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ファクターズ  作者: 綾埼空
六話 『今』を『未来』に繋ぐための戦い
124/131

「もう知らない、馬鹿」

 蠢動する巨大な蠅の手足である触手は触れた全てを消滅させた。食い散らかされ残った大地は宙に浮くエネルギーの循環が切れたことで瓦解していった。


 酸漿奈々美に何かしらの原因で残っているであろう誘神命は、落ちてこない。


 真下で見ていた久澄達にとってそれは、焦燥感として行動の推進力となるに十分な光景であった。


 目を見開き久澄が飛び出る。


 その機先を苹果が制した。


「何をするんだ!」


「何の力のないお前が行ってどうする。犬死するだけだぞ」


「俺にはこの力がある」


 胸の前に掲げた久澄の手の平に黒い球体が現出する。概念すら殺す力は、距離や身体能力を無視して対象に死をもたらす。


「その力がありながら、奈々美は救わなかったわけか」


 苹果は下衆を見る蔑みの目で久澄を眇めた。


 正論も正論。久澄は結局過去に縛られて、救えた命を救わなかった。


「そう言うが、お前も似たようなものだろ」


 久澄も食って掛かる。単純な実力だけならば、苹果の方が上だ。


「無論、そうだ。だが、お前も見たから躊躇したんだろ? 奈々美の感情を。……あの子の幸福と不幸を背負いきるという意味では、私は無力だ。平等な世界を救いとした私に、この世界で醜く抗い生きた軌跡を救いだったと言った奈々美は救えなかったさ。救おうとしても、抵抗されて私が殺してしまうことになる」


 だが、と苹果は立てた人差指を久澄の左手に突きつける。


「お前はこの世界で抗ってきた側の人間のはずだ。そしてその力には、何よりも強い強制力があった」


「俺が酸漿を殺したって話か? 損なことは百も承知だよ。だがなあ、それはお前があいつの死の責任から逃れているだけだろ!」


 糾弾する少年に頭を振る。


「そんなことは言っていない。私が言いたいのは、お前が自己の救いを押し付けるのではなく、相手の望む救いを選択した。その自覚があるかどうかだ」


 久澄は不快そうに眉をひそめた。言葉の真意を理解していない少年に嘆息する。


「今のお前はあやふやだ。そうあるべきという感情に縛られて動いている。それに、その力はまだ手が届きそうなあの化け物にではなく、もう一体――」


 苹果が上空を睨みつける。それを追うも、その先には先程の行動以来泰然を貫いている蠅の化け物がいるだけだ。


 それでも、言わんとするところは分かった。


 上空の大地にてひしひしと感じていた神聖な雰囲気の主。人間では決して触れることすらできないような感覚をもたらしたその根源にこそ、この力は使うべきだと彼女は言うのだ。


「二発、ある」


「あの存在に、一発で当たる確証はないだろ?」


 言葉が詰まる。≪死≫の力は設定した一つに絶対的な死を与えるものだが、それ故に必中ではない。


 それに、≪死≫を名乗るナニカと同じ雰囲気を発していたあれが同種の強制力のようなものを使わないとは考えられない。


「目の前にいる悪ではなく、その先の巨悪を見据えろ」


 一片たりとも言い返せない。大局を読んだ言葉であった。


 だが、理性と感情は違う。


「それでも、俺はあいつを!」


「あの分かり易い力の前では、お前は足手まといだ。お前の左手の力がもしあいつを貫いても、その刹那の反撃を躱せる自信はあるか? お前の感情が理解でいないわけでもない。それでも、やれることとやれないことがあるはずだ」


 改めて突きつけられる無力であることの意味。そんなことは今まで長い間痛感してきた。


 それを苹果がのうのうと言ったという事実に、久澄は牙を剥いた。


「何もかも奪っていったのはお前だろ! 循環の蛇も、精霊眼も……誘神だって!!」


「だからだ」


 今まで抑えられていた本音をぶつけられ、苹果はそう返す。


「奪われたのはお前が無力だからだ。誘神命を離したのはお前の意思だろう? それで私の行動を正当化するつもりはさらさらないがな」


 目を背けていた現実を叩きつけられ、少年は何も言えなくなる。


「お前にとって私は、打倒すべき巨悪のはずだ。だが、喪失に流されがらんどうになったお前は私の同伴を簡単に許諾した。問うぞ。例えどんな力があろうと、そんな府抜けた人間が戦場に赴いて何になる?」


「……うるせえな」


 ぽつり、と久澄はこぼす。心の奥に溜まったどす黒い感情がふつふつと溢れる。


「さっきお前は俺に従うって言ったよな。だったらぐだぐだのたまってないでに俺の言う通りにしろよ!」


「確かに、奈々美の笑顔の分はお前に従うと言った。だからこそ、お前を殺すわけにはいかない。自惚れるなよ。私の行動原理の中軸は久澄碎斗ではなく、酸漿奈々美だ」


 汚泥のような感情の発露にも眉一つ動かさずに苹果は淡々と応じる。


 苹果は腕を振るって、先ほど移動に使った氷のドアを生み出した。


「もし未練たらたらならば、取り戻して来い。瓦解した本社からここに来たということは、日本支部だろう」


 扉がひとりでに開く。その奥に広がっていたのは、見慣れた灰色建物の群であった。


(あいつから力を取り返す。いや、奪う、か)


 ティアハートとの再会自体、久澄にとって整理のついていない事柄だった。


 久澄から言いたいことがいくつもある。三年前の夏は、少なくとも彼の中では何も終わっていない。


「何かを得るために何かを切り捨てる、か……あのくそったれが好んでやってた方法だよ」


 夜霧新に飲まされ続けてきた辛酸を思い出す。胃の底に熱が宿った。


 そんな久澄へ、苹果は冷淡に告げる。


「綺麗事を実現するには力が必要だ。自分の信じる正義を行い、押し付けるだけの力が。無力なお前は、例え自己嫌悪にまみれようとも優先順位の高い方を選択するしかないだろう」


 久澄は俯き拳を握りしめた。血の流れが止まり、白く変色する。だが、それだけであった。


 爪がめり込んだ手の平から出血しないほど、その力は落ちている。


 三年前までの、普通の人間だった頃と変わらない。


 それで、何が救える。


「……すぐ、戻る」


 久澄は扉を通った。戦争の影響で無人になったMGR社日本栖部。


 目的地は一か所。一区に聳え立つ。


 曽於場所を睨みつけながら、少年は駆け出す。同時に、後ろで破砕音がした。


 勢いを片足で殺し身を翻す。砕け散った扉がキラキラと輝いていた。


 そんなことをしなくても消せるのに、久澄に気付かせるかのように分かり易く。


 吸血鬼としての力を取り戻したとしても空間は超越できないし、海を越える術もない。空を飛ぶ能力もなかった。


 ふらり、と久澄はその場に倒れ込んだ。天に向ける顔としては、余りに醜く歪んだ顔であった。











 から無事脱出した七人は、ぼんやりと足を止めその黒き塊を見上げていた。


 終わりは、気の抜けるようなものだった。劇的な結末を迎えるでもなく、当初の目的通り一人の命を奪った。一連の事情も知らないアルニカも、巨体の男が担ぐ死者と流れる空気からなんとなくの事情は察した。


「帰りましょうか」


 萌衣の言葉に皆がはっとし、現実に回帰する。


「お姉ちゃんと絵……中馬さんはどうするの?」


「冷夢が居なくなった今、この街に戻ってくるのもありかなって。三年前の吸血鬼事件を最後に大きな恐苛関連の事件がなくて、そろそろ専門家も廃業に追いやられそうだったし」


「わたしゃあそこの男がどこに冷夢さんを埋めるのかを知ってから出ていくさ。本家が出資を辞めた以上、余り関わりたい街じゃあないしね」


 頑なな態度を見せた萌衣に苦笑しながら答え、不変へ向く。


「で、あなたはこれからどこに?」


「預かりものとこの女を、届けに行くさ」


「残酷なことをするのですわね。あの縞髪に殺されても知らないですわよ」


 遮光性のアンブレラをくるくる回しながら静波が二人の会話に割り込んでだ。


「それはそれで、いいさ」


「なら、わたくしもつれてってくださいまし。もうしばらくは時間がありそうですし」


 何を考えているのかわからない意地汚い笑みに鼻を鳴らすも拒絶することなく不変は踵を返し、出口の門を見据える。


「全ては終わった。だから、お前らは真っ当に生きろ」


 そう言い残して、彼は歩き出した。絵里がそのあとについて行く。


 別れに対して、特別な感慨は湧かなかった。どんなに過酷な死線を共に乗り越えようとも、そこにあったのは利害関係のみ。


「じゃあ、私も帰りますね」


「おっと、途中までは一緒に帰りましょう」


 別れを告げて背を見せる渚を萌衣が止める。


「アルニカちゃんは」


「え、あ、私は自分の力で跳んでしまうのでここで」


「そうよね。便利な力ねえ」


 萌衣の言葉に微笑を浮かべつつ、アルニカは頭を下げた。


「それでは」


「うん。なんかとんでもないことに巻き込んでごめんね。事情説明は今度するから」


 萌衣、舞華、渚も去っていく。風に乗って「お姉ちゃん家に居候する気!? 学生寮だから無理だよ」という声が届いた。


 そしてアルニカは、じっとを見据えた。


 教科書に載っていた夜霧新の写真は記憶していた。久澄と因縁のある男に聞きたいことが一杯あった。


 だがそれは、人の最奥に封じられたつらい過去にずかずかと這入り込む行為である。


 アルニカも出逢ったばかりの少年に同じことをされたが、結果として救ってもらえた。


 だがアルニカには、結果的にでも救える可能性が見えなかった


「……」


 だから、それだけならばアルニカは見て見ぬふりをして帰ることができた。


 しかし、その傍らで優雅に佇んでいた鮮血のような髪の女性にアルニカは、久澄から漂うなにかと同じものを感じていた。或いは、彼女こそが久澄を縛る過去なのかもしれない、とも。


 この世界に来たばかりの夏の夕暮れに踏み込んで失敗した禁断の扉に触れることになると思いながら、アルニカはその感情に頭を悩ませていた。


 だってこれは、興味だから。久澄碎斗と言う少年を知りたいという、好奇心だから。


「……いや、駄目、だよね」


 自分に置き換えて考えた瞬間に、アルニカは嘆息した。


 支え合いながら生きるための方法はまだ別にある――


「アルニカ・ウェルミンさん」


 そう結論し魔法を使おうとした瞬間、鈴の音が鳴るみたいな声が正面からした。


 暗闇の中から浮かびでる豪奢な紅色のドレス。同色の髪が風になびき、練乳色の肌が西に傾く陽光に晒される。吸い込まれそうになるほど黒い瞳がアルニカの空色の瞳を射すくめる。


「初めまして、アルニカさん」


 再び名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。初対面のはずだ。


「まずは自己紹介を。(わたくし)は、ティアハート・オウススウィート・フィアブラッドムーン。たいそうな名前が付けられていますが、気軽にティアハートとお呼びくださいまし」


 スカートの裾を小さく上げ、軽く会釈する。


「な、なんで私の名前を……」


「ずっと我が君の中で見てきましたから」


 控えめな笑みを浮かべる。大人びた雰囲気とは裏腹に笑顔は幼い少女のような無垢さがあった。


「碎斗の、中、ですよね……?」


「ええ。ねえアルニカさん、アルニカ・ウェルミンさん、お話しませんか。我が君を過去に縛る存在と未来に歩ませた存在として」


 ティアハートからの接触は、アルニカにとって願ってもない状況である。


 だが、芽生えていた負い目が簡単に首を縦に振ることを良しとしない。


 困惑し焦る少女の様子を見て女性は自身の口元に手を当て、ふふふと声に出して笑った。


「大丈夫ですわよ。我が君が語ろうとしたがらない過去のお話はしませんわ。よっぽどこちらに来たばかりの頃のの件が堪えているのですわね」


「ううっ……」


 図星を吐かれて気まずげに呻く。この短いやり取りだけでもティアハートの性格が自自分より上位に立つものだと思い知らされる。決して嫌味っぽくないのが、アルニカの女性への認識を変えさせる。


 久澄を苦しめる過去の存在と自身から発露してきたこともあり、夜霧新と同等の恨みを向けられている相手と勘違いしていた。


 違う。ティアハートは、過去の久澄碎斗が守れなかった存在なのだ。自責の念に駆られているのは、それが自分の過失によって及ぼされたものだから。


「……」


 ニーンの存在を思い出した。手首で揺れるミサンガは、切れることがない贖いの証明だ。


 過去の思いは頭の片隅にしまい、ティアハートの言葉を熟考する。久澄の過去は知れなくとも、その根幹にかかわる女性の話が聞けるのは願ってもないことであった。


「それじゃあ、えっと、よろしくお願いします」


「はい、よろしくお願いしますわ」


 くるりと回ってアルニカの背後へ。ドレスの裾が膨らむ。


「こんな風情のない場所で立ち呆けてお話するのも品がないですし、歩きながらお話しましょう。久方振りの外ですので、色々なものを直に見てみたいですし」


 よくわからずに首を傾げるアルニカだったが、お願いした以上はついて行くしかない。


 無人の街を練り歩く。一区を抜けて二区へ。コンクリートジャングルを超えれば三区だった。


 太陽は水平線へ沈み始め、夕陽が最後の力を振り絞って空を燃やす。


 その間に交わされた言葉は、世間話のそれでしかなかった。建物や風景の所感、果ては学校での生活について。


 きらきらとした宝石でも見るかのように目を輝かせて聞かれれば、アルニカも無碍にはできない。


 そして今。立ち止まって夕陽を見つめるティアハートの目は、儚く揺れていた。


「……」


 そんな表情をする人間を、アルニカは知っている。


 似た髪色だから被るのだろうか。どうしても龍に挑んだニーンの姿に重なった。


「ごめんなさい。長らくつき合わせてしまって」


「い、いえ……」


 回顧の念に呆けていた意識を戻す。


 向かい合う二人の姿すらも夕陽は燃やす。互いだけが互いの表情を認識できる二人の世界。


「アルニカさんにとって、我が君はどのような存在ですか?」


「へ、碎斗ですか?」


 眉根を寄せて考える。うんうん、と唸って言葉をひねり出す。


 今までの彼を思い浮かべ、浮かぶ感情は一つだった。ならば、それを言い表す言葉は一つしかない。


「恩人、ですかね」


「そうですか」


 その答えに満足したのか、ティアハートはその話題を続けることはなかった。


 ティアハートが引き止めた理由は過去語りをすることではなく、アルニカ・ウェルミンと言う少女を実際に見聞きすること。知りたかったことは知れた。彼女は助成が思い浮かべていた通りの人物であった。


 だから、


「未来の話をしましょうか」


 唾を飲み込み身構える少女に微笑みかけ、そう切り出した。


「私は、私にはできなかったことを貴女にお願いしようと思います。未来を作った、貴女に」


「あの、先程から未来を作るって……そんな大それたことしましたっけ、私?」


「ええ。だからこそ救われた命が、たくさんある。その中には、我が君もいますわ」


 どう思い返してもアルニカには身に覚えもなかった。ただ救われ続けてきただけだ。


 そしてあの踏み込み過ぎた夕暮れの日からは、関係もなあなあで空中に漂っている。それは多分、彼が自分をティラスメニアに返すことができないという負い目を感じているからでもある。お互いにお互いへ遠慮があるから、踏み込めない。


 その全てを見てきた(、、、、)からこそ、ティアハートは語る。


「……我が君は歪なのですわ。壊した私が言うのもなんですが、酷く、歪み切っている」


 ティアハートの瞳は、何を映しているのか。何を、見てきたのか。


「私を救おうとして奮闘して、失敗に終わった三年前の夏は、我が君の心を壊すに十分な経験でしたわ。純粋無垢な正義感にひびを入れるには、十分すぎる出来事だった」


 或いは抱いていた英雄幻想。そう付け加えた。


 綺麗な正義感は、救いたい人を傷つけはしない。こぼれる涙を掬って、自分の背の後ろで守ってしまう。アルニカ自身がそう言う救われ方をしなかったため、ティアハートの言葉は深く理解できた。


「二年前にも似たようなことがありましたの。目の前で、大事な人を守れなかった。それが決定打でしたわ。砕け散った心は、正しさを歪ませた」


 悲愴そうな面持ちで語る。それを見てきただろうことが、アルニカには少し、羨ましかった。


 その空気を感じ、その時彼が何を思っていたのか。それを知れない以上、久澄とアルニカの間には絶対に超えられない壁がある。


 女性は夕陽に手をかざし、続ける。


「我が君は、誰も信じられませんの。多くの人に裏切られてきましたわ……私にも……。そして自分自身すら。正しくあり続けなければならないという実像の伴わない幻想に憑りつかれているから、誰のためにもなれなかった自分を信用できない。二年前から、ただの一度だって誰かに事の中核を任せたことはないんですのよ。いつだって、無理矢理にでも事の中心に介入した」 


 知ってますでしょう、と問われてアルニカは息を呑んだ。


「……ええ、知ってます。嫌なくらいに」


 生贄としての運命から救われたときだって、ユーキとの戦いのときだって、魔王との戦いのときだって。闇ギルドの戦争の時ですら、囚われた自分アルニカを救おうと危ない橋を渡ってくれたらしいとユーディから聞いた。この世界に来てからだって、奈々美とのいざこざのときも真っ先に逃がしてくれた。


 共に立ち向かおうとは、しなかった。


「復讐と救いのためには力が必要。だが、どう足掻いても人間でしかない自分に限界を感じた我が君は、自分を切り捨てることで力としましたの。誰も信用できない我が君に他の人に頼るなんて発想は浮かびませんわ。自分自身は、それこそ使い捨ての道具程度にしか思っていませんでしたの……誰よりも生きることに執着していたくせに、自分の中に納得があるなら誰かのために命を捨てることさえ厭わない、自己矛盾の塊ですの」


 幾つも見て来た。龍に真正面から挑んだり、腕を切り落としたり。何かを得るための代償として自分を切り捨て続けてきた。彼女の知らないところでも、たくさんあった。


「けど、そんな生き方に転機が生まれましたの。始まりは、貴女に出逢ったことですわ。罪の贖いを自罰とした、過去の自分も行おうとした行為を行おうとする、少女に。それを逃げと糾弾しながら、一方で羨望をしていた。結局彼は、手首の上に置いた刃は引けなかったから。だからこそ自分の正義を押し付けた。それは本当の正義なんかじゃなくてエゴ――だけど、救えた」


 語られる言葉の中身は久澄の過去に触れ、それはとても重いものだ。あの出来事の裏に秘められていた心情を知り、どこか英雄視していた幻想が壊れた。が、同時にどこかほっとしていたりもした。


 彼は自分を救うために(アルニカ)を救った。それは、当たり前のことなのだから。


 少年がきちんと人間である。心が壊れても人間の心を持っている。だからこそ、ぼろぼろになって倒れてしまう前に横で支えてあげなければならない。そう思う。


「碎斗が碎斗の言葉で、自分のために誰かを助けてあげることができるのなら、それはとてもいいことだと思います」


「そうね、私もそう思うわ。まだまだ壊れている部分はありますけれど、自分を持って誰かを救う。それは英雄幻想を抱くよりより人間らしいですわ」


 女性は言葉の軌道を戻す。


「救えた。そのことで我が君には迷いが出てきましたわ。本質は傷つけることより守ること。力をつけるにつれて、自分の思い描く復讐への距離が遠いことも知り、自分が憧れる強さの方向性との差異に苦しみもした」


 だけど、とティアハートは微笑む。


「あの世界で変化できたのは、全ては貴女を救え、そしてあの時引き留めてくれたからですわ」


「あの時?」


「貴女の生誕祭。我が君は自分の戦った理由と周りの反応との違いに迷っていましたわ。あの姦しいお方もまた色々と尽力くださいましたが、それでいい、と思わせてくれたのは貴女の手の温かみと笑顔なんですわよ」


 姦しいで思い浮かぶのがミヤだけなので苦笑していたら、まさかの言葉に表情が固まる。当時は自然とやったが、他人から客観的に言われてしまうと頭に血が上る。


 だが、ティアハートの表情が真剣なものに移り変わる。つられて強張る。


「だから、我が君の未来を作ったのは、貴女」


「……」


 知ってしまったから、それはとても重い言葉だった。


「そして今、我が君を救えるのも、貴女」


「碎斗がどうかしたんですか!?」


「彼は今起きている戦争の場で自分のエゴではなく、本人が望む救いを選んだ。その救いの方法が、死であることを知りながら」


「……その人は……」


 頬に冷たい汗が伝う。嫌な予感がした。久澄が自分の本心を曲げてまで救わないことを選ぶほど深い共感を覚えている相手。


 その姿が脳裏に滲みだす前に、ティアハートは淡々と告げた。


「酸漿奈々美と言う名に、覚えはあるでしょう」


「…………え」


 言葉が脳内に溶け込むのに、少しの時間を要した。


 学校の手配をしてもらうまで、同室で過ごした仲だ。たった一ヶ月でも色々と知り、知られた。


 家事はできないことを知った。勉強をすぐにサボり押し付けてくるのを知った。そして、女性なら来る月一回のものが、彼女にはなかったことも知ってしまった。


 そして、奈々美は知っていた。彼女の能力が、この世界に由来するものではないことを。


 お互いの秘密に触れぬまま、それでもやれた生活。


 ぽっかりと穴の開く感覚がアルニカを襲う。くずおれることがないのは、きっと物心つく前から共に過ごしていたニーンの死を抱えているからだろう。


 慣れた、とは思いたくない。徐々に刺す痛みが胸の奥で暴れまわる。


 痛い。そう思えた。まだすり切れていない証拠。


 ぐっと耐えて、アルニカは震えた声で言葉を紡ぐ。


「……それで、碎斗はどこに?」


「この街に帰ってきていますわ。あの人は我が君の変化に感づいていたから、そうしているはず。なら、貴女の力を使えばわかるでしょう?」


 アルニカは早急に空間認識を広げる。見るのではなく、感じる。俯瞰した場景が脳で直接展開する。


 久澄の姿は、すぐ近くの四区の路上に在った。


「ティアハートさん」


「頼みますわよ」


「はい」


 アルニカが空間移動で姿を消す。


 独りになったティアハートは、半ば沈み水平線上で最後の輝きを灯す太陽をその目に刻み込む。


 その燃え上がりが消えれば、夜。人外たちの世界。


 日の光が失われた漆黒の空には白き月の威光が燦然と広がる。


 仰ぎ見ては眩しそうに目を細め、ティアハートは天に手を振るった。


 途端、月の色が様変わりする。紅く紅く、とろけ落ちてしまいそうなほど濃厚な鮮血の色に。


 恐苛最強種、吸血鬼。吸血鬼の姫、ティアハート・オウススウィート・フィアブラッドムーン。


 誰もが傅き、誰もが欲する孤高にして絶対の力を顕した女性は、半月のような笑みを不敵に刻む。


 そして彼女は、四区へ続く道を歩き出した。







 四区の路上で久澄はうなだれていた。どれくらいの時間が経ったのか。日はまさに今消えかかろうとしていた。


 あの時もそうだったと二年前に冬を思い出し、重く息を吐き出す。


 もう、どうでもよかった。自分の中で成立していた正しさは失われ、前に進む為の力もない。


 ティアハートは生きていて、新と共に行った。ならば、その復讐心は見当外れのものだったのだ。


 命は目の前で死んでいった。守り切ることはできず、立ち向かう力は手の平からこぼれ落ちていった。突き立てる拳がないのなら、復讐心など意味のない愚者の感情だ。


 生きる目的が瓦解した。じゃあ、なぜ生きている。


 それは、己の手首に置いた刃を引けないからだ。なら、誰かが殺してくれるのを待つか。無理だろう。


「生き死になんて生死の選択の時に好ぬことを選択するか、死ねないかの二択だろ? 手首の上にナイフを置いて引ききれたら死ねる。引き切ることができなかったら黙って生きる。そんなものだ。そう思わないか?」


「碎斗……」


「久しぶりだな、アルニカ」


 久方ぶりの再開。それは、最悪の状態でのものであった。


 ぐずぐずに腐った色を宿した瞳がアルニカに向く。


 その姿があまりに醜悪で、痛々しくて少女は目を逸らす。


 それは、久澄碎斗を英雄視する幻想があったからだろう。ちっぽけで弱いからこそ、化け物的であろうとした人間だというのに。


「どうしたんだ?」


 少年は嗤った。へらへら、へらへらと壊れたように。


 その様子に気圧されながらアルニカはおどおどと口にする。


「奈々美ちゃんが死んだって聞いて、それで……」


「ああ、そうだな。酸漿は死んだ。俺が、殺した」


 否定の言葉は紡げなかった。そう言う選択をした以上、そこには責任が伴う。


 アルニカが黙っていると、久澄は何かを思い出したかのような声を出した。


「ああそうだ、お前も戦争の舞台になった国くらい知っているだろ。あそこに出たぜ、魔物が。あれは多分、外側にある世界の魔物だろうよ」


 淡々と告げられた言葉。普通なら突拍子もないと思うだろうが、思い当たることがある。


「あの羽音……」


「どういう原理や理由なのかは知らないけどよ、こっちと向こうの境界線が曖昧になってるみたいだ。そこまでの環境ならお前、ティラスメニアに帰れるだろ?」


「なにを……言ってるの?」


「俺をこっちの世界に返してくれたことは感謝している。だけど、お前は向こうの世界の住人だろ。元の世界に帰った方がいい」


「別に、そんなことはないよ。こっちの世界でもいろいろな人と出会った。もちろん、向こうの世界に残してきたものは多いよ。だからって、あの時碎斗と一緒に跳んだことに公開があるわけじゃない」


「それでも、帰れるなら帰った方がいい。だって、お前は向こうの世界の住人だ」


「勝手に決めつけないでよ!」


 ぷつり、とアルニカの中で切れる音がした。


「じゃあなに、碎斗が向こうで行ったこと、私がこっちで得たもの。その全てをなかったことにしなきゃいけないの!?」


 アルニカの怒りの剣幕に呑み込まれ久澄は何も言えない。


「過去はなかったことにはできない。それくらい知ってるでしょ! だから後悔しないために今を精一杯生きているんだ!!」


 ああ、とアルニカは思う。気付いてしまった。ティアハートが何を見聞きして自分に頼み込んだのかを。


 だけど、これは救えない。救いたく、なかった。


「ようやくわかったよ。碎斗が、お前が奈々美ちゃんに自分の救いを押し付けられなかった理由が。驕っているからよ。力をつけた。色々な人を救ってこれた。だからこそ、自分の中の正しさを見失った。決して自分が傷付かないような当たり前の救いに流された。それじゃあ、奈々美ちゃんは救えなかったんだ」


 苦しくもそれは、雪の大地で苹果に告げられたのと同じ事であった。


「予想してあげるよ、奈々美ちゃんがどんな感情で死を選んだか。幸せだったんでしょう? だからそもそも、生きることを望んでいなかった」


 久澄は驚きに目を見開く。


 少女は、少年の胸倉に掴みかかった。


「だけど、お前はどうしたかった? お前は、どうしたかったんだよ!!」


 問われた久澄は、


「……」


 答えることはなかった。


 口を一文字に結んで、回答自体を拒否する。


 アルニカは胸元から手を離す。奥歯を噛み締めて、うなだれた。


「そういう道だってあったんだ。私の時みたいに、傷ついて傷つけて、それでもお互いに生きる道だってあったんだ」


 ぽろぽろ、と地面に雫が落ちていく。


 弱々しい拳で久澄の胸板を何度も殴る。


「なんで……なんであんたは泣いてないのよ。悲しく、ないの? 友達が、死んだんだよ」


「悲しくないんだ」


 言った瞬間――頬に衝撃が走った。空白の意識がまず見たのは、振り抜かれた小さな手だった。


 正面に視線を戻せば、涙目で睨みつけられているのを知る。空色の瞳が、揺らいでいた。


「もう知らない、馬鹿」


 アルニカの姿が消える。多分、あの魔物の所だ。


 ひりひりと痛む頬を撫で、鼻で笑った。


 気付けば夜。独り立ち尽くす姿はさぞ滑稽に映るだろう。


 空を仰ぐと、月が鮮血を思わせる紅みを帯びている。視線を走らせれば、それを起こした主がすぐ近くにいた。


「こっ酷くやられましたわね」


「やっぱりお前の差し金かよ、ティアハート」


 闇夜に二人。月は紅。


 三年前の夏と、同じだった。

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