最頼
「どうなっている!!」
豪奢な飾りが施された自室にて、異常な装飾の椅子に座りイヴァン・ローゼンは傾いけていた酒杯を壁に投げつけた。乾いた破裂音が響き渡る。
遠くで戦闘が確認されたこと。その上で先遣隊が帰ってこないという現状の報告をした老齢の執事は、身を竦める。
「くそ忌々しい化け物どもが……俺の肉の駒を奪いやがって」
脂で光る頭皮にすら青筋を浮かべて、イヴァンは唾を吐き出しながら喚く。
「おい、俺は誰だ?」
「この国を支配する、皇帝閣下にございます」
荒々しい問いかけに、老執事は恭しく頭を下げた。
「違う、そうじゃねえだろ!!」
粘ついた唾液が白髪にかかる。
「俺は、俺様は、世界の支配者気取りだったあのA国を滅ぼし、腐った空気しか洩らさねえゴミ溜めだったC国を接収した皇帝の系譜を次ぐ皇であるぞ!!」
赤らめた顔で自己に陶酔したような表情を浮かべながら演説したイヴァンは、狂気を化粧する。
「見せてやるよ。化け物どもに、人間の力をなあ」
老執事は頭を垂れた体制のまま、じわりと頬に一つ冷や汗を流した。
揺れはすでに収まっている。
新R帝国首都と〈身喰らう蛇〉の隠れ家がある森の中間にある雪原。本物の九苹果により作られた濁った氷の蓋が泰然としている。
氷の檻から、結神契が脱出した。
九苹果の氷の魔術は、いわば彼女が作った異空間。どこへでも遍在する契は、しかしきちんと帰るためには交線した世界の軸を乗り換えなければならなかった。そのためには多分に集中が必要となる。
少なくとも、戦闘中にできることではなかった。
しかし、脱出してからと言うもの、何かに衝突されているような縦への揺れが酷い。
「揺れるなー」
ぼうっと呟く。心の奥に残ったしこりが全て消えたわけではない。
そして辺りの惨状を視界に収める。遠間には生存者が見えるが、かなりの数を減らした。瞳には風間集による強襲を受け大多数を減らした魔術師が映っている。同胞の亡骸は自然の循環に任せるため、何も行っていない。その身体はどんどん雪に埋まっていく。
「こりゃあそろそろ結婚も考えた方がいいかな」
それも情勢が落ち着いてからだ。
契は視線を遠間から近場に変えた。頼りないライフルを揺らした新R帝国軍先遣隊は、彼女が閉じ込められてから一人も数を減らしていない。
「おーい。そこの兵士たちー」
契が手を上げ振れば、青白い顔が向く。無理もない、と思う。常人の理解を振り切った状況が続いている。
だからと言って、配慮している暇もない。
「ひとまずはマシな状況になっただろうから、さっきの続きをしよう。あっちで、待っているから」
指差す方向は、華たちのいる血だまり。兵士たちの表情がひきつった。「待っているから」と強く念押しし、華たちの元へ跳んだ。
「結神契、ただいま帰還しました」
血だまりの中、腕に何やら包帯を巻かれている華へ、現れるなりそう報告した。
驚きに身を固める面々。華は疲れた様子で契の顔を見上げた。
「九苹果は?」
「いえ、あれは狩神家の縁者でした」
「そう……また、復讐か……」
華は手に握った小刀に目を落とした。
彼女の目的を考えれば、些か皮肉が過ぎるのだろう。
契は話題を変えようと空を仰いだ。
「そう言えば、MGR社からの追撃がありませんね。どうなっているのでしょう?」
「……あ」
一拍の間の後、間抜けな音が頭首の喉から漏れた。
「は、華さん?」
「伝達ミス」
戸惑う契に、華はいつも通りしれっとした表情で告げた。
「錠ヶ崎寧々らMGR社に行った魔術師は、密偵。その任は、この戦争の際に内側からMGRの兵器を壊すこと」
なんてないことのように教えられた事実に、契は声すら出ない。いや、それは華を囲む魔術師たちも同じであった。皆同様に目を剥いていた。
「でなければ、裏切った瞬間に種を芽吹かせる。貴女にすら仕込んでいる。無論、寧々達も同じ」
「ああ」
と、自然に声が出た。納得が駆け巡る。口数の少ないリーダーは語り漏らしているが、その姦計を気付かれないように記憶と情報の操作が行われたはずだ。だから、体育祭の時に『マギ』の面々は本気で襲いかかってきたし、錠ヶ崎寧々は動かなかった。
全ては、水面化で仕組まれていたことなのだ。
「そんなわけで……さっきの続き」
寧々は契の背後を見据えた。そこにいるのは勿論、兵士の群。彼ら一人一人が魔術界の頭首と向き合う。
ここへ来たということは、話を聞く意思はあるということだろう。
揺れが収まった。
華が口火を切る。
「私がしたいのは、一つの提案」
華は指を一つ突き立てた。
「現在の新R帝国の現状を壊すための、共闘」
華の提案に、兵士は皆驚きを見せる。魔術師たちは皆、それを承知していた。
一兵卒たちは顔を見合わせる。そのうちの一人が、おずおずと口を開く。
「……あんた、この国の出身者だよな」
白い肌に白い髪。八月の二十六日に開かれた会議で明かされたナルツィス・ツヴィトークと言う名前。新R帝国の、或いは、R連邦共和国の流れを組む名だ。
「そうだけど、何?」
「この国の惰性について、思うところがあるのは分かる。だけど、いかに魔術師であろうと、この国の闇は強大だ。それは、分かるだろ?」
「それは、勘違い」
彼女は、小さく告げる。
「単純に、この国の持つ闇――武装能力は、地球と言う星に対して危険すぎる。だから、よ。魔術師は、ただそれだけの生き物」
そう、魔術師が闘う理由はあくまで、力を戴く地球を守ること。――それに疑問を挟むものは、一人しかいなかった。
「何故、オレたちの力が必要なんだ? あんたらなら、どうにかできるだろ!?」
「さっきあなたが言った。この国の武力は強大。内部からの反逆者が必要。それに――」
華はそこで一つ、間を置いた。
「それに、この国の人間が反逆の狼煙を上げる。それこそが、後々諸外国へ好意的な印象をもたらす」
魔術師が国を取っては、いくら新R帝国を目の上のたんこぶと思っている各国でも、さらなる反目を得させるばかりだ。新R帝国内部の人間が、その圧政に反旗を翻すことで革命は成せる。その後に絡む利権の問題も、魔術師が国を採るよりは少ないはずだ。
「さあどう、新R帝国軍の兵士たち? もし賛同してくれるなら、私たち魔術師はこの戦争が終結するまでにあの男の首を取ることを約束しよう」
華を囲う魔術師も、応、で協調する。
敵は多い。MGR社は、本部は瓦解状態。日本支部は、以降が来ないことを見るに、寧々たちが成功したのだろう。ならば後は、新R帝国と九苹果の首だけ。だが、後者は先の檻から一片の気配すら感じさせず、そもそもがどのように攻略すればいいのか目処がつかないのが現状だ。
やれることからやる。それが華の考えだ。
兵士たちに迷いはなかった。その圧倒的武力は魅せ(、、)つけられた。その力を借りられるなら、もしかしたら、と。
しかし、それが行動として表される前に、事態は動いた。
首都の方角の空に黒の煙幕が弾けたのだ。白の大地と背反する黒。それが意味するのは――
「嘘……だろ」
兵士たちは信じられないものを見たかのように崩れ落ちる。華は舌を打った。
「華さん、あれは?」
「核武装発射の旨を、連絡のつかない味方に伝える信号。そんな形だけの良心的なもの、誰が撃ったのかはわからないけど」
契の問いかけに答える華の表情は変わらない。
「問題はどこに撃つか……この場所に撃つのは、首都を危険に晒すし、そもそもあの男が自国を汚すのを許せる質とも思えない。なら……」
「多分、MGR社日本支部と、バチカン市国だと思う」
兵士の一人が、そう言う。現存する科学と魔術を象徴する土地。不可侵国家であることをあの男が考慮するとも思えない。
「……なら、好都合」
華は、そう呟いた。「ですね」と契も同調する。他の魔術師も、意地の悪い表情を浮かべる。
兵士たちは、もう何度も繰り返した動揺を、さらに重ねる。
「あんたら……なにを……」
「詳しくは答えられない。だけど、バチカン市国に教皇がいる限り、あの国は不可侵」
女性の回答は、疑問を解くものとはなってなかった。しかし、それを呑み込める程度には彼らも魔術師と言う異端に慣れてきていた。
「さて、攻めるなら今。発射準備で盲目的になっている、この時が」
三度の誘い。男たちは迷わない。
崩れた膝に活を入れ、立ち上がる。
それが、答えだった。
「ありがとう」
腕を振るう。出血は止まっているが、熱と痛みはまだある。動きも鈍い。
曇天の中でも銀の煌きを誇示する小刀に目を落とし、彼女は歩み出た。
この連合軍を率いる、将として。彼らの命を背負うために。
「行きましょう」
応じるは、怒声にも似た鬨の声。彼方へ置いていく死した同胞のことを思い出し、しかし彼女の表情は変わらない。
歩みだす――歩もうと足を踏み出した、その時。
雪を踏み裂く足音が響いた。
「契」
呼んだその時にはもう、彼女はこの場にいない。華の意図を先に読んで、音源へ跳んだのだ。
すぐさま、一つの衝突音。そして何も聞こえなくなる。
静寂。しばらくしてから、契が戻った。
同時に、足音が。どんどん近づいてくる。
そのことに眉を顰めながら、華は後方の隊列に戻った契の方を向いた。
「誰だった?」
「えっと、その……」
彼女にしては珍しく、歯切れが悪い。居場所が悪いような表情を浮かべ、契は渋々という感で告げる。
「久澄碎斗です」
全く予期していなかった名に、流石の華も小さく瞼を上げた。じとっとして感情の薄い瞳は、開かれることで多少の感情を映した。
成る程。その少年には些か痛すぎる目に合されている。契が本来の調子を崩すのも無理はない。
「どうしますか?」
確認の問いかけは、少年に一定の価値を認めているからだろう。
だがそれは、命じられればそれを確実に実行できるという所信表明でもあった。
華はその意を察し、視線を兵士たちに合わせた。
「ごめんなさい。これから来る少年と、三言ほど会話を交わしたい。時間をいただいてもいい?」
彼らは首を傾げた。
「別段、間に合うのでしたら構いませんが。そんなに凄い子供なんですか?」
「それなりには」
この戦争の原因の一つ、とは言わない。下手な混乱を与えてもプラスにはならないと考えたからだ。
それに多分、彼が姿を現せば嫌でもその異常性は見て取れるはずだ、と鼓膜を震わす音から考える。
刻々と過ぎる時間を悠然と佇んで数えていれば、華が予想した結果と共に少年は姿を現した。べたり、と塗りたくったような紅の瞳が軌跡を描くほどの速さで。
それは先の、颶風となる風間集よりは遅いが、下手に姿が目に映る分、また違った衝撃を兵士たちに与えた。それは、華と契を除く魔術師も同じ事であった。契の報告から知識としては知っていたとしても、実物を見ればまた感じるものは違う。
そんなことは露知らず、久澄は華たちの前で立ち止まった。
「えっと、どうも初めまして、水仙時華さん」
軽く会釈。三十は違うであろう背丈に、首を上げながら華も目で返した。
「噂はかねがね。久澄碎斗」
「はあ……悪い噂じゃないですよね?」
「私たちにとっては、あまり好ましくない噂ばかり」
「……ちなみに、どんな?」
「夜霧新が関わっていた件について、こんなところでぽろぽろと言われたくはないはず」
華は、言外で久澄の過去について知っていると告げた。彼の感情が擦れた乾いた黒目に動揺と怒気が混じるのを見て、分かり易い、と内心で思った。
「それで、何でこんなところに? 日本支部の中にいたんじゃ」
「あ、ああ、えっと……」
久澄はここまで至る経緯を簡単に説明した。九苹果に奪われた、〈循環の蛇〉と命のことを交えて。それこそが、久澄が華との対話に臨んだ理由だから。
集のように突如虚空から現れた契の一撃を躱してやり過ごし、彼女が吐き捨てた言葉の端から魔術界の頭目である華がいることを盗み取った久澄は、魔術師を率いるその存在に影すら見えぬ苹果の居場所について尋ねたかった。
「それで、九氷火の居場所は……」
「残念。分からない」
「そうですか」
極めて平常な間で言われたが故に、それが嘘偽りのものであるとは感じられなかった。
落胆の気持ちがないと言えば嘘となるが、仕方ないと割り切る。
久澄は華の手に握られた小刀に目を落とす。
「そう言えば、さっきから気になっていたんですが」
視界には、腕に巻かれた包帯も映る。
「その小刀、風間のですか?」
「そう」
「それ、お借りすることはできませんか?」
久澄は単刀直入に言い切った。本人からはどうしても奪えなかった武器。あの危険な存在に挑む以上、一撃必殺となる武具は欲しい。奥の手(、、、)を隠す、カモフラージュとして。
「……一つ、訊きたい」
「なんでしょう?」
「九苹果の目的に必要だと窺える存在を、我々がみすみす逃すとでも?」
じんわり、と汗が滲み出る。背後には、人間を構成する原子が。辺りでは、事象を変える魔術の構成が成されようとしている。
そして、目の前の少女に見える女は、その小さな両手に赤い液体を溜めて――
「困るなあ」
――炎の竜が、軍団の隙間を縫い、久澄の背後に偏在していた契を直撃した。翼を持たぬ蛇のような体躯。だがその凶暴性は、幻想上の竜と呼んで差支えのないものだ。
竜は契を吹き飛ばすと、久澄の身体を守るようにとぐろを巻いた。
怜悧な声。その圧倒的存在感に、本能が委縮する。その名を知るものは、皆その名を想起した。
「……九、苹果」
華が絞り上げる声でその名を呼んだ。
「久しぶりだね、華。七十一年ぶりかしら」
声が届くほどすぐそば。そこに、本物の化け物が立っていた。
いつからいたかなど、誰にも分らない。抑えられるはずのない存在感は、突如牙を剥いた。
「私がどこにいるか、分からないって言ってたね」
化け物は、固まる華の耳元に口を近付け、囁く。
「ずっと、ここに。私の事象改変は別段、あんな派手な氷を現界させなくても効果を発揮するの。当たり前でしょ」
苹果は、壬生の墓標と化した氷の蓋を指差す。
九苹果という怪物性に騙されていた。事象改変はあくまで、世の事実を捻じ曲げる力。それに関係することなら目に見えるが、一切関係ないものは現れない。
魔力が多いが故の代償か、或いは、ある一定の世界を捻じ曲げるための境界線だと思っていたが、彼女にとってはただの遊び程度のものだったらしい。
華は歯噛みし、久澄に向けていた魔力の塊から種を吐き出させる。せめて、神殺しと言う目的だけでも頓挫させなければならない。
「私はこの戦争の中で、唯一警戒していたのが貴女だったんだけど……随分と差が開いたわね」
久澄へ植え付けようと放たれた種は、炎の竜の胴体に呑み込まれて炭化する。
なす術は失われてしまった。
「いいや。じゃあ、保管してもらっていたものを拝借しましょうか」
軽く、右手を振るう。
事象改変が、久澄の左目を撃ち抜いた。
「な」
纏っていた〝雷駈〟が消失する。何が奪われたか、なんとなく理解できた。
〈原視眼〉。その源となっていた〈精霊眼〉の力。
苹果は糸を手繰り寄せるように指を引く。久澄の背後から、眼球の形をした氷の塊が彼女の元へ向かう。その中いっぱいに、華が手に溜めた魔力よりはるかに濃い赤黒い塊が封じられていた。
〈精霊眼〉の源が、苹果の手に収められる。
「凄い魔力。これで、〈生命の実〉が生成できる……果実が、揃う」
苹果は興奮した口調で捲し立てた。その内容に魔術師皆が、息を呑む。
最悪の想起。それによる恐怖の上塗りで苹果の存在に抗う。
この場に残る魔術師は、華を覗けば全員が事象改変使い。
魔術の行使。だが、全てが凍らされる。
稼いだ一瞬の隙。瞬きする暇すら惜しんで華は種を乱射。しかし、久澄を守っていた竜が上から降り落ち種を燃やし尽くす。
そして――苹果の背後。偏在した契が、握った拳を振りぬく。
コンマの差。広背筋を捉えかけたその時に、苹果は自身の空間へ消えていった。
拳は空を打ち、恐ろしいほどの轟音を虚しく響かせる。
「くそっ!」
苹果が受け継ぐ神の子の権能は、カリスマ。人々を誘惑するだけの力だ。俊敏さとはいえ武力を受け継ぎ、そこに神殺しの権能を重ねる契の一撃を受ければただでは済まなかったはずだ。
弄ばれた。それがまず出てきた感想だった。
逃してしまった以上は、追いかける方法はない。いくら神々が偏在するとはいえ、対象のいる座標が掴めない限りは時間を無為に使うだけだ。
悔しさと焦りがこみ上げる。だが、事態はそれだけに留まらなかった。
重々しくも何か固いものを鉢で砕き擦っているかのような音がした。かと思えば、爆発的が起こったような揺れが起こった。先程とは違う、大きな横揺れ。
その原因は、すぐに視覚化された。
百メートル程度の距離。そんな至近距離で地面が浮かび上がろうとしていたのだ。
苹果のよるものであるのは、明白だった。
混乱に混沌を混ぜ合わせた事態に言葉を失う兵士と魔術師たち。
その中で一人だけ、過去に同じような惨敗の仕方をし、彼女の存在を目的に動いていたが故に現実を見据えられた人物がいた。
久澄碎斗は走り出した。事態に呑み込まれた華の小さな手から小刀を奪い、一直線に。
静止はなかった。目的のために必要だった道具が奪われた今、彼女たちにとって少年は、〈恐苛〉最強種吸血鬼。その姫の眷属でしかない。
〝雷駈〟が失われ体感的にいつもより遅く駆ける中で、久澄は左手を胸の前に隠した。その手の平には、≪死≫の力が。きちんと操れるのを確認して、いったん消す。
この世界に戻ってきてから一度も発動すらさせなかった力。本来使おうと覚悟していた相手とは違うが、この力を使わなければあの化け物には勝てない。
覚悟は固めた。長い間研ぎ続けてきた復讐の刃を向ける相手とは異なる人物を、殺す覚悟を。
脳裏にちらつく、なびく紅い髪。少年は自身に言い聞かせるように、「これは、俺が俺のためにやることだ」と呟いた。
間近まで来る頃には、縦三メートル、周囲はその全容を見て取れないほどにでかい塊として雪を振り落しながら完全に宙を浮いていた。全容に関して、少なくとも空いた穴の向こう側の端までは見て取れなかった。逆三角錐のような形をしており、先端には先程の炎竜と同じ形でとぐろを巻く白蛇の姿が。その姿形には見覚えがある。〈循環の蛇〉のそれであった。
疾駆をそのまま助走に、飛び上がる。浮かび上がる地面の淵に手をかけた。冷たい。小刀の柄を咥え込み、両手で身体を持ち上げる。
小刀を順手で右に握り込みながら、走り出す。〈原視眼〉を失った今、苹果のいる場所を探ることはできない。まずは中心を目指す。
◇ ◇ ◇ ◇
MGR社日本支部、〈塔〉内部。
葉の暴走を止めた不変たちは、事後処理に追われていた。
不変は夜霧冷夢の死亡確認と共に、その死体をあさっている。趣味の悪い死体荒らしであるのは自覚しているが、何が仕込まれているかわからない以上、確認を疎かにするわけにはいかなかった。せめてもの倫理観として、服は脱がしていない。
骨の浮いた身体に自身を実験材料とした時の傷跡を多く刻んでおり、女性らしさなど皆無なのだが、と不変は内心で吐き捨てる。
軽い骨を砕いた武骨な手で、服を撫でていく。そうやって全身をまさぐり、白衣のポケットに二つの感触を得ていた。
「あるのはこれくらいか……」
不変が指につまんで視界に収めたのは、銀色の高質な一枚のカード。
それには、薄宙小詠ファンクラブ会員番号00002と型押しされていた。
その名には聞き覚え合った。長身痩躯でありながら浮いたように顔が幼いという、ちぐはぐな女性であると。また教師の鏡であると。それだけで、何故かこの街で噂になるような人物。
以前までどこに居たかは知らないが、今は臥内高校の教師である。
「……」
少し離れた場所で何やら話し合っている萌衣たちの方に視線を向ける。
精神衛生上、彼女たちに見せるのはよくないだろう。そう判断し、不変はその会員証を握りつぶした。砕けて何故このようなものを持っていたのかという疑問は二度と解けない。
他にめぼしいものは見つからない。せめてもの手慰めに白衣のしわを正してやる。
「あっさりとしたものだったな」
その言葉は、彼の意識の外から漏れた。言い切ってからそれに気付くも、不変は吐く言葉を止めようとはしなかった。
「或いは、お前の中で何かが変わっていたのかもしれないな……」
それでも、と不変は立ち上がり、夜霧冷夢から背を向ける。
「お前のやってきたことは変わらない。……なにも、変わらなかったんだ」
男は自分よりはるかに幼い少年少女の元に歩き出す。
向かい合っての口論に決着はついておらず、萌衣が主で葉が起こしたあの現象について問いただしていた。
しかし不変の耳にまだ届いていた最初から、静波はわざとらしく知らぬ存ぜぬを貫き、本人に至っては記憶がないというスタンスを貫いているようだった。
「どういうことよ、全く」
繰り返した問答に、ガシガシと乱雑に頭を掻き萌衣は嘆息する。
静波も疲労の度合いは顕著で、ただでさえ不健康に真っ白な肌がさらに白くなったように見える。
葉の目付きには不機嫌そうな険が増しており、渚は敵対心を隠そうとしていない。寧々はぶつくさと思考の海に沈んでいる。
舞華だけが割とどうでもよさそうに話の推移を見守っている。不変は彼女の元に寄り、見当たらぬ少年の何処を尋ねる。
「猫屋計はどうした?」
「帰りましたよ。用は済んだからと」
男の姿を横目に応じる舞華の声音からは、一切の興味も滲んでいなかった。
不変は横の女性に聞こえないよう、口の中で「これだから恐苛憑きは……」と転がした。
夜霧舞華も、猫屋計も、久澄碎斗も、恐苛に魅入り、魅入られた人間は、極端なまでに誰かに依存する。夜霧萌衣に、安城冷夏に、恐苛を殺した少年は、歪なまでに多くの人間に。
宿り木を失った時、彼らは。と、そこまで思考を沈めて、辞めた。
答えなど、考えるまでもない。彼らは生きていくしかないのだ。その命もまた、恐苛に寄生されているから。死を選ぼうとしても、その化け物たちが彼らを無理矢理に生かし続ける。
不変は耳を目の前の問答に向けた。幾度となく繰り返される似たような質問に、遂に静波が折れるところであった。
「……こちらとしては見られたこと自体が不都合なんですわ。これ以上の情報が欲しかったら、あの男にでも聞いてくださいまし」
「誰よ、あの男って」
「夜霧新ですわ」
「生きてるかどうかわからない人間に正す真実はないわ」
「生きてますわよ」
相手を煙に巻くようなおちゃらけた口調から一転、静波は有無を言わさぬ語気で言う。
「あの男は、必ず生きている」
「仮に生きていたとしても、今この時に情報を与えてくれるわけではないわ。天津目葉、あんたも本当に覚えてないの?」
「……ああ」
だが、似たようなことがあったことは覚えている。己世界との亜莉紗を巡る戦闘の際、記憶が一時途切れた場面があった。先程もあの時と同じようにどす黒い感情が心を染め上げて――そして、その時の映像はズボンの中にある。
先にあったという戦闘で壊れていないか確認するためにポケットに手を忍ばせて、その感触を確かにする。
萌衣は葉への質問を最後に、息を吐き出して言葉を切った。ようやく吐き出せた情報の質と彼女が見せた本音からこれ以上聞き出せることはないと判断したのだ。
流れる静寂。思考の海から浮上はしていないが、寧々の呟きもいつの間にか終わっていた。
ピン、と張った緊張感。誰かの一挙手一投足がその糸を切りかねない。今にも静電気を起こしそうなほどの気迫を見せていた渚も、流石にこの空気の中では空気を読んで牙をむいているだけであった。
沈黙は時を止めない。同じ空間にいる理由は失われている。悔恨を秘めて矛先を向け合っても、泥沼の戦いになるだけだ。
葉の脳裏にぼんやりと、亜莉紗の姿が浮かんだ。
「……」
拒絶の力を返してもらうための交渉をするために彼は口を開く。
「わ、もう終わってんじゃん」
しかし、静寂を破ったのは葉ではなく、第三者の高い声だった。
皆が正体不明の音源へ視線を向ける。入り口のドア。
茶色の髪を肩口で切りそろえた小柄な少女だ。胡散臭い笑みを貼り付けつつも、端々に疲労が浮かんでいることから、体力はないように思える。
「絵里……」
萌衣がその名を反射的に呼ぶ。絵里。中馬絵里の名を。
「まだそうやって呼んでくれるんだ。嬉しいねぇ」
胡散臭さに困ったような色を混ぜ、少女は応じた。歩み来る。無地のパーカーにジーパンと服装におかしなところはなく、武器になりそうなものは見たところ持っていない。〈塔〉に這入ってくるには不用心が過ぎる。
「なんでこんな場所に?」
「んー? まあ、その人の死に目にでも立ち会おうと思ってね。間に合わなかったみたいだけど」
彼女の視線は萌衣を越し、そのはるか先に倒れる白衣の女性に向いていた。
絵里と夜霧冷夢を繋ぐ線。雷鳴事件での萌衣の推論は当たっていたらしい。
だがそれよりも、萌衣は、いや、この場の全員が彼女の台詞に眉をひそめた。
「死に目に、立ち会う……?」
萌衣たちの奇襲は、この街に張り巡らされた『夜霧冷夢』というネットワークすらかいくぐったもののはずだ。久澄からもらった絵里につながる直通の携帯からは盗聴器を抜いてある。絵里と夜霧冷夢が繋がっていると仮定していた萌衣はかき回されることを恐れて、舞華に電話をかけている間に虚偽の依頼も入れていた。
だから、そもそもこの場に絵里がいること自体がおかしい。
そしてそれ以上に、その発言はまるで夜霧冷夢が殺されることを知っていたかのようではないか。
萌衣が発した疑問の意図を察したらしい絵里は、「慌てんなって。手ぐらい合わせさせろよ」と言って、彼らの横を通り過ぎた。
この場で唯一、あの一幕の真実を知る絵里に誰もが視線を離すことはなかった。舞華も、夜霧冷夢と言う女性と共に過ごした日々があるからこそ、違和感を払拭できる可能性に注視する。
好奇の視線を一身に受け、それでも飄々と進むその背は、自分たちの知らない夜霧冷夢の輪郭を知っているように見えた。
見た目だけ正された亡骸の元に辿り着くと、膝を折り目をつむって両の掌を合わせた。言葉はない。静かな葬送。そこに宿る感情を読み取ることはできそうになかった。
厚き時を圧縮したかのように錯覚させる数秒の後、合わせた手を打ち鳴らし、飛び跳ねながらこちらの向きに回った。
「さて、死人に口なし。疑問に答えてあげましょうかね」
にへら、とした笑み。胡散臭さは変わっていなかった。
「と言っても、大した話じゃないさ。死にたがりの研究者がいた。ただ、それだけの話、さ」
「夜霧冷夢が自ら死を望んでいたっていうの? 何で!?」
「知るか。ただ、『もし世の情勢が大きく傾いたとき、ワタシはワタシの罪過に殺される』って言ってたのよ」
そうだとしたら彼女は知るまでもなく、自身が殺されることを予期していたことになる。そうだとしたら、いくらでも対策は講じられたはずなのに。
疑問は解決するどころか、深まるだけであった。
「と、そういえば、この中に天津目葉って奴、いる?」
名を呼ばれ、縞髪の少年が疑念の感情を隠さずに応じる。
絵里は葉を視認すると、上着のポケットをまさぐり、その中から取り出した何かを放り投げた。
ぎょっとし、葉以外の人間が身構える。拒絶を失ったままの葉は、特に意識することなくそれを掴み取る。周りの所作から爆弾等の可能性に至ったのはその形を確認し終わってからだ。チューインガム大の長方形の物体。幸いにして、小型爆弾ではなかった。
「爆弾じゃないわよ。ただの録音機」
今にも自らの持つ力を発しそうな面々を笑いつつ、
「亜莉紗って子に渡してって頼まれた。私は中身を聴いていない」
葉はその録音機に目を落とす。死を予見していた母が娘に残した言葉とは何か。彼は視線を舞華の横にいる男性へ移す。死の間際に夜霧冷夢が男に向けた言葉から、彼が夜霧不変だということを認識していた。亜莉沙から聞いた話から、夜霧不変は本物が殺されたと思っていたし、彼の死ねない体質についても知るわけでもない。それでも、あの状況の言葉は疑う余地がなかった。
男もまた録音機に視線を向けており、僅かに二人の視線が交わった。
亜莉紗との約束を破ることとなった元凶だ。思うところはあるものの、葉としては彼にこれを渡してもらいたかった。
人間社会との懸け橋として、彼の人間性を支え続ける亜莉紗の存在の大きさは自覚している。それでも、自分たちの関係は夜霧冷夢に再会させるという約束の元に成り立っているものだという思いが葉にはあった。
例え感情と背反するとしても、亜莉紗はアイドルであり、ただの人間だ。自分とは違う。
それに不変の元の方がもっと安全な保護をしてもらえるだろう。わだかまりはあるかもしれないが、それでも血の繋がる親子だ。
第三者の某とどちらが良い環境かなど、思案するまでもない。
「……おい、夜霧不変」
葉は手の中の録音機を投げ渡した。
夜霧冷夢を殺した手で、それは取られる。
「……何のつもりだ?」
「複雑な経緯なんてわからないし、てめえの感情なんか知らねえ。けど、あいつの父親なら、それはおてめえがやるべきことだ」
「もし、彼女のことを考えての行動なら、逆だ。お互いに、会わない方が建設的だろう」
不変は録音機を投げ返した。
「私は夜霧不変。存在しない夜霧だ」
葉は改めてそれを掴む。掌に広がる衝撃からは明らかな拒絶の意思が感じられた。
それでも、葉は口を止めることはしなかった。
「確かに、オレもあいつもお前は死んでいると思っていた。けどなぁ、今、あいつに必要なのはてめえだ。てめえがその手で、夜霧冷夢を殺したから。その女がどんなに狂っていようとな、あいつにとってはたった一人の母親だったんだよ」
天津目葉の理不尽を突き詰めた獣のような残虐性を知る渚と萌衣は、彼の言葉に目を見張る。理性を以て、誰かのために語るその姿に。
不変は腕を組み、葉の弾劾を瞑目して受け止めていた。
「今、てめえはここにいる。なら、逃げるなよ」
再び録音機を投げつけようと右手を掲げた、その時、
「はいはい。美談をありがとう。けど、割と時間がないから後でにして」
両の掌を二回打ち合わせ、絵里が視線を誘導する。
「んだぁ、おい」
行動を遮られた葉が露骨な怒気を小柄な少女に向ける。導火線に火が着いた爆薬庫のような危うさを向けられて、しかし絵里の笑みは一片たりとも崩れない。
「まあまあ、そんな怒りなさるなって。ビジネスの話さ。情報と言う商品をかけた、ね」
中馬絵里が笑みの中に影を落とした商人の顔になる。彼女は武器商人であり、情報屋ではない。つまり、提示される情報は何かしらの武器になるということだ。
「商品価値の提示と行こう。この情報の鮮度は八分。この情報の購入を蹴った場合の被害は、この街に存在する全てだ」
渚以外は、この少女が中馬家の裏稼業である武器商売を担っていると知っている。商品価値を上げるための語りもなく、ただ淡々とした説明は逆に情報の真実味を強める。
「……もし、その情報を買ったら、被害はどれくらいに抑えられますの、武器商人?」
「ここにいらっしゃる皆様なら、被害をゼロにすることが可能です。由麻静波さま」
声音は恭しく、しかし挙動は道化のように頭を下げる。
静波はそんな動作を気にすることもなく、周りを見渡す。ここにいる人間が可能なことの共通点は、
「……! 武器商人と言う存在はつくづく卑しいですわね」
静波は眉根を寄せて、険を向ける。
「お褒めに預かり公営至極。それで、購入なされますか?」
「着弾予測点などの詳しい情報があるのなら、買いますわよ」
静波の台詞に、不変も目を見開く。萌衣も血相を変えた。
「由麻静波、私からも資金を出そう。それで、いくらなんだ、中馬絵里」
「五五〇億円。私がこの街から五分で出る術を持っている以上、出かけついでの駄賃稼ぎとしてはこれくらいでいいでしょう」
「円でご所望とは、ドル高のこのご時世で随分と謙虚な姿勢ですので」
「所詮は小銭稼ぎ。で、誰がいくら払うのですの?」
「この中で億単位で払える奴は何人いる」
不変の問いかけに、空気の重さを感じ理由を問わずに葉と寧々が応じる。萌衣は小さく歯噛みしていた。
「出せる金額だけ、出してくれ。あとは私と由麻静波が折半する」
「仕方ないですわよね。払えない方々は貸しですのよ」
「商談は成立したってことでいいかね」
絵里の確認に静波が頷く。
「では、書類は用意できてませんけど、特別サービスです。先に商品をお送りしましょう」
三度目の、柏手が鳴り響く。
「新R帝国が放った六発の核がこの街の各区をめがけて迫っていますわ」
――着弾予想時間まで、あと五分。
戦略兵器――核。新R帝国における発射の決定権は、皇帝一人に委ねさせられている。
発射手順は、過去の方法を踏襲している。軍部地下、或いは元A国のフットボールを模倣した無線通信機から毎日ランダムで変わり、皇帝しか知れぬ十六桁の暗号を入力し、時の皇帝の声紋、指紋、DNA情報を読み込ませ、頭上の宇宙空間を常時旋回している軍事用通信衛星へ送信する。受信した情報が正しかった場合、幾つかの衛星で情報が巡り、最後に核保管、発射施設の情報を管理する衛星から地上の施設へ解除コードが送信される。この衛星はセクリュージョンプログラムと言うものが組まれており、もし必要情報以外のデータが送られてきた場合、それがどのような内容であれ即座に解除コードをあらゆるデータからも隔離されるようになっている。
地上に送られた情報は地下軍部に受信され、送られてきた解除コードを元に発射ボタンをロックする鍵が封じられた金庫を開け、その中の三つの鍵を使いロックを解除し、共に安全回路も解除される。三人が共に中の発射ボタンを押すと、大型ミサイルを格納するサイロと言う建築物の蓋を爆薬で弾かれ、核は発射される。
進行は衛星のGPSにて管理され、市単位であれば寸分の互いなく着弾し、死をもたらすことができる。
準備時間は、十五分。発射された弾頭は、八発であった。
MGR社日本支部への着弾予測時間の十分前。
バチカン市国の上空に殺戮の化身が姿を現していた。その数は二。保有数はその三十倍とされているにもかかわらず、それだけということは、後々のことを考えられるだけの破壊力があるという証明だ。
「やれやれ、騒がしいのう」
石の部屋。窓際の椅子に腰がける豪奢な影があった。
白い修道服をまとった白髪の老人だった。顎から伸びた白い髭をしごきつつ、老獪さを瞳に光らせる。尊顔に刻まれる皺を歪ませ、不快感を顕わにしていた。
「ファティマの外側にいる異教徒が毒を吐くか」
カトリック現教皇、ピウス十三世だ。
サン・ピエトロ大聖堂にある一室から覗く空。MGR社と魔術師の戦争と言う重苦しい事態とは打って変わって快晴の空の元、やや東に傾いている日に照らされて小粒の何かが降ってくるのが見えた。
「全く」
教皇は嘆息する。
「何故この場所が魔術師たちの最終防衛拠点となりえ、目と鼻の先に科学の総本山がありながら不可侵国家を歌えたのか、理解できていなかったようだな」
教皇は視線を天から地に落とした。この極限下でありながら、市井の民草、怪我などで一線を退いたの魔術師さえもいつもと変わらぬ日常を謳歌している。
何も、変わらないものがそこにはあった。
「戦争下では無神論者も神に祈る」
教皇はひさしを作るように右手を掲げた。奇跡を体現する、右手を。
「たかが化学反応が、人間の信仰に叶うと思うなよ」
一気。魔力を練り、魔術を起動する。
掲げられた枯れ木のような右手の先、十の核全てがその姿を消していた。放射能物質が降り注ぐこともない。
この街は、大きな壁に覆われている。悪意あるものの侵入を阻む、信仰の壁が。
カトリック教の教皇は代々この壁を操る権能を脈々と受け継いでいく。その権能で可能になることは、壁に触れたものをどうすることもできるというものだ。
信仰が減れば壁の効力も減るが、現下の状況では、原子の結合前に霧散させることなど容易いことだった。
「せめて我が主神に祈るのだな」
ここではない遠方にいる小太りの男を思い浮かべ、十字を切る。
「神に仇なした罪の清算の機会を与え賜ることを」
三区、冷兎大学付属中学校。基本的に構内にある寮に住まうことが義務付けられているこの学校では、魔術師によるMGR社本部襲撃の方を受けた瞬間に、外出していない生徒を地下の避難用のシェルターに避難させた。不穏なニュースが続く中だからこそ休日を謳歌しようとしていた生徒も、校則に従い近場のシェルターに潜っているはずだ。
中学部だけでも千人を超える生徒数を誇るマンモス校であるが、このシェルターは、全員が横になっても数センチの隙間ができる程度の広さがある。
しかし、この場にいるもので伏せるものはいなかった。皆膝を抱え、仲の良いものと肩を寄せ合っている。ぼそぼそとした声はあるが、塊ごとである一定の空間が開いているのと呟き未満の声量で、グループ内だけで途切れるほど小さなものだった。陰鬱と絶望を押し込める緊張感が、大きな静寂として空間に漂っていた。
教師は慌ただしく、しかし生徒を刺激しないようにか走らず、速足で歩きまわっている。
照明は白く明るさを誇示しているが、剥き出しのコンクリートが気分を沈める。
不安を語るものはいないが、道化を気取る気丈なものもいない。
彼女たちもまた、同じようにシェルターの端の方に座っていた。
人口の光でもキラキラと輝く金糸のような髪を持つ空色の瞳を持つ少女と、黒い髪を蜘蛛の巣のように乱雑に広げて顔を膝にうずめる少女が。
アルニカ・ウェルミンと久澄飛鳥のふたりである。
「……みんな、優しいよね」
先程から続いている自責の呟きに、アルニカの心は強く締め付けられるように痛む。だけど、何も言うことはできない。
「私を責めたててくれればいいのに。そっちの方が分かり易いのに……」
「それは……」
アルニカには、飛鳥の心中を察することができる。自分のせいで何かが失われそうになる――失われる経験があるから。
だが、その時欲しかったのは慰めの言葉などではなかった。引き留める言葉など欲しくなかった。
ただ、贖いのために走り続けるその足を止めるのではなく、押してほしかった。
それは、自己満足でしかない。
少なくとも、自分のために思いと言葉を向けてくれる人がいる。自分が傷つくと、その人たちは悲しむのだ。
その人たちの優しさから背を向けても、だからと言って真っ直ぐ進めるわけではない。責めたてる声から耳をふさぎたくなる時もある。
飛鳥の姿勢は、そういうものなのだ。どんな力を持っていようと、ちっぽけな少女である自分達はそういうものなのだ。
だから、本当に欲しいのは、差し伸べる手だ。一歩先を行ってあらゆる艱難辛苦から守ってくれる、そんな手だ。
(けど……守られている現状に満足している自分に気付いたら)
アルニカは音を立てないように歯噛みする。地球に来て、久澄と大きな距離ができた。追いかけようとしても、彼の背はそれを拒絶し走り抜けてしまう。まだ慣れない世界では満足に走ることはできなかった。
だから、彼女は彼女にできることをやり続けてきた。仕事を、勉強を、友達作りを、生活を。少年の力を頼らずに。
そして気づいたのは、世界は森世界のように閉塞したコミュニティーで完結してくれるほど、甘くないということだった。
アルニカが誰にも明るく接するのは、生来の気質によるものだ。しかし、それをよく思わない人もいる。
悪意に対して、自分が何もできない事を知った。そういう時に思い浮かぶのは、あの少年の後ろ姿だった。
自覚と共に、吐き気がした。
自分にとって、あの少年は自分の命を救ってくれた英雄だ。だけど、生誕祭の時に、手を繋いで共に歩いたことから、立場は対等だと、思い込んでいた。
少年との思い出を振り返ってみて、一度たりとも自分が彼を救ったことなどあったか。
そんな事実は存在せず、いつだってその背に守られ続けてきた。
自分の脳味噌の都合のよさに、アルニカ・ウェルミンが抱える浅ましさに、心底絶望した。
失望して――何ができるというのか。
膝を抱えて戦争の引き金を引いた重圧に耐える友達に、自分が何をできるのか。
その時、空気に大きな違和感を感じた。強い、ビリビリとした感じが。
違和感は私服である膝丈のショートパンツのポケットに伸びていた。その中には、飛鳥に勧められてバイト代で購入した携帯端末が入っている。状況が状況だけに、バイブも切ってある。
「……?」
疑問を感じつつ、取り出す。
画面には、いつぞや連絡先を交換した夜霧萌衣の名が。何故、この世界の覇者でもある夜霧の姓を持っているのかなど分からないことは一杯あるが、少なくともこんな時に重要な理由なく電話をかけて来る人ではないのは知っていた。
「もしもし、萌衣さん」
受信を押し、声を潜めて応じる。敢えて萌衣の名を出してみたが、飛鳥に変化はない。
アルニカはこの面妖な機械の向こうから流れる萌衣の声に集中する。一方的な話なのか、彼女がするのは会釈だけ。徐々に瞼が開かれていく。
通話が終わり、アルニカは携帯をポケットの閉まった。
「結局のところ……」
誰に向けるでもなく、少女は呟き、
「ねえ、飛鳥ちゃん」
「……」
飛鳥は答えないが、気にしない。
「なんとなく、わかるよ。だからさ、一人で戦う必要なんてないよ。私たちは、誰かの命を背負って生きていけるほど、強くない」
「……」
「けど、それでも、背負わなきゃいけないものがあるっていうのも知っている。それは誰かと半分こにしていいものじゃない」
アルニカの言葉に、飛鳥の濡れた瞳が膝から覗く。
「私はさ、たまに、その重さが支えきれなかった時に、誰かに寄りかかるくらいはいいと思うんだ。崩れ落ちちゃったら悲しむ人がいるし、ふらふらとしていたらその重荷を知らない間に肩代わりしようって人がいるんだ」
アルニカの脳裏には、久澄碎斗、その人の姿があった。
「……それって、お兄ちゃんのこと?」
ようやく自分の殻の外へ向けられた言葉が聞けた。その内容の一致に、アルニカは笑みを浮かべてしまう。
「そうだよ。全く、頼んでもないのにやっちゃうからさ。困ったものだよ」
そう言えば、飛鳥も「そうだね」と薄い笑みを浮かべた。
「からさ、もし飛鳥ちゃんは一人で無理をせず、誰かにもたれかかることも必要なんだと思うよ。……もし仮に、それが私だったら嬉しいんだけどさ」
アルニカは顔を赤く染め、頬を掻きながら言った。自身の感情と自分なんかがと言う気持ちの背反があるようだ。
「……そうだね。たまに、頼っちゃうかも」
「本当!?」
「うん、こんな姿も見られてるしね。けど、もしもたれかかることに慣れ始めたら、背中を叩いてくれなきゃ嫌だよ」
「強いね」
「そんなことないよ。アルニカも困ったことがあったら、寄りかかってくれていいから。ま、お兄ちゃんが居るから必要ないと思うけど」
「いやあ、頼り過ぎてるから、そろそろ自立しないと」
逆に、頼ってもらいたいという気持ちもあるが、
「碎斗が、本当に大事なところで人を頼るところ、見たことないなあ」
「割と昔から一人で何でもやってたけど……三年前から極端にはなってるね」
「三年前?」
「うん。夏休みの数日間家出してて。多感な時期だからってお父さんたちはあんまり気にしてなかったけど……そう言えば、碎斗の性格が怖くなったのも、あの時からだ」
「反抗期?」
「じゃ、ないみたい。けどまあ、久しぶりに会ったら険が抜けててびっくりした。……アルニカの影響かな?」
にやにやしながら問われて、顔が熱くなるのを自覚したアルニカは、
「そそそ、そんなわけないじゃん」
と、無駄にでかい声で噛みっ噛みに言った。
ピンと張った緊張感が刺激され、生徒たちの視線が集まる。
全方面に頭を下げて、苦笑や失笑を一身に受ける。
とても泣きたくなったが、いくぶんかピリピリとした空気が軟化しているのを感じて、結果オーライ、と思い込むことにした。
しっし、と視線を散らせて、立ち上がる。
「どこ行くの」
「ん? ちょっとお手洗いに」
視線を走らせ、一番慌てた空気を発する教師を探す。
右往左往と何かやっているようで何もやっていない女教師の元に行き、
「あの、先生」
「は、はい。何を立ってるんですか座って」
「いや、ちょっとお手洗いに」
「ふぇ、あ、はい。えっと、貴女は確か転移系でしたよね。念のためですがついて行かせてもらいます」
「はーい」
全く息継ぎをせずに喋り抜ける女教師に、アルニカは内心で手を合わせた。
連絡口に出てすぐ左。使われず新品の輝きを誇る女子トイレに。ドアを開け、二人で中に入る。
「先生」
「なんですか? 早く済ませてください」
ドアが閉まる。
「ごめんなさい」
アルニカは、〈空の操手〉の力を用いて女教師の肺腑に詰まる酸素を二酸化炭素と無理矢理入れ替えた。
前触れのない窒息現象。新たな酸素を求めて動かされる口には、言葉を紡ぐ余裕はない。しかし、女教師の周りの空気は全て二酸化炭素である。
人間、酸素の供給が失われれば、簡単に気を失う。
倒れる身体を支え、一応トイレの外に座らせておく。細身だが、筋肉量はそこそこあるので短時間でその行為は終わった。
「いやあ、怒られるだろうな……」
気は滅入るが、今はそんな状況ではないらしい。
空間転移を使い、アルニカは〈塔〉へと飛んだ。
核弾頭。〈塔〉内部に集まった人間の中で、その物体自体に危機感を覚えるものは居ない。歴史は劣化し、風化する。歴史の転換期も、今を生きる子供たちとっては記録でしかなく、当時を知る夜霧と魔術師にとっては、処理できる現象でしかなかった。
ただし、現状においては問題が山積していた。
「六発、か……」
不変はこの場にいる全員を視界に収める。
「この中で放射能の被害をなくせるのは、由麻静波、天津目葉、錠ヶ崎寧々そして我々夜霧だけか……」
「あらら、隠してましたのに。ご存知でしたのね」
「胡桃渚から聞いた」
「あらまあ、乙女の秘密を言い触らすなんて悪趣味ですわね」
流し目を渚に送れば、ざまあみろ、とばかりに舌を出された。肩を竦めて応じてやる。
「で、この時点で人数が足りてませんわね。虚言は信用問題にかかわりますわよ、武器商人」
「いやはや、これは失敬」
静波からの糾弾にも、絵里は軽薄に応じた。最初からそういうつもりだったらしい。
「ふん。ここから六区までの距離も含めてておいていけしゃあしゃあと。どうしますの」
「正直、それが一番の問題だ。転移系の才能保持者が居れば別なのだがな」
不変の呻き声が、事の深刻さを深める。
「転移系転移系……そういえば一人知り合いでいるわ」
萌衣が携帯端末を操作しながら、伝達する。
「渚、これから飛ぶ電波、繋げながら軽く散らしてくれない」
「へ、何でですか?」
「こんな状況で避難している中学生がバイブ切ってないわけないでしょ。ほら、早く。冷兎の中等部まで」
「は、はい」
せっせせっせ、と急かされて、状況を読み込まぬままで渚は萌衣の言葉に従った。
「……と、あー、もしもし。うん、久しぶり。あのさ、ちょっと手を借りたいから来てもらいたいんだけど。結構やばめでできるだけ性急に。えっと、取り敢えず、〈塔〉のてっぺんに跳んで。穴空いてるから、そこから私たちのところに一直線に来れるから。ほいじゃあ、待ってる」
捲し立てて、一方的に通話を切る。拒否はなく、問いかけもなかった。常識のなさの中にある手慣れた空気。どうにも、この世界の住民ではないのではという夢物語を連想してしまう。
「渚、ありがと。まあこれで、移動に関しては問題ないわ」
「冷兎の中等部に在籍する転移系才能保持者と言えば、アルニカ・ウェルミンか」
異世界人である、ということは言わなかった。不変自身すら懐疑的な情報を告げる必要性を感じなかったからだ。久澄には手を出さないように釘を刺されたが、そもそも異世界の可能性論など不変の興味にない。せいぜい動向を確認していただけだ。
「よく知ってるわね。……ああ、久澄か」
萌衣が納得の声を上げたところで、入れ替わりで寧々が自分の意思を音にした。
「アルニカ・ウェルミン……そうか。私個人として会ってみたかったが、こんなところでな。成る程、中々に信用に足る人物を」
魔術師の実質的次席の口から興味深そうに彼女の名が出たことに驚きを隠せずにいると、「ねえねえ」と姉に呼ばれた。
「何、お姉ちゃん?」
「そのアルニカ? って子、有名人なの?」
「いや、違うと思うけど……」
アルニカが奈々美にさらわれたのは知っているが、それと寧々が興味を持つことに関連性は見いだせない。
「あの寧々さん、アルニカのことをご存じで?」
「久澄碎斗の眼の時に少々、ね」
「はあ……」
分かり易くはぐらかされた。致し方ないが、疑問は棚上げにするしかない。
ちょうど待ち人も来たようだ。
「お疲れ様でーす」
葉が開けた穴からふわりと落ちてきたアルニカ。金の髪が空気抵抗に逆らっているのは、〈空の操手〉の力を全身に及ぼしているからである。
ショートパンツに七分丈の柄物のシャツ。胸部がそれなりの曲線を描いている。
「わ、知らない人ばっかり」
「悪いけど、自己紹介している暇はないわ。さっそくだけど、その転移の力を借りたいわ」
「大丈夫ですけれど、誰をどこに、ですか?」
指示を仰ぐために不変に視線を送る。
「焦るな、夜霧萌衣。まだ、爆風についての問題が解決していない。放射能汚染の問題については、我々の技術でどうにかなるため、主要区に三人を送ればいい。だが、他の区は壊滅的な被害を受けることになる」
「絵里……」
武器商人を睨みつける。「ここは主要区ですよね?」と返ってきた。萌衣の額に青筋が浮かぶ。
彼女の怒りが爆発する、その数瞬前に、アルニカが手を上げた。
「なんだ、アルニカ・ウェルミン」
「何が何だかよくわからないですが、爆風の問題なら私、どうにかできます」
「どうやってだ? 爆風をどこかに転移させるのか?」
「いや、もっと確実な方法で、えっと……あの、碎斗に口止めされているのですけれど……」
「話さなくていい。私が許可する」
救いの船は、意外なところから来た。
「錠ヶ崎寧々」
「彼女の力なら、爆風をどうにかできる。ねえ、アルニカ・ウェルミン?」
「え、ええ」
アルニカは小さく首を傾げた。地球に来てから、空気を操る力を使ったのは、女教師を気絶させたあれが初めてだ。
「そうか。今はそれに賭けるしかないな。では、中馬絵里。まず、どこに墜ちる?」
「一区から外のかけて、十五秒ごとにくるよ」
「わかった。配置を言う。一区は錠ヶ崎寧々、お前だ」
「厭らしいな。ここまで来て裏切ったりしないさ」
「三区は天津目葉、お前だ」
「意趣返しか何かかぁ、おい」
「四区は任せたぞ、由麻静波」
「本当、適材適所って感じですわね」
「アルニカ・ウェルミン、お前は二区、五区、六区に墜ちる核の爆風だけ押さえろ」
「はい」
「夜霧萌衣、夜霧舞華、お前たちは私と来い。埃被った自浄作用の起動を手伝ってもらう」
「まあ、そうよね」
「久方ぶりに古巣に戻ったら、まさか昔のような仕事をすることになるって、凄いね」
全員に伝達が行ったことを確認すると、不変はすぐさま踵を返す。
一発目の弾頭は、目に見える距離にまで迫っていた。
寧々が左手の親指と人差し指に銀の鍵を挟み、回す。開錠の音と共に、葉に拒絶の力が戻る。
その頃には、葉と静波、アルニカは姿を消していた。
「さあ、異世界人とやらのお手並み、拝見しましょうか」
日が傾き、橙色に染まり始めた空に右手を伸ばす。
最強の事象改変使いと評された魔術師の改変力でも、この世の最小単位である原子までは改変できない。しかし、弾頭という物質そのものはこの世からなかったことにできる。そして剥き出しとなった原子は、錠をかけて鍵を閉じて封じる。
「一発目、クリア」
すでに二区は爆発射程圏内だろうが、爆風は来ない。
「二発目、クリア」
三区には、拒絶の力を持つ、天津目葉が。その背には、守るべき存在を背負っている。
「三発目、クリア」
四区には、電離線を操る由麻静波。彼女の牙城と侍女は、爆破の射程圏内だ。
「四発目、クリア」
五区には、二区を守り抜いたアルニカが。
「五発目、クリア」
六区は、言うまでもない。
「六発目、クリア」
放射能の問題も、解決した前歴がある。
誰に知られることもなく、彼らはこの街を救いきった。
「さて、あなたの言う通りだったね、武器商人?」
「いやはや、素晴らしい……」
この場に来て、初めて絵里の表情が崩れた。口の端の痙攣が隠せていない。
そこにアルニカに連れられ、葉と静波が帰ってくる。
遅れて、三人の夜霧も、この場に戻ってきた。埃被ったと言っていたが、夜霧がそれだけ集まれば二分と必要としないということなのだ。
放射能による二区、五区、六区の汚染も、この街に仕込まれた自浄用の機械が解決する。
「取り敢えずは、片付いたってことでいいのか」
葉の呟きに皆、顔を見合わせ、首肯する。
大局の動きは把握できないが――ブブブ――、〈塔〉における夜霧冷夢討伐戦――ブブブブ――から連なる――ブブブブブ―――長い長い一幕は――ブブブブブブ――、その幕を閉じ――ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ




