酸漿
その女児の生誕は、世界から祝福されたものであった。
九十年前。これはまだ魔術師が世界の裏側で人の営みを観察していた頃の話である。
魔術師の力は、母なる大地に巡る力を身体の中で生命力と混ぜ合わせて魔力として精製することで発動できる。魔力に変換する力は、先天性、もしくは血統に左右されてしまう。
世に現象として発現する力は名に縛られるが、この絶対的な才能主義から、同じ名を用いても同じ力が発動するわけではない。
九の家は、何の変哲のない家系であった。故に魔術名を『氷果』、そして『苹火』と名付けられた彼女は、まさに世界に祝福されたとしか思えないほどの先天的な才能を抱えて生まれてきた存在であった。
生まれて間もない存在でありながら、魔力変換量は通常の魔術師をはるかに凌駕する。
血統による魔術を持たないながらに前例のない二つの名を世界に認めさせ、氷と火、事象改変と天災の魔術を身に宿した。
また彼女は、同時期に四人しか確認されていない神の子の磔刑の傷跡を左手に刻んでいた。これにより彼女は、神の子の軌跡の一部を内包していることとなった。
魔術師たちは畏怖と敬意を以て陳腐でありながらこれ以上になく彼女を表せる言葉でこう評した――『世界最強』、と。
彼女の成長と共に純粋な実力のみで問われる魔術師のランクも変動した。時期が違えば天才と呼ばれたであろう魔術師が二人いたのも関わらず、追随を許さず遂には一位の座を承った。
そんな彼女が初めて絶望を知るのは、生まれてから十九年が経った頃であった。
挫折も卑下も罵倒も汚泥も、人間が歩んでいく中で知ることとなる醜さを知らずに育った『世界最強』は、しかし救えないものがあることを知る。
それは、人間社会そのものであった。戦争に苦しむ無垢な子供たちも、守りたいもののために地を舐め懇願する大人も、彼女の力では救えなかった。――否、狭い範囲では救うことができても社会の枠組み全てとなると不可能であった。必ずどこかで矛盾が生じてしまう。
おこがましい考えだ。けれど、幼き頃から『世界で最も強き者』、故にその責任は果たさねばならないと刷り込まれ、万能と呼ばれる力に届き得る才を抱えていた彼女は、世界を救えぬ自身に絶望した。
そして彼女は、自身が世界最強でないことを悟る。
では自分より強き者は誰か。その問いの答えはすぐに出た。
そして――
魔術界の規則が作り上げた化け物が行動を始めた。
◇ ◇ ◇ ◇
叩きつけるような暴力的な揺れは、新R帝国領土の約半分にまで届いた。
黒の長髪をなびかせ駆ける奈々美も、その猛烈な波に平衡感覚を失いそうになり足を止める。
「あれは……」
天を仰げば、奈々美がいる位置からも浮上していく大地は見えた。
その理由も、意味も、知っている。
だが、今の奈々美にはそれにより起こる結果など頭にない。ただ、あの少年がそこにいるのかだけを考えていた。
「いるに、決まっていますね」
何故かそう断言できた。
立ち止まったことで息が荒れ、冷気で肺が痛む。薄っすらと見える久澄が歩んだであろう足跡をたどって走っても、その背に追いつくことはできない。
それでも、足を進めるしかなかった。流されるだけの人生において、二度目の決断。見えない先を求めて進み続ける恐怖に、胸にぽっかりと空いた穴の淵が痛む。
これが感情と言うものならば、と奈々美は歯を食いしばって前を見据える。
浮上した大地に向かう方法など着いてから考えればいい。
走れ。走れ。走れ。言い聞かせるように脳裏に反芻する。
「だってこれは……私の人生なんです!」
夜霧冷夢に縛られ続けてきた生活に終止符を打ったのは、寧々の手だった。しかし、その先でも奈々美は酸漿奈々美を受け入れられずにいた。それは、苹果の下でも同じだった。
だが今なら、今なら彼女は酸漿奈々美を受け入れられる。そんな気がした。
揺れは次第に引いていく。ふらふらとした奈々美の歩みにも力強さが宿っていく。
そうして走り続けた先、奈々美は雪の禿が酷い血臭漂う一角に辿り着いた。
「……やー、酸漿か」
「風間……さん……」
聳え立つ木々の内の一本。同じ旗を掲げた仲間がそこに背を預け座り込んでいた。
保護色の衣服は焼け焦げところどころ穴が開き、外気に晒された肌は赤く爛れている。伸ばしきった脚の上には、無表情の白面と忍刀が。
「やられたよ」
「久澄さんですか」
「やー。吸血姫の眷属っていうのは伊達じゃないのな。或いは、それだけティラスメニアって世界が危険に満ちていたということかね」
「……異世界、ですか」
奈々美たちは知っている。アルニカ・ウェルミンがティラスメニアと呼ばれる世界の住民で、〈空の操手〉の役割を担う存在であることも。久澄碎斗が絶望の魔王の種子であるゾーンを屠ったことも。その左手に宿る、黒い力の存在も。
知恵の実を求めてティラスメニアに渡った苹果が、〈身喰らう蛇〉の名を掲げて暗躍する中で全てを見てきた。
「それで、酸漿はどこに?」
「あの場所へ」
奈々美は曇天に浮かぶ大地を指差した。
「何をしに?」
「……久澄さんと、もう一度お話するために」
「そうか」
集は深くを問わなかった。ただ、ぼんやりとした瞳で奈々美の指の先を追いかけた。
「誘神命もあの場所にいるんだったな」
淡々とした事実の呟きだった。胸の穴の淵の痛みが増した。
集は脚の上に置いた面と忍刀を手に取って立ち上がった。仮面で苦悶の表情を隠し、忍刀は腰に横刺された鞘に納められる。
「いいぜ、あそこまで運んでやるよ」
「……え?」
「お前の力じゃあそこまで届かないだろ。俺の家の魔術なら届けられる」
「なんで」
奈々美の脳内は疑問符で埋まっていた。最悪、意見の相違で戦闘になることも覚悟していた。満身創痍の集になら彼女でも勝利の目はある。
集は右の二の腕部分を撫でた。
「理由なんかないさ……何もなくなったから、せめてこの戦争はどこへ行くのか。その行き先が知りたいだけだ」
その様子から、奈々美は彼の復讐が失敗に終わったことを悟った。
「なら、お願いします」
「承知した。まずはあれの――〈楽園〉の真下まで行くぞ。俺がこんな身体だ。運んではやれないが」
「分かっていますよ」
奈々美と集は目的地へ真っ直ぐに走り出した。
久澄が走り出して五分ほど。浮かび上がった大地の中心部に彼は辿り着いた。
そしてそこには、九苹果の姿が。足音に、虚空を眺めていた彼女の目線が少年の方を向く。
「招いたつもりはないが……そうか、これを取り戻しに来たのか」
一人気付きを得たような顔をし、指を鳴らした。
「ほら、上だ。受け止めろ」
苹果を視界の中に収めながら、久澄は上に視線を這わせる。
低い背丈を入院着に包んだ黒の短髪。
「……ッ!!」
久澄は歯ぎしりしながら小刀を手放し、横倒れで降ってくる少女を手を前に出して受け止めた。彼女との接点である太ももと背中から荷重がかかり、腕の筋繊維が悲鳴を上げる。左手に触れられる感触があった。
それでもしっかりと抱え込んだ腕の中の少女の顔を見る。一年間面接からも逃げていたが、忘れるわけがない。誘神命だった。
「お見事」
目の前の女性から、空虚な賞賛。拍手の音が乾いた空気に響く。
「さて、返すものは返したし。帰ってくれるかな」
「……そうはいかねえよ」
久澄は腕の中の重みに思案しながら、言葉を続ける。
「生命の実。俺は、それと同質のものを抱えた存在を知っている」
「知恵の実のことか」
うっすらと、刃を思わせる鋭い笑みを浮かべながら苹果は久澄の含ませた語を当てた。少年の挙動が止まる。
「そう驚くな……いや、思えば自己紹介がまだだったな」
左の眼を覆う大げさな皮の眼帯を剥く。そこには――
「我々は〈身喰らう蛇〉。これで幾分か理解が及ぶだろ」
眼窩を埋める赤。久澄とは違う、光沢のある赤が占めていた。
「〈身喰らう蛇〉……ユーキの……」
「いや、彼女は向こうの世界のガイドとして借りただけだ。まあ、そんなことは本質とは関係ないな」
苹果は右の人差指と中指を左目に刺し込んだ。ぐじゅぐじゅごりゅごりゅと肉と骨を掻き回す音を響かせ、壁となる七つの骨を内側から押し出して眼球よりはるかに大きい赤い球体を取り出した。赤い赤いそれは、まるで林檎のように見える。
傷は改変され、なかったことになる。
なにか、取り返しのつかないことが静かに進んでいる。脂汗を滲ませながら、久澄は警鐘を鳴らす直観に耳を傾けた。
「なあ、久澄碎斗――ティラスメニアの勇者。お前は、神の存在を信じるか?」
「……こんなくそったれな世界にいるとは思いたくもないが、お前ら魔術師は会ったことがあるんだろう?」
「ああ、そうだ。我らが祖先は神託によりこの世界を監視する命を預かった。なら、神とは何か。魔術と縁のないお前は考えたことはあるか?」
久澄は答えに詰まる。質問の本質が見えなかった。
「様々な宗教に、主神とされるものがいる。多神教で有名なカトリックも、神の子を主神視できる。宗教と言う垣根の及ばぬ視線から世界を見たら、この世界には神が多い。ならば、この世界にとって何が主神となる?」
苹果が左手を掲げる。その手の中に、先程久澄の左目を撃ち抜いて奪い取った精霊眼の源となる魔力が封じられた氷が顕れる。
「神としたとき、一番多く思い浮かべられるのは、どの時代も概念上の神だ」
氷が弾け、だっぷりと苹果の掌の上の収まる。液状に見えたが、薄い幕が張られているかのようである。
それが、前触れもなく弾ける。飛び散る魔力の塊。しかしそれはとたんに停滞、瞬時に収束して左目から取り出されたのと同じ赤い赤い林檎のような丸っこい物質になる。
恍惚とした表情で魔力の果実に口づける。
流れるような全ての動作を眺め続け、遂には久澄の心臓は早鐘を打ち出した。行動にどのような結果が付随するのかは理解できない。だが、今苹果が浮かべる表情に狂気を覚えた。
静かに、半ば無意識に押される形で背後に命を降ろし、代わりに小刀を持って立ち上がる。
「やめておけ」
駆けだそうとした久澄の機先を制する。
「言っただろ、私はティラスメニアにいたと。その左手の力の存在は理解している。精霊眼を失った以上、お前に勝ちの可能性はないよ」
「そんなもん、やってみねえとわからねえだろ!!」
ネタが割れているのなら隠す必要もない。左手に意識を向け、全てを殺す≪死≫の力を生み出す。
しかし、形成されるその前に苹火の魔術が久澄の左腕を焼き尽くした。
「ぐああああああ!!」
「その力の正体までは分からない。だけど、噴出口さえ使い物にならなくなればいいだけだろ?」
神経を針の筵で刺し続けるような痛みが左腕から迸る。ひっくり返るのではないのかと言うほど白目を剥いた眼球の奥から涙が滂沱のように流れる。
痛みに脳裏を支配され、≪死≫の発動にまで集中できない。
悶絶する久澄をがらんの眼孔で眇め、怜悧に告げる。
「お前の蛇、この大地の浮上に非常に役立ったよ」
苹果は両に持った果実を地に置いた。
右の瞳は虚空を見続けている。
「ようやく! ようやくだ!!」
落ちた果実がどろりと溶ける。魔力は地面に染み込み、宙に浮いているはずの大地が揺れだした。暴風が巻き起こる。
耐える術のない久澄と命は中心部からバラバラに吹き飛ばされる。
苹果だけが、吹きすさぶ風の中で泰然としていた。
「さあ、人と神を繋ぐ道よ来い! そして、神を堕とせぇ!!」
天に向かって胸を開き、哄笑を以て来るべき敵を迎える。。
笑みを貫くように十の枝葉に分かれた巨大な樹木が虚空に滲み出た。
区切られた大地。その中で知恵の実と生命の実という神話をなぞった象徴を確立することで、それは生まれる。
神の領域を示す、セフィロトの樹。
「さあさあ、この理不尽を内包する世界を見過ごす神を殺そうか! そして、私が神に成り代わる!!」
木の先端に白い光が生まれる。その内からじんわりと、白い法衣を着た極老の人影が浮かび出る。
「あははははッ、それが人から見る神の姿か!」
苹果が双の魔術を構える。
神はどんどん人の世に墜ちていく。枝を一本通り過ぎるたびに、その姿を人間のそれに近づけていった。
血走った目でその顕現を待ち構える。
その視線の先に、赤い何かがちらつくのを見た。
「なんだ……?」
次の瞬間――上空から降った銀の槍が神の姿を貫いた。
光を失った法衣の老爺が胴体を貫く槍にて地面に縫い留められる。
「え……?」
時間が止まった。少なくとも、苹果の中では。
そして見る。木の上で炎の翼を生やす左手に火の剣を持った道化師の面をした女性の姿を。
壊れたラジオのような歪な音でそれは告げる。
「悔い改め、悔い改め、悔い改め」
何に対する断罪の言葉なのか。
道化師は翼をはためかせ落下。呆ける苹果の横に降り立ち、左手の剣で神の首を斬り落とした。
神の姿が光の粒子となり霧散する。
あっという間の出来事であった。
道化師は再び炎の翼をはためかせ上昇。元の位置まで達すると、大地を俯瞰する。
遠く離れた場所に久澄の姿があった。左腕を焼かれるところは見ていた。
「……」
彼に向って腕を振るう。そこから放たれた紅蓮の焔が久澄の左腕に包んだ。道化師が持つ、炎の再生能力が少年の腕を癒す。
それを確認した道化師――鈴香赤音は赤髪を散らして何処かへと飛んでいく。
大地の上には、久澄と苹果しかいなかった(、、、、、、、、、、、、)。
彼女の力によって左腕の傷が完治した久澄は、それとは知らずに起きた現象に首を捻る。
左腕を振るって調子を確かめれば調子が良すぎるほどのものだった。
立ち上がって辺りを見渡し、自分の居場所を認識する。後ろに地面はない。巨木の方向からほぼ初期位置にまで戻されたようだ。
呼吸を一つ。事態が起きてしまえば、意外なほどに冷静になれていた。
事態の確認と言う目的を設定し、足を踏み出す。
だがしかし、状況はそれだけで終わらなかった。
進行方向にあるはずの巨木が前触れなく消失し、風が収まる。
歪な静寂が久澄の行動を制限させた。未練がましく握り続けている小刀の柄にじんわりと汗が滲む。
そして、凪を切り裂く一筋の光が差し込んだ。
雲が割れ、西に傾き始めた太陽の光が差し込んでいた。だが、今の今まで雪が降っていた天候だ。
「なんなんだよ、これ」
埒外の出来事の連続に呆然と呟くことしかできない。
空を映す紅い瞳は、光の中にもう一つの光を見つけた。
目を凝らしてそこにいる何かに焦点を合わせようと試みるが、距離が遠すぎた。
ただ神聖なモノが降臨している――そんな空気があたりに漂い始める。
そして、首元にむき出しの刃を突き付けられているかのような、死の気配も。
喉を鳴らして空気を呑む。そこでいつの間にかに息を止めていたことに気付き、急いで酸素で肺腑を満たす。
これによく似た感覚に覚えがあった。久澄は左手に目を落とす。
≪死≫を名乗る某も、あれに似た神聖な気配を発していた。
分からない状況が続く中、それでも分かることがあるとすれば命を救出しなければならないことと、あれは苹果でも敵うことのない存在だということだけだ。
格が違う。実力の話ではなく、住まう領域が異なる。もし対峙するならば、同じ次元に立つものでないとならない。言葉にするまでもなく理解できてしまうほどに、その存在が訴えかけるものは圧倒的であった。
その中で一陣の風が吹き抜けた。
「……行くしかないよな」
そう自分に言い聞かせ、左手を握る。
駆ける一歩を蹴り出そうとしたその時、再びその足を止めさせられることが起きた。
「久澄さん」
前方に降り立つ少女が、少年の名を呼んだ。
揺れる黒の長髪。乾いた黒の瞳には、小さな光の点が。
久澄の行く手を阻むように、酸漿奈々美は現れた。
「酸漿……どうやってここに」
「風間さんに助けていただきました。久澄さんと、お話するために」
「俺と? 悪いけど、後にしてもらっていいか。急いでいるんだ」
「先程、新さんにお会いしました」
少年の言葉を無視した台詞は、少年の行動を止めるに足るものであった。
「ほんのちょっとだけでいいんです。少しだけ、私の言葉を聞いてはいただけませんか?」
奈々美のまなざしが真っ直ぐに久澄の瞳を撃ち抜く。少女の瞳に宿った変化を直視できず、少年は顔を逸らす。
「……わかった」
「ありがとうございます」
一息。奈々美は瞳を伏せて滔々と語りだす。
「ここに来るまで、ずっと考えていました。一体私は何をしたいのかを」
新の言葉に押され、彼女は走り出した。それは自分自身で選択したことだ。けれど、思考は後からついてきた。
「私の感情は、夜霧冷夢に壊された。女性として生きる道も、奪われた」
奈々美の小さな手が下腹部を撫でる。そのことについて全く思うところがないわけでもない久澄だが、口の中に広がる苦いものを呑み込んで言葉を待った。
「殺したい。そう思い続けてきました。だから、苹果さんの誘いに乗った」
伏せられていた瞼が上げられる。瞳は雫でうるんでいた。
「けど、ねえ久澄さん。貴方と出逢った。私は初めて見た時に、自分と似ている人がいるなと思いました。多分、あの時の感覚が嬉しいというものだったのでしょう」
目いっぱいに溜まっていた雫は抑えきれずに頬を伝う。涙を流すことができたのか。そこに驚いたことで、久澄は自分も奈々美に対して近親感を覚えていたのだと自覚した。
「人間の多面性が空っぽの私を形作る要因でした。そうやって人間の振りをして、人間の可能性に憧れながら生きてきました。けど、久澄さんの生き方は私とは真逆で……震えるほど、怖かったです。頭が熱っぽくなるほど、怒りも感じました。胸の奥が痛むほど、悲しかったです」
ぽろぽろ奈々美は涙をこぼし続けながら熱っぽくしゃべり続ける。
胸に刻まれた古傷が痛む。そんな幻痛に胸を押さえる。
「それから、復讐に生きることに虚しさを感じました。このままあの女の幻想を追いかけるのが、本当に私の人生なのかと。だから、お礼を言いたかったんです。私に感情を教えてくれてありがとうって。そして、見ていただきたくて」
奈々美は涙を流し続けながら久澄の元へ歩み寄った。少年は動くことができない。
「その小刀、お貸ししてもらってもよろしいでしょうか?」
「なん……で?」
「私が私として、生きるためです」
そう言って、奈々美は微笑んだ。笑い慣れていないぎこちないものであったが、久澄はその笑みに目を奪われる。
そして、右に握りしめた小刀を、奈々美に手渡した。
「ありがとうございます」
奈々美は開いた手で後ろの髪をまとめる。そこに刃を当てた。
「あの女に縛られるのは、もう終わり」
逡巡などなかった。一閃にて伸ばされた黒髪を切り落とした。
髪の束は手放され、風にさらわれて遠い空に消えていく。その行き先を追っても、空ははるかに高く、広かった。
視線を戻せば、奈々美の涙は止まっていた。
「ここからは、私の人生。だから最後に一つだけ、聞いてください」
小刀を使って指先を切り、滲み出る血で唇に紅を引く。
そして、抱き付く形で久澄の唇に自身の唇を重ね合わせた。
「っ!! ……!?」
状況が読み込めずなすがままに立ち呆ける。理解は後から追ってきた。
長く感じられた数秒の口づけは、甘い血の味がした。
紅い糸を引いて奈々美が身を引く。
赤らめた顔に笑みを添えて、奈々美は言う。
「碎斗さん、好きでしたよ。ずっと」
残る熱を感じるかのように、唇にそっと指を這わせる。
久澄はぐるぐると浮かされる頭で、それでも何かを返そうと舌を回す。
「だったら、お前は人間だろ」
自分でもどんな意味を持ってそれを口走ったのか、理解してない。ただとっさに口を突いたのが、自己否定にまみれた彼女にいつも思っていたことだった。
奈々美は目を見張りながらも微笑した。
「そういうところが大好きでしたよ」
小刀を放り投げる。弧を描いて下へ落ちていく。
「だから、さようなら」
久澄の立つ足場が抜けた。このタイミングは、明らかに奈々美の魔術によるものだ。
「な、にを!」
手を伸ばして穴の淵を掴むが、そこも崩れる。
腕を掻いても掴めるのは空のみ。見覚えのある死にゆく覚悟をした顔には、届かない。
「ほぉずきぃぃぃいいい!!」
久澄はとっさに左手に意識を向け、黒い力を現出させる。距離と言う概念を殺し、元の場所に戻るために。
「……ッ」
だが、口に広がる甘い香りが彼の決断を鈍らせる。三年前と同じく、手遅れになることを知りながら。
久澄はそのまま雪原に向けて落ちていった。
見送った奈々美は、「今までありがとうございました」と一言添えて、背後を向いた。
気配は感じている。それでも、やらなければならないことがあった。
駆け出す足に迷いはなかった。
振り返るべき過去はない。奈々美の脳裏には今やるべきことがあり、見据える未来が存在していた。
酸漿奈々美は、確かに酸漿奈々美として生きていた。
向かうは、下界からでも見えていたセフィロトの樹があった場所。そこに会わなければならない人がいる。
今の自分の声で、伝えたい言葉があった。
ただ、前へ。この瞬間を踏みしめる。肺腑の痛みなど感じてすらいなかった。
中心部へ辿り着いた奈々美が見たのは、くずおれる苹果の姿と、差し込む光に混じる少女の姿。
赤、青、黄に流動する小さな二つくくりの髪。全てを視透かすかのような水晶の瞳は、寝ぼけているみたくぼんやりとしている。人間とは思えなかった。
しかし、今向き合うべきはそちらではない。
「苹果さん」
「奈々美……か」
振り返り見えた顔は、やつれ泣き腫らした赤みを帯びていた。ぽっかりと空いた左の眼孔が痛々しい。
「悪い、失敗したよ。よくわからない奴に、何もかもを持って行かれた……」
空虚な声をしていた。彼女は自分の行いが多くの人物を救うと思っている。その双肩に乗っけていた責任の重さは、常人が耐えられるものではない。
歪だが、魔術師の生き方としてはとことん正しかった。
力と期待のかけられ方が大きすぎて、正しさが行き過ぎただけなのだ。
「大丈夫ですよ」
奈々美は、膝を折ってそっと苹果のことを抱きしめた。温かみのある、小さな身体だ。
「こんな世の中は、確かにくそったれです。でも、だからってそれだけじゃないんです」
「神を殺した権能で世界を挿げ替えるなんてそんな、この世の不条理に負けたみたいで嫌じゃないですか。だったらふざけるなって言ってこの世界のまま抗う方がましです。それでもいつか折れそうになった時は……その時こそ、苹果さんみたいに強い人が前に立ってみんなを守ってください」
奈々美は立ち上がって、苹果に手を差し伸べた。満面の笑みで。
「そして苹果さんがぼろぼろになった時にみんなが守り、支える。それが正しい世界ってやつだと私は思いますよ」
その手を取って、苹果はようやく気付いた。切られた髪と、それの意味することを。
「奈々美、お前……」
「勘違いはしないでくださいね。ただ、私の人生にこれ以上はいいんです。どうせ、まともには生きられないのですから」
七年にも及んだ拷問にも近しい実験の影響は、奈々美の寿命に確かな影響を与えていた。様々な動物の遺伝子を投与され続けてきたため、本来あるべき機能のいくつかも壊れている。救い出されようと、元々長い命ではなかったのだ。
「だったら、救える命は全て救いきってみせる。そして死者には、葬送の歌を」
「止めろ。ようやく、ようやくそんな顔ができるようになったんだ。これから先、たとえ短かろうと生きるべきだ。あれには、私が立ち向かう。だから――」
動かす口を、奈々美の指で塞がれる。
「分かっているでしょう。そういうことじゃないって。今が私、一番楽しいんです。好きな人に思いを告げられて、恩人に幸せな姿を見せられる……寧々さんには会えずじまいですが」
「奈々美……」
「不幸で始まって、終わろうとしていた人生に、ようやく輝きが生まれたんです。だからねえ、ここで死なせてくださいよ」
とても重い言葉だった。生半可な心では押しつぶされてしまうほどの、重い重い言葉。
その言葉を押し返せるだけの思いを、苹果は持っていなかった。
(私は……だれも救えない、空っぽな人間なんだな)
眼帯を降ろし、空虚な左目を隠す。奈々美はそれで苹果の答えを理解した。
「それじゃあ苹果さん、さようなら」
「……ああ、奈々美。今まで、ありがとう」
苹果の足下に穴が開く。落下していく苹果は抗うことなく、重力にその身を任せて消えていった。
「ふう」
一人になった。
そっと空を仰ぐ。纏う光は消えたものの水晶の瞳の少女はぼんやりと虚空を眺めつつも翼があるかのように浮いていた。
見れば見るほど、近づけば近づくほど人間とは思えない雰囲気を発していた。
人間である限り抗えないような、神聖さ。
「まあいいです、そんなことは。さっさと最期の仕事をこなしましょう」
呟いて、奈々美は腕を広げた。
そして、
「魂を導くともしびに、死者へ捧ぐ葬送の歌を」
そう、起動の文言を唱えた。
効力はすぐに目に見えるようになった。
ぽつり、ぽつりと下界に広がる死者の海から下細りした形の赤い酸漿の実が現れ、天に昇り始めたのだ。
ほのかに黄色く光る酸漿が、そっと輝きを添える。
それは、天に昇る霊魂が赤く染められているようにも見えた。
その景色に、上空から声があった。
「せっかくファティマで預言したあげたのに……所詮人間の可能性は、ここまでと言うこと」
瞳に意思が宿っていた。
奈々美は顔を引き締め、少女を睨みつける。
「誰だか知りませんが、あんまり人間舐めないで下さいよ」
立ち向かうべく力を解放。
――そして奈々美の全ては暗転し、浮上した大地からも一つの酸漿の実が天へと昇った。
その景色は、イヴァンの身柄を確保した魔術師と先遣隊の兵士たちも見ていた。
「華さん……これは」
「死した霊魂を導く酸漿……っ! まさか」
皆が呑まれる中の契の問いに答えた華は、そこで大きな勘違いに気付いていた。
バチカン市国、サン・ピエトロ大聖堂地下からも、その様子を視る(、、)者がいた。
「ああ、これがファティマ第三の預言の景色か」
ピウス十三世は、陶酔した瞳で符号の合致の瞬間に酔いしれていた。
「ならば、あの少女は――」
「おっと、それ以上はよくないかな」
真実を追跡していたピウス十三世の言葉が不意に止まる。否、止められたのだ。
灯籠の炎を反射する黒い片刃剣によって、脳天から股間までを真っ二つにされて。倒れた衝撃で老爺の身体から脳漿と臓器類こぼれ出す。だくだくと流れる鮮血が白の法衣を赤く染め上げた。
弱点部分は防具で覆いつつも、暗器の隠せそうなゆったりとしたフォルムの黒衣に身を包み、顔のない面を被った〈夜〉が、下手人であった。
「これから先、そこに辿り着けるだけの知識を持ったあなたが生きていると、色々と困るんですよ」
左の袖を振り手の平に落とした紙で、刃についた血脂を拭う。
「あと、そこに隠れている方、出てきてください」
紙を捨てる動作で下へ腕を振るいそのまま後ろに伸ばす。
背後にあった柱の側面が小さく削れる。〈夜〉と柱を繋ぐ線上に、炎の光を反射して光る糸があった。
腕を戻して糸を巻き戻し、現れた男に向き直る。
その際放られていた釘を刃の腹で受け止める。
「これは、手荒い挨拶ですね。お久振りです、相馬颯真」
「そっくりそのままお返ししますよ、〈夜〉」
右目には編まれた鎖の黒十字の模様を刻んだ朱の輝きを。左目には二重の円を刻んで橙の輝きをそれぞれに宿す。
歴史に刻まれることのない戦いがここに始まろうとしていた。
そして、久澄もまた雪原に倒れ込みながらそれを見ていた。
風のクッションにより墜落死はおろか、怪我も免れたが起きる気力が湧かない。
「綺麗だな」
現象に理由を求めるには、何もかもの知識が足りない。疲弊した今の久澄の口からは、率直な感想しか出なかった。
「そう思うか」
それに対して、応じる声があった。接近する足音は、聞こえていた。
横目にし、その人物を視認する。
「九氷火か」
「なあ、久澄碎斗。お前だろ、奈々美の思慕の相手は」
「……何でそう思った」
「唇が赤い。奈々美の唇も赤かった」
「そうか。で、それがなんだよ」
「だったら話す義務があると思ってな。なあ、お前奈々美の置かれていた七年間の環境に、疑問を覚えたことはあったか?」
「……最悪な環境だって思ったよ」
「覚えなかったんだな。もしお前が気づいていれば、或いは奈々美も死を選ぶことはなかっただろうに」
最悪な八つ当たりだな、と苹果は自嘲の笑みを浮かべる。久澄はわかっていたためか、取り乱すことなくその真意を問う。
「どういうことだよ」
「おかしいとは思わなかったか? たとえ失敗作であろうと、ようやく生まれた魔術師の法則を破って生み出た人工魔術師に死ぬ可能性のある実験を繰り返すなんて」
「……は?」
思考が、完全に止まった。苹果は久澄の動揺が解けるのを待つようで、言葉をそこで止めた。
時が経てば止まった思考は融解し、言葉がしみ込んでくる。それが何を意味するのかを理解して、久澄は上体を起こした。
そして、答えを呆然と吐き出す。
「そもそも、酸漿は失敗だった……?」
「そうだ。奈々美は酸漿の名の通り、死者の霊魂を天へと導くだけの魔術を宿した、普通の魔術師だ。〈天災〉なんて二つ名が付いた魔術の正体は、特殊才能。なあ、一体何の前例があって魔術と特殊才能は混同できるとされていたのか、お前は言えるか?」
言えるわけ、なかった。そのようなデータは存在せずに、久澄飛鳥という成功例が出たから。
「理由はくそったれなものさ。失敗続きで断たれそうになった研究資金の支給継続のため、成功例を偽造する必要があった」
「……」
最悪に最悪を詰め込んだような事実に、久澄は言葉を失う。
「ただ、そんな環境から生まれた力でも、最期に好いた相手から『綺麗』と評してもらえたのなら、まだ報われただろう」
「……死んだら終わりだよ」
唇に付いた血を舐めとる。鉄くさい血の味がした。歪んでいるのは自覚しているが、奈々美を遺しておくにはそういう方法をとるしかなかった。記憶は風化し、劣化する。
「死者は喜ばないし、悲しまない。失ったものを形作るのは、いつだって生きている人の妄執だけだよ」
久澄はふらふらとしながら、それでも立ち上がる。
「なあ、九氷火、この戦争は、終わったのか?」
「少なくとも、私の計画は終わったよ」
「そうか。そう言えば、誘神は……」
久澄は空を仰ぐ。体重は自分よりはるかに軽い。あの風で間違いなく落とされてしまったはずだ。
「風間が拾っていてくれればいいが。これだけ雪が積もっているから死んでいるってことだけはないと思うけど」
浮上する大地から落ちたであろう場所を予測する。
「無理を承知で頼む、手伝ってくれ九氷火。お前の魔術を借りる必要があるかもしれない」
「いいさ、私にも落ち度はある。奈々美の笑顔分は奉仕してやるさ」
苹果の理由に苦いものを覚えながら、立ち上がる。
そこで、錠の開く音が響いた。
めまいと脱力感に襲われ、片膝を落とす。
「おい、大丈夫か?」
「あ、ああ」
(なんだ……?)
妙に心臓の音が近い。精神的な疲労に肉体が引っ張られたのだろうか。
頭を振るい、意識を明瞭に。
そこで上空から降りてきた二つの影に気付く。
苹果も気付いて視線を合わせ、二人は目を見開いた。
道化の仮面を被った炎熱のような赤髪の少女と達観した瞳を持つ青年だった。
降り立つ二人。新は銀の鍵を持った手を開錠の動作のように捻っていた。
新の姿に上った血が脳に巡り、過去の推察を思い起こさせる。
新は珍しく、厳かな表情でいた。
「何も終わってない。終わらせるのは、ここからだ」
摘ままれた鍵が消滅する。その代わりに、封じられていたそれ(、、)は現出した。
鮮血を思わせ流麗に流れる鮮烈な赤髪。練乳色の肌を覆う同色のドレスは手足の首までを隠す。下品にも思える衣装は、しかし西欧系の整った目鼻立ちと発する豪奢な雰囲気を持つ彼女(、、)にしか表せない芸術性を醸し出していた。瞳は漆黒を映す。
彼女(、、)が現れた瞬間、太陽が陰り、こぼれる血の色に染まる。
その姿に、哀愁と共に大きな痛みを胸に覚え抑える。
「なんでだ!」
解っている。だが、それを受け入れてしまうことはこの三年間を、彼女(、、)の思いを踏みにじることになる。
だから、
「なんで! なんでお前がここにいるんだ!!」
冷たい風が吹き、なびく彼女(、、)の髪から香る柑橘の香りが摩耗した久澄の心を乱す。
「久しいな、我が君よ」
ティアハート・オウススウィート・フィアブラッドムーン。
久澄碎斗が殺したはずの女性が、そこにいた。




