のスカートと共に踊る。半袖のワイシャツの上に紺色の紺色をしたノースリーブを身に着けていた。
唯一の女子部員である彼女が歩き出すのに並んで頭一つ下にある顔を見る。
「なんか、毎回待っててくれるよね、命は」
「ま、腐れ縁も腐れ縁だし。なあなあな優しさくらいは向けてやりますわよ」
「優しさついでに手伝ってくれればいいのに」
「どうせ手伝うって言っても遠慮するじゃん」
「まあね」
「たく、少しはその優しすぎる性格をどうにかしなさいよ。自分より他人を考えて動くなんて、理解できない。それを利用するあいつらもあいつらだけど」
「言い方言い方。ぼくの性格はみんなも知ってるしさ。悪意はないでしょ」
「じゃあ、悪意があったらどうするの?」
「一応ぼくなりにメリットとデメリットの差し引きはしてるからさ。そうだったら断るんじゃないかな」
「碎斗が頼まれごとを断る姿なんて想像つかないけど」
「そうかな?」
「そうだよ。最近で顕著なのはあれよ、小学校の卒業式の時。終わった後家族で出かけるのに先生に頼まれたからって椅子の片付け手伝って結局一人で電車乗って後から合流したって話」
「ああ、あったねそんなの。けどあれ、ぼくが後から着いても大丈夫だったし。なら、手伝うでしょ」
「普通は手伝わないから。損失でてるし。全く、もうちょっと自分を優先しなさいよ」
「してるんだけどなー」
なんのかんのと言いながら、体育準備室に着く。中にはちょうど顧問の先生がおり、挨拶しつつ鍵を戻す。
「じゃ、帰ろっか」
「毎度毎度遅くなるわね」
「はいはい、ごめんよ」
二人で並んで校門まで向かう。野球部がグラウンド整理をしており、それを追い立てて部活動にいそしんだ生徒の下校を促す放送が響き渡る。
放送が終われば、静寂。野球部の慌ただしさは認識の外だ。
先程までどこぞへ避難していた蝉の声がうるさくなった。鈴虫が呼応するように鳴き響かせる。
陽炎が引いた夏の世の風物詩。地平線の先を真っ赤に燃やしながら太陽は西へと沈み、宵闇の世界へを誘う。
学校の下に伸びる住宅地にことこつと靴の音の二重奏を響かせる。
久澄は横で踊る黒髪を視界の端に収めながら、命は気迫のない顔を目の端に収めながら何を語るでもなく並んで歩んでいた。
いつも通りの光景であり、まるでそれが自然とばかりの空気が二人の間には流れていた。
気付けば分かれ道に差し掛かる。二人の家を分ける、道。
「じゃあねー」
「うん、じゃあ」
手をかざして別れる。
少年は外にでも内にでもなく、真っ直ぐと足先を進行方向へ向けながら自宅への道を歩みなおす。正中線が芯となった綺麗な姿勢だった。
太陽は沈み切り、黒の世界。だが、見える色がいつもと違った。街灯と月の光に照らされる白っぽい色味の世界ではなく、紅色っぽさがかかっていた。
街灯が変わったのかと首を傾げたが、視界に映るそれはいつもと変わらず目に眩しい夜の反対色を放っていた。
「……?」
だから何の気もなしに空を仰いで――衝撃を受けた。
移り変わる視界に意識が追い付いたのは、何秒後のことだったか。
地に伏してしまった少年は疑問を感じながらもまずは起き上がろうと腕に力を込めた。込められなかった。
腕が、いや、全身が動かなかった。
身体が寒い。蝉は鳴いている。
引いていく体温。裏腹に触れる温かいものがあった。
紅く紅い液体。
脳裏に先程見た月がフラッシュバックする。
傷口からあふれる鮮血のような紅色をしていた月の姿が浮かんでは消えた。
視界が霞んでいく。意識にも霧がかかり始め、何も考えられない。
「――」
何かが、聞こえた。
だから少年は自分の意識を掴みとり、暗転する視界の中でその鮮烈な赤を刻み込みながらこう言った。
「いいよ」、と掠れた声で。
それが答えになったのかはわからない。だけど、消え去る視界に見えた表情は何かを懇願しているみたいで。
困っているのなら、助けたい。そう思ったから――
――八月のある日。一人の少年が、死んだ。
1
蝉の声がした。
瞼を開くという行為を意識して行ったわけではない。ただそうなって、視界が開けたことでぼくは自分が目覚めたのだと知る。
見えたのは、埃かかった灰色。むき出しのコンクリートだ。
身体の節々が痛かった。腹筋を使って起き上がり、腕を開いて胸を逸らせば子気味の良い音がした。
ここはどこだろうか。辺りを見渡してみれば、コンクリートの壁が一面剥き出しとなった部屋であることがわかる。鈍く陽光が差し込む窓枠の下に位置する地面にはガラス片が散乱している。その反対に位置する場所に太い木の幹の一部が見えた。
「街の外れにある廃屋が確かこんな感じの建物だったけ?」
大樹にど真ん中を貫かれた建物などそうそうないし。小学生の頃に命に引き連れられ来た記憶がある。その後ものすごく怒られたのが懐かしい。
一応の目星はついたのだから、経緯とかは後回しにして出口を目指そう。
立ち上がってまずはこの部屋の出口へ向かう。
廊下に出て、ああやっぱりと思う。所々崩れた天井の砂礫が積み上がって悪路としている。劣化は進んでいるが、あの時探検した道の通りだった。懐中電灯を片手に見た、風景。
「あれ? こんな明るかったっけ?」
この建物に電灯はない。廊下は個室と個室の間に位置するため陽射しの差し込む隙間はなく、真っ暗なはずだった。
疑問はあるけれど、見えるのなら見えるで歩きやすいからいいんだけど。
ぼろぼろに崩れた瓦礫を避けて前へ。出口のある円形のエントランスホームはすぐに見えた。
入り口にはまだ扉が嵌められておらず、開けている。辿った記憶が正しければ出てすぐには伸びきった雑草の草原があり、その先にここら一帯を囲う鬱蒼とした森が茂っている。
唯一開けた場所としてそこは、日の光が強い。ぴりぴりと刺される感覚に襲われながら出入り口の先へ。
湿っぽい廃墟から日の下に出れて、ようやく安心感を覚え……っ。
熱い。熱い。熱い。身体の内側が、ぐつぐつと煮立った鉛が巡ったかのように熱い。血が、沸いている。ぶくぶくと血管内で沸騰しているのが分かった。
「あ……あ……あ」
立っていることもできずにくずおれる。いつもは意識すらしていない血の巡りがはっきりと感じられる。
原因は、なんだ。思考するまでもない。太陽だ。
日光がぼくの存在を拒絶しようと燃え上がる。いや違う、逆か? ぼくの身体が日光を拒絶しているのか。いや、両方かかかかkkkkkkkkkkkkkkk――?
思考回路すら煮えたぎっただと気付いたのは、自分の身体が廃墟に戻され太陽の下から逃れられたからだった。
何がどうなって、と考えられたのは荒れた息を正せて十分な酸素が身体中に行き渡ってからだった。
「なんなんだ」
思わず口を突いて出た言葉。虚しい残響が耳にこだまする。
「そんなの、吸血鬼が日の下に出たら燃えるに決まっているでしょう!」
リン、と鈴の音が鳴るような声がした。思わず音源の背後に振り向く。
まず目に入ったのは、鮮烈な赤。長躯を隠すドレスと腰元まで伸びる長髪の色だった。視界は首筋に誘われ、見目麗しい面にまで上った。練乳色の肌。血色のよい唇からは鋭い八重歯とこれまた血の色が鮮やかな舌が覗く。吸い込まれそうなほど澄んだ黒の双眸がぼくを見下ろしていた。
髪と目の色を混ぜたらあの不可思議な月の色になりそうだなあ。
「……」
「……」
そこで、はっとした。沈黙がある。痛い。
女性の瞳には、ぼくの覇気のない顔が映り込んでいる。ざっくり切った黒髪に鋭い目つきに収まる瞳は上の方が隠れ気力がなく見える。
「えっと……」
その女性に見覚えはある。だが、記憶の混濁が激しくそれが誰なのかが思い出せない。
「どちら様でしょうか」
だから、訊ねてみた。日本語で話しかけられたのだから、日本語で大丈夫だろう。
だが、女性の絵に描いたような美麗な顔が固まる。ぎぎぎ、と関節の駆動に不調が見られる動作で首を傾げた。
なんだ。僕の英語スキルなんてたかが知れているのだから、まさか日本語と聞き間違えたなんてことはありえまい。
「覚えてらっしゃらないのですか、私のこと」
杞憂だったようだ。記憶されていないという事実に驚愕を覚えているらしかった。
「見覚えっぽいのはあるんですが……いかんせんどこでだったかが思い出せなくて。ぼくたち、どこでお会いしました?」
女性は口元を手で隠してぼそぼそと「記憶の混濁……」がどうのと呟いていた。
「じゃああなた、自分が死んだことすら覚えていませんの?」
死。
そんなのは、ぼくの人生で一番縁遠い言葉だ。親類や知人は皆未だに健在である。
だがそれでも、実感を伴って聞こえたのは、冷たくなった身体にまとわりついた熱の感触を覚えているからだろう。
「ぼく、本当に死んだん……ですか……」
「ええ。自分の胸元を除いて見なさい。傷跡が残っていますから」
ワイシャツのボタンを一つはずし、人差指で広げて覗き見てみる。顔が影になって見えにくいかと思えばそうでもなく、はっきりと映った。
胸の真ん中を侵す赤黒い跡が。
「死者が吸血鬼《、、、》になることはできないので、応急処置を最優先にしましたわ。だから、綺麗にとはいきませんの」
……え?
今、なんて言ったんだ。
「吸血鬼……?」
おうむ返ししかできなかったぼくの言葉に、女性の顔が青ざめた。
「待ってくださいまし。自分が吸血鬼に成ったことを覚えていないのですか!?」
「吸血鬼に、成った……」
「そうですわ。あの夜、私が貴方を殺してしまったから、その処置として吸血鬼になることを許諾してくださったじゃないですか」
あの夜と言われて思い出したのは、記憶の最後に残る紅い月の晩。赤い何かが脳裏を過る。確か、この女性の髪の色と同じ赤で……
「あの時は、考えていることなんてできなかったから……ただ、薄ぼんやりと困っている顔が見えたから助けたくって」
抱いていた感情を口にしてみる。我ながら陳腐なものだ。
女性は、固めた顔をくしゃりと歪ませた。
「じゃあ、本来は吸血鬼になることを望んでいなかったといいますの?」
「それがあなたの望みだったなら、それはぼくの本懐さ」
困っている人を助けるのは、人として当たり前のことだと思う。
残念ながら人じゃない存在になっているようだが。
吸血鬼。ドラキュラ。ヴァンパイア。呼び名はいくつもあるが、そのどれもを聞いたときに連想して思い浮かべられるものがあるはずだ。
日光に弱い。それも、致命傷となるほどに。
あの太陽に対する拒絶反応が、何よりの証拠だった。
「まああれだ。よくわからないんで説明をお願いしてもいいですか。えっと……お名前を窺っても?」
「ティアハート。そう呼びなさい」
「はい、ティアハートさん」
「呼び捨てでいいですわよ……それにしても、落ち着いていますのね」
「頭がふわふわして慌てるどころじゃないんですよ」
「わかりましたわ」
ティアハートさん、じゃなくてティアハートは背を向けた。場所を移すのだろうか。
「ついてきてくださいまし。吸血鬼そのものについては私から語れるとしても、種全体のことは詳しい方に聞くのが一番早いので」
「ぼくたち以外にも誰かいるんですか?」
「私の姿を見てしまったあなたの存在を教えてくれた方ですわ。多分、今の世では一番有名な人でしょうね」
有名人言われても、ぼんやりとしたイメージしか浮かばない。一般人なんてそんなものだろう。
彼女の歩き行く世に従い、歩き出す。
それにしても、美しい後ろ姿だ。しゃんとする、とはこのことか。刃が一本通った日本刀を思わせる。
お互いに言葉を交わすことのないまま、廃墟の中を進む。五階建てを繋ぐ階段を二階分昇り、部屋に挟まれた真ん中に伸びる廊下に足を踏み出す。奥には大樹の本体が堂々と立ち、様々な部屋を押し込んで泰然としているのが窺えた。
どの部屋にも扉はなく、少しして立ち止まった女性は右手を指して「ここですわ」と告げた。
促されるままに入る。後ろからティアハートが追随する足音が聞こえた。
窓際で暗い日光を背に、その青年は佇んでいた。
ぼくたちの入室を見て、右手を掲げる。
「やあ、元気そうで何よりだよ、吸血鬼」
教え込むように、その青年は吸血鬼、と言った。
今にも溶けて消え入りそうなほどの無個性だった。達観し尽くした瞳を除けば、相貌にも体躯にも突出した特徴がない。
だから。
その存在感はきっと、歴史と言うものなのだろう。
「夜霧新さん……」
画面の向こうにしか見たことがない存在だ。この変わった世界を文字通り管理する男。
「そう固まる必要もない。僕は確かに夜霧新だが、今はMGR社の代表ではなく、一個人としてそこの女性に会いに来ているんだ」
「そこは後回しに、この少年に事情を説明してあげてくださいまし。私達について詳しいのでしょう?」
「まあ、二人っきりじゃないとできないし、今の君に話しても仕方がないことだからね。ただ、吸血鬼と言う種については、僕より君の方が体感している分詳しいのだからそこの説明は頼んだよ」
「それはそのつもりですわ。じゃあ、適当にしていますので、どうぞ」
どうぞって。
訳のわからなさがピークに達していてどうしていいのかわからないんだが。
「さて少年、と大仰にいうのも厭味ったらしいね。久澄碎斗君、いきなり吸血鬼と言われて混乱しているだろう」
「何で僕の名前を?」
そちらの方が現実味があるだけ不気味なのだが。
ああ、と新さんは懐から薄い長方形の物体を取り出した。
放り投げられ、やや前気味の落下地点で受け取り冷たい感覚を手の平に生むそれは、市立笹上中学校生徒の身分を証明する電子学生手帳だ。そう言えば、ズボンが少しだけ軽い。
紛失してもGPS機能で探せるため、パスロックを解かないと情報の一切は見られないはずなんだけど……
「悪いけど、ロックを解いて見させてもらった。流石に誰だか知らないでいるのは色々と困るからね。だからって、親御さんや学校に連絡できるわけじゃないから、完全に私情だけど」
別段、見られて困る情報が学生手帳に記されているようなこともないのでいいか。自己紹介の手間が省けたのだ。
ズボンのポケットへ厳重にしまい込み、先程の問いに答えておく。
「それで、吸血鬼云々について何ですけれど……混乱する以前で。なにがなんだか、と言うやつです」
「理解に辿り着くための情報がない、と」
「はい」
「じゃあまずは、君たちのような存在がどのように呼ばれているのかを知ってもらおうか」
きみたち――ぼくたち。
人間でなくなったらしいぼくの居場所は、なんなのか。
「恐苛。恐れられ、苛むもの。伝承が生んだ化け物たちだよ」
「恐苛……」
「ある時代に、人間を恐怖に苛まれむ特異な現象があった。それこそ、世界単位で誰もが悪い想像をしてしまう、魔術的な現象が。わかるかな?」
その問いかけは、説明に間を作るためとしか思えないほど簡略化されたものに聞こえた。世界規模の魔術的現象なんて、一つしかない。
「アルファ……」
「正解。瘴気に包まれた七日間のせいで人間の精神は確実に蝕まれた。あの時は魔術師の存在を知る人なんていなかったからね。自分たちの知識でその現象に形を作らないと、困ってしまう。恐怖と隔離で胡乱になった頭は、研究者でも、いや研究者の方が理解できないということに参ってオカルトなことを考え出した」
男は自分の側頭部を人差指で小突いた。
「人間の想像力ってやつは厄介でね。あるかもしれないと大多数が思った時、実際に形にできてしまう生き物なんだよ。神話なんて、その最たるものだ。というより、恐苛と言う存在は、神々の作られ方と同じなんだよ。理解できない現象を自分たちの理解に追いつくように形作ろうとした結果、敬意と畏怖を形とした化け物が生まれた。神と同列に慣れなかったのは、既存の型にはめ込んだからだろうね。化け猫、精霊、不死鳥、吸血鬼様々なものに、ね。質量保存の法則やエネルギー保存の法則などお構いなし。完全に物理法則に反した存在さ」
それが恐苛、と男はしめた。。
ぐるぐると、話の内容が頭の中に回る。
……確認したいことがあった。後ろでつまらなそうに瞑目し、だけど手をお腹の前で組んでしゃんと起立している女性に話の矛先を向ける。
「あの、ティアハートは恐苛であることをどう思っていますか?」
「ん?」
彼女は片目だけを開け、やはりつまらなそうに言う。
「正直、面倒ではありますわよ。生まれ出たからと言ってできることと言えば誰かに憑いてその力を振るうことくらい。吸血鬼は特別種でこうやって肉を得ていますが、だからこそ危険因子として魔術師崩れや退魔師なんかに狙われている。こう思うのが必然ですわ――」
そうして女性は、ぼくが思っていたことと同じことを口にする。
「人間様の恐怖を押し付けないでくださいまし、と」
つまるところただの被害者である。
「まあそこは、平行線でしかないからね。人間だって意図したわけではない」
しれっと新さんは言う。その姿には憤りを覚える。
表情に出ていたのか、新さんはぼくを見て笑った。意地汚く、口を弧の形にして。
「いやはや、未熟な英雄志望か」
「何が言いたいんですか」
「そう怒らないでくれ。僕は基本的に解説役だからね。あまり食ってかかられると呆気なく殺されちゃう。だからさっさと退散するよ。フィアブラッドムーンが本調子を取り戻したら、また顔を出すから」
「フィアブラッドムーン?」
「ああ、君は名を呼んでいたね。これは異名だよ。吸血鬼の姫。最も恐れられ最も弱い。最恐最弱の吸血姫・フィアブラッドムーンてね。そこらへんも含めて吸血鬼について聞けばいいと思うんだけど……」
新さんは首だけ動かして窓の向こうを見る。
「お客様だよ。魔術師崩れの、ね」
流石にフィアブラッドムーンさんに聞かされたばかりだ。それがどういう意味を持つのかは、理解できる。
敵だ。
窓の向こうに目を剥ければ、よく見えた。これも吸血鬼の力の恩恵なのだろうか。
建物の外。銀色の髪を夏風になびかせた女性がいた。
視線に気づいた……とかではないだろうが、彼女は視線を上げ、ぼくを見つけて舌を唇に這わせた。不気味な女性だ。
「フィアブラッドムーンは今は戦えない。だから守ってあげてね、眷属君」
と、いつの間にか部屋から出ていた新さんがそう言ってきて意識を戻す。
見つかってなければ、いくらでも逃げ方はあるのだろう、
問題は、
「守るって……あの人と戦えってことですか」
新さんはもういない。だから必然的に問いはティアハートへのものとなった。
「嫌ならやらなくてもいいですわ。あの方の雇主は私に用があるのですし。あなたは逃げても構いませんわ」
「それは……」
できそうにない。太陽に焼かれるからとかじゃなくて、無力らしい女性をみすみす見捨てるのは気持ちが悪い。
戦い方なんて知らないけれど、そう思ったならやるしかない。
「いや、やります。ぼくしかやれないなら、ぼくがやる」
外に女性はもういない。時間は限られている。
「確認したいんですが、吸血鬼って人間と比べて凄い力があったりします?」
「膂力は人間のそれをはるかに凌ぎますわ。コンクリート塀くらいなら、成り立てのあなたでも砕けるくらいの。それに、気付いていると思いますが五感の機能も増していますわ。後は、まだ人間であることが抜け切れていないあなたには難しいと思いますわね」
それだけ聞ければ充分であった。
視力は薄々わかっていたが、五感全体が鋭敏化しているのか。なら、この耳をすませば擦るように聞こえる音は、あの女性の足音かな。
階段を昇りきったところだ。
ぼくはすぐさま階段側の出口脇に身を潜める。
部屋の場所はすでに数え済みか、行く足に迷いがない。
物は試しだ。
そう思いながら、女性の足音が入り口脇に辿り着いた瞬間に拳で壁をぶち抜いてみた。
クッキーでも砕くような感触でコンクリート壁が爆散。紅い液体が舞うのを視界の端に収めながら、破片と言うには大きすぎる塊が女性に向かうのを確認した。
殺すなんて物騒なことは考えてないし、無理だ。
だから、人間より強いらしい吸血鬼の力を手に入れた今のぼくに叶う状態じゃないと判断されるまでは怪我をさせることにした。
剣道でも自分より実力が上の相手に万全じゃない状態で勝てたことなど一度もない。逆に、こちらが万全で向こうが負傷していても、負けることが多い。
勝負には必然の中の偶然はあっても、奇跡の中の偶然はない。
強者に弱者が勝つには、万全の状態でなおかつ策を講じなければならないものだ。
散弾は接敵すると砂煙を舞わせ、影を作る。
人影を隠す巨大な十字が見えた。
影が動く。面を横にして薙ぎ、砂塵を吹き飛ばした。
身長の倍はありそうな銀の十字を片手で振りかざして、女性は獰猛な笑みを浮かべた。
「如月十字架。吸血鬼、狩らせてもらうぞ」
「素人ですわね」
口の中だけで転がすような声は、ぼくにしか聞かせないほど小さい。
ぼくに何かを伝えたのか。
わからないまま、攻撃が来た。
銀の振り降ろし。重量が風を押し込んで迫りくる。
だから、打ち上げる軌道の拳で応戦した。
互いは逸れることなく衝突し、十字が弾け飛んだ。
「な!」
如月十字架が驚愕を漏らした。ぼくも動揺している。
目にしたときから自分の記憶を疑っていたが、吸血鬼は十字架に弱いのではないのか?
「神の敵である吸血鬼は、主の加護がある神聖なる十字を恐れる、でしたっけ?」
ティアハートが、今度はきちんと音にして言葉を紡いだ。
「残念ながら恐苛の吸血鬼は悪神ではない。魑魅魍魎を型としても、その本質は別のものですわ。銀もまた、同じ理由で弱点ではない」
それを知らずに銀の十字架の魔術があるからと余裕を見せていた術師を素人と断ずるのは、当然のことだ。
「さあ、今の交戦で彼我の差ははっきりしましたでしょう。いくら無文言だからと言って、それを認められないほど魔術師は愚かではないでしょう」
軌道文言を必要としない程度の魔力保有量の魔術師を蔑視する言葉を使われ、如月十字架の顔が酷く歪んだ。
それでも、魔術師であることへのプライドが勝ったのか、追撃の気配が消えた。
背を見せずに立ち去っていく如月十字架。そこへティアハートが言葉を投げつけた。
「雇い主に伝えといてくださいます? 心臓は丁重に扱うこと、と」
「知ってると」
「あくまで延長線上ですからね」
魔術師は苦笑した。
「まあ、そうか。ご報告も兼ねて伝えとく」
二人の間で交わされる言葉は、ぼくにはわからない。訊けば教えてくれるだろう。戦うのはぼくらしいし、無関係でもなさそうだから。
まあ、吸血鬼としてのぼくの初戦が呆気なく終わったのだけはわかった。
2
そんなわけで、説明タイム。
「吸血鬼について、ですかぁ」
ティアハートは億劫そうだった。
それでも動きを見せてくれる。
「実際に動きながら教える感じでいいですか」
「? お願いします」
何か血を操る力とかがあるのだろうか?
そう思っていたのもつかの間、懐に入られ掌底。息が押し出され内臓が潰れる――文字通りの意味で。
「ガハッ」
吐血していた。痛みより、苦しさが強い。
お腹を抱えうずくまるぼくの後頭部に、衝撃。意識が明滅する。遠くで腐った果実が弾けるような音がした。
「第一に、吸血鬼は防御力に優れているわけではない。そこは人間と変わりませんわ」
空気を求めて荒れる息の隙間から聞こえる言葉が脳に刷り込まれる。明暗がころころ変わる視界の中に、ピンクのぶよぶよとした物体が見えた。
「第二に、人体欠損があっても、心臓があればどんな部位でも瞬時に回復できる」
その通りだった。すでに立ち上がれる。
だが、持ち直した視界一杯に肌色が見えた。眼球が、ティアハートの細指に打ち抜かれた。
「がああああああああああああああああああ!!」
熱い。浮く感覚と鋭い痛みに流れるのは血か涙か。
ふと、足場がなくなる。そこを起点に指二本で持ち上げられたのだ。
「怪力……は先程の戦闘で実践していましたわね。五感の感覚機能も一緒でしたわ。失敬」
そう言いつつも、脳天から振り落す。ぽきっ、という音と首の熱は、しかし思考が閉じたことで彼方のものとなる。
次にぼくがぼくを認識した時には、暴力の嵐は止んでいた。
「多少は痛みに慣れましたか?」
声の聞こえる方向を頼りに女性の姿を探す。風の感触。彼女は窓枠に座っていた。
「なんで、こんなことを……」
呼吸がうまくいかない。恐怖で筋肉が委縮しているのがわかった。
「吸血鬼、と言う生き物は常にそういう危険を孕んでいるからですわ。私の力となってくれるのならば、主あるじとしてやらなければならないのですわよ」
狩られる存在。さっきはたまたま吸血鬼について知らない人が来ただけで、本当ならば場数をこなした人物が襲撃するものなのだろう。
それに新さんは、吸血鬼の姫と彼女を称していた。多分、凄い存在なのだ。
それを狩るならば、それ相応の人が来るのだと、思う。
「さあ居住まいを正しなさい、我が従僕。私は私の義務を果たしましょう」
思考を貫く芯の入った声。その甘美な命令にはどんなことでも従いたくなった。
正座で主様を見上げる。
「吸血鬼。恐苛と呼ばれる種の中でも最強と歌われる存在ですわ。その理由は、存在と言う概念がある対象に絶対の力があるからですわ」
「存在……?」
「この世界の基準に合った存在……簡単な話、魑魅魍魎霊体無機物生物への搾取権と言ったところですわね。吸血鬼は何故吸血鬼と呼ばれるか、ご存じで?」
「それは、血を吸う鬼だからじゃ」
「そうですわ。血、生命力を吸い上げることができる鬼。存在を、奪えるのですわ」
「……」
吸血鬼は、血を栄養とする。それは、つまり。
「孤高なる者そう仇名されることもままですわね」
この世の全てが食糧であるため、何ものとも相容れない。そこには、同族すら含まれる。
孤高で、孤独。
「どんな傷を負おうと、瞬時に回復する。心臓がある限り。吸血鬼の心臓は、血液を不老不死を可能とするものへと変質させますの」
心臓。血液を循環させる、筋肉。血肉の塊。
「吸血鬼は、血を、存在力を奪う。それは即ち、吸血鬼にとって血が必需品だからですわ。血肉からしか栄養を摂れない。食べなければ死んでしまうのは、人間も同じでしょう?」
「まあ、そうですが……」
老いず、死なず。
誰とも相容れず、永遠を独りで生きる。
「吸血鬼にできるのはそれだけ。描かれる通りの、他生物への変身できない。空を飛べない。霧になれない。影に潜れない。催眠の魔眼を保有していない。元素を使役できない」
その通りならば文字通り、血を吸うだけの鬼だ。
「先程も言いましたが、逆に伝承にある弱点も二つを除いて皆無ですわ。十字架は効かず、大蒜は気にならず、聖水にも浄化されない。炎は熱いだけ。鏡には映り、影はできている。流れる水を渡れる。招かれなくても他人の家に這入れる」
弱点の二つ、と指が二本立てられる。
「心臓がなければ血の流れは停滞する。負傷すれば血が傷の補填に当てられ、失われる。流れがないから、そこは空っぽとなり、効力の埒外となってしまう。だから、心臓が動かなくなれば吸血鬼は、吸血鬼としての力のほとんどを失ったと言っても過言ではなくなる」
一本がしまわれ、立てられた指は一つに。
「太陽と月。日光はその光を以て私たちの存在そのものを焼き尽くしますわ。血液が煮立つ感覚はそれのせい。そして、月。一般的には太陽が沈み、浮き上がるものとして吸血鬼と神話性が高いとされますが、月光はそもそも太陽の光を反射したものですから、浴びれば血沸き立つ」
聞いて、気付いてしまった。
「じゃあ……」
「ええ。吸血鬼は全ての生物の上に立つものであるが故に、世界から拒絶された存在。影の中で怯えて暮らすことしかできない、弱者」
あまりいじめては欲しくないですわ、と冗談めかして笑った。だが、笑いごとではないだろう。
人間の恐怖から勝手に生み出され、現れた世界の全てから否定される。
それは、理不尽だ。
「さて、じゃあ個人的なお話に参りましょうか。本当に私の味方をしてくれるのか。私の事情を聞いた上で判断してくださいまし」
女性の背で、空が燃え上がっていた。背の高い木々や這いずり回るつたに囲まれた廃墟は、日光から守られている。
遠く眩しい。
それが、紅に染まる。
あの夜に見た、あの月の色と同じに。
「死んだ数多の吸血鬼の怨念か。はたまた進化の過程なのかはわかりませんが、私と言う吸血鬼は、私たちを拒絶するものを上書きできるのですわ。具体的にはこのように、光そのものを塗り替えることが」
親指と中指を弾き合わせを合図に空の色が元に戻る。瑠璃色が混ざり始めていた。
「〈光蝕〉と呼ばれるこの力のせいで同族からは姫として祭り上げられ、他の生物からは〈恐怖の紅月〉と、最高位の危険種として扱われてきましたわ。そして、この力を使役しようと、ある男が私を狙っていますの。吸血鬼の王を自称する、串刺し公と名乗る男が。彼のものは幾多数多の眷属や契約者を従え何年も何年も私を付き狙ってきましたわ。退魔師に力の大半を封印され、遂には先日心臓を再生できないような特殊な方法を重ねられて奪われた。あの気色の悪いストーカーに私の命は握られてしまったのですわ」
最恐最弱の吸血姫。最も恐れられる力を保有しながら力の大半を封じられたために最も弱い吸血鬼。
そしてそれが、如月十字架と交わしていた言葉に繋がるのか。
彼女の雇主は、串刺し公というやつらしい。
あれ? じゃあ、どういうことなのだ?
「吸血鬼で長年追い回していたんですよね? だったらなんで今更如月十字架みたいな素人を送り込んできたんですか?」
「手ごまがいなくなったから、なりふりは構っていられなくなったのでしょう。今まで来た追っ手は、二度と来れなくなる様に追い返しましたし」
「それって、どういう」
「そのままの意味ですわ。女性に言葉を重ねさせるものではありませんわよ」
そっとした。明言を避けてくれたお陰で恐怖は脳裏に巡るだけで済んだが。どこへ追い返したのか。
仕方がない、と割り切るにはちょっと重すぎる話だった。
だが、吸血鬼と言う種の説明を受けたばかりであるし、棚上げにする気にもなれなかった。
頭を軽く下げ、言葉を遮り言いずらいことを騙らせてしまったのを謝罪する。
「よいですわ」
なんてことなさそうに手を軽く振った。寛大なお心の持ち主のようだった。
「続けますわよ。心臓を奪われたことで流れていた力の均衡が崩れ、私は私と言う存在そのものを抑え込ことができなくなったのですわ。たまたま近くを通ったあなたは力の余波を受けて、本能が搾取される運命を悟った。絶対に敵わない上位種に下される前に自身の死を選んだ。吸血鬼は、それだけ天敵と言うことですわ。
それを命からがらであの女性から隠れていた時に前触れなく現れた夜霧新に教えてもらい、自分が起こした惨状を見たました」
霞む視界の中、掴み取った意識が記憶していた赤は、その経過を経た彼女だったのか。
「私は貴女に問いましたわ。『私があなたを殺してしまった。あなたを救うために、吸血鬼にすることを許してほしい』、と。一滴でも吸血鬼の血が混ざれば血流に乗って全身に薄まりながらも行き渡り、人間ではいられなくなる。そして、あなたは言った――」
「いいよ」
「そう、ですわ」
始まりの顛末。
誰が悪いかと言えば串刺し公だが、結局は不幸の重なり合いでしかない。
たまたま、たまたま。偶然が必然のように重なり合って、この出逢いは生まれた。
「正しくないのは承知していますが、あなたを救ったことで私の血は殆ど空っぽ。だから、戦えない。本来ならばどんな理由であろうと眷属には絶対の命令権を発生させることができますが、敢えて頼みます」
ティアハートは窓枠から降り、緩やかに腰を折った。
「どうか、私を助けてください」
「さっき言いましたよね。ぼくしかやれないなら、ぼくがやると。だから、そんなに頭を下げないでください」
正座をしているため顔はぼくの頭の上にあるのだが、気分の問題だった。頭を下げられ慣れていないというのもあるが。
どんな事情と経緯があろうと、彼女はぼくを助けてくれた。一回殺されているらしいし、また二回殺されたっぽいのだがそれは関係のないことだ
命の借りは命で返す、などと言う高尚なものではないが、助けられたというのなら助けたい。
孤高で孤独であることは、ぼくには想像もつかない。だが、それを受け入れていても、誰よりも高みにいるが故に誰からも守ってもらえないのなら傷だらけのはずだ。
痛みには慣れがある。けれどこれは、慣れちゃいけないの痛みだ。
僕が前に立ち傷から守れるのならば、本望だ。
「甘いんですわね」
「ん?」
吸血鬼の耳はいい。不意の一言で聞き逃したわけではなく、意味を理解し損ねたのだ。
「英雄幻想。いいえ、それがあなたと言う存在ですわよね。それに、私の力が正常に戻れば混じった吸血鬼の血だけ吸い取って人間に戻すことも可能ですわ。やはり、戻れるのなら戻りたいでしょう?」
「えっと、それは、まあ……できるのなら、そうですね」
自分でも驚くほど、すんなりと答えは出ていた。吸血鬼の境遇が云々ではなく、人間であることの執着心があったらしい。
「まだ眷属になってからの日が浅いから、自我がありますわね。本音を聞けて良かった」
「眷属って、そのまましもべみたいな感じなんですね」
「そうですわ。まあ、非常食としての役割もありますが」
「えっ」
「今の私みたいに本当に危ない時に食べる血肉袋でもありますのよ」
「えっ」
その守り方はちょっと想定していなかった。
3
別段ぼくはぼく自身を優しいと思ったことは一度もない。
親や近所の人、先生方や友達からは優しすぎると言われるが、ぼくはぼくの気持ち悪くない方向に行動しているだけだ。
困っている人を一度でも見てしまえば、それを捨て置いて前へ進んでいくのは胃の底に重いものが残る。
だったら多少は損失があろうと、助けに行ってしまった方が後悔はない。それに、損失を恐れるならば損失を埋められるように動けばいいだけだ。
だから、誰に何と言われようとぼくがやりたいことは変わらない。
けれど、甘い、と言われたのは初めてだった。
その言葉の意味を測りかねたまま、夜を迎えていた。お腹は減っていない。眠気が来るには少々浅い時間。
上下からの襲撃に備えやすいと言われて三階にある部屋をプライベートルームにしたぼくは、鈍く突き刺さる月明かりを避けて窓枠から外を眺めていた。割れた窓だったので、淵に残った窓ガラスだったものは手刀で薙ぎ払った。創傷はすぐに治った。
ティアハートは隣の部屋だ。彼女は下僕、何なら非常食との同室は気にしないそうだったが、ぼくが断った。
綺麗な女性に興奮してしまうからではない。美しすぎて、そんな邪まな感情が湧くことすらないほど、遠い。
人間でありたいという感情がある以上、吸血鬼の関係性には余り馴染めない。どこかで一線を引くべきだと思ったのだ。
結局、言葉の真意はおろか、意味すら読み解けない。今まで自身を顧みることがなかったことのツケだろうか。
そう言えば、名前について聞いていなかったのを思い出す。
――すっ。
音がした。靴底が砂とこすれる音が。
風上ではあるが、鼻は鋭敏。彼女の匂いとは、違う。
「こんにちは、眷属さん」
アンニュイな声音。背後に、気配。
様になっているかすら怪しいが、拳を構えて振り返る。
くっきりとしあ顔立ちを晒す以外は適当に伸ばされた青みかかった紫紺の髪が特徴的な女性だった。
だが、それより目を引く、三段の脚立。光り方からして鉄製に見えるのだが、対の脚となる部分を柄として右手一本で握り込み、気軽に右肩を叩いていた。どんな力だ。
精一杯の強がりを振り絞って、ぼくは訊く。
「敵、ですよね」
「そう、言える」
「そうですか」
守る。だから、
「――」
息を一吐きにし、駆け出す。
距離感を測り、インパクトから伸びを作れる間合いで前傾姿勢で右の拳を撃ち込む。
女性は右から回って避ける。右手は残し、閉じられた脚立の段差と段差の合間に腕が挿入される。動きは段差を手首の表と肘の上で固定しその状態で回転が起これば、あるのは肩関節の破壊だ。
全体重を前に乗せたため、重心の戻りが遅い。
後ろに回った肩は、そのまま駆動域を外れ軽い音を立てて外れた。さらに肘を支点にして手首側を無理矢理持ち上げたられる。二の腕裏の筋が突っ張り、断裂する音を立てながら上腕骨が折れた。
「ああああああああああああああああああ!!」
衝撃、そして炸裂に似た痛みが爆発的に広がる。遅れて間接に熱が、右腕全体が痺れ、感覚が失われて力なく垂れる。全身から冷汗が噴き出て、吐き気がした。
わずかに緩められ脚立は外れる。
瞬時に右腕は回復するが、まだ吸血鬼である感覚に慣れたわけではない。
人間であった時代に染みついたものがぼくの挙動を遅らせる。
前傾のまま崩れ落ちそうになっている足をかける下段の回し蹴り。偏った重心で避けることはかなわず、落ちていく。
さらにそれを後押しするように背中に衝撃が。脚立の足下により、衝撃が肺腑を潰す。
地面に叩きつけられ、胸骨が砕ける音を聞きながらバウンド。口から漏れた鮮血が軌跡を描く。
開かれたらしい脚立の外側の段差と段差の隙間に浮いた身体が入れられる。鳩尾に出っ張った段差の側面がめり込んで、力が抜ける。膝下にも似た衝撃が走っていた。まさか。
当たった。三百六十度曲がるらしかった脚立が、ぼくの胸と膝の上に通っていた。ぼくを底辺とした三角形。
その頂点を、敵は気軽に押す。鉄の塊を軽々と振り回す、腕力で。いや、待ってくれよ。
声になる前に、結果が生まれる。
ぐん、と背中が曲がり。
ばきばぎぼぎごぎぎゃぎごぎゃ。
腰と背骨が砕け散るグロテスクな音がした。胸からあばらも飛び出る。
折れた衝撃が脳を殴り、余計な思考を叩き出す。
熱と痛みだけが感じられる全てとなった。
「あ、あ、ああ――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
絶叫。
内部の衝撃が奔流となって脳をぐじゅぐじゅにはじく。
ぱん、と畳まれる衝撃と金具が嵌る音がした。
腹が破け、内臓がこぼれ出る。
再生。折れる。再生。折れる。繰り返し。
痛みが終わらない。
「本当は不死鳥の力をかけて擬似的な不死で発狂するまで続けるんだけど、吸血鬼はもともと再生能力があるからいいよね」
音がした。痛い。しただけ。痛い。記憶は。痛い。できても。痛い。理解。痛い。はできない。痛い。
意識とは別の、正気を保つ線が切れかけ――唐突に痛みがなくなった。
投げつけられる衝撃が貫いた。
「あ、え……?」
痛くない。
生きて、いる。
動けない。
治っているけど、精神が屈伏しているから。
涙で霞む視界で、状況を見る。わからないのは怖い。
何が起きているのか。
目の前に、視界を晴らすほど鮮烈な赤があった。
「大丈夫ですか?」
声でわかる。ティアハートだ。
その先に、血の塊を吐き出して呻き声を漏らす敵の姿があった。ぽっかりと胸に大きな穴をあけて。
ティアハートの右腕が手首まで血に染まっていた。
視線はさらなる情報を求めて精度を上げる。くしゃっと潰れた脚立が敵の足下にあり、窓枠には歪みが見れた。
理解した。
ぼくの苦鳴が、隣の部屋にいた彼女に敵の襲来を伝えたのだろう。そして見つからぬよう窓枠を蹴りつけ、後ろから貫手で心臓を穿ったのだ。そして、そのままぼくを解放するため、脚立を無理矢理壊して救いあげてくれたと。
ただどうであろうと、人の死は初めて見る。ぼくは耐え切れずに目を逸らした。
「まだですわよ!!」
耳朶を叩く糾弾の声にすぐさま向き直った。。
瞬間に、燃え上がる色を見た。栓を失って血がこぽこぽとこぼれ出る傷口に橙色の輝きがまとわりついていた。
「あなたに殺されるのは二回目ね、フィアブラッドムーン」
傷口を舐めていた焔が消える。あったはずの空洞は失われ、健康的な肌の色が見えていた。
必死の傷が、治っている。
同種か――いや、治り方が違う。
「気をつけなさい、我が従僕。その女は、不死鳥の恐苛が憑いた不死者ですわ」
「嫌だな。君たち本当の化け物と一緒にしないでくれよ。私はきちんと死ねるよ」
群青髪の女性が足下の脚立を右手で持ち上げる。さっき傷口を舐め回していた炎と同じものが宿り、元の形に戻る。
右足を前にスライドさせ、ティアハートへ向けて脚立を斜めに切り上げる軌跡で横薙ぎで振るう。持つ脚が下の一本になっている。
構造に従って開き、直立に。金具が固定される音がして、一本の剣のような脚立が間合いの外にいたティアハートに襲い掛かった。
「知ってますわよ、それは」
暴虐の一撃を、そこへ飛び乗ることで回避する。
敵は回りながら右手に被せるようにして一段目上の脚を左手で握り、手首を捻った。
真横に弾かれるティアハート。空中で反転して、壁に足から着地。ふわり、と足首まで隠すスカートの裾を膨らませながら降りた。
「私の心臓は健在ですか? 名乗りを上げることすら知らぬ無礼者」
「これは失礼。全盛期の吸血姫相手ともなれば、ただの人間である私は不意を突く他なかったので」
わざとらしい口ぶりと共に敵は固定用の金具を外して脚立を折りたたんだ。
「夜霧舞華。元は夜霧に連なるものでしたが、今ははぐれの魔術師や恐苛を狩ることを生業としております。これでいいかな、フィアブラッドムーン」
「いいですわよ。それで、私の質問には答えていただけますの?」
「健在も健在。串刺し公が後生大事に抱え込んでいる」
ティアハートの眉根が若干寄った。
「それであなたは、私を捕らえに来たのですわよね」
「そうだね。潜伏場所がわかれば攻め入るのは自明のこと。如月十字架を生かそうと殺そうと、詰みだったわ。ただ、〈光蝕〉がお前の中に宿る力なのは昨夜や夕刻に起きた現象からはっきりとしている。場所を移さなかったのは何故なの?」
「何故って」
視線を大きく外して、推移を見守ることしかできていないぼくの方を見た。
「賭けているからですわ。今の私は不意打ちをすることでしか戦えないほど弱体化している。策は意味をなさず、逃げようともいつかは見つかる。ならば、力を与えた我が従僕が勝つのに賭けるのが主としての在り方でしょう」
追いつめられての最後の手なのかもしれないが。
逃げ隠れるよりぼくが勝つ可能性に賭けてくれたのが嬉しかった。
「今まで眷属を作ったことのなかった癖に、随分と自覚に芽生えているようで」
ティアハートは何も言わなかった。
大丈夫だ。
彼女が信用してくれるのならぼくは。
ぐっと歯を食いしばって立ち上がる。
震えることのない膝を落とし、拳を握りしめて敵を見据える。
走り出す。間を一足で縮める。
夜霧舞華は左足を開き、腰を回して顔面を狙った横払いを放ってきた。
迫りくる脚立を上体を逸らして躱し、過ぎ行く右腕の肘関節を下から殴りつける。
軽い感触と音があり、夜霧舞華の腕が逆方向に曲がって先端の尖った骨が飛び出た。
「あっ」
苦悶に喘ぎ、脚立を落とす。橙の燐光が破損部位に宿る。
すぐさま左手で持ち直して、縦の一撃が来た。
腕を交差させ、受ける。衝撃が迸り視界が明滅する。
だが、痛みを認識する前に負傷がなくなる。
衝撃を受けるために着いた膝を持ち上げ、下がる。同じ場所に二撃目が振り切られた。
ただでさえ老朽化の進んでいた地面が砕け落ちる。
そこを迂回して夜霧舞華が駆けた。右腕は治療を終えている。
ぼくもいつでも駆動が可能な膝溜めで正面から相対できるように身体を動かし、接敵する。
間合いは向こうの方が広い。両手で脚を持って上段に構え、振り下ろす。彼女の身体側左右一本ずつしか握っていない。
開いて間合いを伸ばした脚立を右に跳んで躱す。
「知っているのは、知っている」
言葉があって、追随する振り回しが。空中では方向転換はできない。
「……っ」
枠に左手を乗せ、全身を脚立の上に持っていく。そのまま手を弾いて身体を流した。
着地にソールがきゅっと音を鳴らす。溜め込んだ力を爆発させて前へ。
斬り返しが来る前に距離を詰める。
左足で接地、半身になって鳩尾に掌底を打ち込む。めり込ませてしまうとぼくと同じように内臓が潰れてしまうからインパクトの瞬間に引く。
夜霧舞華の身体がくの字に折れ、胃液がこぼれる。下から顎を撃ち抜いた。
呼吸を阻害し、脳を揺らした。
息を止めたままぼくは女性の反応を待った。
狙った通り、夜霧舞華の身体が崩れ落ちる。
失った意識まで回復できるのならこの作戦は失敗だが、あの炎が出ないのを見るに杞憂に終わったみたいだ。息を吐き出しながら、受け止める。
脚立の落ちる重々しい音が臓腑を震わせた。夜霧舞華の空けた穴に蹴り飛ばす。重低音が二回したのは、建物の老朽化が激しいからだ。そう思っておこう。
「この人、どうしますか?」
ティアハートに指示を仰いでみる。
「起きるまで監禁するほかありませんわね。利用価値はありますので」
殺す、と言われなくてよかった。
本人の口ぶりからして、いつかは死ぬらしいから。
「それにしても見事でしたわ、我が従僕よ。学生をやっていた身分でよくまあそこまで戦えるものですわね」
「一応武術を嗜んでいたので、動きの基礎みたいのはできてたんじゃないですかね。あとはまあ、脚立と言う奇策の搦め手に対して先を取ったら痛い目にあったので、今回は後を選んで隙間を縫ったという感じです」
武術、剣道に関しては嗜むというか、お父さんが道場で師範代を務める人なので小さいころから仕込まれ、少々やる気を出せば普通に運動系の部活をやっている人よりは動けるようになっている。ましてやそこに吸血鬼の力が加われば、素人らしさは鳴りを潜めてくれているのだろう。
あー、そう言えば明日部活は無断で休むことになるのか。昨夜別れた、人間だった頃に最後に会った命がよぎる。
命のやつと出逢ったのは親同士の付き合いからで、物心つく前から交流がある。
父親が開いている剣道を共に始めたのが今でもだらだらと関係性が続いている理由だ。その縁で毎朝一緒に登校しているのため心配をかけてしまうな。そんなたまじゃないや。
と、そう言えば。
「あの、ティアハート。ぼくの竹刀袋はどうしました?」
「そんなもの持ってくる余裕なんてありませんでしたわよ。血はまあ、流石に処分しておきましたから大丈夫でしょうけど、あそこで誘拐された程度には思われてしまうでしょうね」
「それはちょっと、大変だなあ」
それでも取り敢えず引っかかることはなくなったので、夜霧舞華をどうやって監禁するのか尋ねてみる。
「隠れ家にする際にざっとこの建物を見てみましたところ、幾つか窓のない部屋がありましたわ。ここは建設途中の病院だったようですわね。あるかわからない鍵を探すのも時間の無駄ですので、外側から錠を壊して使いましょう」
なんともそのままな監禁方法だった。
というか、病院に吸血鬼って。
呆れが出るも、それだけ。
先導してくれる主様に従って廊下へ。階段を一層分上がり、四階の突き当りにある部屋の前に着く。今の時代見ないドアノブ式だ。
ティアハートが捻ったところ鍵が閉まっていたみたいで、そのままねじ切った。
ぐしゃ、と音がして扉が虚しく開く。中には一部の光もないが、廊下から差し込む弱い月光でも吸血鬼は大丈夫だ。不死鳥は知らない。
夜霧舞華を担いだぼくが入室し、入り口から離れた場所に女性を置く。
ドアの形を歪ませ無理矢理ロックして、閉じ込めた。
ぼくはティアハートに向き直った。
「これから、どうします?」
「そうですわね……休めるうちに休んでおくのがいいと思いますわ。人間時代にはそろそろ寝ていた時間でしょう」
「そうですけど。いいんですか?」
「今回襲来してきた二人があの男の持てる駒と考えるべきですわ。私の弱体化を餌にしても、あいつは吸血鬼。狩る側が手伝うことなど、稀ですわ。それに、私の弱体化そのものがあまり信じられるものではないでしょう。牽制のために〈光蝕〉を使いましたから、増援も望めないでしょう」
そんな意図があったのか。
よく考えれば多くの人に生存を伝えてしまうわけだから、使うとしたらそれなりの理由があるか。
そこまでお膳立てされれば、多少は気を抜ける。張りつめ続けるのは意外とストレスだったのだ。ただでさえ五感が鋭敏になって落ち着かないのに。
「えっとじゃあ、おやすみなさい」
「階段を降りるまでは一緒ですわよ」
苦笑された。気を緩めすぎて先走ってしまった。
ははは、と我ながら乾いた笑みを漏らしつつ、階段を降りる。
「我が従僕、部屋はまた一個横を使うといいですわ。血肉まみれの部屋なんて使いたくもないでしょう。私が掃除しておきますから」
「え、それはなんか悪いですよ」
「では、我が従僕は自分の血肉を処理できるのですか?」
「……できません」
考えるだけでぞっとする。
「でしょう。それに、夜霧新が使っていた部屋で暴れた後の処理も私がやったのですわよ。今更気にしないでくださいまし」
全く知らなかった。
というか、掃除しなきゃいけないものなのか。いやまあ、普通はするんだろうけど。わざわざティアハートがやるのに違和感を覚えた。
けれど、すでに三階。先頭今野酷い部屋を横目に、新たな部屋へ。
今度はきちんと自室の前で言葉を口にする。
「それでは、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさいまし」
部屋に入り、真ん中らへんを仰向けで占拠する。ひんやりとした感覚が背中を包んだ。
目をつむってみればぼくと言う存在が溶け出し始め、意識が消えていく。――意外と、疲れていた。
こうしてぼくの吸血鬼一日目は幕を閉じた。
4
まどろむ意識に蝉の声がした。
胡乱な頭はぼくの存在すらもあやふやなまま、世界の姿を映す。
霞む瞳に見えたのは、赤だった。起き抜けにその色は脳を刺した。
何が何だかわからずに瞼を見開くと、黒水晶のような双眼と視線が合った。意識が吸い込まれそうになる。
そこでようやく、ぼくがティアハートに覗き込まれているのだと察した。
「おはようございます、ティアハート」
「こんにちは。もう昼ですわよ、我が従僕」
寝過ごしたらしい。
それにしても、起き抜けから彼女の顔は刺激が強すぎる。跳ねた心臓が血圧を上げるのが感じられる。
上体を起こす。コンクリートの上に寝転がっただけなので疲労はあまり取れないかと思っていたが倦怠感などなく、寧ろ昨日より調子が上がっているのではないかと思われた。これも吸血鬼の力と言うことなのか。
あくびをかみ殺して立ち上がる。
もう意識と視界の霞みはなくなっていた。
「それで、今日はどうするんです?」
「一世一代の大勝負に出ますわ」
いきなり大きな話だった。
「夜霧舞華を伝令に出しましたの。心臓と私。これらを賭けて戦うことを、串刺し公に」
それは、つまり、
「早ければ今夜にも決着をつけられますわ。もちろん、戦って勝ってくださいますよね、我が従僕」
「いやまあ、元々がそのつもりなんですけれど……」
些か急な話だった。吸血鬼生活二日目でいきなりラスボスとの対峙とか。
……いや、ティアハートからしたら何年も続いていたことなのだから、こんなものか。ぼくが真横から這入り込んだだけで。
問題はぼくが吸血鬼に勝てるかどうか。その一点だ。
今までは対人戦だったため、吸血鬼の力で押し切れた。だが今回は、純性の吸血鬼。
ぼくみたいな成り立てでまがい物の吸血鬼に勝機はあるのか。
「串刺し公って吸血鬼は、どれくらい強いんですか?」
「ん? 大したことありませんわよ。昨日も言った通り、吸血鬼だからと言って特殊な力があるわけでもない。串刺し公を名乗っているのも、彼の冷徹な統治に自身を重ね合わせただけですしね。私の眷属なら、同等以上に持っていけるでしょう」
「はあ……」
「ただ、同等と言うことはお互いにお互いへの決定打がないということですわ。……いや、向こうの方が吸血鬼としての年月が長い分、優位な点がありましたわね」
「なんですか?」
「吸血。同族であろうと関係なく、存在を搾り尽くしますもの」
吸血鬼が吸血鬼たる所以の力。
死なない吸血鬼を、殺す方法。
成り立てのぼくにはきっと、できないこと。
「牙を動脈に突き立てられればそれまで。吸い上げられる前に分泌される麻酔は甘い毒で、脳に快楽を生みますわ。少なくとも、動けなくなるくらいの快楽が」
向こうだけが一打逆転の切り札を持っているということか。
……少しは覚悟を固めないといけないな。痛いのは嫌なんだけど。
調子のよくなった身体の状態を確かめ、どこまでやれるかを幾つかシミュレーションしてみた。
そんな片隅でぽつぽつと上げていた思考の中に声が挟まってくる。流麗な鈴の音が鳴る声は、ティアハートのもの。
「疑問がありますの。なに、そう構えないでもいいですわ。あの女が返答を持ち込んでくるまでの、軽い雑談ですわ」
「疑問、ですか……ぼくに答えられればいいんですけれど」
「大丈夫ですの。あなたにしか答えられないものですから」
ぼくにしか、と若干固まりながら言葉を待つ。
「何故我が従僕はそこまで他人のために身体を張れますの?」
「何故って」
質問の意図がよくわからないまま、ぼくは昨日も言ったであろうことを口にした。
「困っている人がいたら助けるのは当然じゃないですか。今回はかなりハードですけれど、ぼくが死なずに誰かの命を救えるのなら、上々すぎる好条件でしょうし」
当然のことなのだ。賞賛がほしいとかではなく、損得で損が勝っているから助けている。
ティアハートが「人間、ね……」と呟くのが聞こえた。いや、あくまで形容と言うやつなんだけど。
「誰かを救うためなら、命を賭せると」
「必要なら。ただまあ、流石に死にそうだったら逃げますけどね」
「嘘ですわね」
ぴしゃりと放たれた言葉にぼくは首を傾げた。普通の人生を歩んできたので死にそうになったことなどないが、ぼくだって死にたくないとは思う。
けれどティアハートは、それを偽りだと言う。
「だって我が従僕は、死の間際に『困っている顔が見えたから』と言う理由で何もわかっていない話を快諾したではありませんか」
今度こそ、ぼくは比喩なく固まった。
「英雄幻想。私が行ったこの言葉の真意は理解できましたか?」
「……いえ」
「英雄的行動への憧憬。誰もかもを救うという理想論ですわ。我が従僕は、そのような考えの下、動いていますわよね」
「違いますよ。だってそうしたら、ぼくは如月十字架や夜霧舞華を敵として戦えてないじゃないですか」
「もしその敵にどうしようもない理由が存在したら?」
ティアハートは、刺し込むように言ってきた。
「例えば彼女たちの友人知人家族が人質にとられていたら。もしそうだったとしたら、我が従僕は拳を握れましたか?」
「それは……」
考えてみた。もしそうだったとしたら、ぼくは……どうしていただろうか。
いや、分かり切っている。だって。
「困っている人がいたら、助けなきゃいけないじゃないですか」
「それが答えですのね」
英雄幻想。
物語にいる英雄は、困っている人がいたらどんな犠牲を払ってでも助ける。
ぼくも、そう言う考え方をしている。
けれどそれは憧れじゃなくて、元々そういう風に生きてきたからで。
だからと言ってぼくは英雄ではない。
普通の人間のはずだ。元がつくけれど。
「何故、我が従僕がそこまでやらないといけませんの?」
「え……」
何でって?
「だって、誰かがやらなきゃ駄目じゃないですか」
「……そうですのね」
ティアハートは、一度瞑目した後、
「申し訳ないですわ、戦いの前にこんな会話。私が知りたいことは知れました。どうか、機嫌の方を直してください」
「いえ」
元々不機嫌になってなどはいない。ただ、どうしても質問の意図が掴めなくて疑念が渦巻いているだけだ。
そしてわからなければ、何を問いただすこともできない。疑問が言葉にならなければ、問いは発生しないから。
ティアハートからの詰問は、これで終わった。
そして僕らの一日は、来訪者によって動き出す。
ぼくがその音に気がつけたのは、その主の動きが荒れていたからである。
昨夜のように忍び寄ってくるでもなく、乱れた息で足を引きずって、吸血鬼の聴覚ならば鮮明に聞こえる音を生みながらその人は三階を目指していた。
人物の正体は、呼吸の色から識別できていた。
夜霧舞華。
その人が、ぼくらにとって馴染みのある臭いを纏って近づいて来る。
現れ部屋に這入り込んできた彼女は、そのまま壁にもたれ掛って座り込んだ。
それもそのはず。全身から血を流しているからだ。
満身創痍だった。服はずたずたに破れ、その向こうにあるのは一面の紅。ちろちろと儚く不死鳥の炎が傷口を這いずり回っている。だが、怪我は治らない。
大きく息を吐き出して、光景に飲まれた僕を視界にも入れず夜霧舞華は告げた。
「フィアブラッドムーン。きちんと話はつけてきたよ」
「随分とお怒りのようですわね。」
「そりゃあまあ、仕事を失敗した挙句に標的の使いっぱしりまでやったからね。この通り、浅く噛まれて力がすっからかん。不死鳥の治癒がなかったら、毒に痺れて今頃お陀仏よ」
「で、条件は?」
「今日の二十一時にこの建物の前で」
ちゃんと仕事はこなしたんだから殺さないでね、と口にして目をつむる。炎が動き回っているということは、死んだわけではないらしい。
「えっと、ティアハート……」
ぼくは緊張を呑み込んで彼女に確認する。
首肯。腰に手を当て威風堂々と言い切る。
「ラストバトルですわ」
5
戦いの時期が決まったからと言って――いや、決まったからこそぼくにできることはなかった。
今から戦闘訓練をしようと付け焼刃。ましてや、吸血の方法を覚えるなどもってのほかだ。
やるべきことは、最初から提示されている。
それを飲んだからこそ、ぼくはここにいる。
夜だ。雲一つなく、白い月が煌々と輝いている。
それが途端に紅く染まった。
夜霧舞華の身体を流れていた、或いはあの夜ぼくを浸した鮮血のような色に。
〈光蝕〉。吸血鬼の天敵である、光を蝕む。
吸血鬼の姫であるティアハートの力。
吸血鬼たちが求め、他生物が恐れる、力。
その力を巡っての戦いが、いま幕を閉じようとしている。
建設途中で放棄された病院の外。乱雑に雑草が生えるだけの、ここら一帯で唯一開けた場所にぼくらは歩き出す。
ぼくらとは、ぼくとティアハート、そして夕刻に黒のビニール袋を持って再度合流した舞華さんだ(先の戦いで敗北したことでティアハートからは手を引いて、今はこちらの陣営に与するそうなので呼び方を柔らかくした)。
ラスボスは、すでにいた。
影のような色の傘を畳んで携えた、銀髪の男性。冷たい刃を思わせる金眼が特徴的な美麗の面持ちに、長身痩躯。着流した黒の着物を左前にしている。
そして、ごしゃごしゃぐじゃぐじゃと何かを口にしていた。
ごしゃごしゃ、と何か硬いものを無理矢理噛み砕く音。
ぐじゃぐじゃ、と水っぽい弾力のあるものを咀嚼する音。
口の端に、灰色の糸が見えた。
片手に大きな木の実のような人間の頭を掴み、食らっていた。
もう四分の一ほどしかない。だが、恐怖で見開かれた眼球と灰色の髪の気からそれが誰なのか、すぐに分かった。
「如月、十字架……」
外に出た瞬間、相対した瞬間に目にした信じられない光景にぼくは茫然と呟く。
ティアハートは言ってではないか。
吸血鬼は、血肉を栄養にすると。
血を吸うだけでなく、血が含まれた肉も食らう。
食人鬼。人間の、天敵。
目に見えない菌や細胞、小生物とは違う。
大いなる、敵。
胃がせせり上がる感覚。ぼくは丸一日以上何も食していなかったことを感謝した。でなければ、吐き出すものが胃液だけでは済まなかった。
「よう、フィアブラッドムーン」
男が、口にした。元が食料のぼくではなく、裏切った舞華さんでもなく、純粋なる同族のティアハートの渾名を。
嚥下。ザクロの実が胃に収められる。
「心臓はどこに?」
「ちゃんと抱えているさ」
どう入れてあったのか。着物の中から出てくる真っ赤な塊。
脈動を続ける、心臓だ。
ティアハートは顔をしかめた。男は愉しそうな笑みを浮かべる。
「条件の確認だ。我が勝てば、お前は我のもの」
「我が従僕が勝てば、金輪際私に関わることを許さない」
「我が従僕ねえ」
串刺し公は、含みのある言い方をした。
「そうやって自分のだって囲ってると、姉殺しみたく引きずるぜ」
「黙れ下郎」
冷たい声音だった。冷えきった刃のような、声音。視界の端で舞華さんが頬に汗を伝わせたのが見えた。
肩を竦めて応じ、ようやくぼくの方を向く。
苦くすっぱいものを唾に混じらせ吐きながら、応じてにらみつける。
「初めての眷属作りのくせに上手くいってんな。いい赤眼だ」
男の金眼が、赤みを帯びた。
何のことだかわからないが、ぼくは構える。軽く左を前にして手を軽く握って腰を落とし、どんな場合にも対応するために。
ゴングはない。これはすでに始まっている戦いだから。
待ちを選んだぼくに対して串刺し公は、すぐさま攻撃に出た。
地面を爆発的に蹴りつけた、高速の跳躍。目には追える。
カウンターで顔面に右の拳を放つ。
だが、差し出された左の手刀に軌道を外に変えられ、身体が開ける。
「まあまず一回死んでみようや」
胸骨を撃ち抜く軌道の拳。心臓をやられるのはまずい。左の拳を当てる。
腕が伸び切らないほどの軽打。肩から先が吹き飛ばされ、衝撃で身体が持っていかれる。逸れる上体をそのまま回し、頭を下にした姿勢で土に右手の指をひっかけ制動する。
がんがんと痛みが脳を叩く。傷はすぐに治っても、衝撃は身体に残る。
「丈夫だな。やはり、どんなに力を封印されていようと、素質は残るか。眷属であろうと吸血鬼。死に方は理解しているな」
再生できないほどに血を失うか、吸血されるか。
「条件は理解したか――それを踏まえて折ってこそ、フィアブラッドムーンを完全に手にすることができる」
理解した。
覚悟は決まっている。
一連の動作全てを見て、ティアハートが口にした言葉が真実だと確証も得られた。
大きく息を吸って、止めた。
「さあ、消えろ部外者。元人間ならおとなしく我が血肉と成れ」
「消えるのはお前だよ、ストーカー。目的や理由は知らないけど、ティアハートを害するならお前を斃す」
今度はぼくの方から仕掛けた。
跳んで、殴る。やることはそれだけ。
だけど、心臓は狙えない。着物を左前にしているのは、ティアハートの心臓をしまう時に自分の弱点も守るためだ。
心臓は、真ん中から若干左に寄った場所にある。
狙うのは、それ以外。
また受け流すための手刀。吸血鬼の動体視力で捉え、肩を捻ることで攻撃の軌道を強引に変え、それを砕く。
回復する。織り込み済みだ。
拳の勢いに身体を巻き込んで旋廻。くるりと右に回り、左の踵で串刺し公の左側頭部に斬りかかる。
しゃがみ込まれ、一閃は躱された。股関節を回してつま先から頭頂部を穿つ右は手刀で切り落とされる。
綺麗な断面ではない。骨を折り、力で皮と肉を千切ったぐじゅぐじゅの断面が晒され、瞬時に元の通りに戻る。もちろん、服はその限りじゃないけれど。
靴も脱げ、裸の足を自由にしたまま逆の足で前に蹴り出す。
攻め抜け。どうせただの攻撃では死なないんだ。痛みは我慢しろ。
超至近距離で拳を振るい続ける。受け流されれば、その手を砕いて――再生。
拳に拳が当てられればお互いのものが消し飛び――再生。
どてっぱらを穿つ――再生。戻った肉に噛みつかれて離れない。
口のの中で輝く八重歯がぼくに向いた。手刀で挟まれた腕を千切り落として――再生。
迫る顔の下、首に喉輪入れ潰す。仰け反って――再生。
戻る顔面に合わせて眼球へ指を刺し込む。そのままティアハートがやったのよろしく持ち上げて、首を手刀で潰し切った――再生。代償に適当に振るわれた手が脇腹を抉ったが些末な問題だ――再生。
気にせずに相手の胸元へ手を突き出す。ルール? 知ったことか。
視界が、思考が一瞬途切れる。それは、刹那の中で抜け落ちた現象を理解しなければならないということだ。
いくら現実が遅く見えても、それらを繋ぎ合わせる頭の速度も遅ければ意味をなさない。
だが、経験の差が大きく出た。視界と思考を取り戻した串刺し公が身体を横にずらしたことで伸び切った手は心臓へ。刺してしまう。
手が中空で止まった。一時停止のように、不自然に。好都合ではあるが、何故!?
「主従関係がある以上、眷属は主に攻撃できない。そんなことも知らなかったのか?」
心臓を狙ったことを追求しないのは、吸血鬼の王を自称するものの器か。
肘から先が下から断ち切られる――再生。
再生。再生。再生。
同等の力を持った吸血鬼たちの殺し合いは、何とも不毛だった。
考える頭は吹き飛ばされたけど。――再生。
瞬きの間のように、一時だけブラックアウトする認識の世界。気付いた瞬間には、視界は貫手を収めている。
上半身を逸らし、空いた腋を蹴り上げて肩口から吹き飛ばす――再生。
そのまま地面に手をつき肘を折って頭の上下を戻す。振り向きざまに腕から手で曲線を描いて作った鎌で下段を刈る。
斬るのではなく、ひっかけて転ばせるのが目的。
串刺し公が後ろへ跳ぶ。
回す手を止め、両手を付いて右足を斜め上に蹴り出した。
彼の両足の膝から下が消し飛ぶ――再生。
前に出した右で地面を踏みしめ、前へ跳躍。下へ落ち始めた男を追従する。
左手の指を折って平らにした掌底の形にし、膝を深く沈めた左半身の着地とともに腹部を上へと突き上げる一撃をぶちかます。胃から下の臓器が皮と肉を破って爆散した。すぐさま手を引く。――再生。
繋げろ。反撃の暇いとまを許すな。
跳躍の勢いは全て今の一撃に流した。連続ではなく、断続を無理矢理接合する。
強引に身体を捻って、左の足刀を男の右あばらに打つ。破砕し、ひしゃげ――再生。
左足を振り切り軸として外側に回転、上段から振り下ろしの右足で脳天を陥没させる。――再生。
再生と再生が、重なる。頭と目を失った後の状況判断による一瞬の停滞をぼくは狙っていた。さっきは脳を潰しただけだったから失敗したけれど。
手を伸ばして、串刺し公の胸元、ティアハートの心臓を狙う。
だが、あくまで先程の失敗から時を一瞬稼いだだけのもの。懐に入り込んできたぼくに彼が下した決断は、当たり前のものだ。
飛んで火にいる夏の虫。
少しでも前に、と前傾の姿勢になったぼくは、首筋を晒した状態だった。多くの動脈が集まる場所。
それ勢いよく抜き取ると同時に、牙がぼくを刺し貫いた。
「あ」
快楽の麻薬。確かにそうだ。
とろけそうなほど甘美な熱が身体中を駆けずり回った。
神経が痺れる。筋肉が弛緩する。
そして吸われる。血を――存在を。
ぼくと言う意識が曖昧になっていく。とろとろに。とろとろに。
ああ、確かにこれは駄目だ。
これはちょっと、抗えない。
見る景色が虚ろとなっていく。
思考に霧がかかり始める。
不死身の吸血鬼を、殺す方法。
痺れすら感じなくなってきた。本格的に身体の力もなくなってきたらしい。血を抜かれているし。
まあ、手に何も持っていないからいいんだけど。
「な……!」
そこで、驚愕の声が届いた。大きな音のくせに、遠い。
ようやく気が付いたのか。
ぼくが心臓を奪い取った勢いでティアハートに投げ返していたのを。
牙が抜かれ、ぼくが奪い尽くされる前に吸血が辞められる。
支えを失って力の入らない身体はそのままくずおれる。
霞む視界の中に心臓を丸飲みしている女性の姿が見えた。喉が心臓の形に膨れ上がっている。
「ああそう、そうですわよね」
声。鈴のような音色。
「裏切り、はないにしろ殺される可能性を考えたら、封印はお前が持つ心臓に移した方がいいでしょうしね。だれも信用しないお前だったら、そうしますわよね」
最弱の封印は解かれ、血が巡り始める。
恐れられ、苛むもの。
恐苛という存在を体現した女性が、そこにいた。
「さあ、終わりにしましょうか、吸血鬼」
「お前も吸血鬼だろうが!!」
絞りかすとなったぼくなんか目にも入れず――人質にすることもなく突撃していく。
仕方がない。それだけの存在を感じる。思考が閉塞してしまうほどの恐怖が、芽生えてくる。
「何をおっしゃっているのか」
ティアハートの動きは、何とか追えた。何とか、だ。
突撃する串刺し公の胸元に右手を放ち、心臓を奪い取ったのだ。握り潰す。
「吸血姫。そう呼んで崇め奉ったのは、そちらでしょう」
引き抜いた腕で脳も斬り落とし、串刺し公の身体は糸の切れた人形のように地面へ崩れる。
認識したその時には考えることすらできず、彼には何が起こっているのかもわかっていないはずだ。
心臓を失えば、吸血鬼は不死性を維持することはできない。
あっという間だった。圧倒だった。
ぼくがあんなに苦戦しても心臓を奪うのがやっとで、しかも代償として吸血されていたというのに、比喩なく髪一本乱すことなく勝利を収めた。
誰が言うでもなく、最強。最恐。
「ティアハート……」
全盛期の力を取り戻した吸血鬼にぼくは問う。
「終わったのか?」
「終わりましたわ」
腕の付いた血を払いながら、淡々と感慨なく、だが噛み締めるように告げる。
「ようやく、終わりましたわ」
6
「よくやりましたわ、我が従僕――いえ、もう上や下なんてあまり関係ありませんわ! よくやってくださいました、我が君よ」
そんなこんなで建物の中に戻って一息つこうと思ったら、いきなりこんなだった。
めっちゃ笑顔だ。
花が咲くような、とはこのことを言うのだろう。
戦闘中に動かすこともなかった髪を、惜しげもなく乱れさせ、踊り狂っていた。
舞華さんが若干引いてる。
だがまあ、長年のストーカー被害から逃れられたのならこんなものか。
バックで串刺し公の死体が月光で煮立ち爆散したけど、気にしない。
串刺し公の死体の処分に対して真っ先に上がったのが、ティアハートが吸血して跡形もなく消し去ることだった。だけど、『背負いたくない』とかいう謎の理由でティアハートは存在を絞ることを拒否した。それでも、恐苛狩りに吸血鬼の研究でもされたらたまったもんじゃないと火葬ならぬ光葬に処した。ぼくの散乱した血肉を処分してくれてたのは、そこらへんの事情からか。
それにしても、建設が放棄されたとはいえ病院の前で吸血鬼を疑似火葬。つくづくだった。
舞華さんは、「お給料……」とか惜しそうにこぼしていたが、実際の行為を止めることはしなかった。身体を畳まれたのは一生引きずるだろうが、味方になればいい人だな、と思った。
はしゃぐティアハートは放っておいて、ぼくは舞華さんに気になっていたことを尋ねてみた。
「あの……恐苛を狩っている人ってどうやって収入を得ているのですか?」
恐苛を狩る人たちを束ねた会社でもあるのか。
そう考えながら聞いてみた。
「ん? 基本的にうちらの収入源は魔術界よ。出自が出自だから魔術師は自分らが管理するべきとか思っているのよ。ただまあ、魔術師の奥を取り込んだ科学が多くを占める現状で公に活動することはできないから、真正の退魔師や規則を侵して追い出された魔術師崩れ、私みたいにこれ一本で食べているのから受けた報告から依頼を発注して、解決したらそれ相応の報酬を払うってシステム。ただ、唯一受肉している吸血鬼は、パーツにも価値があって、いっぱいお金貰えたのに」
よよよ、とアンニュイにうなされる舞華さん。
専門職はえてして綱渡りと言うやつか。
再生するからって臓器とか骨をあげる気にはならないけど。
さっきの戦闘で飛び散ったものも、月光で燃えているし。
二回も死んで武器も壊されたし、完全にマイナス値だ。
真逆に折られたのはかなり痛かったから、ざまあみろ、と思って溜飲を下げてみた。特に鬱憤が溜まっていたわけではなかったから、効果は薄かった。
「と、ほい」
舞華さんがずっと持っていたビニール袋を手渡してきた。
「? なんです、これ?」
「服よ。サイズは目算だから多少誤差はあると思うけど」
自分の格好を見下ろしてみた。
真っ赤に染まり、ところどころ千切れている。見れたものではなかった。
靴も置いてきちゃったし、どうしよう。
まあ、後で考えればいいや。
「すみません。ありがとうございます」
いやまあ、こんなにしたのは舞華さんもなんだけど。お礼は大事だ。
「ん。さてまあ、私はそろそろ出ていくから」
くるくる回っていたティアハートが動きを止めた。
「きちんと報告するわよ。それで手打ち。そういう条件だったわよね」
「ええ、お願いしますわ」
またよくわからない会話だった。
だが疑問符の前に、舞華さんは出て行ってしまう。そこは、吸血鬼たちが立ち入れない世界。
「じゃあ、二度と会わないことを願っているわ」
恐苛を狩ることを専門とする彼女が言うのだ。さっさと人間に戻れ、という意味だろう。
逆にぼくたちは、伸びる月光に追われるようにして建物の奥に戻っていく。
7
服を着替えるためにティアハートと一旦別れた。
シャツにジーパン、下着から靴下までと必要なものは全て入っていた。しかも、サイズはぴったし。
制服は残念ながら袋に詰めて後日処分だ。
「終わりましたよ」
終わり次第呼んでくれ、と言われていたから呼んだ。
ぼくの部屋として割り振られた場所へティアハートが来る。
「多少は見れる格好になりましたわね」
まあ、自分でもだいぶんひどい格好をしていたんだな、と思っていただけに何も言えない。
「さて、どうしましょうか」
「どうもなにも、ぼくを人間に戻してくれるんじゃあ」
「そう急かさないでくださいまし。そうですわ、お話でもしませんこと? こんな生き方ですから、まともにお話しできる機会なんてありませんの。それとも、やはりいち早く人間に戻りたいですか?」
「いえ、構いませんよ」
急ぐ理由はない。
立ち話もなんだからと二人で窓枠に座って――同じ目線で話し合う。
従僕ではなく、我が君。そう呼ばれた。
「なにか話の種はあります?」
「つまらない人生を送ってきたので。お話することはないかと」
「敬語」
ぴしゃり、と。
「先ほども言いましたわよね。私と我が君は対等。ならば、敬語は止めてくださいまし」
「いや、でもそれはティアハートも同じじゃないですか」
「私はこの喋り方に慣れてしまっているのですわ。……そうですわね、そのあたりも含めて昔話でもしましょうか。敬語を止めてくれたら」
「はい……いや、わかったよ」
折れてくれそうになかったから、諦めた。
年上に崩し言葉はどうにも背中がむず痒い。
「よろしい。では、私の半生でも一つ、語らせてもらいますわ。我が君が初めてですのよ」
そう言って、ティアハートはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「実は私、もともとは人間ですの」
いきなり衝撃的な事実だった。
「特筆することのない家族構成でしたわ。母がいて、父がいて、姉がいた。この国へは、まあ、墓参りでもしようかと出て行ってから初めて帰ってきましたの。ああ、日本人ですのよ、私」
びっくりが重なる。いや、どこの国だと言われても驚いたけど。人間だったってことすら考えてもいなかったことなのだから。
ティアハートは「ふふ」と笑いを声にした。
「この口調は、姫とか言って崇め奉ったあいつらへの嫌味。この髪は、返り血がしみ込んでしまったものですのよ。吸血鬼だから、なじみやすいのでしょうね。ヘモグロビンの色ですわ」
「それはそれは」
何というか、返しにくかった。
苦笑と微笑を交わし合い、ぼくが耐え切れずに「続きを」と促した。
「情けないですわね」と肩を竦めて言った彼女は、白魚をのような指で触れればたおやかに折れてしまいそうな首筋を撫でた。
「吸血鬼に血を入れられた人間は吸血鬼に、恐苛に成る。私は何と言いますか、容姿が気に入られてしまったみたいですの。女性の吸血鬼に」
考えてみれば、思い当たることがあった。
何故彼女は今も存在しているのに、牙に貫かれる感覚を知っているのか。
吸われたのではなく、入れられた。人間から、吸血鬼にするために。
「まあ、一種の哀願人形のようなものですわ。何をされたでもなく、人間でなくなっただけで……ただ」
ティアハートはぼくから視線を外して月を見上げた。
「吸血鬼には人間だった頃より頻度は少ないですが、それでも大きな空腹がやってきますの。抗いがたい、空腹が」
欲望に忠実。よく寝て、よく乱れ、よく食べる。
だから、鬼。
吸血する、鬼。
「私は結果として、姉を食らいましたわ」
重い、言葉だった。
ぼくは目線を外した。
近親食らい。正気を取り戻した時に、何を思ったかなど、筆舌に尽くしがたい。
「それ以来、私の匂いの染み付いた人やその人の匂いが染み付いた人にまで惹かれるようになってしまいまして……ああ、だからって我が君を食べたりしませんわよ。命の恩人ですからね」
どうやら、非常食から解放されたようだった。対等だって言ってたし。
「そのあと、主人が狩られたり、私が〈光蝕〉を使えるようになって以前お話したような状況になったりし始めましたの。以降、この国に戻ってきたことはありませんでしたね」
始まって、終わった地ですからと呟いた。
ぼくは一つのことを思い出した。彼女に恐苛であることについて訊いたときの答えだ。
見方が変われば、その意味もまた変わる。
空気を呑み込んで、ぼくは言葉を作った。
「……なんで、戻ってこようと思えたの……?」
「終わりどころを見定めるためですわね……ただ追われて、逃げて永遠を永遠に消費していくのが惰性に思えまして。だから、きちんとけじめをつけるべきかと思ったのですわ」
終わったことへの終わり。
「そう、ですか」
「ええ。だからって都合よく答えが出るわけもなくて、墓所の出口で待ち伏せしていた夜霧舞華に心臓を奪われましたの。いやはや、あれは完全に意表を突かれましたわ。殺したと思って通り過ぎたら、後ろからぐさっ、ですもの」
そうして、現在へと繋がる。
「今は……」
言い淀んでしまう。
「なんですの?」
ティアハートがぼくの方へ向き直る。
だから、ぼくも彼女を正面から見据えて問うてみた。
「今は、その答えは出たの?」
「さあ、どうでしょうね」
おちゃらけて言われた。
結構真剣だったのに。
「出ているかもしれないし、これからかもしれない。けれど、いつかは出ますわ。ただ、間違い続けてきた人生ですわ。間違いを正すことで終わりとしたいですわね」
「それが答えじゃあ」
「終わり方が肝要ですのよ」
或いは終わらせ方、と口にする。
「終わりは終わりのままじゃいけませんの。その先へ繋がる。それが終わり方ですわ」
それで、ティアハートの昔話は幕を閉じた。
終わった。
語られたぼくは、この話を先へと繋げることができるのだろうか。
人間に戻る、ぼくが。
そんな思案を切り裂く音がした。
足音だった。
音の方向である入り口を見やる。悠然と、黒髪の青年が入ってきた。
「新さん」
「やあ碎斗くん。一騎当千の活躍だったね。惚れ惚れとしたよ」
見られていたらしい。
串刺し公が持っていた傘の柄をぐるぐる回しながら、歩み寄ってくる。
「よかったよ、フィアブラッドムーン。本調子に戻って」
「どこぞから見ていらした通り、我が君のお陰ですわ」
「そうだね。じゃあ、ちょっと会話しようか。それが君に碎斗くんのことを教えた報酬なんだからね」
ぼくとティアハートの間に辿りついた新さん。
「そんなわけでちょっと席を空けてもらえるかな、碎斗くん?」
懐から黒い皮の長財布を取り出し、ぼくに手渡す。
「そうだね、何か買ってくるといい。流石にあれだけ動いて二日も飲まず食わずでは、吸血鬼とて小腹がすいているだろう?」
「そうですが……でも、ぼく外を歩けませんし。それだけのためにティアハートの力を使うわけにもいかないでしょう」
そう抗議をしてみたら、ほい、と手に持っていた傘を投げられた。
「外で拾った。遮光性の傘だ。これで大丈夫だろ?」
答えに窮し、ティアハートの方を窺う。彼女は肩を竦めて首肯した。
「実は私、お腹ぺこぺこですの」
ならば、従っておこう。
階段を使うのが面倒だったから窓枠からそのまま落ち、外へ。上から新さんの感嘆の声が聞こえる。
着地。傘を開く。確かに真っ暗だ。
森へ行く前に靴を拾う。串刺し公の姿は、なかった。あんなに燃えていたのに、焦げ跡一つなく。この世から彼の痕跡の一切が消えている。
「……世界から拒絶される、吸血鬼……」
その思いを今一度噛締めつつ、ぼくは二日ぶりに白い月の下を歩み始めた。
夜も深い。ここからだとスーパーマーケットが近いか。
完全機械化が一度電脳への侵入を許してしまえば機械自身が気が付かないという危険を孕む以上、量販店やスーパーマーケットから管理の人材が消えることはなかった。だが、人材が削減できたのは事実で、現状では個人経営でない限りはどこも二十四時間営業を謳っている。
会話がどれくらいで終わるのかわからないから、できるだけゆっくり歩いた。
「……」
ぼくは、もしかしたら、と思った。
もしかしたら、この力があれば多くの困っている人を救えるのではないかと。日の光だって、今手に持っているような遮光性の傘があれば遮れるわけだし。
そう思えば、人間に戻らないのもありな気がしていた。
「……ま、無理だろうけどね」
それは、常に舞華さんのみたいな狩人に突き狙われるということだ。
ティアハートの持つ強大な力があれば別だろうが、ぼくはそうもいかない。
吸血鬼に慣れれば、もっと強い力を操れるのかもしれないが、ぼくに人は殺せない。
殺しては、ハッピーエンドにはならない。
そこに多分、ぼくが人間でありたいという根源があるのだ。
この世には正義と悪があって、それは主観的なものでしかない。だからぼくは、ティアハートの味方をすると決めた瞬間から如月十字架と舞華さんを相手にできた。でも、串刺し公と戦う前の問答で答えた通り、もし敵にどうしようもない理由があったなら、きっと拳は振るえなかった。
それは、求めるのが誰もが幸せになる結末だからだ。
誰も傷つかない、決定的な終わりを迎えることのない。そんな終わり方を求めているから。
偽善と嗤う人もいた。けど、やらない善ならやる偽善だ。理想論じゃなきゃ現実を超えられない《、、、、、、、、、、、、、、、、、》。
何が正しいのかはわからないから、取り敢えずは人助けから初めてみた。それが今回ぼくが戦った理由だ。
久しぶりの白月にちょっとセンチメンタルになったみたいだ。
目的地から漏れる光が見えてきた。
そういえば、吸血鬼に人間の食事が意味はあるのかと思った。意味はないな。何事にも意味を求めるのはよくない。
元人間。
彼女もそうであるなら、気分が大事た。
いくつものブラックジョークにぼくも乗る形で牛の生肉でも買っていくか。
そんなことを考えながら入店。定員の人型ロボットが商品の管理を行って歩き回るくらいで人はまばらだが、この時間なら当たり前か。
カートの上下にかごを二つセットして、傘は柄にかける。
適当に物色してみよう。
「あれ?」
スーパーの入り口側に乱立する長窓の外から見える景色に変化があった。
月が、紅く染まっている。
「なんだろ? 新さんとの会話で必要だったのかな」
言っちゃあ悪いが、新さんのあやしさは半端がない。もしかしたらティアハートさんの力に用があるのかもしれない。
まあ、負けるわけがないけど。
急ぐことなく片っ端から買いあさって、もちろん肉も忘れずにかごに突っ込んでレジに持っていく。
新さんのお財布にはお札だけが一杯入っていて、大台から少し超えた金額になってしまったため一杯おつりが帰ってきた。
片手で四つの大袋を抱えて、ちゃりちゃり言わせながら傘を開いて帰る。
途中で、傘に音と振動を覚えた。
「珍しいなぁ」
雨が降っていた。傘を避けて見上げることはできないが、そのままで見える空には、切れ目のある雨雲。通り雨らしい。
じめっとして肌にまとわりついて来る感覚は苦手だ。
再び歩みを進める。
帰路は行きより長く感じられた。そういうものだ。
もう見ても何も感じなくなった廃墟に戻ってきた。
傘は……エントランスの壁になっているところにかけておいて三階の部屋へ。
「ただいまー」
新さんはもういないようだった。
窓の方を見て佇むティアハートに帰還を伝えた、その時。
視界の端に何かが移り込む――その前に、ティアハートが振り向いた。
血色のよい唇が、さらに紅く染まっていた。たらり、と血が垂れている。
じゅるり。音を立ててピンク色のぶよぶよとした物体を飲み込む。口の端には、黒い糸。
「あ」
持っていた袋を落とし、中身がぶちまけられる。
今までにあった色々な事柄が、最悪な気付きとなって思い起こされた。
心臓を奪われ、暴走した力でぼくを殺してしまったために生かそうと血を分け与え――血が足りない。
吸血鬼は血肉を食らう――それしか栄養にできない。
かつて近親者を食らい、それ以来近しい者の匂いに引かれるようになった――だが、ぼくは喰らわないと宣言した。
ティアハートはお腹がぺこぺこだと言った――大きな空腹を得ていると。
ぼくはスーパーで大きく時間を使った――紅月が出ている間に。
そして何より、あの視界の端に映るものは何だ――見慣れた、竹刀袋だった。
中身はないが、わかる。
わかってしまう。
ティアハートと関わり始めた前後。それが彼女が認識できるぼくの世界だ。
そして唯一、唯一合致する人物がいる。
「あら、それ」
ティアハートは、その振る舞いこそが当たり前と言わんばかりの普通さで、地面を指差した。
ぼくの足下。
追えば、梱包された生の牛肉が落ちていた。
「ジョークが過ぎますわね。それとも、ああ、食べたかったんですか?」
あちゃー、と頭を抱えるティアハート。
「そうですわよね。匂いが染み付くほど共にいた仲ですもの。あまりにお腹が減ってあの日の残り香を追って見つけ出しましたが、確かに分け与えるべきでしたわね」
艶めかしく、唇に付いた血を舐めとった。
誘神命の血を。
「なんで……」
「なんでって、お腹がすいたらご飯を食べますわ。当たり前でしょう?」
「いや、そうだけど、そうじゃなくって」
「我が君は、吸血鬼が人を食らうと言ったとき、嫌な顔をしても反論はしませんでしたわ。てっきり、良いのかと思いましたけれど、違いましたの?」
そう、確かにしなかった。
仕方がない、と。
「それとも、やはり我が君も吸血鬼のそんな在り方は嫌いですか。退魔師や魔術師崩れ、恐苛狩りの連中のように、私たちに餓死しろと言うのですか?」
「それは……」
違った。
そうじゃなくって、ぼくは。
「……!」
気付いた。気付いてしまった。
ぼくは、そうだ。
「ぼくは、ティアハートに生きていてほしいよ。だけど、なんで、なんで誘神だったんだ! 自分の匂いが染み付いた人の匂いに似た人にまで引かれる!? 我慢、できただろ!!」
「……それが本音ですのね」
「…………え?」
「困っていれば、知っているから。それだけの理由で命まで張って救おうとする英雄幻想を抱く愚者。自己矛盾の袋小路にはまっても突き進んでいくそれは、正義なんかじゃ、優しさなんかじゃありませんわね。誰も傷つかないことが最善だと信じ切った、甘い人間ですの」
「何を言ってるんだよ、ティアハート」
「最初から感じていましたの。困っていそうだからと言う理由で内容も聞かずに肯定するその在り方に、間違いを。それはまるで、正義と言う概念をただ行っているだけだと。しかも、そこに至った経緯がない生粋の壊れた人間」
「待てって。話が逸れている。……けど、誰も傷つかないならそれでいいじゃないか」
そこだけは、譲れない。
「上も下もない。誰も傷つかない。それは、幸せなことだろ?」
「じゃあ、私が姉を殺したことを裁かれるのが一番傷つかない道だといったら、我が君は私を終わらせてくれますの?」
終わらせるの意味。勘違いは、していない。
もし、困っているなら、
「いいよ」
あの夜と、同じように。
ぼくは、言った。
「そう、ですの……」
ティアハートは少し悲しそうで。
「ティアハート・オウススウィート・フィアブラッドムーンの名において命じますわ」
そう言えば、名前を聞かなかったな、と思って。
「――私を殺しなさい」
そう、ぼくに告げた。
脳内で強制的に処理される命令。意思は介在せず、それを実行するために身体が動く。
右手を伸ばして、歩き出す。
主を傷つけられないという法則と主からの絶対遵守の命令はどちらが上なのか。
つぷり。
ティアハートの胸元に右手が沈んでいった。
薄い皮を切り裂き、べたつく柔らかな脂肪と温かな血が滲み出す肉を抉り、肋骨を砕くことで行き着く。命の音を響かせる、心臓へ。
ぼくの手は、それを握り潰した。
「あ」
ぼくの喉。声が、漏れた。
「ああ、あ、あああ」
いやだめだこれはだってなんでそれは。
ぼくは今、何をした?
殺した。
困って、いたから。
違う。僕は、ティアハートに生きていてほしいんだ!
ティアハートは、死にたがっている。
命を、殺した。
だけど、
「止めてくれ。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。止めてくれよ、ティアハート!」
ティアハートは、答えなかった。ぼくを剣呑な目つきで睨んできた。
そんなん目で、見ないでくれよ。
わかったよ。今まで全然わかってこなかったけど、教えてもらってきて、今も教えてもらっているから、わかったんだよ。
英雄幻想。
ぼくはみんなを救おうとしていて。
そのみんなの中に、ぼくはいない。
だから、傷つくことに恐怖しない。
英雄とはみんなを救うために一人、傷つく存在。孤高であり、孤独になる存在。
孤高と孤独になった吸血鬼と、ティアハートとは似ているようで、違う。
しかし、真逆でありながら痛みは同じ。
ティアハートの無言は、糾弾だった。
ぼくの手は彼女の中で何度も何度も蠢き、心臓を破壊する。彼女は動かない。ぼくは止められない。
ぼくの首筋に彼女の八重歯が刺し込まれた。
人間に戻すという約束の通り、ぼくを吸血鬼にしている血だけが抜き取られる。
甘く痺れた感覚が全身に駆け巡り、脳がとろける。
主と眷属の関係から離れていき、支配力が弱まる。だけど、思考力に霞のかかった脳は反射に任せ上手く動いてくれない。
ただぼくは、言いたいことを言い散らす。
「なんでお前はそこまでしてくれるんだよ!」
問いかけても、何も変わらなかった。
牙が抜かれ、赤い糸が引く。
そして。
血色の月が雲間から姿を現した。ぽつぽつと降る雨はその光を取り込み、鮮血のようにこぼれていく。
「なんで……なんだよ」
声は、掠れていた。だからもう一回、心の底から叫ぶ。
「なんでなんだよ、ティアハート!!」
人間の上位種である吸血鬼。最強にして最恐の吸血姫であるティアハートが放つ気配は、血と死にまみれぼくを侵す。
「答えろ! ティアハート!!」
それでも、問いかけ続けなければならない。
「……もう我が君に呼んでもらえないと思うと、多少は死が怖いと思えますわね」
ようやく答えたティアハートの口元から一筋の血が垂れ、白い首元を伝ってドレスに染みこんでいった。
どうやっても、身体は動かない。
手は、ぼくの意思とは関係なく動き続ける。温かくやわらかなものを再生するたびに握り潰す。
くそ! くそ!!
ぼくは守ると決めた人ですら救えないのか!!
悔しさで涙が浮かぶ。最低だ。
右目に触れる感覚があった。
表情をほころばせたティアハートが、愛おしそうに涙を掬ってくれていたのだ。
ああ、それでわかってしまう。
もう、おしまいなんだと。
「愛しているわ、君よ」
そう最後に言って、糸の切れた人形のようにティアハートは後ろへと倒れ込む。
手が抜けた拍子に血が噴き出した。
ティアハートの血がぼくの全身に降りかかった。口に入り、飲み込む。
ぴくり、と身体が動いた。
まだだ。
吸血鬼の血があれば、まだ助けられる。
あの日と同じことを、ぼくがやればいいだけだ。
左手を伸ばす。
命の顔が過ぎった。
いいのか? 人を食らって生きる吸血鬼を、生かして。
「……!!」
違う。何を考えている。
だけど、駄目だった。迷ってしまった。身体は動いてくれない。
倒れ行く彼女を、掴めない。
手遅れだった。
吸血鬼の血も、死者は救えない。
掬われなかった左の涙が血と混じり合って地面に落ちる。
ぐわん、と視界が歪んだ。
立っていられず、ぼくも後ろに向かって倒れ込む。
そうだ。
消え入る意識の中で、思った。
ティアハートは、ぼくの在り方を英雄幻想と呼んだ。
初めから間違えていたそれを貫き通そうとしたから――現実の前に砕かれ、ぼくと彼女が過ごしたひと夏は終わりを迎えたのだ、と。
7
夢を見た。
とてもひどい、夢を見た。
とても優しい、夢を見た。
8
蝉の声はしなかった。
あれほどうるさいと感じていたものも、いなくなれば寂しいものだった。
或いは、目覚まし代わりだったのかもしれない。
ともあれ、目覚めた。
最悪な目覚めだ。
まどろんでいたい。
現実を見たくない。
そういうわけにはいかない。
気分とは裏腹に元気な身体を起こして、ぼくはあくびをした。
辺りを見渡す。雨が上がったからか、日の光が一段と強かった。
ティアハートの姿はない。だが、皮膚の上で乾燥した血がぼくに逃避を許さない。そういうものなのだ。
きっと、あの選択は間違っていない。ティアハートが生き続ければ、どこかで人が死ぬ。
だから、あれは正しいのだ。ぼくはようやく、正しさの意味を知った。くそくらえだった。
ぼくが求めていたのはそんなことではなかったのだ。
正しくは、生きられない。だからもう、やめよう。
人の人生に関わるのは。結局は他人事で、安全圏からしか関われないものだ。ぼくなんかがやっていいことじゃ、ないのだ。
酷く、疲れた。
人間に戻った。だから何だという話だ。
独りだった。
いかにやけっぱちな感情になっているからと言って、死んでやるつもりはないが。
「……あ」
ぼくは苦笑した。あんなことをしといて、ぼくはぼくが死ぬことが嫌らしい。
全く、どうしようもない。
そんな奴が綺麗事を振りかざしてハッピーエンドなんか求めるから、こうなるんだ。
やらない善よりやる偽善。だが、そこに善がなく手あかにまみれた偽りしかないのなら、悪と大差ない。
バッドエンドが、お似合いだ。
デッドエンドは、選べない。
「どうしたものかなあ」
本当に、どうしよう。
取り敢えず、帰るべきか。
そんな気分でもないや。
だが心は動けと急かしてくる。
仕方ない。
立ち上がり、部屋からでる。ぼんやりと輪郭が見えるくらいの廊下を進んで、階段を昇る。五階の先、屋上を目指して。
ドアは……開いていた。
外へ出る。眩しい陽光が目を刺した。暑い。
それは皮膚を焼くだけ。血が煮立つことなどはない。
人間が人間である感覚そのものだった。
遮蔽物も何もない、さらされた場所。お天道様がよく見えた。
「あー」
血にまみれた人間が日の下に立つことを許されたなど、全く散々なことだ。
「どうしよう……」
再びの問いかけにも答える声はない。
……いや、もしかしたら、うん。
「新さん」
「なんでしょうか」
適当に呼んでみたら、普通に入口から出てきた。半袖のパーカー姿。ぼくがエントランスに置いてきた黒のアンブレラを片手に持っている。
「やっぱいますよね、解説役って言ってたんですから」
「そうだね。終わっていればもう帰っていたけど、流石に教えずじまいはよくないから。フィアブラッドムーンには怒られるだろうけど、君には知る義務がある。知れることを知らないでいるのは、罪だよ。いや、違う」
ぼくを蔑視した目。
「君は知っているのに、気付かないふりをしている」
知っている……? ぼくが何を気付かないふりをしていると。
知ったさ。ぼくの愚かさは。
「なあ、吸血鬼。知らないふりは、許されないよ」
「ぼくは人間ですよ……人間に、戻された」
「いいや。君はまだ吸血鬼だよ」
と、わけのわからないことを言ってきた。
あの感覚が嘘偽りなわけがない。こうして、太陽の下にも出れているわけだし。
「考えてもみろよ。君の死因の一つには、出血多量があるんだ。そこの補完のためにも、血を入れた。全部抜ききったら生きていないよ」
ああ、そういうことか。
考えても見れば気配はある。廊下が薄ぼんやりと見えていたから。
だけどそれは、その在り方は、
「中途半端ですね。人間にも戻り切れず、吸血鬼からも抜け切れていない」
「足下も定めずにふらふらと理想だけを追いかけていた君にはお似合いじゃないか」
「……全くです」
自分でも分かるほど、自嘲の笑みが浮かんだ。
現実も見ずに綺麗なものを追いかけていたから、大事なものを失った。
それだけ。自業自得。
「吸血鬼から抜け切れていないからこそ、君には吸血鬼としての力がわずかに残っている。それがあるのなら、君は嘘つきなんだよ」
「さっきから回りくどいです。教えてくださるなら早く教えてください」
「おいおい、そんな楽が許されるものか……そうだね。きちんと思い出すために一つ、フィアブラッドムーンの昔語りでもしようか。有名ではあるけど、君は知る機会から避けられていた。だから、本当のことを教えてあげるよ」
「本当の、こと?」
「うん。彼女は優しいからね。甘い君とは違って優しいから、嘘を吐いた」
優しさ。ぼくの中で偽りだったもの。
「彼女がお姉さんを食べたのは聞いたよね」
「え、ええ」
「だけど、フィアブラッドムーンは嘘を吐いたはずさ。食欲に負けて食べたと。けどね、そんな分かり易い悲劇じゃなかったんだ」
嘘。
どれが、嘘だ?
「フィアブラッドムーンは普通の人間だった。だから、人間であろうとした。主の目を盗んで抜け出し、ぼろぼろになりながら家族のもとへ帰った。知ってるよね。吸血鬼は日光と月光を浴びると、血が、存在力が消えていくのを」
知識としてだけでなく、実際にも見た。串刺し公が焼かれ、消えていくのを。
「フィアブラッドムーンが真っ先に会えたのはお姉さんだった。だけどその頃には理性なんかほとんど残っていなかった。そしてお姉さんは、吸血鬼に成ってしまった妹が苦しんでるのを見て言ったんだ。理由とかそんなのは一切聞かずに、食べて、と。そして、食べた。吸血した。初めて、人を殺めた。その後からだよ、フィアブラッドムーンが真名を捨てて吸血鬼として活動し始めたのは」
それで終わり、と新さんは言った。
確かに、分かり易い悲劇ではなかった。もっと複雑な、きっとティアハートの心に深く刻まれたであろう傷だった。
人間であることを、諦めたんだから。
ティアハート・オウススウィート。
「心の涙と姉への誓い」
新さんがそう口にした。
残念ながら中学一年生、それも英語は苦手な分類なため、その意味はわかっていなかった。
だから、知れてよかった。
「さて、どこかでお姉さん似たことをする人物を聞いたことはないかい? 他人のために無償で自らを差し出す行為をする、人物を」
それは、わかってる。
聞くも何も。
ぼくのことじゃないか。
「だから終わりは君だった。間違った正しさで始まったから、終わりはその正しさを折ることで終わらせた」
だから、彼女を終わらせたのはぼくなんだ。
間違った幻想を抱いていなければ、彼女が終わりを選ぶことはなかった。
死を、選ばなかった。
「けどさあ、おかしいとは思わないかい?」
新さんは、わざとらしく首を傾げた。
「名前にどんな意味が込められているかまでは知らないが、彼女の性格上、少なくとも死んで贖罪するってことはないと思わないかい」
……。
そうだ、と思う自分がいた。
「そんなフィアブラッドムーンが何故死を選んだのか。君は知っている。そろそろ正面を向けよ、碎斗くん」
僕は一体、何を見逃している――何を見ていない?
彼は急かすことなく、屋上の淵へ歩いていく。柵すらない。
「お」
そこから下を覗き込むようにした新さんが、声を上げた。
「そろそろだと思ったら。下を見てみなよ。君がよーく知っている人物を呼んでおいた」
彼を追ってぼくも障害のない屋上のへりから下を覗く。
黒が見えた。
「な!!」
反射的に身を引く。隠れる必要なんてないのに。いや、そうじゃなくて!
彼女は太陽のせいでよく見えなそうにしていたが、ぼくからはしっかりと見えた。
見間違えるわけもない。誘神命の顔を。
「なん、で!?」
狼狽が隠せない。
「なんでもなにも、生きているから。それ以上も以下もないいだろ。フィアブラッドムーンは食べてないんだからさ」
「じゃあ、別の人だったのか!? そんなわけない! ティアハートは、自分の匂いが染み付いた人とその人の匂いが染み付いた人に引かれる呪いがあるって言ってたし、だからこそ……命を選んだって!!」
「なんだい、それ。匂いに惹かれる呪いなんてない。嘘だよ」
「え?」
また、嘘……?
「そして、知ってるんだ、今の君は」
「知ってる……?」
「そうだよ。吸血鬼として、血を飲み込んだ。さらには同種の血だ。吸血鬼は、吸血した人の記憶と思いを知る。フィアブラッドムーンは串刺し公の血を吸わなかっただろ?」
背負いたくないからと言って。
あれはそういう意味だったのか。
「飲んだ地は少量かもしれないけれど、フィアブラッドムーンがいったい何をしたのかまでは追えるはずだ」
とくん、と心臓が跳ねる音がした。
暑い。脳がとろけそうだ。熱に浮かされている
凍った記憶が溶かされていくようで――
「あ」
もう何度目になるかもわからない、愚かなぼくの間抜けな気付きの声。いや、そうじゃない。
目を逸らしていたものを、正面から見ただけだ。
夢を見た。
ぼくが散らせた血肉を片付け。
竹刀袋は持ってこなかったと騙り。
ティアハート・オウススウィート・フィアブラッドムーンという存在の全てについて嘘を言い。
紅月まで出してぼくを欺いて。
窓枠からぼくの帰りを確認して。
拾ったぼくの血肉と寝ている間に切り取った髪を食べ。
嘘と誤解を真実のように見せて。
ぼくが抱く間違った理想を、打ち砕いた。
「これが優しさだよ、碎斗くん」
声が、這入り込んできた。
とても残酷な声音だった。
膝から力が抜け、崩れる。吐き気がして、項垂れた。
沸き立つような熱に全身が震える。
わかった気でいた。でも、そんなことはなかった。
じゃあ、ぼくは。
痛みはなかった。涙は出なかった。
ただ、とてつもない怒りが自分に矛先を向けて燃え上がっていた。
そんなぼくへ、笑い声が降ってきた。道化に向けて送るような、自らより下の者の愚行を笑う色。
何がおかしいんだ! ぼくは睨み上げる。
「いやごめんごめん。隠すことじゃないから言うとさ、お姉さんの件で最後まで死を選ぶかどうかを悩んでいたのを後押ししたのは僕なんだ。それこそさっき言ったように、お姉さんのことを悔いているのなら、同じような思考を持つ碎斗君を正すことで終わらせようってね」
「……」
空白があった。
嘘を言っている風ではない。嘘を言う理由もない。
達観した瞳に本心が見えない嫌な笑み。
だったら。
全てはぼくのせいだけど。
全てを壊滅させたのは、この男――!
「んで、そんなことを!!」
「必要だったからさ。僕が踏み越えるのは必要性のある命だけだ。それ以外は拾っていく。大を救うには小を切り捨てるしかないんだよ」
「そんな意見くそくらえだろうが!」
「なら、また英雄幻想におぼれるかい? フィアブラッドムーンが最期に選んだ、間違いを。わかってるんだろ。それは無理なんだ」
ぼくは言い返せない。
「フィアブラッドムーンは君のことを認めていたよ。誰かを救おうとするその人間性だけは、きっと正しいものだって。ただそこに、自分の意思が伴っていないから、幻想だと切り捨てた」
そろそろかな、と男はぼくに近寄り、何かを握らせた。
見れば、番号の羅列が書かれた紙だった。
「もし僕が憎いなら、来るといいさ。僕の庭への推薦状だ」
左肩に手を置き、フードを目深にかぶって去っていく。
すれ違って命がやってきた。
「碎斗……なの……?」
彼女の言葉に答えられない。
だって、
「……俺は」
全てを終わらせた。
本当に、何もかもが自分のせいで。
理想で生きていたぼくは死んだ。
そして、半端者の俺が生まれた。
未だに理想論を捨てきれない、歪な復讐者が。
うだる夏の終わりを告げるような冷風が俺たちの間を吹き抜けていく。
だが、それをかき分けて彼女は俺の元へ歩み寄ってきた。
「帰ろ。ね?」
俺の手を取って、引っ張りあげられる。
命の顔は直視できずに目を伏せる。何も聞いてこなかった。血まみれの俺を見ても、何も。
俺は、その優しさに甘える。甘えて、しまう。
きつく握られた手を解くことができずに、俺は日常へと戻っていく。
こうして、悪夢のような現実は終わりを迎えた――いや、終わることなく、俺を苛んでいく。




