消失
木張りの床に、激しい足踏みが叩かれる。
飛鳥が道場を雑巾がけしているのだ。私服のままで。
「おーい。パンツ見えるぞ」
「黙れクソ師範」
口だけで、父親に吐き捨てる。
今は二人きりだが、一応の礼儀として師範と呼んでいる。久澄兄妹の似ているところである。
「ふー、終わり」
流しまで行き、雑巾を洗う。そして日当たりのよい場所にかけた。
「てか師範、なんで着替えてないの?」
「んー、一応お前に気を遣ったつもりなんだがな」
つまるところ、同じタイミングで着替えることで覗きの可能性をなくしたのだ。
「当たり前でしょ」
嘆息しながら、女子更衣室の扉を閉じた。
着替え終わり、竹刀と防具を持ち、先に居た秋司の前に正座し、防具を置いていく。
その後、道場、師範、上座にある『忍耐』と書かれた旗に礼をする。
そして二人は黙々と垂れと胴を着け、準備運動をこなした。
それから、竹刀を持つ。
「構え!!」
秋司の声に、正眼の構えにする。
「初め!!」
素振りを開始した。
これは一年前まで当たり前にやっていた事で、素振りの回数は告げられなくても分かる。
振り上げるより、振り下げるスピードが速くなるように意識し、面の位置まで来たら腹筋に力を込め、絞って止める。
これを百回。
さらに左右面、跳躍もあるが、飛鳥にとっては慣れ親しんだもので、それでいて基礎だ。声出しも忘れない。
一回一回を大切に。
そして素振りは、十五分程で終了した。
この後は練習ではなく、手合わせだ。
面と籠手を着つけてしまえば、会話はできない。
「お父さん」
だから訊く。父親としての秋司に。
「何で碎斗は、ここに来なかったのかな?」
「けじめだろ」
即答だった。
「あいつは昔から、止めた事に関しては関わるのを禁じているからな」
「そう……なんだ……」
少し、寂しい気持ちになった。
もう一度だけでいいから、手合わせをしたかったのだ。
その姿を見てどう思ったのか、
「飛鳥」
「なに?」
「あいつの歩き方、見たか?」
質問の意味は理解できなかったが、実際に見た事はないので首を横に振る。
「そうか。あいつ、真っ直ぐなんだよ、歩くとき。しかも、足音がしない」
「え!」
飛鳥は理解した。通常歩むとき、人間は足が外側が内側になっている場合が多い。しかし、真っ直ぐ。それはすり足の時の形だ。
それに足音。それが聞こえないという事は、地面すれすれで歩いているのを意味する。これもすり足に通ずる。
「あいつは無駄に頭がいいからな。本当に剣道が嫌になってんなら、そういうところから直すだろ」
秋司の面白そうな笑みに、飛鳥は頷いた。
「うんじゃまあ、面、籠手着けろ」
「はい、師範」
そして飛鳥は、手ぬぐいを三角に折り始めた。
乾いた風が吹く。
なびく髪をそのままに、久澄は冷めた瞳でそこを見ていた。
部活動に勤しむ声は耳を通り抜け、意識に反映されない。
ここに来たからといい、何かが変わるわけではないが、来なければならない理由もあった。
嫌な思い出もあるが、ここならば、考えをまとめやすい。
先の、結神契戦を思い出す。
あれにより、妹の飛鳥が特殊才能保持者であり、それも新たな『可能性』である〈科学魔術〉だと知ってしまった。
自分の目的のために日本支部を分解させても構わないと思っていたが、身内が巻き込まれるのは望んでいなかった。
ただ夜霧新を殺す(・・)だけで済む問題でなくなってきたのだ。
「……何しているんだろうな、俺」
頭を掻いた。
見学くらいならいいかな、と剣道に対して割り切っていたが、それでも誘いを断りここへ来た。
無駄なのは、理解していた。
「けど、な……」
答えの出ない未来の事を考えるより、もう一つの目的である嫌な記憶を明確にするために、学校名が彫られたプレートに目を移す。
しかし、
「公立笹上中学校」
突如後ろから聞こえた母校の名に、久澄は振り向く。
そこには、一人の女性が佇んでいた。
可愛らしさが抜け、凛々しさの光る大人の容貌。
血の気のない顔色が不健康だと思わせず、美しいと思わせる女性はそうは居ないだろう。
そんな特徴の中で、それ以上に二つ大きく目を引くものがあった。
背の中辺りまで伸びる青白いの髪に、それと同色の瞳。
その瞳は、右の一つしか表に出されていなかった。
左の目は、ものものしい黒い皮の眼帯で隠されているのだ。
さらに首。
何か細い−−縄のようなもので絞められた痕がくっきりと見えていた。
普通の人ではないのは一目で分かった。
雰囲気も違う。
隠そうとしても隠しきれない、強大な力がこの世界を支配するかの意志を感じさせ、空気中に流れている。
久澄には見覚えのない人物であった。
「あなたは……?」
「相馬颯真」
「………………っ!?」
呟かれた名は、久澄にとって夜霧新と同等の怨みを持つ人物のだった。
だが無論、目の前の人物が相馬颯真なわけではない。
だだ知っている、というアピールだろう。
この学校で繰り広げられた、地獄のような現実を。
三十二人もの人物が一度殺されながら、たったの一人も死んでいない奇怪な事件を。
一人の少女を巡り、二人の少年が殺し合った二年前を。
一人の少年が壊れた、あの春休みを。
知っているのだ。決して表舞台に出る事のなかった陰の事象を彼女は。
「何で……知っているんだ……」
久澄の言葉は、単純であるが故に履き違えがない。
女性は首を傾げた。
「報告にあったより頭のキレは悪いわね」
右手を自分の胸の前に寄せる。
「わたしが、そちら側の人間だと分からないかしら?」
その言葉に、久澄は臨戦態勢に入った。
「慣れてるわね」
女性は右手を、降った。同時に、
「原初の火は凍らされ、世界の終わりは訪れる」
軌道文言。それが唱えられた瞬間に、全ての景色は凍りついた。
「なっ!?」
目を見張り、驚愕する。全てを凍らせる魔術など、この世に存在すると思っていなかったからだ。
だが同じく、疑問が生じた。
「何で俺を凍らせない」
そう。景色を凍らす余裕があるならば、久澄を凍らせる方が速い。
無論、実力差は圧倒的だが、その油断は番狂わせを生む。
「貴方、やっぱり馬鹿ね」
女性は落胆したような声音で、
「この魔術は天災じゃなく、事象改変よ。魂という事象はわたしでも改変できないわ」
「なんだと!!」
事象改変は概念に触れる力で、現実の何かに効果が及ぶ事はない。
ならこの氷世界は。
「改変された異空間!?」
「正解」
突拍子のない話だ。久澄自体、〈自己世界〉の第一位という情報があったから辿り着けたもので、女性が行ったのはつまり、時空を改変して自分で新たな世界を創り上げた事だ。
どれ程の改変力があれば可能か。最強の事象改変使いである錠ヶ崎寧々レベルでも足りないだろう。
「あんた、何者だ」
久澄は原視眼、鬼神化を発動させながら問うた。
答えは、左手を振るわれ返される。
「火は神が化身也て、異端に罰を与え給ふ」
赤き火が顕現する。
「我が名は二つ。九氷果にて九苹火。渾名は[氷姫]に[炎鬼]。さて、試させてもらうわ」
全てを燃やす業火が、襲い来る。
視ただけで、有り得ない程の原子量と魔力を誇る火。
久澄は左目に意識を向け、仮初めの世界にも現世との繋がりとして保たれている最小の粒子を操る。
五行三祿の自然色、水の式、四式、水魔。
全ての衝撃を吸収する力は、しかし凍りつかされた。
この世に在る物質として事象改変では干渉できない原子だが、魔眼にて手を加えれば魔力という概念が取っかかりとなるらしい。
つまりこの戦いでは、五行三祿の自然色は使えない。
「チッ」
それに加え、原視眼を解く。この空間を維持する魔力の直視に耐えられなくなったからだ。
これで事前の感知は不可能になった。
一つ一つ手を潰されていく焦燥感が胸を占める。
「なろ」
行く手を阻む炎に、久澄は全力ダッシュからのストップ。通り過ぎることで役目を終えた炎が消えたところから、一気に跳躍。
拳を振るう。
しかし、
「この程度?」
あっさり受け止められた。
「失望したわ」
そのまま腹部を蹴られ、地面に靴を擦りながら後方に。
摩擦により止まったのは、最初に居た位置だった。
すぐ立て直そうと足に力を入れたが、
「もういい」
右手が振るわれた。すなわち、氷果としての力。
それはもちろん、久澄に何の傷を与える事はできない。しかし彼の中には眠っていた。とある事象が。
氷果の氷は、久澄の左手を打ち抜いた。
「なっ」
冷たさや痛みはなかった。ただ、空虚感が左手を襲う。
呆けたまま、感じた氷の向かった先を見る。
そこには、久澄の腕と同じ大きさの透明な氷が浮いていた。
その中に、混ぜた水飴のような蛇の形をした何かが収まっている。
見覚えは、なかった。が、理解はできた。その正体を。
「循環の……蛇」
「正解」
久澄の呟きに、再びそう答えた。
「わたしの『計画』に必要だから、貰うわね」
簡単に言うが、あれは人知の及ばないもの。
信じられないものを見た目で久澄は氷果を見つめる。
慣れているのか、不快に感じる様子はない。
変わりに、右手の指先で寄せるようなジェスチャーをした。
するとその通りに、氷は氷果の元まで移動した。
それを両手で大事そうに抱え、久澄を見る。
「『計画』のために必要だとはいえ、あなたからこれを取るのはいささか不安が残るわね」
困ったみたいな表情を浮かべた。
「弱すぎるわ、貴方。準備が整ってないから回収できないけれど、まだ利用価値があるんだから」
溜め息を吐く。
「何となくだけど、夜霧新が貴方にこれを宿した意味が解った気がするわ」
「何?」
三年間、気付いてからは一年間だが宿していたものが消失するのは、大事な部位を失う感覚に等しく呆けていた久澄も、その名を出されれば意識を戻す。
「夜霧新が循環の蛇を俺に宿した意味だって?」
オウム返しだが、それが久澄の動揺を表していた。
「教えてほしい?」
氷果の問いに、即座に頷いた。
「簡単よ。貴方に死なれては困る何か(・・)がある。だから、死を生に循環させる蛇を宿させたのよ」
言うだけ言い、背を向けた。
「まあいいわ。これが失われたと知ったら、少しは保護の動きになるでしょうしね」
右手を振るった。
すると、氷で創られた偽りの世界がひび割れ、砕けていく。
九氷果の姿は、既になかった。
崩落する景色の中で一人久澄は、何かの予感を感じ左胸を押さえていた。




