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ファクターズ  作者: 綾埼空
三話 二十六日
92/131

アルニカの一日

「んふふふーん! 証明終了」


 嬉しそうな声が、閉ざされた空間に響き渡る。


 声の主は、冷房の効いた部屋の中央で横になり、足をパタパタさせながらシャーペン片手に書物をめくっていた。


 金糸のような髪。嵐が過ぎた後の空を思わせる瞳。顔は年相応の可愛らしさであるが、ぴっちりめの服の胸の部分を押し上げる二つの双丘は、十四歳の年齢を思わせない。


 アルニカ・ウェルミン。


 それが彼女の名である。


「んーと……これはさっきの公式を利用して−−」


 アルニカの引き込まれそうな瞳に映るは、数字とアルファベットの羅列。


 つまり、数学の問題だ。


 しかも、そのページは最後の方。それだけでなく、この問題は、高校の教科書に乗っているものだ。


 十四歳−−中学生が解けるものではない。いや、それを言ってしまえば、彼女は学校に一度も通った事がない。


 ティラスメニアには学校が存在しなかった。


 ので、元々好奇心の強かった少女には学びとは宝探しに等しいものだった。


 この世界に来るきっかけであり指針であった少年−−久澄碎斗の顔を思い浮かべる。


 ティラスメニアへの未練は多分にあるけれど、この事については感謝してもいいかなと感じていた。


 久澄の顔を思い出し、アルニカは幾つかの疑問を脳髄に浮かべる。〈空の操手〉はその力から、脳のキャパシティーが大きい。ので、高校生を大いに悩ませる問題も片手間に扱えてしまうのだ。


 久澄碎斗は自分とは異なる世界から来た。異世界という概念を認知した事で、後にブレイクマスタードラゴンが、『全時空間世界の破壊の理』であると教えられた。なので、地球人である久澄にも、破壊の理は適応はされるはず。


 暴走の件といい、彼はいったい何者なのか−−。


「まっ、どうでもいいんだけれどね」


 アルニカはあっけらかんと呟いた。


 いつだって、どんな状況でも久澄碎斗は久澄碎斗だった。


 だから、どんな・・・・があっても久澄碎斗かれ久澄碎斗かれだろう。


 出会ってから六ヶ月の間柄だが、そう信じられた。


「おーわりっと!」


 先に頭の中で展開した証明式を紙に写し、アルニカは起き上がった。


 その声を聞きつけてか、ドアが開く。


 自室に籠もって何かをしていた同居人……正式には家主の酸漿奈々美だ。戦闘慣れしているようで、五感が鋭いのだ。


「終わりましたか」


「うん。この数学ってやつで、渡された五種類のプリントは終わり」


 証明式だけでなく、様々な数式が記入された厚めのプリントを持ちながら立ち上がる。同じ体勢で長らく居たので筋肉が萎縮しているため、伸びを行った。


「う〜ん……と。はい、これ」


 気持ちよさそうな表情のまま、プリントを手渡す。


「ふむ。確かに」


 奈々美は親指でプリントをかなりのスピードでめくり、二秒も経たない内に終わらせる。奈々美の動体視力がどれ程優れているのか解らさられる瞬間だな、とアルニカは感じた。


「と、ヤバ! 私もうバイトだから」


 体内時計が十二時少し前を指したのを感じ、慌ただしく行動をする。


 と言っても、服装は外行き用なので、作ってもらった鍵と財布。それと先日契約したスマートフォンをズボンのポケットに詰めるだけだが。


 奈々美は邪魔にならないタイミングを窺い、訊ねた。


「あの、わたしのお昼ご飯は?」


「ごめん、そんな暇なかった。まあ、奈々美ちゃんも女の子なんだから、一食くらいは作れた方がいいだろうし、ちょうどいいんじゃない?」


 奈々美は露骨に嫌そうな表情を意識的に作った。


 このお節介が久澄や奈々美のような人間に嫌われる行動なのだが、普通の一般庶民相手なら良き気遣いとして扱われる言葉だ。


 無論、アルニカもこの言葉をかけられるたびに嫌な顔をされているのだがら、迷惑だと思われているのは察している。


 しかし、アルニカはそのような感情を向けられても気にしないたちであり、また結婚云々は別にして、健康な生活のためにも一人で料理は作れた方がいい、という考えがあるのだ。


 お母さん気質のあるアルニカは、そういう点に関しては頑固だったりする。


「じゃあ、行ってくるね」


 本気で時間が差し迫ってきてたので、奈々美の事は頭から切り離し、部屋を後にした。


 ちなみに、奈々美対して酷い事に、アルニカのお昼ご飯はバイト先に用意されているのだ。







「さて、どうしましょう」


 本気で見捨てられ呆ける奈々美。彼女はお湯も沸かせない残念な少女である。


「久澄さんは帰省中ですし……ふむ」


 アルニカの善意に一縷の望みをかけて台所へ足を運ぶ。だが現実は甘くなかった。


「まさか冷凍食品すらないとは……まあ、いいでしょう。お昼抜いたくらいで死にはしませんし」


 冷静な頭で割り切り、奈々美は手渡された夏休みの宿題・・・・・・を学校用の鞄にしまい込んだ。


「いや本当、頭がいい人が居るとべん……助かりますね。学校に行かせれば面白い方向に伸びそうですが」


 『可能性』を見いだし感情を面に出しかけるが、すぐに素面しらふに戻してテレビを点けた。基本的に一人の時、彼女はそう過ごしている。


 日本支部は独自の放送形態をとり、放送局は二区にあり、その数は八つ。酸漿家では、ニュース、バラエティー、ドラマのバランスの良さから4チャンネルに合わされている。


 画面の向こうでは、局からクールキャラと推され表情を動かさないながらも、胸が大きい事でかなりの人気を得ているアナウンサーが、ニュース原稿を読んでいた。


『−−八月の二日に起きました魔術師によるテロ行為による責任問題について、現地時刻の七時、MGR社科学部代表夜霧新氏がバチカン入りをしました。会議は、現地時刻の九時より行われる予定です』


「そういえば今日でしたね」


 体育祭にて実行された、〈聖人〉結神契を投下した〈科学魔術〉保持者、水城、否、久澄飛鳥暗殺計画。


 それ自体は上層部の狙い通り久澄碎斗の働きと左目に宿す魔眼のお陰で避けられた(奈々美の意見介入によりギリギリだったが)。


 問題になっているのは、その際に攪乱目的で放たれた式紙達。


 それはランク4の特殊才能を機械化した『Rise−Above(ライズ−アバーブ)』により殲滅に成功した。


 しかし、死者こそ出なかったが、二区から六区までの主要機関を殆ど潰され、また特殊才能保持者とはいえ一時的にでも学生を戦場に出させるを得ない日本支部の防衛対応の甘さと遅さを露見させ、外の世界に一定の不信感を与える羽目となった。


 これ以上失態を犯せない科学と、科学サイドを攻撃したという確かな証拠を抱えた魔術。普段以上に重要で、危険な会議となる故、トップ同士が動かざるを得ないのだ。


 それに、この会議が摩擦を生み失敗すれば、戦争になる確率は十分にある。


 だがそれはどちら側も避けたい事態のはずなので、議論は魔術側の責任の取り方となるだろう。


 日本とバチカンの時差は約七時間なので、十六時に会議は始まる予定だ。


 と、内に向けていた意識を外に戻すと、ニュース内容が変わっていた。


『−−本日未明、四区の首里川しゅりがわほとりにて、緑川中学校在籍の山村朝美さんが水死体で発見されました。十四歳でした』


「………………」


 奈々美は目を厳しく細め、テレビを消した。








 寮近くの商店街。その入り口に構える八百屋がアルニカのバイト先だ。


「こんにちはー、店長!」


「アルニカちゃん。こんにちは」


 お昼時だからか、客足がない。


 そのため、店の奥に座って雑誌を読んでいた店長−−安城冷夏あんじょうれいかが顔を出した。


 さばさばとしながらも清潔感漂う黒髪をポニーテールにまとめ、日に焼けた肌は化粧品っ気がない。瞳の色は、黒真珠ブラックパールのような深く、強い色合いの黒をしている。


 ちなみに、青のジーパンと白のノースリーブの上から仕事用の制服であるエプロンを着けており、結果的に前から見ると上着を着ていないように映り、女性の目から見ても卑猥な感じがする。


 日焼けもあいまり、端的に言ってエロかった。


 本人は特に気にしていないようで、無自覚とはこんなに恐ろしいものなのかと、アルニカはしみじみと頷いた。


「なにやってんの? ほら、あまりもんだけど奥に食べ物あるから、食べちゃいな。今の時期、食わなきゃやってられないよ」


「はい。御相伴に預かります」


 言葉に従い、店の奥にある小さな個室に素足で踏み入る。


 八畳ほどの畳部屋に銀の流しと小型の冷蔵庫。ゴミ箱にトイレと必要最低限の物しかない。


 テーブルがないため、シンクの上にいかにも出来立てなキッチンペーパーに飾られたかき揚げと、透明のガラスコップに注がれた野菜ジュースがセッティングされていた。


 どれも店頭に置けなくなるくらいにまで駄目になった野菜を棄てずに再利用しているらしい。


 ちなみに、アルニカたっての頼みでこの食事分はバイト台から引かれている。


 キチンとすべきところはキチンとするのが彼女だった。元々がお金のためでなく、社会勉強をするのが目的だからでもあるが。


 それはさておき、


「いただきます」


 しっかり手を合わせて言葉にしてから、置かれている箸を手に取った。


 かき揚げを挟み、口へ運ぶ。


 冷夏が居るから恥ずかしく口から漏れるのを我慢したが、野菜の旨味をふんだんに利用した味わいだった。


 キャベツ、ピーマン、ゴボウにニンジン。他にもジャガイモやタマネギ、と色々な野菜が細く刻まれ、ボリューミーに混ぜられているが、バラバラな感は味わえない。


 苦味や辛味、相容れない感覚は、しかし油に浸かり、衣に纏われる事により本来の甘さを引き出し、閉じ込める。


 サクサクの衣は香ばしく、お菓子を食べているように錯覚させられた。


 野菜を専門に扱うだけあり、野菜に精通している事を窺わせる一口だった。


 できる事なら時間をかけ、より深く楽しみたいところだが、今は仕事に来ているのだ。


 お昼時とはいえ、何が起こるか解らないのが商売だ。


 噛む度に感動で心を震わせながら、しかし早く胃に流し込む。


 最後に野菜ジュースで口に残った油の嫌な甘味を消し去り、完食。


 野菜ジュースは、野菜本来の甘味を引き立て、また夏場失われる塩分を得るため塩がほんのり香る程度に使われていた。トマトとニンジンの風味がフレッシュであった。


「ご馳走でした」


 キッチンペーパーはゴミ箱へ。食器類は水に浸けて、この部屋の片隅に掛けてあるエプロンを身にまとう。


 見た目は白に緑の店名が刺繍されただけの物に見えるが、無意識下でオシャレに見せる細やかなデザインが加えられている匠の作品だ。


 ついでに言えば、作者は少し前に久澄とアルニカが向かった服屋のオカマ店長だ。


 彼(?)はこの街で色々なところから懇意にさせてもらっているらしく、冷夏とも友人同士。


 サイズ合わせの際に再開したときは、驚きのあまり悲鳴を上げてしまっていた。


 閑話休題。


 着替え終わったアルニカは、店先へ。


 だがお客の姿は確認できなかった。


 なので冷夏みたく、店内の端に荷物置きとして使われている椅子を見繕い座った。


 丁度冷夏が雑誌を読み終わったようなので、アルニカはお客が来るまで適当な談笑をする事にした。


「店長。こんなに暑いのに野菜放置してて大丈夫何ですか?」


 本日の気温、三十三度。


 木漏れ日すら肌を焼く。


 魔法を使わないように久澄よりキツく言われているアルニカは、郷に入っては郷に従えと、無意識に展開される空間把握以外の魔法を使っていない。


 なので額からは、それなりの汗が流れていた。


 それ程の暑さの中では、野菜が駄目になるのは必然。


 もちろん何もされていない訳ではない。


 アルニカの空間把握には、何かが引っかかっている。


 だが、予備知識のないアルニカはその何かが解らないのだ。


 そのための質問。


「大丈夫だよ」


 冷夏も時間を持て余しているのだろう。即答だった。


「野菜の周りに常温で保つ膜みたいなのがあるんだ。野菜ごとに最適温度の設定ができるから、ギリギリまで鮮度を保ってられる」


「へー」


「これは普通のスーパーとかでも使われている技術なんだけどね……本当に世間知らずなんだな」


「はははっ」


 空虚な笑いを発する。 異世界人である以上、そういう設定で過ごさなければならないのだが、騙しているという事実に良心が痛んだのだ。


 ひとしきり笑いその思考を振り払ってから、頭の片隅に引っかかった疑問を口にした。


「けれどスーパーに同じ構造があるなら、商店街のものって値段的に不利なんじゃないんですか?」


 その疑問は正しい。


 スーパーに対する商店街のメリットとは、安全で質の良いものを提供できる点にある。


 だが保存方法が同じなら、同じ商品でも大量発注が行えるスーパーの方が金銭面にて優位に立つ事となる。


 お昼時とはいえ、お客が一人も居なくなるのが商店街の必要性の低さを表していた。


 そこまでは察していると口振りから分かったのだろう。曖昧に笑いながら答える。


「まあ、正しいよ。けれど、MGRの科学者からしたら商店街というものも何かの実験に使えるようで、実験費としてかなりのお金とちょっとした便宜が計られているんだ」


 科学者は理解できんよ、と冷夏は短い呆れ笑いをした。


 そうですね、と相づちを打ちながら頷く。


 そして、アルニカの目が光る。瞳の表面に張った涙が、僅かに差し込む日差しに反射したのだ。


 そこに宿るは、知識に飢えたそれだ。


「何なんでしょうか。人と人の関係性云々が関係していると考えるのが一般的ですが」


 顎に指を当て思考する。


 その姿に、冷夏は吹き出した。


「……何ですか?」


「その考え方、碎斗君のと同じでついつい」


 言われ、視線を下ろす。


 顎に指当てる癖は、確かに久澄のものだ。


 途端、アルニカの頬が紅に染まる。それはどんどん広がり、最終的に耳まで苹果りんごのような赤色に移り変わった。


「う、だ、あ、な、何を言ってりゃんですか!」


「噛んでる噛んでる。かーいーなー。仕事もちゃんとするし、雇って良かったよ」


 アルニカの元まで駆け寄り、彼女の顔を胸に埋めワシワシと頭を撫で回す。


「ぐーじー」


「おっと。ごめんごめん」


 タップして、ようやく離される。


(なんか……ミヤ姉と似てるんだよな。喋り方もノリも……)


 無論、根本も纏う空気も違うが、少なくとも表面は似ている。


 そんな人と自分が、異世界を跨ぐ広い世界にて出会う確率はかなり低いのではないか、何て考えた。


 人と人の出会いは、一期一会。


 自分で選んだ道とはいえ、見知らぬ世界で知り合いは一人。その久澄にだって、隣人でありながらまともに会えない。


 というより、微妙に避けられている感じがする。


 〈塔〉での一件の後。久澄の過去の一端に触れてから。


 彼からしたら無意識レベルであるのだが、〈空の操手〉の力の前では無意味。僅かな歪みさえも感じとってしまう。


(鬼門だったよね……)


 自分の早計さに嫌気が差した。


 どうにか仲直りをしたいが、久澄の中では意識されていないレベルの話だから、仲直りも何もない。


「どうしたの、アルニカちゃん?」


 自らの世界に潜り込んでいたアルニカの意識に細波を起こす声。


「ああいえ。……そういえば」


 後ろめたい事ではないが、それでも触れられたい事ではないため早口で誤魔化すために言葉を紡ぐ。


「碎斗、店長の事『姐さん』って呼んでますが、何でなんですか?」


 友達の縁だか何かで商店街を利用する事が多いらしい久澄が口にしていたのを耳にしたのだ。


「あー……」


 冷夏が困ったように頬を掻く。


 その姿にまずった、と思ったアルニカはすぐに頭を下げる。


「すいません。言いたくないなら別に……」


「いやいや。そういう事じゃなくて」


「なら……」


 何故、と表情に浮かべる。


 視線が交錯し、冷夏が折れた。


「笑わないでね」


「もちろんです」


「じゃあ……」


 純粋な瞳に引けなくなり、せめてもの抵抗か溜め息混じり。


「今私は十九歳なんだけど、話はその五年前。この街の不良女子を集めたレディースの総長をしてたの。っても青春の一ページのつもりで結成したから同年代だけで、高校に入ると同時に解散したから二年間だけの短い活動で。まっ、他の奴らみたく自分の特殊才能の平凡さに対する八つ当たりもないとは言い切れないけれど」


 アルニカは少し意外に思った。


 教えてもらった特殊才能は、確かに使いどころが限られ、ランク〇と言われても納得できた。


 けれど、それにやさぐれていた過去があったなど、今の冷夏からは想像がつかなかった。


 その考えが顔に出ていたのか、


「どんな人にも意外な過去はあるんだよ」


 肩を竦めて答えた。


「で、時は流れて四年。つまり今年なんだけど、四月のある日に計……は知らないよね」


「……ええ。お話を聞いた事はありますが」


 猫屋計。久澄の同級生。共に働いていた彼が無断で外界へ出てしまったが故に業務に支障が出て、帰ってくるまでの短期間、バイトを雇う事にし、アルニカが採用されたという話を少し前に冷夏からされていた。


 それ以外は、容姿も何も知らない。


「まあ、知らなくても話は通じるので続けてください」


「それもそうだね」


 なら話を戻して、と言いながら席に戻る。


「どこで知ったのか知らないけど、計から『昔のつてを借りたい』って言われて。何か目撃者が必要で、それは久澄君にとって第三者である必要があるとか何とか……そんなこんなでレディースの総長やってた事がバレ、冷やかし混じりに『姐さん』なんて呼ばれるようになったんだよ」


「はあ……」


 何というか、肝心の部分が曖昧だ。


 どういうリアクションをとるべきか迷っていたら、冷夏が口角を上げ困った笑みを浮かべた。


「つまらない話だろ? 私がレディースの総長やってたところが山場だからね。そこで笑われなければしなびた話さ」


 そう言うと冷夏は立ち上がり座っていた椅子を肩に担いだ。


「さあ、そろそろ主婦の皆様が行動を始める時間帯だ。まばらだろうけど、私達も働くわよ」


「! はい!」


 アルニカも立ち上がり、椅子を元の位置に戻す。


「さて、働きますか」


 伸びをし、自然なスマイルでお客を捕まえる作業にアルニカは入った。







 西に落ちる太陽は、燃え尽きる前にろうそくが最後にして最高の輝きを発するように燃え、闇に支配される空を鮮やかな橙色に染め上げる。


 湿気を伴った冷たい風が、肌を撫で、こもる熱気をどこぞへ連れ去ってゆく。


 そんな時間。


「お疲れ、アルニカちゃん。大体片付いたから後は任せて帰っていいよ」


「それではお願いします」


 冷夏の計らいに、アルニカは逡巡を見せず肯定する。


 普通に考えれば閉めるにはまだ早い時間だが、MGRから支援を受けているため売り上げ等は気にせず、これぐらいで閉店なのが昨今の商店街事情だ。


 周りを見渡せば、もうシャッターが降りている店も少なくない。


「じゃ、お先失礼します」


 頭を下げ、家路をたどろうと一歩を踏み出した時、


「アルニカちゃん、ちょっと待った」


 後ろから、図太い男性の声。振り向けば、声から想像される通りの体育会系の身体つきをした肉屋のおじさんが肉が見れるショーケースの上から顔を覗かしていた。


「ちょいちょい」


 手招きされる。


 冷夏が呵々と笑うのを横目に、おじさんの前へ。


「はい、これ」


 伸ばされた手には、唐揚げやハムカツ、コロッケが分別され入れられたらビニール袋が握られていた。


 もってけ、という事だろうが、アルニカは首を横に振った。


「いや〜、いつも貰ってますし悪いですよ」


「こっちもいつも言ってるだろ。消費期限ギリギリだからな。棄てちまうより誰かの胃に入った方が良いだろ。俺は歳だからよ、脂っこいのはキツいんだわ」


 大笑いするおじさんにアルニカはなら、と受け取った。


「いつもすいません」


「いいって事よ。気をつけて帰りな」


 振る手を背に受けながら、再度帰るために歩み出す。が。


「アルニカちゃん」


 八百屋と肉屋の間にある道。


 そこに店を構える駄菓子屋のお婆さんが、おじさんの声に反応し顔を出していた。


「おばあちゃん」


 無視できるわけもなく、駆け寄る。


 走るアルニカをまるで孫のように見つめるお婆さん。その手には、幾枚のラスクが入った袋が。


 それが視界に入っていたアルニカは、遠慮する声音で呟く。


「おばあちゃんまで。いいのに」


「若い人が遠慮するんじゃないよ。お金は出ているんだ。わしに損はないよ」


「……なら、貰うねおばあちゃん」


 お礼を言いながら受け取る。


「よいよい。若いうちは素直でいるのよ」


 頭を撫でられ、アルニカはくすぐったそうに顔を緩める。


 お婆さんは老化に伴い縮まった背をしているが、アルニカも背は高い方ではないので十分届いた。


「じゃあねおば」「アルニカさん」


 次こそは帰るために手を振りながら歩み出したが、駄菓子屋のさらに奥の魚屋から深みのある女性の声音が割り込んできた。


 二人の子供を抱えるシングルマザーである壮年のお姉さんだ。


 魔法が使えたら便利なのに、と内心久澄にキレながら走る。


「−−こんにちは」


「こんにちは。呼び止めてごめんね」


「いえ。慣れましたので」


 皮肉ではなく、純然な事実だ。


 働き始めてから一ヶ月。十日目を越えたあたりからこのお裾分けは続いている。


 何が原因なのかは理解できていないが、食費が浮いているのは事実なので有り難く思っていた。


 無理矢理引き留めているのに非難する色がないのからそれを悟ったのか

、お姉さんは「あらあら」と笑い始めた。


「無自覚って恐ろしいわ〜」


「?」


 そんな事を言われてしまえば何かがあると考えてしまう。しかし、どう記憶を遡っても思い当たる点はなかった。


 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。何より、ハーツ達が辿った四方の巫女の結末から無知の恐ろしさを学んだアルニカは訊ねる事にした。


「あの、私何かしました?」


「んー……何もしてないよ」


「けど」


「何もしてないよ。本当に、ね」


「はあ……」


 全然答えになっていないが、嘘を吐いている雰囲気でもないため、諦めて納得する事にした。


「あらあら。それにしても手荷物が多いわね……ちょっと待ってて」


 品片づけは終わっているが、今の今まで魚が陳列していた事を窺わせる生臭い空間の奥の個室へ入っていった。


 何だろー、と少し待っていると布で作られた手提げ袋を持って出てきた。少し膨らんでいる。


「うちの方からもお裾分け。ポケット分けできるから、臭い移らないよ」


「……ありがとうございます」


 断るのに疲れ、素直に受け取る。


「明日にでも返してくれればいいから」


「分かりました。では」


 ふう、と溜まったものを吐き出し、アルニカは今度こそ商店街を後にした。


 アルニカの帰る後ろ姿を見送っていた魚屋のお姉さんは、


「いや〜、あれくらい純粋な子は珍しいからね。ついつい甘やかしちゃうな〜」


 朗らかな笑みを浮かべながら、そう呟いた。


 結局のところ、アルニカはどこに行っても皆のアイドルなのだ。


 お母さんでアイドル。マニアックなファンが付きそうな組み合わせであるが。







 何事もなく帰り道を歩むアルニカ。


 家に帰ったら奈々美の機嫌取りも兼ねて夜ご飯の支度を執り行わなければならない。お風呂に関しては、奈々美が支度してくれているだろうと予想した。料理以外はてきぱきとこなせるのだ。


 そんな、普通の日常。


 この世界は、ティラスメニア程不安定でない。魔物も荒っぽい山賊もいないため、一個人が事件に巻き込まれる確率は極めて低い。


 だから。


「んっ?」


 それすらも、アルニカの中では非日常の体験となる。


 常時発動型の、体質とも言える空間把握能力。範囲は、半径百メートル(魔力を加えれば、その百倍はいけるが)。


 建物と建物の隙間。裏路地への入り口の一つとなるそこに、それは居た。


 場違いにも、五歳くらいの少年が。泣きながら。


 放っておけるわけもなく、駆け寄った。


 身長差があるため膝を曲げ、自然な笑顔。小さい子の相手は手慣れていた。


「どうしたの?」


 少年の目を見て、訊ねる。


 その一連の行動で警戒心が解けたのか、はたまた誰かが来た事で安心したのかは定かではないが、少年は泣き止んでアルニカの瞳を見返した。


「……きれいな目」


 惚けるように、呟かれた。


 自然に褒められれば悪い気もせず、頭を撫でてあげた。


「……?」


 髪はサラサラだったが、何かまとわりついてくるような手触りがした。


(特殊才能の影響かな?)


 奈々美から聞いた事があった。一部の特殊才能は、微弱ではあるが身体に影響を与えるものがあると。


 害があるわけではないので、特に問題視はされていないらしい。


 なんて考えていると、頭を撫でていた右手に、暖かな感触。


 意識を外へ戻せば、少年が手を重ねていた。


 瞳を見れば、驚き混じり。


「おねいちゃん」


 その声は、誰かが支えてあげなければ消えてしまいそうな程弱々しく。


「ぼくといっしょに行ってほしい所があるんだ」


 頼まれれば、断れるはずがなかった。






「それで……えっとあかし君だっけ」


「うん。頭木かぶりぎ灯」


 灯がどうしても、と頼んできたため手を繋ぎ、北西の方向に進んでいく(寮は東)。


「じゃあ、灯君。ご両親は?」


「外だよ。きほん的にこの街には学者以外の大人は住まないからね」


 無論会社員も居るのだが、この街での比率は一割にも満たない。


「じゃあ、どう過ごしているの? まだ学生でもないから寮住まいじゃないだろうし」


「そうだけど。ふつう(・・・)は養護施設があるんだ……」


「……?」


 ふつう、の部分に重きが置かれている気がした。それに、先程から表情に陰りがある。


 それに周りからの目線が、怪訝そうなもの。


「…………」


 何かある、と悟る。


 この世界の常識に欠けているのが痛いが、仕方ない。ないものをねだるのは無駄である。


 せめておかしいと気付いている事を少年に察せられないように努める。


 一応戦闘になった時のために魔力を体内で循環させておく。久澄の言葉も大事だが、もしもの時まで従うつもりはなかった。


 空には夜の帳が下りていた。







 端的に言ってしまえば、戦いにはならなかった。


 今は科学も魔術も緊張状態。弱みを見せられない情勢だ。


 何かの中心近くに居なければ、変な事に巻き込まれたりはしない。


 だからと言って、非日常である事には変わりなかった。


 ここが日常に含まれている人間など、なかなか居ない。


 街の喧騒とは離れた場所にそれはある。慈しまれるように、敬意を払われているみたく整備された白床。空気が重い。風に乗る葉や花の匂いが嫌に鼻につく。


 日本支部でありながら、或いは、この日本ありながら別の空間。これも一種の異世界である、とアルニカは感じていた。


 墓地。


 それだけであり、様々な疑問が生じる。


「お姉さん」


 灯は、その見た目に似合わぬ声音で口を開いた。


 もしくは、アルニカが予想しているものならば、姿形など関係ないのかもしれない。


「ありがとう、ここまで連れてきてくれて。僕はあの土地に縛られていて、誰かに付いていく、いや、憑いていくしかなかったんだ」


「灯君」


 アルニカの瞳から甘さが消える。


 口にしてしまってはもう、引き返せないであろう言葉を、告げる。


「君は……死んでいるんだね」


 頭を撫でた時のこちらを侵食してくるような感覚。周りの視線に棘があったのは、灯の姿が見えていなかったから。


 アルニカに見えたのは、触れられたのは、〈空の操手〉だから。


「……うん」


 肯定と共に、灯の姿が変わっていく。


 淡い光が発せられ、久澄と同じくらい背丈へ。


「十年前に、ね」


 笑みを浮かべる。


「ここに来て、ようやく僕の時間が進んだ。安らかに眠れそうだよ」


 灯の姿が半透明になっていく。


 振り返り、自らが眠っているのだろう墓へ向かう。その背に、未練はない。


 が。


「そんなわけ……ないじゃん」


 悲痛な呟きに、灯は立ち止まる。


「灯君、よく考えて。本当に安らかに眠れるのかどうか」


 ブレイクマスタードラゴンとの一戦。アルニカは生きる事を諦めた。未練はない、と感じて。


 けれど違かった。苦しい事も辛い事もあった。けれど、それを凌駕する喜び、嬉しさ、楽しさ、幸せがあった。


 目を逸らしていただけで、未練はすぐ近くに落ちている。


 安らかな死などあるわけがない。現実はそういうものだ。


「………………死んだ僕にどうしろと」


 長い沈黙の後、ぼそりと告げられる。


「未練はあるさ。あるに決まっている! 十年間、誰にも気付かれずあの場所で人の営みを見てきた。僕の人生はこれからだった。けれど、どうしろと!? 僕は死んでいるんだ……抗うなんて、不可能だよ!!」


 諦めるな、とは言えるはずもない。


 死んでここまで経ってしまえば、生き返る術はない。〈背徳姫〉でも無理だ。


 それでも。


「……そうだね。けど」


 伝えなければならない言葉がある。


 これはただの自己満足だ。悪戯に灯を傷つける最低の行為だ。


 だが、本当の意味で彼がこの世界から消える時、その後悔は必ず去来する。


 それを、一人で抱えて欲しくなかった。


 最期の最期まで、重い思いを背負い、潰れながら、悲しみの涙を流しながら消えてほしくなかった。


 だから、言葉にする。万感の思いを。


「君の願いを、私は叶える」


 果たして、その思いが通じたのか。


「……そんなの、何の慰みにもならないよ。ただの自己満足じゃないか」


「そうだよ。認めてる」


 首を縦に振り、一歩歩み寄った。


 灯も振り返り、一歩寄る。


「お姉さん。あなたの言葉は輝いていて、けれども軽く、白々しい」


 その目は、剣呑。


 だがアルニカは、希望を以てその瞳を見返す。


「けど、本当に傷ついた人を救うには、綺麗事しかないよ。そして、それを実現する力も」


「お姉さんにはあると?」


「もちろん」


「…………そっか」


 達観した表情で、月夜を見上げた。


「じゃあ一つ、お願い。これだけは、十年前から夢想していた、完全に諦められなかった事なんだ」


「なに?」


 灯はアルニカの耳元まで顔を持って行き、囁いた。


「−−分かったよ」


「うん。よろしく」


 灯は離れる。


「お姉さんの言葉で僕は救われない。心を打たない」


 言いながら、墓地へ歩んでいく。


「けれど」


 顔だけ振り向き。


「輝いていた。だから、賭けるよ。いつかお姉さんが本当に言葉で人を救える可能性に。先行投資だよ」


 年齢相応の悪戯っぽさ混じる笑いを浮かべた。そして。


「その輝きを大事にね」


 そう言って、灯は姿を消した。


 冷たい風が、吹き抜けた。


 なびく髪を手で押さえ、アルニカは墓地を後にした。








 アルニカは夜道を急ぎながら、ポケットを探り、スマホを取り出す。


 アルニカは何かあった時ように、と教えてもらっていた久澄実家の電話番号へかけた。


 かければ、三コール後に、


『はい、久澄ですが』


 と、どこかで聞いた事がある気がする少女の声。


「もしもしアルニカと言う者なんですが、碎斗君はご在宅でしょうか」


 だがそれを思考の埒外に置き、訊ねる。


 返答は、アルニカの斜め上を行くものであった。


『アルニカさん。えっ、何で?』


 向こうからの動揺に、アルニカは不審に思い自己の記憶を探る。


 この世界において知り合いは少ない。答えはすぐに出た。


「飛鳥ちゃん!?」


 驚きのあまり、声が上擦った。


「えっ、何で。水城でしょ? もしかして碎斗の親戚か何か?」


『あー、お互いに事情を説明しあった方がいいかもね』


 そう提案され、アルニカは話せる範囲の全てを語り、そして飛鳥が久澄の妹だと知る。


「えーと……いつもお兄さんにお世話になっております」


『いえいえ。こちらこそいつも兄がお世話になっております』


 何もない所でペコペコ。先とは別の理由で周りの視線が鋭利なものとなり突き刺さってきた。


『ま、まあ、碎斗呼んでくるね。あっ、後取り敢えずあたしの連絡系の番号碎斗に渡しておくから受け取っといて』


 電話の向こうから『碎斗、電話』と聞こえてきて数秒、


『はいはい。お電話変わりました』


「碎斗」


『アルニカか……今家か?』


「ううん」


 久澄の声が、重く低かった。何度か聞いた事がある。どれも、深刻な場面だった。


「どうしたの?」


『いや、何でもない。それで?』


「あ、うん」


 誤魔化されたが、今は自分の用事の方が重要であり、灯の件を話した。


「−−って事があって」


『ふむ。それで?』


「灯君が何で死んだのか(・・・・・・・)が知りたいんだけど」


『交通事故か何かじゃないのか?』


「この街の医療技術は高いからあり得ないよ。十年前でも元々MGR本社の技術があったし」


 言い返せば、沈黙。隠すべき何かがあるのだと理解する。


 だからといい、退くわけにはいかないが。


 しばらく自身の足音と夜の街ならではの喧騒だけが耳に入る。


『……詳しくは酸漿の方が知ってるだろうが』


 そう前置きをしてから、話し始めた。


多重才能デュアルアビリティー計画プロジェクトの被験者だと思う』


「多重才能……?」


『そもそも特殊才能アビリティーの発現方法は知っているか?』


 それならば、奈々美が持って帰ってきていた教科書に書いてあるのを読んで記憶に刻み込んでいた。


「特殊な電波を脳に流して、細胞の成長を普通では進みにくい方向に促す、だっけ」


『概ね正解。そもそも特殊才能と言うのは、超能力やPSY能力と呼ばれるものと同義なんだ。前時代、つまりアルファが落ちてくる前からそれらは科学的に研究され、裏では認められてたんだよ』


 かなり惨たらしい事をしていたらしいけどな、と付け加え、話は続けられる。


『で、本物の能力者達は皆、普通の人間とは違う細胞の活性をしているのが分かり、それを人道に則った方法で人為的に起こそうというのがこの街だ』


 そこまでは知識の多寡たかは別として、この世界に存在する全人類が知っている事。異世界人であるアルニカも知識として持っていた。


『そのために動物の性質である、状況により適応する能力を使って脳に特殊な細胞分裂を繰り替えさせ、特殊な空間・・・・・を造った。それを脳領域空間アイデンティティと呼ぶ。特殊才能の発動は、ここを経由して行われるんだ。言わば特殊才能のコントロールルームだと考えてくれればいい。MGR社もそのつもりで開発したし』


「…………、」


『だからこそ、脳領域空間の規模がイコールで特殊才能のランクに結び付く。容量がデカければデカい程、扱える特殊才能の量が増えるからな』


 能力の発掘、開発に関わっていないアルニカにそれは無知の事で、脳内にて自分なりの理解方法で噛み砕き理解する。


『と、長ったらしく語ってみたけど、ついてこれてる?』


「う、うん。つまり頭の中に特殊才能を使役するための器官を造ったのよね」


『その認識で間違いない。じゃ、次から多重才能についてだ』


 久澄の声のトーンが下がる。


 アルニカにとって今一番知りたい事なため、足を止めて手近な木に寄りかかり話を待った。


『多重才能の実験は黎明期、つまり日本支部が始動した頃に行われていたんだ』


「待って、この街の黎明期って五十九年前じゃない。そんなのが今も続いているの!」


 怒気混じりの声音。それもそうだ。死者を出しながら、そんな幻想を追い続けるなんて愚かな行為である。


 返答は、溜め息だった。


「……何よ」


『ちょっと落ち着け。俺が知っている事は全部喋るから、答えを急ぐなって』


 言われ、片手で額を押さえる。


 見知らぬ土地でのストレスか、はたまた長く日常に身を置いたためか、答えを急ぐ癖が付いてきてる気がした。


「……ごめん。続けて」


 電話の奥から、了承の声が届く。


『アルファが落ちてくる前の地球は人口問題に悩んでいたんだけど、アルファのせいかお陰か、人口がごっそり削り取られた。そして人類は、同じ過ちを繰り返さないために、と半ば狂乱的に子供は一人までという暗黙の了解を作ってしまった。政策として盛り込まれていたわけじゃないから破っても罰則はないんだが、周りからは冷たい目で見られる。そこで口減らしのために日本支部を利用した』


「……酷い」


『否定はしないよ。当時の日本支部も「実験体」が欲しかったから、あまりにあからさまでない限りは子供を受け入れ続けたし』


「その子供達が多重才能の被験者に」


『うん。つってもそれ自体は一年くらいで頓挫したよ。全員存命しているし』


「えっ?」


 久澄が何を言っているのか理解できなかった。五十八年前に頓挫。だが灯の年齢は十五くらいだ。何より全員が生きている。


「何を言って……」


『さっきも言ったが人道には則られているんだよ、この街の実験は。引き際も弁えられているし。今は多重才能の反省を生かして二重にまで落とした二重才能デュアルアビリティーの研究が進められているな』


「けど灯君は」『表向きはな』


 灯の年齢に触れようとしたところで、久澄のそんな言葉が割り込んできた。


『アルニカ、多重、二重に関わらずデュアルアビリティーの問題点って何だと思う?』


「えっ、うーん……」


 脈絡がないわけではないが、それでも唐突な質問だった。しかしここで関連性のない事を言う性格でもないし、と久澄を信頼し思考する。


「うーーー…………ん……とっ!?」


 そこでとある疑問に行き着いた。


「碎斗。特殊才能は、脳領域空間一つにつき一つしか使えないの?」


 それに久澄は首肯した。


「なら、分かった。人の脳は殆ど無駄なく作られている。一個ならともかく、そこに二個も三個も脳領域空間を作り出したら脳の構造がおかしくなってしまうから。でしょ」


『正解。他にも弊害はあるけれど、それが一番の難題だからな』


「で、それが?」


『最適化だよ。脳の容量が足りないなら、脳をいじくり回して造ればいい。いちいち試験管回していたり、脳波の確認なんかしているより手っ取り早いからな。

 けれどそんな事、この街では認められない。なら、と、一部の狂った学者達は地下に潜み、脳の成長が著しい子供達を誘拐して上記のような実験を行っている。灯君やらが死んだのは、それが理由だよ』


「…………!」


 絶句するアルニカに、久澄は注意を促すように告げる。


『気をつけろ。意外とこっちの世界も、根が深いぜ』


「……うん、分かった。ありがとう。おやすみなさい」


 聞くことは聞いた。電話を切り、天を仰いだ。


 星が綺麗だった。


「……聞いたからって、怒りが湧いてくるわけじゃないのよね」


 色々な経験を経て感覚が麻痺しているのかと思ったが、そうじゃないと気付く。


「多分……空虚なんだ」


 この世界において、彼女にやりたい事、なしたい事はない。


 流れでこちらの世界に跳び、流れでこの世界に適応しようとしている。


 だから、この世界に深く干渉しようとしていない。


 同じ環境になってみて、ようやく久澄の偉大さ、否、異常・・さに気付く。


 普通人間は、他人を憐憫し助けようとする心は持っている。しかし、命までは懸けようとしない。怪我すらも許容できない人も居るだろう。


 異世界どなれば以ての外。知り合いすら居らず、違う法則で形作られた世界にて、誰かを救おうなんて考えもしない。


 無論、強さがあれば別だ。そんな隔たりなんか無視できる圧倒的強さが。


 しかし久澄は弱かった。暴走していたとはいえ、最低位の魔物に殺されそうになっていたくらいに。


 だが久澄は、迷わず命を懸けた。


 傷つきながら、死にながら、それでも戦い、いつの間にか四方の巫女を巡る運命の中心に居た。


 アルニカにはそれが恐ろしかった。人間とは思えない行動の数々。その理由。


 感情の起伏に乏しいだけなのかと思っていたが違う。磨耗しているのだ。あるべき柱が瓦解し、感情の残りかすを燃やし生きている。


 久澄は、この世界の根が深いと言った。


 それは何の比喩や誇張でなく、一人の人間を壊してしまうような現実があるという事だろう。


 不意に身体が震えた。夏の夜は意外と肌寒いが、それが原因ではない。芯の部分、心が恐怖から冷えたのだ。


 気付いてしまったからには、選択するしかないのだろう。


 久澄の発言から、この世界に対し何かしらのアクションを起こすつもり。関わり続ければ、否応なしに巻き込まれる。


「くだらない」


 答えは、一瞬だった。


「恩がある。それだけで充分よ」


 アルニカの感覚で言えば異常な理由。しかし彼女には、力があった。


「ってヤバ。もう九時じゃん」


 奈々美ちゃんに怒られる、と弱々しい声で嘆きながら、走り出した。




 結局帰ったら奈々美はコンビニの弁当で食事を終えており、無駄な運動となった。


 お昼の件を考えればお互い様なのだろうが。


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