蹂躙せし暴食、鎮魂の花は終わりを歌い
影が落ちる雪原の中、きらきらと舞うのは氷の残滓。砕け散った扉の破片は空気に溶けていく。
苹果の行った行動に、集は疑問を刺し込んだ。
「よいのですか?」
「いいのよ。あれはいても役には立たない」
苹果の瞳は冷たい色を帯びて上空を睨みつけていた。久澄へ先程まで向けていた関心は、すでに彼女の中では処理されているようだ。
「私たちは私たちのやるべきことやろう。あれは、魔物の中でもとびっきりの巨悪だ」
上空に浮かぶ巨大な蠅。手足の代わりに生える無数の触手は新たな獲物を探してびるびると蠢いている。
苹果は集へ腕を振るった。
氷の事象改変が久澄との戦いで負った傷をなかったことにする。
「さて、行きましょうか」
返す動作で敵に手を向け、氷の魔術を顕現させる。
線上に空中を駆ける氷は触手の一片に当たり、巨大な花を咲かせる。
しかし、その形は触手を侵す前に消え失せた。砕け散るでもなく、消失した。
蠅の複眼が苹果一人を捉える。――集は蠅の背にいた。
風を刃に纏わせ一突き。ぐにゅりとした腐肉の感触と共に刃は這入り込んでいく。だが、それだけ。
傷を負わせられた形跡もなく、触手の一本が集に向けて放たれる。忍刀は諦めてすぐさま背から飛び降り、着地の瞬間に下から風を吹き上げさせてクッションにして着地する。
追撃として来る幾つもの触手。颶風と成りて躱していく。
(きりがない)
続々と増やされていく触手にどんどん逃げ場を奪われ、焦燥感が募る。触手が触れたところはその材質を問わずに消えていく。汚い断面を晒していた。
触手の群れは徐々に集を追い込み、そして。
左腕を噛みつかれたような痛みが突き抜けた。触手が触れ、擦過傷ができる。
「ッ!!」
意識の一片に痛みが入り込む。停滞はないが、隙間を縫う繊細な動きが少し、ぶれる。
生物的な触手はその隙を逃すことなく迫る。
「……くそ」
せめて、この攻撃の正体だけは探ろうと無手に風をまとわせ対峙する。だが、集まる風が少ない。大気の成分の多くを占める窒素や酸素の量が減っているという証拠だ。
(万物を消失させる能力か……?)
思考が許されたのは、そう結論するまでだった。触手は視界を覆い、身体の全てを侵蝕しようとし。
――全てが糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
上から降る触手は風を受けて膨らんだスカートを想起させる湾曲した形で不自然に集の周りにこぼれていく。ぴくぴくと動くさまはミミズを思わせた。
地面が抉れていない。
さらに、臓腑の底に響く振動音。遅れて突き上げる振動が襲いかかり、暴風が雪を巻き込んで吹き荒れた。。
その風を操り、全身に纏わせる。
状況確認をしようと視線を巡らせる。が、それ早く、声がした。
「神を堕とすことにでも失敗した?」
淡々とした言葉。集の耳には醜悪な声音にしか聞こえない。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
背後、水仙蒔華がいた。
その前方に結神契の姿も現れる。
「と、まあ戯言を言っていられるような敵でもない」
「わかっているなら言うな。ただ、落としてくれたのは助かる」
苹果が最初の位置から動かずに二人に応じる。
「触手に触れるなよ、全部食い散らかされる。先程やってみた感じ、根元の肉ごと抉れば問題はないみたいだがな」
今、集を救ったのは苹果だったのだと理解する。あの不自然な形は、そういう風に弾いたからであろう。
「契、寧々を呼んできて」
「御意」
華の命に従って契が姿を消した。
「敵の正体に検討は?」
「ついているよ。あんまり驚いて――」
その言葉を遮って、金属をすり合わせたかの耳障りな羽音が三人の脳を打ち鳴らした。
正面。翼をはためかせて君臨する巨大な蠅が、ぐじゅぐじゅの断面を見せた穴から失われた触手を再生させ、蹂躙するべく襲い掛かった。
それぞれが独立した意思を持っているかのように動く触手は、お互いを避けながら三人に襲い掛かった。
苹果は事象改変で小規模の異空間を作って点と点で移動。集は先程得た風で隙間を縫い回避する。が、華にそのような移動方法はない。
故に、華は自らに迫る触手の根元に種を撃ち込み開花させる。肉はすぐさま壊死し、腐り落ちる。
三人の位置関係は、繋ぐとちょうど三角形になるもの。
頂点の苹果が氷の礫を無数に生み出し、数で押し切ろうと射出して腐った肉を抉りにかかる。弾幕に対して触手が鞭のようなしなりで壁となり、消失。
左側の点に華の魔術が振るわれ、腐った肉の塊である胴体に水仙の花が次々と咲き誇る。死んだ肉が自重に耐えきれずに欠片を落とす。効果は、表面にしか及んでいなかった。ただし、触手同様の再生は見られない。
地上を舐め回していた触手の動きが止まる。何度も繰り返されたことで偶然でなく必然と判断できる唯一の直接的な攻撃へ何かしらの感情、思考を得ているみたいだった。
その合間に契が寧々うを連れて現れた。曇天が降る雪原に黄金に似た髪の色は鮮烈だ。
予測を超えるであろう状況に、しかし寧々はあるがままに受け止めた。契が知りうる情報を耳打ちされていたのもあるが、まだ魔術界が正常な形を得ていた頃、苹果、華に次いで第三席の階位を得ていた実力は伊達ではない。
位置関係は四角形に。
寧々を置いて姿を消した契は蠅の背に現れ、拳を振るった。落とすために押し込むのではなく、内部に振動を伝えるためにインパクトと共に止める。
ぶよぶよの身体が波打ち振動が伝っていくのがわかった。しかし、反応はない。
あの蠅の身体には明確な芯は存在せず、それでも質量はあるということだ。
上空から銀の煌きが集めがけて飛んだ。受け取れば、それは残してきた忍刀だった。逆手で握り込み、広い間合いを意識した風の刃を上掛けする。
上昇気流を生み出し上空へ。触手は苹果の生み出す氷の粒の対応に追われている。
表面をそぎ落とす一撃。
べったりとこびりつく腐肉を風で落として返しの一閃。
小蠅程度でも鬱陶しくはなってきたのか、防御に回されていた触手の一部が三人に割かれる。
生まれる隙間。そこに刺し込んで苹果の炎の竜の群れが這い寄る。
触手に触れられたものはことごとく消失したが、数匹の竜は巧く掻い潜って胴体へ噛みついた。
燃え上がる。蠅の動きが止まり、焦げ付く腐乱臭が辺りに充満し始める。
つんざく悲鳴が空気の壁となって地形を蹂躙する。
舞い上がる雪や土の隙間から四人は臨戦体制のまま状況を窺う。
停滞していた触手が動き出し、胴体ごと燃え盛る炎を食らいつくした。
ぼとぼと、と炭化した肉がこぼれ落ちる。一向に大きさは変わらなかった。
「なんなのよ、あれ」
再度の疑問は、状況を傍観していた寧々から飛び出た。
答えは、苹果が持っている。泰然とした不気味さに警戒を強めながらその名を呼んだ。
「魔物と呼ばれる存在の中でも上位個体、〈暴食〉のベルゼブブだ」
ベルゼブブ。旧派が定める人間の抱える七大罪の暴食を司る悪魔。
「蠅の王……」
華が呟いた。地獄を治める魔王と同等、もしくはそれ以上と歌われる力の持ち主で、その姿から別名蠅の王とも呼ばれる。
神が存在する以上、観測外に神話上の生物が存在するのは予測されていた。
そのため、疑問が生じるのはそこではない。
「魔物って、なに?」
「説明を求めるのは些か呑気が過ぎるな。今はそういう存在がいると受け入れろ。知識なき者は無力。今はその事実だけが真理だ」
苹果の口調は冷淡なもの。
その対話の淡白さに寧々はこの協力関係の本質を掴んだ。あくまで勢力としては二分したまま、強大な敵の存在に一時的に協力しているだけだと。
ならば優先すべきは魔術界に属する華と契。苹果と無貌の面をつけた集は使い捨ての武具程度に位を下げた。
布陣は敵を囲う四角を保ち、華の対面に集を、寧々の対面に苹果を置き、契が二人を結ぶ線上の真ん中にいる。
ゆらり、と巨影が動く。不動だったベルゼブブが五人を睥睨する。
触手の位置を固め、まき散らすことを辞める。
その形から繰り出されるのは、槍の貫きに似た伸縮の、雨の如き乱撃だった。
線ではなく点に。
食い散らかす。
五人がやるべきことは一つ。触手に触れない。
苹果が氷の魔術で腐肉の存在そのものを改変して抉り取り、隙を見ては炎の魔術にて巨大な体躯を燃やしたり。
集が間隙を突いて颶風となり、上空にて切り刻んだり。
華が自身へ迫る触手の大本へ水仙の花を咲かせて壊死させたり。
契が偏在の移動方法で押し付ける触手から逃げおおせ、様々な打撃を加えたり。
寧々が錠の魔術にて触手の動きを司る神経系そのものを施錠したり。
消耗戦だった。
削る攻撃はまるで貝殻で海の水をすくう行為のような途方さを覚えさせられ、動きそのものを固定する施錠は内側から食い破る触手に無効化された。
ましてや、連戦の末のこれだ。
化け物級な苹果はともかくとして、無文言の契や集を初めとし、華や寧々にも魔力の底が見え始めてきた。
契は神の乖離が速まり、集は精密さが失われ、脇腹を食い破られた。
苹果の魔術で治されようと、失った血は意識を遠ざける。
せせり上がる血を吐き出し、霞む視界に敵を見る。
いつの間にか空には朱が差していた。それを覆う巨体は、歪さはあれど大きさに大した変化はない。その歪さだって、敵自身の自傷によって生じたものだ。
生き残るため、膝を折ったりはしないが。
心の方が先に折れてしまいそうに――
「否」
紡いだのは否定の言霊。活を入れなおす。
忍。それは刀の下に心を忍ばせるもの。刃は忠誠の証に、忍ばせた心は捧げる思いとして。
心が折れればその忠義は嘘偽りということとなってしまう。
刃が折れ、心が白日の下へさらされるのは忍ぶものとしてあってはならぬが。
誠を見失うのは権謀術数で蠢く密の者として己を失わせることと同義。
個をなくせば名に意味はあらず。
逆手に握った忍刀を握り込み、触手を掻い潜る。
それでも、終わりは刻一刻と迫る。
苹果は敵の脅威に心の奥底から焦りを感じる。
このままでは、いずれ全員削り取られる。
そうなれば次は全人類を食らいつくすだろう。
それは駄目だ、と苹果は思った。
たとえ虚ろだったとしても、救うという義務感が簡単に消えてなくなるわけではない。
ここが現在の地球で最高峰の実力者たちが集まった防衛線。
勝利方法があるとすれば、
「……」
応戦を続ける中でちらり、と契を窺う。
身体が無意味ならば、魂の方を傷つければいい。
魔物、それも神話を刻む神仏や悪魔は神格を持つ。だがそれは、結神や狩神が身に宿す神格とは異なるものだ。
〈神々〉とは異なる、偽り。
偽神である。そう断言し実証した者がいた。
それでも、神格保有者の戦いは存在の否定。。
神の子の神格を傷として内包する〈聖人〉を殺し、神格を簒奪する。そのことで魂の格を同等に。同じ土壌で真正面から削り合う。
「……」
その思案は、切り捨てた。
今求められる最善はそこではない。
偶然か、必然か。
最善へ至る代案が、ある。
「おい、結神契。〈空の操手〉を、アルニカ・ウェルミンを呼んで――」
「呼ばれました?」
金糸が雪原の上で舞う。
アルニカ・ウェルミン。
今まさに苹果が必要とした人物が虚空から現れた。
触手の動きが、止まる。
〈四方の巫女〉。絶望の系譜から芽吹いた魔王を殺すために生まれた少女たち。
その一片。
何故現れたかはわからない。だけど、
「やれ、アルニカ・ウェルミン!」
邪悪は来た瞬間から感じている。
〝空撃絶刀〟。
空気が刃となって蠅の王を斬り裂いた。その一撃は、魂にまで届く。
初めて、蠅の王が苦悶に呻くように身をよじった。
「他の奴らは下がれ。私とあいつで、押し切る」
集は苹果の背後まで行くと、力なく崩れ落ちた。華や契も寧々に押されてそこへ。契も限界を迎えていたらしく、膝を折った。
「何なの、一体」
目の前の光景に契が呆けた声を漏らす。
神殺しを技とする故か、目の前で起きている現象への理解ができてしまったのだろう。
人の身でありながら神に届く力。久澄飛鳥のそれとはまた別の、いや、魔術とは異なる概念。
魔術師であれば感じ取れる違和感があった。
ベルゼブブは撤退した四人に目もくれず、ひたすらにアルニカを追った。それを阻害して苹果が双の魔術を振るう。
刃は槍となり、弾丸となり、魂にひびを入れていく。
触手に触れてはいけないのは、空間認識で視た空白の生まれ方から理解している。
〝空間移動〟にて空間を自由自在に跳躍して躱し、追撃する。
それでもやがて、攻撃のリズムが読まれ、触手の壁に阻まれる。
戦闘から長く離れ過ぎていたせいか、動きにむらが生まれ始めていた。
瞬きや死角は〈空の操手〉の力で潰せるが、回避の動作の隙は埋められない。
触手の一本を皮切りに――脇腹、太もも、頬を食われた。
「ぁ……ぐぅあ……」
熱を伴った鋭い痛みに苦悶が胃の底から湧き出る。
四本目こそ躱したものの、先程の攻撃の成功で完全に動きの流れは捉えられたと考えるべきだ。染み付いた挙動はそうなかなか直せない。
傷は冷たさに攫われて消えた。苹果の魔術に思わず目を見張る。
(くっそ……分厚いな)
内心で歯噛みしながら回避を続ける。
初めて対峙する魔物。個人戦闘だったらと考えたらぞっとする。
ティラスメニアでは魔導星くらいの実力にまで上り詰めた、というのは驕りでもなんでもなく事実だ。それでも、予期されていた通り壁は厚い。
(このままじゃ、魔力切れに)
今まさに苹果を除く魔術師たちが陥っている状況を予見しながら、それでも攻めあぐねる。
あと一つ。あと一つが足りない。
アルニカ、そして苹果も同じことを思っていた。
そんな中で、声が生まれた。
「ねえ、苹果」
それは、かつてあった関係の中で投げられた言葉。
苹果の隣に立った華は、ただ淡々と言葉を紡いだ。
「あれの背中、開いて」
「……何故」
珍しく意表を突かれたような表情をした苹果は一拍を置いて返した。
しかし、それに応じることなく今度は集の元へ。
例えどんな状況でも折れることを許さぬ刃のような輝きと思いを瞳に宿しているのを見て、華は首肯した。
「風間集、わたしを、殺させてあげる」
その方法を耳に打つ。集は驚きで硬直した。
「華さん!?」
神は乖離しているためささやきの内容は聞こえていないが、それでも聞き逃せない内容に契が立ち上がる。
「契、運んで」
「殺させるって……あなた、何をするつもりですか!?」
「今まさにアルニカ・ウェルミンは戦っている」
肩口を抉られ、再び苹果の事象改変が飛ぶ。
状況は刻一刻と敗北へ歩みだしているのは、目に見て取れた。
「彼女の正体はわからないけど、それでも救われている状況。それでも、あと一つが足りない状況で大きな隙が作れるのは、わたしの魔術」
唯一蠅の王が反応を見せたのが、華の魔術だった。
その情景こそ見てはいないが、直接的に干渉できているのは華の魔術だけなのも知っている。
「じゃあ、今まで通りでいいじゃないですか! 隙を作るなら、寧々さんの魔術だって!!」
「無理。知られている。もっと大きなことが、必要」
「でも……でも!」
「ごめん」
その言葉が決定打だった。
二の句が継げなかった契は、俯いてこぼした。
「……謝らないで、くださいよ」
最後に華は、寧々の元へ。肩に手を置いた。
「寧々、任せた」
「……はい」
それだけだった。
それだけで、十二分なのだ。
空に踊る金髪の少女とそれを追いかける触手の群れ。
契が華を脇に抱え込んだ。
「紙を結んで神と契り、紙を千切って神と結ぶ」
契約の祝詞は結神契として。
結ばれた契約が強制破棄され、一時的に神殺しの権能を得る。
アルニカが回避を右横にし、触手がそれを追う。
「今」
呟きと共に。
三つの行動が起こった。
ベルゼブブの背に現れる巨大な氷の刃。断頭台のごとく落とされ、質量と鋭さで抉る。
一気で中ほどまで沈んだところで、破砕した。
舞い散る破片の中に現れる契と華。手を離されて二つくくりの髪が持ち上がる。
「ありがと」
回避のため消えようとした中で言葉を聞いた。心を貫く刃となって突き刺さる。
入れ替わりで上空へ出でた集は、逆手に握った刃の柄尻に左手をかぶせ、颶風となって突撃する。重力に従い落ちていく華を風をまとわせた刃にて押し込んだ。
恋焦がれていた感触は、温かで柔らかかった。
「わたしは、悪者でいられた?」
掠れた言葉に応じて、押す力を強める。
華は最奥まで這入り込んだ。
腐肉にまみれた集は、刃を置いて風と成る。一足遅く触手が食らいついた。体内からも湧き出始めている。
さあ、終わらせよう。因縁も、葬送の歌も。
「終わりなき鎮魂歌に、捧げる死の花束を」
蠅の王の体内から、幾つもの水仙の花が咲き誇った。
内側から死滅する感触に、流石の大悪魔にも挙動のずれが起きる。
旧友の最期の命の灯を目にしながら、苹果は叫ぶ。
「終わらせろ、アルニカ・ウェルミン!!」
ただ、その感情の波に押されるままに。
アルニカは両手を付きだした。
「〝空光噴射〟!!」
吹き荒れる虹色の嵐。束ね、一条の光に。
全霊を以て、〈暴食〉のベルゼブブの魂を貫いた。
姿を崩しながら、落ちる巨体。
大きな振動を伴ってそれは地に伏し。
反動で、煌きが中空を舞った。
誰もがその軌跡を追う。
暴食の傷跡深き場所に突き刺さる。銀の刃に貫かれていた一輪の花は散り、風の中に消えていった。




