流転、足止め、語り始め
血色の空だった。太陽と月が紅く染まり、極点以外の全ての場所が紅く紅く照らされていた。
新R帝国の寒空の下、対峙する五人。交戦必死の事態はしかし、それ(、、)が現れたことで停滞を向かえた。
ティアハート・オウススウィート・フィアブラッドムーン。
今の久澄碎斗の始まりである女性。少年がその手で殺したはずの、原罪の象徴であった。はず、だったのに。
「なんでお前がここにいるんだ!!」
漆黒の瞳が久澄を射すくめる。紅髪がなびくたびに鼻腔をくすぐる柑橘の香りが、一々胸の痛みを強めていく。
少年は右手を握りしめ、立ち上がる。
女性は慈愛に満ちた笑みを浮かべろも久澄の問いには答えない。
「久方振りだから、力の調整が難しいわね」
ティアハート髪を梳きながら嘆息すると、途端に血の色が陰り、太陽が元の輝きを取り戻した。久澄達から見えないだけで、月にも同様の現象が起きていた。
「暑いですわね」
手でひさしを作って太陽を睨みつける。そのまま女性は新に言葉を向ける。
「では行きましょうか。要件があるからこそ、施した封印を解いたのでしょう」
「おい、待て! お前は、お前らはいったい何を考えているんだ!!」
久澄がティアハートに向けて手を伸ばす。しかしその行く手を、立ち上がる炎の壁が遮った。紅蓮の色は、苹果のではない。
「もういいだろ」
向こう側から、新の声が聞こえた。久澄の動きが止まる
「アルニカ・ウェルミンの奪還。久澄飛鳥の救出。〈犠牲児〉計画の妨害。そして、この戦争への参加。全て、見逃してきた。だから、もう満足だろ」
轟々と燃え上がる熱が肌を焼く。
「盤面に君の役割はもうない」
「どけ、久澄碎斗」
苹果の声に反応し、手を引っ込める。炎の壁が凍り付き、砕けた。
しかしその先には、もうティアハートたちの姿はない。
「くそ!」
「悪態ついている暇はない。上だ」
視線を上げる。先程の炎がうねりを持って迫ってきていた。
右足で地面を蹴り、左に躱す。だが、動きが鈍い。
「ッ!」
地面に食らいついた炎は放射状に広がる。
這いずる猛火。それには上空に狙いをつけていた苹果も、足場の対応に追われる。
今にも久澄の足を燃やそうとしたところで凍り、勢いが止まる。
対応を終えた頃には、上空に逃げていた三人の姿は消えていた。
「逃がしたか」
「……ああ」
久澄は先程の自分の動きを反芻した。
「九氷火。今の俺の瞳は何色だ?」
「黒色だが」
「やっぱ、そうか」
苹果の言葉で推察が核心に変わる。その力を解いたつもりは、ないのに。
「吸血鬼としての力を失ったのか」
彼の力の全ては、封じられていたティアハートによるものだったらしい。残りだけでは、常人より少々五感が鋭くなるだけ。
「……よし」
意気消沈していても仕方がないと意識を切り替える。
「取り敢えず、誘神を探しに行こう」
「お前がそう言うなら、そうしよう。で、どっちの方角だ?」
「ん? ここがどの方角なのかわからないから、右側って感じかな」
苹果が腕を振るう。目の前に氷の扉が出来上がった。
「距離を改変した。この国は広いうえに、ただでさえこれがあって迂回する羽目になるんだ」
指差すのは、真横で深淵を覗かせる巨大な穴。
久澄は肩を竦め、ひとりでに開き始めた扉に入った。
代わり映えのしない雪の風景だが、がらんどうな穴への向きや距離から目的の方角だと分かった。
後から苹果も現れ、扉は消える。
何を言い交わすでもなく、捜索を始める。二手に分かれることはなかった。二手に分かれた方がいいのは理解しているが、久澄としてはそちらの方が都合はよかった。今の彼は戦闘能力を失っているし、何より苹果を信用していない。
歩きながら久澄は頭上を指差した。目線は前を向いたままだ。
「なあ、あれはいつ落ちるんだ?」
「さあ? お前の循環の蛇をウロボロスに仕立てて一の力を百に増幅させて循環させることで宙に浮かせているからな。供給が必要ない以上、物理的に崩すしかない」
苹果も視線を前に定め、動かすことはなかった。
その後しばらく無言の捜索をしていたが、命の姿は見当たらなかった。白の中に黒の少女は酷く目立つはずだが、
「上に置いていかれた可能性はないのか?」
「考えにくいだろ。あの大地は綺麗な円で、樹は中心部に現れた。淵まで飛ばされた俺より体重の軽いあいつが落ちてないとは思えないな」
「そうか……」
そう言うと苹果は久澄から目を逸らした。
「ん?」
何かへの気付きが混じった苹果の声に久澄はその目線を追って真後ろを向く。
だがその先にあるのは真っ白な雪原と森林の群。目を細めてもピントが変わることはない。そのことに舌を打つ。
循環の蛇に精霊眼、そして吸血鬼としての力。短期間で多くの力を失いすぎた。いかに久澄であろうと苛立ちは心中で大きく膨れ上がっていた。
「何が見えているんだ?」
「既知の人間だよ。お互いのな」
それで彼女の瞳に誰が映っているのかを察する。彼が近づけば、ところどころ破けた保護色のボディースーツから覗く肌色が久澄の目にも映った。無表情で形作られた面をつけた少年は、
「風間」
「やー、クズミン。それに主様も、彼とご一緒だったのですね」
「ああ」
集は久澄と目を合わせようとしない。
だから、少年は自ら動いて忍の正面に立った。
「よお、ご挨拶じゃねえか、風間」
「……やー、あんな目に合されてまともに対話しようってやつがいると思うか?」
「俺はお前にさらわれた挙句、出会い頭に殺されかけたんだが?」
「やー、頭おかしいな」
「大概言われるよ」
肩を竦める久澄に集は鼻を鳴らし、仮面を外す。壊れた関係はそのままでも二人には鵜足の間で築いてきたものがあった。
「そういや、助かったよ。俺が落ちた時クッション作ってくれたのお前だろ?」
「ああ。酸漿の最期の頼みだったからな。流石に聞かない訳にはいかなかったよ」
「そうか……」
口の中の鉄臭さはこびりついてまだ匂う。だから顔をしかめたのは、つんと刺す香りのせいだ。
言い訳じみたそんな感傷に気付き、自嘲の笑みを浮かべる。
そんな久澄を見て、集は苹果に視線を戻した。
「それで主様、計画の推移は?」
「悪い。失敗したよ」
彼女はごまかすことなく即答した。糾弾は甘んじて受けるつもりだという意思の表れだった。
「そうですか……では、これからどうされるのですか?
だからその問いは、苹果の思考に一瞬の空白を生んだ。
「どうしました?」
「なんで……お前も……」
奈々美もそうだった。彼らが胸の内にくすぶらせていた復讐の種は、彼ら個人では起爆されることができないものであった。火種を渡したのは、苹果だ。
計画成就のための手足を求めて、科学に与することがない人物で、かつ魔術師にも恨みを持つ人物を集めた。
もし苹果が手を伸ばさなければ、集が全世界の敵になることもなく、壬生が死ぬこともなく、奈々美が一人あの場に残ることもなかった。
自分の力なら、楽園を作れると思っていた。だがそのための権能は簒奪され、そもそも誰かを救うにはあまりにも自分が空虚な人間だと痛感させられたばかりだ。
なのに奈々美は言った。大丈夫だと。新しい、楽園のような世界なんてくそったれだと。
壬生は本懐を遂げられなかったにもかかわらず、満足そうに散っていった。
集は失敗を知りながら、それでも彼女に付き従うという。
「なんでお前は、私なんかに……」
「一蓮托生ってやつですよ、主様。風魔の忍は、忠誠を誓いし御方の刃となる」
集の瞼が刃のような鋭さに細められる。瞳に宿るのは鈍色の輝きのそれと同じであった。膝を折り、傅かれた。
(そうか……)
その姿を見て、ようやく奈々美の言った言葉を実感として理解した。
(私は、こいつらの魂を預かっていたんだな)
悪意や大局を見据えた策略により歪められた魂の拠り所と彼女はなっていたのだ。
それに気付かなかったから、奈々美の救いは久澄碎斗によるものであった。
左目の空虚さは増すばかりだった。それでも、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「何もかもを失敗した。多くの犠牲も出してきた。だけど、わざわざ捕まるのは時間の無駄だ。……どこかへ行こう。世界を俯瞰して見られる、どこかへ」
道化師を殺して神殺しの権能を奪う気力はなかった。遠く広い世界を見つめてみたくなっていた。
「だがまあその前に、遺骸は回収してやろう。狩神と奈々美のを」
そこでようやく苹果は上空にそびえる大地を仰いだ。
久澄は彼女の動作から目を背けた。
集の方へもう一度視線を合わせた。彼らがどこへ行こうと久澄には関係なかったが、聞いとかなければならないことがあった。
「なあ、風間」
「やー、なんだよクズミン」
「誘神は見なかったか? 俺より先にこっちの方面に落ちていったはずなんだが。ドンピシャで俺に風のクッションを送れたのは、ここら一帯を一望できる場所にいたからだろ?」
セフィロトの樹による防風は突発的な事故のようなものだ。集が久澄の落ちてくる場所を知っていたわけがない。奈々美がサインを送っている様子はなかった。
「いや、落ちてきたのはクズミンと主様だけだったが?」
眉をひそめる集の表情からは、虚偽や見落としの色は感じられない。
ぐるり、と現実の認識が揺らぐ。ふらついた彼を心配する声も遠かった。
集の言うことが事実なら何かしらの理由で命は上の大地から落ちなかったことになる。
刃を食いしばり久澄も苹果に倣おうとしたその時、彼女が声を発した。
「おい、あれは何だ」
苹果は依然顔を上げたまま。その視線を二人は追う。
空が、赤かった。――いや、違う。あれはまるで元の青い空の色に赤い景色が被さっているかのよう。
混じり合わない空の色。歪に同居する赤は、久澄でも目を凝らせばその風景が窺い知れた。
一面赤の大地だった。風化したくすんだ赤の岩石が風に撫でられ砂塵を舞わせる不毛の地。
苹果が知らないという現象。ならばそれは、神を降ろす儀式による作用ではないということ。或いは、想定外の副作用なのか。
三人はそれを見続けるしかない。理解できないことは脅威となる。
天が硝子のように割れたのは、その数秒後のことであった。
それに最初に気が付いたのは誰だっただろうか。
音もなく破砕した空を見たのは、久澄達だけではなかった。
イヴァンが華を招いた客室。一角には降伏を宣言した老執事と妙齢のメイド達が銃口を向けられながらもだれ一人欠けることなく立たされ、線上の逆の角には手足を打たれて止血処置をされたイヴァンが転がっていた。無論、鉄を吐き出す口は向けられている。
ソファーに座り起立する兵士たちと今後の道筋を話し合っていた華が知ったのは、ドアを吹き飛ばす勢いで入ってきた同胞の一人の報告によるものであった。
「華さん、空が……空が!!」
その焦り様に華は真意を問いただす前に立ち上がった。イヴァンらへの警戒を怠らないようにと告げ、屋敷外へ駆ける。
呆けるように空を見上げる同胞たち。
華もすぐさまそれに倣う。
雲が晴れた青い空。そこに星々の瞬きのごとく漂う赤い欠片。
「なにが――」
起きている、という言葉は本人にすら届かなかった。
ブブブ、と羽音にかき消されたから。
影が落ちる。苹果が浮かせた大地より巨大な影が。
最初、それは苹果による神堕としが完遂してしまったためだと思った。その瞬間に、彼女たちは地下の基地に集まった兵士たちと戦闘を行っていたから。
しかし、それが全くの見当外れであることを理解させられる。
始めは、内臓を固めたような突起物であった。澄み渡った空の向こうからゆったりと降り徐々に姿を現す光景は、まるでそこが別の空間との境界線上のようであった。
ぶよぶよとした腐った肉を詰めた黒い胴体に、その背から生える白濁色の二枚羽は小刻みに震えるたびにブブブと鼓膜を押し潰してくる大音量を発している。手足の代わりに伸びた無数の突起物はびるびると醜悪にのたうち回る。
巨大な蠅であった。しかし、それは降臨と言って差し支えなかった。悪魔の、降臨。
全容を現し終わると、羽音が止む。空中に留まったまま、彼の蠅は剥き出しの赤い網目状の複眼で大地を睥睨した。
そして――伸びる触手が意思を持って浮いた大地に襲い掛かった。
嵐のような蹂躙に大地は砕け散る。否、残滓は一片たりともこぼれない。触れたものすべてが消滅していた。
「……!!」
あれの正体はわからない。だが、立ち向かわなければならない。悪魔が語るでも、誰かが言うでもなくそれが、明確な人類の敵だとわかったから。
「契」
「はい」
命を言うまでもなく、契が華の隣に並ぶ。
「他はR国軍兵士と共にイヴァンと民間人を連れ退避」
「華さんっ!」
戦場から離れることを命じられた魔術師が悲痛な声を上げる。
「無用な死人は出せない」
ばっさりと切り捨てれば、歯噛みしながらも肯定を示した。
感じているのだ。まとわりつく悪意を。
「ご武運を」
そう言って次々と頭を下げ、彼らは屋敷へ向かった。
華は前方を見据える。
「じゃあ、跳んで」
「承知」
二人の姿が蠅の元へと消えた。
〈塔〉内部。つんざく羽音に耳を押さえていたアルニカに他の面々は奇妙なものを見る目を向けていた。
しばらくして轟音は止み、彼女の奇怪な行動に萌衣が困惑交じりに訊ねる。
「どうしたの?」
「へ? 今の聞こえなかったの」
「何か特別な音はしてなかったと思うけど」
アルニカは首を捻る。
(私が〈空の操手〉だから……?)
どうであれ、何かが起きているのには変わりない。だが、大本を探ろうにも羽音は止んでしまった。
推察をするアルニカの横で萌衣も何かしらの答えを出したらしく、
「空間転移のし過ぎによる副作用の可能性もあるし、後でそこの医者に診てもらいなさい」
「う、うん。そうする……」
〈空の操手〉周りのことを言えない、というより言っても仕方がないアルニカは曖昧に応じた。
「じゃあ、帰りましょうか。……夜霧冷夢の死体はどうするの?」
「置いておいても仕方あるまい。私が持っていこう。骨くらいは埋めてやりたい」
そういう不変は、何かつきものが落ちたような、空虚な表情をしていた。
そうして踵を返す八人。しかし、一人の来客がその足を止める。
「ここにいらしたか」
黒い髪を肩の部分で切った長躯の女性であった。データでなら、その顔を見たことのある人物も多い。明らかに寧々に向けて喋る言葉が固いのは、初対面だからか。
「街自体に仕掛けがないことは前回の件で知っていましたが、個々の仕掛けも切られていたとは、見事な手腕です、錠ヶ崎寧々様」
「結神契」
「失礼。挨拶が遅れました。お初にお目にかかります。いきなりで悪いのですが華さ……水仙時華様の命により貴女にご助力を願いに来た次第にございます」
「華さんが? 敵は?」
「正体不明にございます。蠅の形をした怪物。現在九苹果と風間集と共闘し、応対しているところです」
「風間!?」
思わぬところで既知の名が出て上ずった声で反応してしまう萌衣。
契は一目たりともくれない。それだけ困窮した状況だということが知れた。
「事情説明を求めるよりは、この目で確かめた方がいい感じね。分かった、連れて行って」
「御意」
契が寧々の手を取る。神々が遍在することを利用した移動法衣より、二人の姿は消える。移動方法が魔術による特殊なもののため、アルニカの力でも行き先は追えなかった。
刹那の出来事であった。だが、経緯が読めない以上は現実感が伴う出来事ではなかった。アルニカを除いては。
契の口から出た蠅の形をした怪物という言葉。先程までえ聞こえていた轟音は、蠅の羽音に似ていた。
「……」
気になった。この世界に、そんな化け物が現れるのかと。もしかしたら、突拍子もないがそう考えてしまう。
だが、場所がわからない。契の力がある以上、安易にR帝国だとも考えられない。
思考の海に潜っていくアルニカ。肩に衝撃を受けた。
「何難しい顔をしてるの? 考えたって仕方ないでしょう」
行きましょう、と促されてしまえば現状どうしようもできない事柄は澄の方へ追いやられてしまう。
次こそ歩き出す六人。
「全く、人様の職場をぼろぼろにしてくれて」
背後から、声。即座に振り返り見れば、葉の空けた穴の下に三人の人影が。
炎の翼を生やした道化師の面をつけた少女に抱えられた青年。傍らには鮮血を思わせる紅色をした髪の女性が。
「夜霧、新」
不意にも、全員の声が重なる。それに混じって舞華が一歩下がった。
「やあみんな。いきなりで悪いけど本題だ。天津目葉君、君だけ少し残ってくれないかな? 大事な、大事な話があるんだ」
「断る、と言ったら?」
「そう怖い顔をするな。何もしないさ。ただ、君の大事な亜莉紗ちゃんの命にもかかわる問題だから、ぜひとも残ってほしい」
「お前……」
亜莉紗の名前を出され、葉が無視できるはずもなかった。
アルニカは自身の内省に、新への警戒を強める。不気味な男だった。達観したような眼差しはどこか先を見据える色を帯びている。久澄が言うような人間に見えない(、、、、)のが、彼女の心をざわめかせた。
「では、他の皆さんはお帰り下さい。あ、あと夜霧冷夢の、彼女の墓を作ったら教えてください。手を合わせたいんで」
「分かった。伝えよう」
「ありがとうございます」
彼らに新との因縁はない。無理に刃を交える必要も理由もありはしなかった。
去りゆこうとする不変へ、葉は録音機を投げつけた。空中に放たれてしまえば、流石の不変も無視はできない。
「逃げるなよ」
刺し込む声音に、渋々といった感で首肯する。
次々と横を抜ける。ついぞティアハートと舞華が言葉を交わすこともなく、すれ違った。舞華は万全の装備でなく、ティアハートには直接的な関わりがないからだ。
六人の姿が見えなくなったところで新は言葉を発した。
「ここで話すようなことでもないし……三人には僕の部屋に来てもらってもいいかな」
「私はご遠慮しておきますわ。だって、三年前に話したことをお話するんでしょう?」
「そうですけど……では、どちらに?」
「前からアルニカ・ウェルミンと言う少女に興味がありましたの。せっかくお話しできそうな機会に恵まれましたから、お話したくて」
「事情が事情だけに、あまりうろうろされるのは困るのですが……」
「必ず戻ってきますわ。必ず」
強い語気の宿る言葉であった。浮かんだ優雅な笑みにははかなさが内包されている。
「そう、ですか……いや、そうですね。いいでしょう、その時までに必ず戻ってきてくださいね」
「承知していますわ」
ふわり、とティアハートは浮く。蝙蝠の羽を生やしたりはしないが、それを概念的に再現した飛行能力なら持っている。恐苛最強種の吸血鬼の特徴の一つだ。
来た道を戻って外へ。
ティアハートが居なくなり、葉と道化師だけに。二人とも、新との縁は深かった。
「これはちょっと……恥ずかしいな」
新の呟きに気味悪げに眉をひそめる葉と全く反応しない道化師。
そんな二人を導いて、最上階へ。
自室の扉を開ける。何年も使われていないが、ドアはよどみなく開いた。部屋の中も自浄機能のお陰で清潔だった。
電気を点ける。白の光は白の部屋を照らし出した。ぽつんと置かれた木のテーブルに木の椅子、木のベッド。家具はそれだけ、それだけの部屋であった。だが、質素故に浮き出る高級感があった。何せこのご時世に木を使った家具を置いているのだ。
「適当に腰かけてくれ」
そう言いながら、新はベッドの上に座る。椅子は一つ。葉が横を窺うと、不気味に泰然していた道化師が椅子に向かい歩き出し、その横で立ち止まった。いくら待てど立ったまま。
後ろ手でドアを閉め、葉が椅子に座った。
「で、話っていうのは」
早々に葉は切り込んだ。語りの少ないこの男が何かを言おうというのだ。それも、亜莉紗の命に関わると言って。急く気持ちを暴走させないので精いっぱいだった。
「少々荒唐無稽な話さ。なあ、もしこの世界があと一日で滅びると言ったら、信じるかい?」
「は?」
頭のおかしい発言が多いと思っていたが、遂に壊れたか、と思った。
「まあ、信じないよね。だからこそ、聞いてほしいんだ。これは、君が宿す黒翼の謎にもつながることだからさ」
「黒翼……」
葉はまだ、静波から渡された監視カメラの録画データを見れていない。だがそれが、自身の記憶の欠落部分に関連することだと理解できるくらいには聡明であった。
葉は口を閉ざし、耳を傾ける姿勢をとる。道化師は身じろぎ一つとしとてしていない。
そんな二人の様子に、新は一つ頷いた。
「じゃあちょっとだけ聞いてくれ。四百年ほど前から始まった、僕と言う人間の過去の語りを」
新の瞳は、遠くの景色への望郷を宿していた。




