家族
八月の二十六日。夏休みも残り二日となった今日。
五日前に奇跡的に退院許可を得た久澄は、一面に広がる木々を眺めていた。
「あちぃ」
まだまだ冷めやらぬ熱気にうだる。
そんな中、何故彼が外の世界に居るといえば−−
「立ち止まってるんじゃないわよ」
後ろから、女の子の声。
振り向けば黒髪のポニーテールが揺れ、くりっくりの大きな瞳が目についた。
可愛らしい顔立ちだが、身内なためか、特に思えるところがない。
妹の飛鳥である。
「いや、ここでいいんだよ」
「こんなに近いの?」
「そりゃ。そうじゃなきゃ」
二人が立っているのは、タクシー乗り場前だったりする。
アルファの変革により世界中に自然が増えた。
反比例的に人類は減った。
今までの行いを反省した人類は、必要最低限の住居スペースを確保する以外に、森林の伐採をしていない。
そのため、東京二十三区の中心にある日本支部は森に囲まれ、南は大阪と福岡、北は千葉と北海道にある住居スペースへは、予約しタクシーを待つしかない。
そんな訳で。
「今八時か……」
「よく分かったわね」
スマホをいじっていた飛鳥が驚く。
ティラスメニアと時間の流れ方は少し違うが、調節しているため正しく時間を知れる。
「てかさ、あんた携帯買いなよ。連絡取るの面倒だからさ」
「金ない。一ヶ月過ごすのでギリギリだよ」
「バイトすりゃあいいのに」
「時間ない」
「何で? 部活してないでしょ」
「色々忙しいんですよ……と」
適当な会話を交わしていたら、タクシーが来た。
青く丸いフォルム。中が透けない特殊ガラスであり強化ガラスが四面に付いている。
自動的に上へドアが開くと、冷たすぎない冷気が流れてきた。
中は三人程が座れそうな椅子が向き合うように置かれていた。
運転手は存在しない。
「……気が進まないな」
久澄は呟いた。
「何言ってんの。向こうは対話の意志を持ってくれているんだから。いつまでもなあなあじゃいられないでしょ」
「そう……だけどさ……」
溜め息一つ。
そうしていたら背中を蹴り飛ばされた。
「うご」
必然的にタクシーへよろける。
「ああ女々しい。うだうだ言ってないで行くわよ」
げしげしと兄を足で押し込んでから自分も乗り込む。
「あんたには三年振りの実家へ」
タクシーはドアを閉じ、千葉方面へ走り出した。
ふわふわとした頭に音と言う情報が入り込み、久澄は意識の覚醒を自覚した。いつのにか寝ていたようだ。
目を開くと、既に景色は森を抜けていた。
観察すれば、住宅街が目に付く。
視線を斜め前に移すと、何かのアプリをやっているようでこちらに気付かずスマホに熱中している飛鳥。
体内時計を意識すれば、午後一時を回っていた。
(てことはもう着くのか……)
すっきりとした頭でそう思考し、窓際に肘掛け、手に顎を乗っけた。
「あっ、やっぱり起きたんだ」
明確な動きは視界に入ったようで、スマホから目は離さず話しかけた。
「昔から目的地に着くちょっと前に起きてたよね。そこは変わらないんだ」
「ん、ああ」
顔を窓の外に向けながら、生の返事をする。
見覚えのある景色が増えるのに比例して、胃にかかる重圧も一気に増えてきた。
「はあ、気が乗らないな……」
「うぜぇ」
混じり気ない嫌悪感で吐き出された言葉に、流石の久澄も反省した。
けれど数分後−−。
タクシーはとある一軒家の前に止まった。
ドアが開き、カラッとした熱気が冷えた身体に射してくる。
いざその時となると、気まずさが全身に走る。
「やっぱやだな……」
「黙れ」
外へ蹴り飛ばされた。
久澄家は、千葉とされている土地に許された開拓により人類が新たな生活を送る場所にある。
特筆する点といえば剣道道場を経営しているくらいで、他はなんてない一軒家だ。
家族構成は父、母、長男、長女の四人。
人口増大の面から三人家族が主流の現代では、少し多めと見られる。
至って普通の家族である。
「てか親父、仕事じゃないの?」
飛鳥がインターフォンに指付ける前に、湧き上がった疑問を口にした。
また無駄な抗いだと思われたようで、体感温度が下がりそうな冷ややかな目線で睨みながら、答える。
「有給よ。ゆーきゅー。あんま休んだ事ないからね。たんまり貯まってるらしいよ」
「さいですか」
そのつもりはなかったが、肩を落とす。
近代に関わらず江戸時代以降は道場経営で食べていけるわけもなく、久澄家の大黒柱はサラリーマンとしてきっちり働いている。
土日休みは今も変わらず、その二日を使い道場を開いているのだ。
逆説的に水曜日の今日は仕事のはずだったのだが。
小さくとも正論で固められれば、以外と抜け道はない。
と、悔しさから唸っているうちに、飛鳥はインターフォンを押していた。
数秒程経ち、
『どちらさま?』
なんだか気の抜ける声音が響いてきた。
飛鳥はカメラの部分に顔を覗かしているためその質問はおかしいのだが。
飛鳥は溜め息を吐いた。
「お母さん。あたしよ、飛鳥。全く、カメラ機能くらい使ってよ」
『あらま。アスちゃん、半年振りね。あっ、顔見えた』
久澄家の母親は、若干の機械音痴だったりする。それを色濃く遺伝しているので、久澄は携帯等を持たないのである。
『という事は、後ろにいる胴体はさーくん?』
家族内の−−と言っても母親だけだが−−呼び名で訊かれ、飛鳥は身を引き久澄は顔を見せた。
「久し振り、母さん。取り敢えず入っていい?」
『もちろん。ここはあなた達の家なのよ』
他意はない言葉だろうが、久澄の心には鋭利なナイフのように突き刺さった。
無論、表情には出さないが。
「んじゃまあ」
逃げるようにドアへ向かい、一呼吸。
そしてドアノブを下ろし、引いた。
ガシャン。
「あら?」
ガシャン、ガシャン。
「………………」
鍵が、閉まっていた。
「あー、ごめん。閉めっぱだった」
ドタドタと足音を響かせ、母親の声が近付いてくる。
心臓が早鐘を打ち、胃酸が逆流してくるような気持ち悪さが湧き上がる。
しかし、後ろには暴力に躊躇ない飛鳥。
女性の日に当たってしまったのか、機嫌の悪さは兄である自分が知らない程。
表に出せない、と考えているうちに、鍵が動く音がして、ドアが開かれた。
「おかえり」
笑顔の母に、久澄は「ただいま」と返す事はできなかった。
久澄春美。それが母の名だ。
今年で四十代もギリギリのはずなのに、美貌は二十代。
本人曰く「表には出にくいの」らしく、裏である体内系の体調を崩す事がよくある。
それでも二児の母で、病気を気合いで抑えるという荒療治を行う強かな女性だ。
しかし見た目はそんな強烈さを感じさせない。女性らしい丸みがあり、ほんわかな雰囲気。娘は父親に似るとは言うが、飛鳥のくりっくりの瞳は母親のものだ。
性格は天才肌の天然。物事の核心をよく突くが、それが重要な事だと気付かないタイプ。嫌みも天然で言ってしまうため、付き合いが長くなければ煙たがれる。
廊下を歩きながらその背を見、三年の空白がある情報を思い出す。
いや、本当は思い出すという作業が必要ないくらいに、条件反射で出てくるような記憶だが、そうでもしないと落ち着かなかった。
「さーくん」
顔は向けられないまま、呼ばれる。
「なに?」
極力感情を殺した声だった。
「無理しなくていいのよ」
「!」
母親に言われた言葉の意味を、ブランクがあるとはいえ曲解する事はなかった。
だから、
「ありがとうございます」
敬語で答えた。
久澄は反省しているという感情を見せつけるのが嫌だった。
日本支部へ向かったのは自分の意志だし、後悔もしていない。
それに、臨機応変にその場だけを切り抜けようとするのは、虫唾が走るほど嫌な行為だ。
そのため、あくまで言葉遣いを崩していたのだが、だからといって罪悪感がないわけでもない。
こういう場合は敬語を使うという性分なのだ。
だから母親に許され、それに甘える事にした。
都合のいい話ではあるが、そこで遠慮する方がいかにもな感を出し、本質的には反省していない事となる。
それに、自分はいつまで経っても春美の子供だと理解している。
高校生でさーくん呼ばわりも受け入れているし、恥ずかしながら好意も受け入れる。
甘える事を、嫌悪と思わない。
そして、短くも長い廊下を抜け、リビングへ。
そこに、その人は居た。
椅子に腰掛け、テーブルの上に置いてあるビール缶にてを伸ばすは鍛えられた太腕。
新聞を読んでいて、その顔から上半身は見えない。
「さーくん達来ましたよ」
上がっている事自体は知っているだろうに、春美の言葉でようやく新聞を下ろす。
服装は、寝間着のままだった。無精ひげが目立つ顔。黒縁眼鏡の奥に潜む切れ目は、久澄に遺伝されたものだと分かる。酒の肴か、口にはスルメを加えていた。
変わらない父親の姿。
彼は皮肉げな笑みを浮かべた。
「おう、クソガキ」
久澄も似た、シニカルな笑みを表情にする。
「お久し振りです、クソ親父」
久澄秋司。
年収三百万程度の一般的なサラリーマンだ。
小学校の頃から剣道を続け、しかし現実主義で大学を出てからは趣味の範囲で続けている。
春美との仲は、冷めてもいず、熱してもおらず。
浮気経験はなく、それはそんな甲斐性もモテる事もないからである。
完全に春美に尻に敷かれているが、秋司もそれを受け入れているためいい感じのバランスで夫婦生活を送っている。
ちなみに今年、四十二歳。
「昼間から酒とは」
「だいたいの大人は、休みの日は昼から酒飲んでんだよ」
久澄の嫌味にも、秋司は何て事なく返す。
「さて」
秋司は立ち上がり、歩んできた。
久澄は無意識のうちに殴られると覚悟した。
避けようとは、しない。それくらいは甘んじて受ける覚悟はできていた。
秋司は一歩一歩歩んできて、百八十はある身長が近付いてきて−−。
身構える久澄の横を素通りした。
「はっ?」
拍子抜けし、振り向く。
そこでは。
「アスー!!」
「キモい」
抱きつこうと跳んできた秋司を、飛鳥が蹴り飛ばす光景があった。
「お母さん、雑巾」
「はいはい」
この展開は予想されていたようで、白い雑巾は既に弧を描いていた。
それを片手でキャッチし、汚いものを拭き取るように足を拭いていた。
久澄は思い出した。
秋司は娘である飛鳥を溺愛しており、あまりのしつこさから小学校の頃から嫌われていた事に。
「さ、碎斗……」
「な、なんだよ」
ゾンビのように地を這う父親の姿に、若干表情をひきつらせながら久澄は答える。
「飛鳥の下着のいぎゃしぶ」
飛鳥に頭を踏み潰された。
確かに今日の飛鳥はスカートだが。
蹴られた一瞬で見破るなんて、無駄な動体視力である。
「碎斗?」
「何でございましょう」
高圧的な声に、反射的に敬語となる。
「あたしの下着の色とか、聞く必要ないよね?」
「当たり前だろ」
即答だ。妹の下着の色を知りたい兄は存在しない。それに、
「白だって見えたからな……あ!!」
墓穴を掘ったと気付いた時には既に遅し。上段蹴りで頭を抜かれた。
久澄家の男衆は、動体視力を無駄遣いするのが得意なようだ。
茶番を終え、四人はそれぞれの席に着いていた。
男性陣は男性陣で。女性陣は女性陣で向き合うように。
先の一幕で女性陣に睨まれつつ、男性陣は厳しい視線を交わしていた。
「さて」
鼻血を出し、ティッシュを詰めているため若干格好のつかない秋司が口を開いた。
「アスに頼んでまでお前をここに呼んだのは別に、怒るためじゃない」
それは久澄にとって意外な事だった。
当時を思い出せば、半殺しくらいなら受け入れなければいけない、と本気で思っていたからだ。
「母さんを泣かしたのはまあ、過ぎた話だ。俺を殴ったのも、過ぎた話だ」
「………………」
訂正。しっかり怒っていた。
「怒ってねえよ」
「心を読まないでください」
「読めねえよ。顔に出てたからな」
どうしてか、口で勝てた事がない。
年の功以上の何かがあるようだ。
「たく。こっちも親だ。ガキの癇癪の一つや二つ、受け入れられなくてどうする」
父親の顔で、秋司は言う。
「あの時、日本支部に向かうって言った時も、それ自体には反対じゃなかったんだ」
「ならなんで止めたんですか? 失礼ながら、面倒だったんですよ」
秋司は軽快に笑った。
「本当に失礼だな」
そして、真剣な顔になる。
「あの時のお前は、何かを抱え込んで病んでいた。何で相談してくれなかったや俺達じゃ力になれないか、なんて言わないさ。ガキはほっとけば自然と成長しているもんだしな」
今や俺より身長高けぇ、とスルメを上下させる。
「飛鳥の事もあるしな。てめぇの選択をないがしろにはしない。今の面見れば、後悔していないのは解る」
けどな、と秋司。
「お前は人を殺しそうな目をしていた。目を離せば誰か殺っちまいそうで怖かったんだ」
久澄は目を伏せた。
それに、
「おい、目伏せてんじゃねえ」
秋司の手が、久澄の顔を掴む。
視線が、交錯する。
秋司の瞳に久澄が。久澄の瞳に秋司が映る。
「はっ」
しばらくして、秋司は口角を上げた。
「この一年半何があったか知らないが、少しはまともな目になったじゃないか」
手を離す。
「いいか。俺達はお前が何を抱えているのか知らない。こんな時勢だ。もしかしたらヤバい事に巻き込まれているのかもしれない」
秋司は息子の目を射抜くように見つめて、言う。
「それでも、命だけは大事にしろ。お前のだけじゃない。他人のも。何よりも優先しろ。いいな」
命の大切さ。それは自分自身、痛いほど理解している。だが、他の人から言われるとまた、違うように聞こえ、澄んだ水のように心へ染み込んできた。
「……解りました」
「その薄気味悪い敬語止めろよ」
秋司は眉をひそめる。
「許すとか許されるとかじゃないんだ。なのに敬語使ってるんじゃねえよ」
頬を掻き、
「家族だろ?」
「……ああ」
そうだ。家族なんだ。嫌な事があっても、『血』の繋がりは決して消えない。
久澄は、自分の馬鹿な頭に覚え込ませる。
「さーくん」
今まで口を挟まなかった春美が笑顔で呼ぶ。
「おかえり」
久澄は一度目を閉ざし、柔らかな表情で告げた。
当たり前の言葉を。ひび割れた関係を修復する、家族にだけ許された言葉を。
「うん。ただいま」




