森の理と破壊を司る龍
ぱちり、と瞼が開き、空色の瞳が暗闇を映した。
「ん……ここは……?」
背中を包む柔らかな感触をおしく思いつつ、上体を起こして辺りを見渡す。
暗がりに慣れた虹彩はすぐに風景の輪郭を浮かび上がらせた。
少女の、アルニカの自宅の寝室だった。
するりと落ちたかけ布が肌をくすぐって落ちた。
「へ?」
違和を感じ、視線を下げる。下着姿であった。
どうにも記憶が繋がらず、詮索するため思考の糸を伸ばして断続の前を探る。
少しの間空白が生まれ、ガッと頭に血が上った。
「あ、ああ」
そうだ。そうだった。
それでも感情に身を任せる前にワンクッション挟むだけの余裕はあった。起き抜けのもやもやとした胡乱さはなく、いつも以上に頭がさえていた。
木製のベッドを降り、廊下に出て向かいへ。
撥水性の液が塗られた木の洗面台がある。排水溝は村の水を循環させ、貯め込むろ過装置へ繋がっている。
取っ手を何回か押してくみ上げる。家の貯水庫にある水が蛇の体躯を思わせる管から吐き出された。
両手でお椀を作って水をすくい、顔をしゃばしゃばと洗う。
冷たい。頭が冷えてきた。
静かに、脳髄を駆けまわる言葉を受け止められた。
「それでも、私は……」
水は止まったが、顔は俯かせたまま。手を洗面台の淵に置き、ひたひたと顔からこぼれる雫のはじけるさまを見つめていた。
ふと、視界の端にちらちらと入り込む桜色に「あれ?」と呟いた。
「そういえばなんで、下着姿……?」
この姿にしたのは誰か。首を傾げる。
記憶の限りでは久澄が怪しいが、あの服は鎧を兼ねており、独特な着脱方法を必要とする。そんじょそこらの変態では脱がせられないのだ。アルニカ自信か製作者のミヤくらいしかわからないだろう。
だがそれで疑問が氷解した。
「そういえば、あの男とミヤねえ知り合いだもんね」
辻褄はあった。
裁判の日は近い。そんな中、生贄が背負われていたら否が応でも目立つ。ミヤなどは飛んで駆けつけてくるはずだ。
それでミヤに預け、彼女は防護服のままでは寝にくかろうと脱がせた。ざっとそんなところであろうとアルニカは予想した。
「さあて、どうしましょうかね」
顔は乾いていた。頭は変にすっきりとし、これ以上の睡眠を拒む。
「ま、私らしく行きますかね」
自室へと戻り、ベッドの足下にある机へ魔力を走らせる。設定された通りにほのかな光が卓上を照らした。
立てかけられたペンと、蓋をされたインクがはっきりとした姿を見せる。衣服も綺麗に畳まれ置かれていた。
衣服を手順通りにまとい、引き出しを引く。
中には幾枚の便箋が詰まれ、適当に二枚ほどを手に取った。
机に向かい、ペンを手に取って蓋を開けたインクの溜まりに沈める。
「悔いだけは残さないって、決めたんだから」
便箋へ筆を走らせた。
◇ ◇ ◇ ◇
「朝か……」
瞳を開ける。
太陽の光が闇に慣れた目を刺激する。
久し振りに暗い色中心の、向こうの世界との形のある唯一の繋がりとなっている衣類に着替えて外にでる。
空を見る。早朝という訳ではないが寝過ごした感じもない。
昨日の口論に意味はあったのか。
確かめるため門に向かう。
門には村人全員が居るように見える。その中にアルニカの姿はない。
「……やっぱり駄目だったのか」
つまり、そういうことだ。
その声が大きかったのか、みんなが此方を見る。
皆同様に泣いていたり、目を赤く腫らしていた。
村長とクネル以外は事情を知っていることを知らないはずだ。
村長、クネル、そしてミヤ以外はそれぞれの戻るべき場所へ戻っていった。
「行ってしまったんですね」
「……そうじゃ」
「彼女の決意は本物でしたよ」
「そうか……儂は、みんなはそんな事望んでおらんかったんじゃがな」
「分かった上で行ったんでしょう」
会話が途切れる。
空気が重く、時が流れるのが長く感じた。
「あの、サイト君」
ミヤが、沈黙を断ち切った。
「何でしょう、ミヤさん」
「これ、君宛にアルニカから。行く前に預かったんだ」
差し出されたのは二枚の便箋であった。
疑問を覚えながらも、開く。
『これを貴方が読んでいる頃には私は村にはいないでしょう。もしかしたらこの世からおさらばしているかも知れませんが。
まず最初に村のみんなには私を助けないでと言ってあります。なのでみんなが動かないことに対して怒らないでください。
それでは本題です。
私は今日主様に殺されます。どんな風に殺されるのか少し怖いです。そう、怖いです。
これは貴方の所為です。
私は考えました。貴方に言われた事の意味。確かに私は逃げていたと思います。
それで私思ったんです、現実から逃げるのではなく戦ってみようかと。
つまり私は主と戦います。勝てる見込みはありませんが。
これも貴方から見たら逃げでしょうか? けれどこれが弱い私の精一杯です。
せめて最後に自己満足でもいいから貴方を見返し、ニーンの事が重みになっているという認識を変えてもらおうと思います。
私はニーンが好きです。貴方には分からない思い出もたくさん作ってきました。
好きな人の事ですよ? 一生背負っていくくらい何ともありません。
と言ってもあと少しで死んでしまいますがね。
と、そろそろ所持している紙が尽きそうなので最後に伝えたいことを書かせてもらおうと思います。
……今更ながらに緊張しますね。
……それではいきます。
ありがとうございました、私の本音に気付かせてくれて。……本当にありがとうございました。
アルニカ・ウェルミン』
わがままだった。彼女の自己満足だけが詰まって、彼女しか満足しない結末を選んだ理由が記されていた。
それでもこれが、アルニカ・ウェルミンの本当の気持ちだった。
「……無意味じゃ……なかったんだな」
「えっ?」
言ったのは誰か。それを確認する時間はない。
手紙をミヤに押し付ける。
「えっ!? 何よ」
「読んでおいてください!!」
久澄は借宅に向かい走り出した。
辿り着き、立て掛けてある木刀を右手で掴む。
息も整えずに門へ向かう。これからのことを考えるとその方が都合がいい。
丁度手紙を読み終わったのか、皆が久澄の行おうとしていることに感づく。
まず最初に口を開いたのはクネルであった。
「ここは通さんぞ。アルニカの頼みだ」
「アルニカは村人と行ったんだ」
「前に言わなかったか? 俺の主観の話」
「それはあんたの考えだ。アルニカの考えじゃない」
そんな屁理屈に、一理あるとばかりに顔をしかめた。
「のぅ、サイト。あの娘は誰も犠牲にしたくない。その考えを汲んではくれないか」
今まで固く口を閉ざしていた村長が言った。考えは分かるが、
「汲めないですよ。俺はあいつをそそのかした責任がありますから。責任からは……逃げちゃいけないんです」
そう。アルニカにも言った。責任からは逃げちゃいけない。
そして一番の難所であろう方へ顔を向ける。
「ミヤさん、貴女も止めますか?」
「……止めないわ。あの子を、アルニカを救ってきて」
ダメ元の質問に一拍おいて、そんな無茶な答えを返してきた。
クネルや、あの村長までも驚きの声を上げる。
だが、
「了解しました。必ずあいつを救ってきます」
元からそのつもりだった。
「ふふっ、無責任なことを言うのね」
「無責任で結構。責任が無い方が楽ですから」
「……それもそうよね。ならサイト君、頼んだわ」
「行ってきます」
走り出す。その背中を止める者は居なかった。
心臓の音が手に取るように分かる。
どうしようもないほどに怖い。
「ニーン、少し借りるわね」
ニーンのお墓からミサンガを借りる。
(返せるかは分からないけれど……)
これで腕には二つのミサンガ。
もう一つは生前ニーンがミサンガのお返しに作ってくれたという物だ。
村長がニーンの部屋を片づけていた時にとある書きかけの手紙と一緒に見つけたらしい。
その手紙の内容から私の生誕祭の時に渡す予定だった物である。
ニーンが作ってくれたミサンガはところどころ編み方が間違っていた。
けれど恐怖の色は無かった。そこには確かな決意が宿っていた。
「私は生き残る。生き残って現実と向き合ってやる」
決意を声に出す。
アルニカはミサンガに込めた二つの願いを勇気とし、踏み出した。
踏み出された一歩は、力強いものであった。
巣の中は広かった。
それもそうだろう。この巣は主がこの地に腰を据えるために森世界一大きかった山をくり抜き作られた場所なのだから。
そしてその中に四つ足で地面に伏す巨大な影がいた。
主である。
その姿は空想の世界に出てくる龍そのもの。一切の光の入らない世界では見ることが叶わなかったが、その姿を覆う色は灰色。
そして元々はエメラルド色に輝いていた目は赤く染まり光っていた。
「主、来たわよ」
その声に鼓膜が破れそうなほどのを砲哮で返される。
主は、龍族は上位生命体だ。人の言葉を理解し、その言語に合わせることも出来る。
だからこそ訊く。
「主、何故ニーンを殺した。関係ない人間を何故殺した!!」
だがその声にすら先程と同じ砲哮で返した。
アルニカはそれを答える気が無いものと判断した。
現実がどうであれアルニカはそう判断した。
アルニカはカーディガンを翻し中に仕込まれた無数の木の枝の一つを主に向かって飛ばす。
戦いが始まった。
久澄は森の中を疾走していた。
一蹴りで十メートルは進む。
心臓は一定のリズムを刻んでいる。
ここまでくれば無理をする必要もないと感じていたためだ。
心臓に特殊な血液を宿しているとはいえ身体機能は普通である。
余り速く駆け、心臓が破裂するなんて間抜けを晒したくはない。それに今は一度しかない命である。
だから今は巡った血液の影響で十分である。
光が射さない森に辿り着く。
嫌な感じ−−氣−−は強くなったと認識してはいる。しかしそれは久澄の足を止める理由にならない。
久澄は一度体験したこの感じに対して何とも思っていない。客観的事実としてただ強くなったと認識しているだけで何とも思っていない。感情は動かされない。恐怖が無い。
もちろん、久澄にまとわりついているのはアルニカと同じ氣−−殺氣−−ではない。アルニカ同様殺意が混じっていた氣ならば久澄も恐怖を感じたであろう。それが足を止める理由にはなりえないが。
なので進むスピードは変わらず、一蹴り一蹴り、着実に巣へと向かっていた。
分かれ道。迷わず右を選択した。ニーンの墓とは逆方向。氣の大きさもこの森に入ったら何処も変わらない。
なら何故迷わず右を選択したのか。巣の場所は知らない。土地勘がないのに見ても意味はないと思い村長宅に居た時も地図帳は開かなかった。
だが鋭敏になった嗅覚は右側から確かな血の匂いを嗅ぎ取った。
(この濃さなら致死量ではない)
知っているかのような、いや、実際に致死量の出血を知っているからこそまだ大丈夫と思える。
だが、どうなるかは分からない。
久澄は一段階、蹴りの強さを上げる事にした。近づくにつれて、巨大な洞の中が久澄の目に明瞭となっていく。
そこには動かない二つの赤い光。そして――それに気付いたとき自然に地面を蹴っていた。人の限界を超えたはずの久澄の足の筋肉が悲鳴を上げるほどの跳躍。
アルニカは赤い光の真下に居た。片膝を付き負傷したのか左肩を右手で押さえている。かなり激しい動きを繰り返していたのか肩で息をしていた。
赤い光は動かないはずだ。すぐに殺せる位置にターゲットが居るのだから。
油断、ではない。あれほどの強者がそんな愚かな真似はしないだろう。
ならあの状態は今作られたものだと考えられる。
久澄の予想通り、ブレイクマスタードラゴンは首を動かした。アルニカを喰らうために。
その口がアルニカに届く前に久澄がアルニカの元に辿り着く。わきの下に手を差し込んで抱え、右足で限界まで下がった。
腕に抱える確かな命の重さに、彼にしては珍しく安心感を覚える。
「どうにか……間に合ったみたいだな」
久澄は静かな怒りを携え、『敵』であるドラゴンを見据える。
急に現れた久澄に対してアルニカは訝しむ様に怒鳴った。
「何でここに居るの! 邪魔しないでよ!!」
「命を救われたからな。俺はあんな所で死ぬわけにはいかなかっんだよ」
「そんなの理由にならないじゃない!」
「理由になるさ。さて、命の恩は命を救うことで返さないとな……それが押しつけがましくても、ただ死ぬのだけは駄目だ」
「あんたの価値観を押し付けないでよ」
「押し付けるよ。正しくなくても、今だけは」
言いながら、脇に刺し込んでいた手を彼女の背とふとももに回した。
アルニカを抱え、上から影を落とす巨大な腕の振り落しを右に跳んで躱す。
爆発的な広がりで波を寄せる風の圧に体躯を崩されながらも、砂礫の弾幕から彼女を守る。
着地をするも前に押す勢いは死なず滑っていく。重心を下にかけて制動する。
すぐさま目線を向け、後ろに跳躍した。
先ほど振り下ろされた腕が横薙に、地面を削りながら迫り来ている。
龍の腕の間合いから遠く離れたところでアルニカを下ろす。その際、左手てアルニカの右腕を掴んだ。
アルニカはダメージが抜けていないらしく降ろすと同時に膝を折ってへたり込んでしまっていた。
右腕の事は気付いていないのだろう、一瞥もくれない。
左手が触れているという事実にだけ、彼女は驚きに目を剥いた。
「この感覚……」
久澄はアルニカの言葉を耳にしながら主を窺う。それは空気を歪ませるほどの熱気を吐き出しながらこちらをねめつけていた。動く気配はない。
「こんな状況だから簡単にさせてもらうけど、俺の左手は生物の力を底上げする力を宿している……それで相談なんだが……俺が触れた瞬間に一番大きな魔法を打ってくれないか」
「ちょっと待って! 私は昨日、魔法を使おうとした瞬間にその左手に掴まれて気絶したんだけれど」
アルニカは焦ったように立ち上がり、昨日あった事実を述べた。
「それは途中だったからだと思う。魔法を使うには何か力を溜める必要があるんだろ? それを増幅してしまって昨日は倒れたんだ」
「触れられてから使えってことね」
「話しが早くて助かる。感覚には今慣れてくれ。その時になったら合図をする、その時に頼む」
「策はあるの? さっき貴方が言っていた通り相手はこの世界の主。私の魔法もダメージは与えられないわ」
「策は……戦いながら見つける。はっきり言って運任せだ」
アルニカはその言葉に呆れと怒りの混じった感情を生み出したが、それを言語化するのは意味が無いと考え発言しなかった。
「よし、じゃあ下がっていてくれ。左手で長い間触れていたからかなり回復しているだろうけれどまだ大人しくしていた方がいいからな」
「え?」
間の抜けた声と共にアルニカは自分の今の状態を見た。視覚した。
立ち上がっていた。膝を付く程の疲労感はものの数分で消えるものでは無いと。
それと左肩。抉れた傷は見えたままだが血は退き、痛みも消えている。その証拠に今は左肩を押さえるのを忘れている。
「生物の力を上げるからな。色々回復しているよ。再生もこの左手が宿すものの力だから」
「わ、わかったわ」
不思議そうに承諾し、背中を見せながらという愚行は犯さずに後ろに下がった。
その行動に今まで不気味な静寂を守っていたドラゴンが哮る。
(あくまでターゲットはアルニカって事か)
その事実を改めて確認し、久澄も怒りの言葉と共に吼えた。
「上等だ! この世界の主だかなんだか知らねえが、お前をぶっ飛ばして終わらせてやる!!」
二つの砲哮がぶつかり合う。
それが始まりとなり戦いの火蓋は切られた。
二度目の嵐が巻き起こる。
久澄は地面を蹴り出した。
一蹴りで四つ足で地に立つドラゴンの足横まで飛びその勢いを生かし木刀で一撃。
腹の底に響く重い音がしたが、
手応えを感じられなかった、どころか自分の手に軽いダメージを負ってしまう。
更にはブレイクマスタードラゴンの追撃が迫る。
手前右足を使った振り下ろし。
最短距離で届く攻撃も、その巨大から繰り出される愚鈍な攻撃では久澄相手には蛞蝓同然。難なくかわす。
しかし、その攻撃を受けた地面は無事では無かった。抉られ、陥没する。
視界の端でアルニカが左肩を押さえた。アルニカの左肩は、あの攻撃をかわし損ねた結果のようだ。
その姿を意識内に留め、次は顔へ飛んだ。しかし結果は変わらず。
久澄の着地と共にブレイクマスタードラゴンはその全身をぶつけにかかった。これをまたしても飛ぶ事で回避。
この戦いは基本それの繰り返しであった。
しかしどちらが有利と聞かれれば迷わずブレイクマスタードラゴンにいくだろう。
久澄は相手の弱点を探るように休みなく行動をするが、欠片のダメージも与えられない。
対してブレイクマスタードラゴンは攻撃されている間は休めるし、その巨体故遅い攻撃は久澄に当てることは出来なくとも目標に着実に近付くものだからだ。
(どうにかしないとこのみじゃジリ貧だな……)
自信の不利を自覚していた久澄は焦りを感じていた。
焦りは小さなミスを生み出す。
そして戦闘ではその小さなミスが戦況を左右することもある。
首を狙った跳躍。しかし、流石に繰り返せば予想はつけられるものなのか待ちかまえるように右手が迫っていた。
躱すことはできず、正面から受け止める。踏ん張りのきかない空中にて。
久澄は壁まで吹き飛ばされた。
轟音が鳴り響く。
アルニカその音の音源の方向を見る。
どうなっているかは見えない。
この場合はアルニカを責める事などは出来ないだろう。
光の差し込まない森の中にある大広間のような空間。その中でブレイクマスタードラゴンの目から漏れ出る光だけで全てを把握している久澄の目の方が異常なのだ。
だからというべきか。アルニカはブレイクマスタードラゴンの音無き接近に気付くことが出来なかった。
「え!?」
気付いたときには大きく開かれた口が目の前にあった。
−−死んだ。
この時アルニカはそう思った。走馬灯が流れる間もなく死ぬと。
しかし、久澄碎斗が横から弾丸のように飛び、ブレイクマスタードラゴンの顔に蹴りを入れ軌道をずらしたため、アルニカに死が訪れることは無かった。
「なっ、何で生きているのよ」
全身に生傷が刻まれ、血がぽたぽたと地面にしみを作る。それでも、生きていた。
彼が受けたのは掠っただけで肉を抉り、直撃すれば全てを砕く最攻の攻撃力。木刀を挟んだくらいじゃ死は免れない筈。
「俺が生きてちゃ悪いのかよ」
軽く言いつつ、先ほどの選択を反芻する。
風を抉り迫る腕。故にその勢いを利用した。
木刀を縦に構え、左腕で切っ先の方を押す。上へと射出するカタパルトのようにして、猪突する上半身を抑え入れ替えで下半身を出来うる限り前へと伸ばす。
それにより、衝撃を逸らす。残念ながら狙い通りにはいかず押し出され、壁やら地面やらを転がり回る羽目になったが、直撃を受けなかっただけ僥倖であった。
「移動するぞ。それに聞きたいことがある」
言いながら右手を背中に、左手を膝下回した。
傷は彼の態度以上に身体の芯まで侵食しているのか、さっきまで軽々としていた行為にも脂汗が滲んでいた。
それを怪訝な目で見つつ、アルニカはそれをわざわざ口にはしなかった。
「……なによ」
地面を蹴り。
「あいつは攻撃を受けているときよく分からないが行動を起こさないよな。それは、お前の時も同じか?」
アルニカは自身の戦闘を思い出す。
「……多分、動いてなかったと思う」
洞窟の端まで数足をかけて跳び、アルニカを降ろしその背を見る。
首を曲げ、こちらへ焦点を合わせていた。
そちらに注意を向けながら、久澄は頭の中に記憶したとある項目が載った何冊かの文献を紐解いていた。
「なあ、アルニカ。あのドラゴンは確かこの世界と契約する事で理という制約の加護を受けているんだよな」
急な質問に、しかしアルニカは持ち前の頭脳ですぐさま回答を返す。
「ええ、そうよ。そのため森世界で最攻の攻撃力と最硬の防御力を有しているわ」
「じゃあ、この世界の住人じゃない俺は、その理を受けないんじゃないか?」
「……いや、前例こそないけど、ないと思うわ。他世界、例えば氷世界の住人が来たらその人は此方の理の効果を受けるもの。たとえ世界が違っても、その強制力からは逃れられない」
久澄は先ほど受けた衝撃によるダメージをかんがみながら、アルニカの言葉を受ける。
「あなたの木刀は傷を負わせることが出来なかった。やはり影響を受けているんじゃないかしら」
「……それは、この木刀がこの世界の物だからだと思う」
「んー、都合がよすぎない?」
その言葉に久澄は肩を竦めた。
「俺もそう思う」
−−だけれど
「倒せるなら何だっていいさ」
−−そう、何だって利用してやる。
「そうね」
アルニカは呆れ気味に笑った。
「じゃあ、木刀は預かっててくれ」
ドラゴンはもう何メートルか先に迫っている。
久澄は駆けた。
先に攻撃を繰り出したのはブレイクマスタードラゴン。
通常ならば普通のひっかき。しかしそれを理が行うと、全てを抉る最攻の攻撃となる。
それを久澄は速さを一段階変え駆け抜けることでかわす。
右手を握り締め一撃。
重く低い音を響かせた攻撃に、ドラゴンが僅かに後退する。だが、
(かってえな!)
重低音に混じり久澄の右手からも軽い破砕音が。濡れた土の詰められたドラム缶を殴ったような手応え。彼の予想は大きく外れ、右手を失う。
「なっ!! あれは砲口」
アルニカがおののく様に叫ぶ。
ブレスという言葉の連想からドラゴンの口を見る。
口元に途轍もないスピードで青白い光が集まっているように見えた。
ドラゴンの焦点は敵である久澄に合わされている。だが久澄の後ろにはアルニカが居た。
其処からの久澄の行動は早かったと言っていい。
まず、一回のバックステップでアルニカの隣に行き突き飛ばした。自身も飛ぶが、アルニカを押したため必然か、地面を蹴ったために一瞬出るのが遅れた左足の脹ら脛が、放たれたブレスにより浅く焼き抉られた。痛みで受け身を取り損ねる。
「ちょ、大丈夫」
「あ、ああ。何だあれ……」
「龍族最大の攻撃。砲口。見てさっき私たちが居たところ」
言われ見る。
入り口とは逆側だった筈のその場所は抉られ、かなり先にあった壁は入り口と同じくらいの穴が出来ていた。
「凄いな……」
「ええ、まさか砲口まで使われると思わなかったわ」
余りの凄さに逆に頭が冷えた久澄は、あることを思い付いた。
「なあ、アルニカ。あのブレスってどう撃っているか知っているか?」
「知っているわ。体内エネルギーを口内に生み出し砲哮と共に撃ち出す。たしかこんなところ」
「……勝てるぞ」
「えっ!?」
「はっきり言ってこのまま戦えばこっちが倒される。ならあと数手で倒したいのが現状」
「そうね……って貴方何で自分に左手使っていないの!?」
「この左手は自身に効果を発揮しないんだ」
アルニカの疑問に対し、適当に答える。
「不便ね」
「オールマイティーでないだけさ。話が逸れたな。アルニカ、あと何本木の枝残っている」
打てば響くような会話の応酬にきりがないと感じ、本題へ無理矢理戻した。
「十五本」
アルニカは視線も動かさず、間も開けず断定した。
「お前の木の枝を飛ばす魔法は木の枝折っちゃっても使えるか」
だがそれに不信感を覚えることはなく、本題を足早に告げた。
「使えるわ。……貴方何を考えているの」
「あいつを倒す方法。なら出来る限り折っといてくれ」
理を倒す方法と言われ、先程までなら話すら聞かなかったであろうが、いい加減久澄の変則さには馴れてきていた。
「待って、策を教えてくれないと私も動きようがないのだけれど」
その言葉に、特に表情も動かさず、まるでそれが当たり前であるかの口調で説明を始めた。
「簡単さ、あいつがブレスを撃とうとしている時に左手をぶつける。アルニカには口に溜めている状態を維持してもらうために攻撃をぶつけててほしいんだ」
「そんな……無謀よ!」
「無謀じゃないさ。相手は龍族何だろ」
龍は空想上の『生物』だ。
「なら、俺の左手は力を上げることが出来る。暴走させることも出来る」
「……はあ、分かったわ。あんたもつくずくおかしいわね」
「二人称があんたになってるよ」
その言葉にアルニカは眉を吊り上げた。
「下らない揚げ足取ってるくらいならさっさと行ってきなさい」
背中を叩いてくる。
戦闘中のはずなのにそんなことをする。
無論、気を抜いているつもりはない。
けれど生きることを諦めていた昨日の彼女じゃ絶対に無かったことだ。
口の端が上がってしまう。
「叩かれたのに何にやけているのよ」
「……いや、別に」
変な誤解を招いたようだ。
なら此処で会話を続けているのは余りよろしくない。
駆け出す。左足に負担をかけないようにさっきまでよりはスピードを落として。
丁度ドラゴンも臨戦態勢に入った。
待っていた、訳ではない。
あれ程の力だ、反動が存在するのだろう。
ドラゴンの口の中が青白く光始める。
ブレスだ。
「アルニカ!!」
「分かってる!」
アルニカが放った木の枝が久澄の右スレスレを通りドラゴンへ着弾する。
それが飛ばされてからドラゴンに届くまでに光が一回り大きくなった。
(やはり発動準備が早い)
「速く進んで。数が持たないわ」
アルニカは十五本といった。あの短時間では二等分にしか出来ていなかったから、計三十本。
それを一秒にも満たない時間で撃ち出す。
なら、と右足で飛ぶことによって彼我の距離を一瞬で詰めた、が足りない。
この巨体だ。左手の力の効果が発動されるまでにタイムラグが生じる。
だからブレスが放たれる口まで飛ばなければならないのだが、
(どちらにしても間に合わない)
木の枝の発射数が二十を超えた。
そしてそれを見てあることを思い付いた。
「アルニカ、木刀!!」
それだけを告げ飛んだ。理解されたかは分からないが久澄には信じて飛ぶ事しか出来なかった。
左足が悲鳴を上げ苦悶の表情になる。
とそこで着弾音が消えた。その数三十。
ドラゴンの口が開かれる。
久澄は左手を動かしたばかり。
(伝わらなかったか)
思考は一瞬。超近距離でブレスが放たれる−−筈だった。
ブレイクマスタードラゴンの動きが止まる。
着弾音が聞こえた。見るまでもないアルニカが木刀を撃ち出したのだ。
魔法の効力を発揮させるための設定。そのための時間だった。
光の隙間を縫い、左手をドラゴンの口内にぶち込む。
左手の力が触れた相手を生物と認識し、その生物の力を整理し増大させる。絶妙なバランスの元、生み出されていた力はそのバランスを崩され、暴走を開始する。
ドラゴンの全身が硬直する。
その光景を見て久澄の頭にあったある仮説が確かなものだと確信する。
(やっぱりな。森世界最強の攻撃力と防御力だと矛盾しているじゃねぇか。破壊龍って名付けられているくらいだ、攻撃力の方が高いに決まっているだろうが)
そして全てを呑み込む光と共に、想像を絶する爆発が起こる。
その爆発が、この戦いの終わりを告げる音となった。
久澄は大きく吹き飛ばされた。左腕は黒く焼け、全身も無事であるところが無いくらいにボロボロである。
そんな彼をアルニカは受け止めた。何となく飛んでくるところが分かったからだ。
「ねぇ、あんた、大丈夫?」
一目見て大丈夫では無いのだが常套句として訊いた。
しかし答えは返ってこない。
「ねぇってば、起きてよ」
身体を揺する。しかし、反応は無い。それどころか息が無い。
「起きてよ、起きてってば」
次第に目尻に涙が浮かぶ。
「嫌だよ。私の所為でまた人が死ぬのは。私の目の前から居なくなるのは止めてよ。お願い目を覚ましてよ……碎斗!!」
初めてアルニカがその名を呼び、涙が久澄の頬に落ちる。
その瞬間、
「……ぐふぅ。ア、アルニカ、余り揺らさないでくれ。てか眩し!!」
まるで涙とアルニカの願いに答えるように久澄の息が吹き返した。
眩しいのは仕方が無い。ブレイクマスタードラゴンが倒れると同時に、不自然に重なり合っていた木々が自然な状態に戻り夕日の光が射し込んできたのだ。
そのためによく見えたのか、
「何でアルニカ泣いているんだ?」
何て言われる。
「泣いてません!!」
アルニカは否定の言葉を口にしたが、思いっ切り涙していた。
だが久澄は「ふぅ〜ん」と言ったきり口を閉ざした。
以前にもあった沈黙。しかしその時より暖かい空気が流れていた。
不意にアルニカの巻いていたミサンガが2つとも切れた。
ミサンガは切れると願い事が叶うという。一つにはニーンに返すという決意、もう一つには生きたいという願いが込められていた。
それが切れたという事は−−。
アルニカは心の中でニーンにお礼を言った。
一方、久澄は倒れたドラゴンを見ていた。
爆発の他にドラゴンには内部での力の暴走があったと予想できる。だから倒れたのだ。自分が生きている規模のものであれが倒れる筈が無い。
しかし生きている内にドラゴンが倒れている姿を見られるなんて夢にも思わなかったな何て、勝利の余韻もなく考えていたが、そんな風に浮かれも無く見ていたからこそ気付けたのであろう。
ドラゴンの口に小さい黒く塊が生みだれたことに。
アルニカは気付いていないようだ。
そして不思議なことにドラゴンの目は開かれていなかった。演技である様子はない。
ここで久澄は最大のミスをした。このことを気付いた時にアルニカにすぐさま伝えるべきだったのだ。
その結果は幸か不幸か。
ドラゴンの口から黒い塊が放たれた。アルニカに声をかける暇もなく黒い塊が見開かれた久澄の左目に着弾する。
「っ〜〜〜〜〜〜」
それに気付いたアルニカが声にならない悲鳴を上げる。
しかし、アルニカの悲鳴は遠くに聞こえる。多分気を失うのだろう。
考え通り意識は暗闇へと落ちていった。
気を失う直前その左目に左右どちらにも見える手がドラゴンの『ナニか』を掴んでいる様子が視えた。