改問
そこは、時の流れから取り残されたような空間であった。濁った氷の檻からは外の様子は望めない。
世界の改変だと、契はすぐに分かった。だが、過去のどの時代にもそれを成せる事象改変使いは居なかった。
だが一人、その可能性がある人物がいる。
神殺しを企み、魔術界にただ一人で対峙し今なお生き残っている異端者にして化け物――九苹果が。
九苹果であろう外套の人物は、言葉を発さず力を行使。
契は右の靴底に何かが触れたと感じた瞬間、つま先を使い左に跳躍。その真横につららは伸びた。
氷は鏡のように反射し、冷や汗を流した自分の顔を映す。
先程のような挙動も大きな魔力の予兆はなかった。
(これは、担当が違うでしょ)
九苹果の魔術は、伝聞する限り氷による事象改変と炎の天災を発するもの。〈聖人〉としての力も知力に偏っている。本来ならば長距離では決定力に欠ける契より、遠距離型の華が対応すべき相手だ。
ましてや華は、実際に魔術を交えた経験がある。敵対者としても同士としても。
神々が遍在することを利用した移動法も、苹果には察せられ、現れた瞬間凍らされてしまう可能性があるため、使えない。
考えている間に、契と苹果を繋ぐ線上の地面から先程と同じつららが生えてきた。
右足を横に出しそれを軸に身体を逸らす
(試しに!!)
歯を食いしばり潰す覚悟で左の拳を氷柱に放つ。
冬の日の重厚な窓ガラスに拳を当てた時のような感覚が走り、つららは砕けた。
拳は無事であった。
(舐められたものね。まあ、いいけど)
横に向いていた身体を苹果に向ける。
(けど、これなら――)
雪原に足を食い込ませ、冷風に混じり走り出す。
つららが迫りくるが、拳で薙ぎ払う。
最後の最後まで氷の強度は変わらず、炎は発せられなかった。
狙いは分からぬが、射程距離。空気の壁を打ち破り必殺の右を苹果の心臓めがけて放つ。
「――ッッ!!」
が、その瞬間に契は見た。手首の側面から薄氷の刃が伸び、自分の腕を斬り裂く軌道をしているのを。
(受けられない!!)
拳の行き先を転換しようとするも勢いがありすぎ身体が持っていかれ無防備な姿をさらしてしまう。
(仕方ない)
と、瞬時に帰結し、腕一本を切り捨てた。肘から先が綺麗な断面をさらし血の軌跡と共に宙を舞う。
それを回収している暇はなく、すぐさま後退。バランスが崩れたのと前方にかかった力が抜けきらなかったために飛べた距離は短いが、それでも回数を分けて間を取る。
しかしその隙にも追撃は続く。
地面を滑るように肉迫し、両の手首の側面から生えた氷の刃で契に斬りかかる。
軽やかな動作で連撃。横に逸れれば回転からの切っ先が肉を抉りにかかる。
その姿はまるで飄々と踊っているかのようであった。
敢えて近接戦闘にすることで優位性を示しているか。
舐められてる、と思うも体勢を立て直せるまでは反撃もできない。何より雪に沈む腕を回収できないのが焦りを増長させる。
日本神話において棄て落としたものから新たな生命が生まれることは当たり前のように行われているが、契の霊格を持ってしても身に宿せるのは主神の眷属の眷属の権能のみ。位が下がれば、そこに付随する神話の再現の質も落ちる。
雪に触れた断面が完全に壊死してしまう前に、腕をくっつけなければならないのだ。
だが、そんな思考を読んでいるかのように苹果は契を腕に近づけさせない。
下から突き上げるような軌道で氷刃の切っ先が胸部に迫る。
腕を上に振りながら、半身を逸らす。揺れる袖口からそれぞれ一枚ずつ、計二枚の人型に切られた白紙が飛び出た。それに自我のないほど位の低い神を降ろす。そうすることで陰陽道のものである式神を神道にて扱うことができる。
白紙はすぐさまなんら特徴のない女性の姿に変化し、苹果の身体を拘束する。しかし片方は、追撃のため振られていた刃の一閃により二分された紙に帰し、一瞬遅れて巻きつく女性の首が飛ばされた。
だが、一瞬を稼げた。今の契に一瞬あれば、苹果に追いつかれるより早く腕を取りに行けた。
背後から氷柱と苹果が追ってくるが、その圧倒的な魔力が放たれることはなかった。
(なにか、理由が……?)
疑問がよぎるも、勘案する余裕はない。ベルトに挟んだ細長い紙をつまみ、走りながら地面に手を伸ばし落ちた腕をすくい上げるように掴み、回避行動を続けながら患部同士を当てる。指先を器用に使って傷口に紙を貼り付けた。
生々しい音を立てて、断裂していた腕が接合される。
調子を確かめるように右腕を振るいながら、踏み出した左のつま先で回転。眼前まで来る氷柱を打ち砕き、破砕したことで生じた氷の礫を切り裂きながら飛び込む苹果に手を伸ばす。それは先程と同じ右手だった。
その腕を再び切り落とそうと左の刃が空気を裂き始める。
だが、その始点を契の右手は捉えた。氷刃と腕の間に手の平をすべり込ませ握る。足先を滑らせ逆方向に向け、腰をひねって苹果の前方にかかるエネルギーを奪い取って背負い投げの要領で投げ飛ばす。
抵抗する暇もなく空中を滑走し、この場を隔離する氷壁にぶつかり骨が軋む。
体勢を立て直そうと顔を上げると、視界が肌色に染まって――鼻頭を中心に圧倒的な圧力に襲われた。首から上が離れ飛んだのではないかと感じるほどの衝撃。後ろの壁により、衝撃は全てその身体が受ける。
後方に飛ばされた瞬間、前方に戻される。腹部に押し出されるような感覚が走った。肝臓や腎臓のような塊となっている臓物が逆流するかと思った。
全て錯覚である。が、断続的に致死の攻撃を受け続けては魔術を練る隙もない。
衝撃の中、打算も姦計も放棄することにした。
考える必要はない。なぜなら、そこに在る(、、)のだから。
契の振り下ろした拳が宙を切る。その状態のまま、彼女は静止していた。目が見開かれ、その瞳には戦慄と疑問が宿っていた。
「お前が生まれた瞬間、おれらは名を奪われた」
長年に煮続けられたような怒りを含ませ、苹果だと思っていた外套の人物は、男性の声で言った。
「擬似的に神を殺し、その権能を奪う行為は、人から神への信仰を奪う。神と結び、神の存在を結ぶことで権能を奪う結神家。神を誘い、誘くことで権能を奪う誘神家。そして、神を借り、神を狩ることで権能を奪う狩神家。この三家の台頭は、魔術界にとって不和を生んでいた」
彼は淡々と、契が生まれたことによる罪過を語っていく。
「それ故に、〈聖人〉が三家のうちの一家に生まれたのは、絶妙なバランスを崩すこととなった。何せ、結神家だけが神に許されたようなもんだからな。こじつけであろうと、他のたんこぶを消すにはいい口実になったさ」
男は邪魔なものを払う動作で外套を脱ぎ捨てた。
「誘神家は記憶を、そして俺たちは名を奪われた!!」
現れたのは、黒髪で伏し目の地味目の少年。
「……ッ!」
体育祭の時、何故気付かなかったのか。高校生の部決勝戦のアナウンスで流れた出場選手の中にあった刈上壬生が、あの狩神家に連なるものだと。
自身の身に宿る原罪は、あの喪失と共に知っていたのに。
「……んで……」
「なんだ?」
呟きにも満たない契の言葉に、壬生は首を傾げる。
彼女は自らの愚かさに対する怒りを必死で抑え、改めて問う。
「なんで、神殺しの権能を得ている」
先程拳が空を切ったのは、神々が遍在することを利用した移動法を使ったため。だがそれは、人の身では叶わぬ力である。
そして封印され世界から拒絶された狩神の名なき今、彼に神殺しの権能を得る術はないはずだ。
「ああ、簡単な話だよ……神格を持つ人間を殺せばいいんだ」
無知な子供に世の常識を教えるように、少年は告げた。
神格を持つ人間。それで、全てが繋がった。
「……そうね……そういうことね……!」
左手で頭を抱えながら契は壬生を正面から見据えた。
「あんた、九苹果に捉えられた〈聖人〉を殺したのね!!」
「そうだよ」
と、彼は柔和な笑顔で肯定する。それがどういうことか、理解しているはずなのに。
「……神格と霊格は全くの別物。権能奪いの魔術は、神との契約という正当な神事と神を疑似的に殺すという裏をかくような方法を駆使して神格を霊格の形にして降ろしているのは知っているでしょ! ……だけど、神格持ちをただ殺すだけしたらッ!」
「神の権能の大きさに霊格が耐えられず、死ぬね」
〈聖人〉自体が抱えるのは霊格に他ならない。しかし、四肢に刻まれた聖痕は『神の子』の奇跡を内包ており、それは神の格の証明、言わば魂である権能――神格を宿している。
祈りを捧げ、契約する行為は、神の力を人間の規格に合わせる禊の役割を果たしてる。神殺しの権能も、実際に神を殺すのではなく、神を殺したと一時的に世界に錯覚させることで擬似的に得ている。
だから時間が経てば乖離し、それは重要な上位の神ほど早まる。
もしそれらを行わず、ただ殺せば、規格は調節されぬままそのまま権能が宿る。もはやそれは、神を討ち取る英傑に与えられる奇跡に留まらず、その人間を神へと格上げする。魂の質はそのままに。
九苹果のような規格外の化け物なら或いは可能性はあるだろう。しかし刈上壬生は、突出した霊格は持ち合わせていない。
だから迎える末路は、彼自身が断言したそれだ。
「けど、だからどうした(、、、、、、、)?」
笑みは崩れない。どこか諦観したその態度に、契はうすら寒いものを覚える。
背中に節足動物が這いずり回るのに似たその感覚は、どこか遠くに置いてきてしまったそれだった。
「魔術師にとって名を奪われることは、死と同義! なら、命を賭すくらい容易いことだ!!」
きっとそれは、彼自身の意思ではないだろう。狩神家が名を奪われたのは、壬生が生まれる少し前だ。
親の世代が抱えた私怨を物心つく前から刷り込まれ、歪な復讐を演じている。
大のために小をお粗末に切り捨てた結果の悲劇。記憶まで奪わなかったのは、彼らに関心がなかったからだ。表面上の忠義を信じ、内側で煮えたぎる怨念を察することをせずに。
「俺と共に地獄へ来い、結神契!」
壬生の姿が視界から消失する。次の瞬間、背後に彼は現れた。
「――ッッ!!」
前方に跳びながら反転。同じ移動法を駆使できる状態の契だからこそ、その移動に伴う空間の違和感を察することができた。
「やはり無意味か……」
腕を上げ氷刃を構える壬生。一息、地面を滑走するように迫ってきた。
氷瓢武舞。氷を用いて飄々と、武でありながら舞うように。氷水系の特殊才能を得た壬生が生み出した戦闘方法。
自分の足が触れた場所を凍らせ、その上を滑る。その動きは自由自在。
契は下がらず、正面から迎え撃つ。
通常の移動方法や関節の駆動から外れた動きから繰り出される連撃。まともに受ければ簡単に切り裂かれてしまう。
だから契は、生身の腕をはじくことで処理し続けた。
契の意識の隙を突くように、旋回。いつの間にかアキレス腱から太ももまで伸ばされた氷刃を以て彼女の上半身と下半身を分かつため薙ぎ払う。――が、それを選択肢の一つとして予想していた契は、瓦割の要領で手刀を落とす。
肉と骨を断つ一撃だが、壁際に追い詰め攻め続けていた時に感じたようにまるで手ごたえがなかった。その感覚通り、壬生の足ははじかれはしたものの健在だ。
壬生の姿が契の視界から消えた。いや、違う。下に横へ倒れるような形で落ちている。わざと足を滑らせることで、眼球の動きから外れ、右の刃で空いた脚を狙う。
氷の刃のつま先で打ち砕き、勢いのままその顎を蹴り上げる。浮いた身体に振り上げた足を降ろした力を伝達した拳を穿つ。
吹き飛んで行く壬生。契は振り下ろした手に、生肉の塊を殴ったような感覚を得ていた。血袋を破る感覚も、骨を砕く感覚も得られなかった。
壬生は無抵抗のまま氷の壁に衝突し、何の淀みもなく起き上がり、滑走。空気中の水分を凝固させ、右の刃を再生成して斬りかかる。
「こうなってからわかったんだけどよ」
彼は乱舞の合間に言葉を混ぜる。
氷の礫による牽制から全身を使った剣戟に意識を向け、氷柱で足下をすくい乱撃の勢いを早める。
「神と神の戦いは、権能の奪い合い――存在の否定だ。人間の雛形だけあって、奪うことでその存在を確立する」
上から雹を降らせ、下からつららを生やす。契は後ろへ飛んで躱した。
(だからか……)
手ごたえを得られなかったのはそういうことだ。神の位へと足を踏み入れた壬生の身体は、今や人間の規格からは外れている。
その姿形が無辜の人々の畏敬を集めるものでしかない神々にとって、その存在を確立するのは『格』だ。権能の大きさだ。
自身の力を以て確立された存在を根本から否定し、他の神の信仰と権能を簒奪する戦い。
あくまで人として神の力を借りていた契のとってそれは、知ることのできなかった法則であった。
だがそれは、神々同士の法則である。人と神では、そもそも立つ地平が違う。それを理解していながら伝えた。
(誘われているのね)
契約と神事を無視し神の権能を食らいつくせ。そう言外に告げられていた。
壬生は契の思考の間も攻撃の手を緩めはしなかった。
彼女が中空にいる間に幾百本の氷の槍を精製。回避は彼の真意を察すると共に帰結し、圧倒的物量は彼女へ収束する軌道で飛来した。
「分からない」
その一つ一つを拳一つで砕きながら、彼女は呟く。
「何故、そこまでする! お前にも、お前をお前として認めてくれる居場所があるだろう!!」
「分からないさ、お前には……拳一つでおれの攻撃を防ぎきる、お前には!!」
声が近い。槍は全て礫となって雪原へ落ちた。
「いや――」
と、壬生は氷槍に紛れ、滑るように契の懐に潜り込んで来ていた。
「いつか、分かるか」
一気。壬生は手足に生やした氷の刃で防御を捨てた背水の乱舞で襲い掛かった。
契にはその一挙手一投足が見えた。〈聖人〉であり神殺しの権能を宿した契と、魔術師としての名を奪われ新たに手に入れた力もランク3程度で収まっていた壬生では、その才覚に残酷なまでの差があった。
生を分かち神に成ろうと、本懐を遂げることもできない。
(俺の人生に意味は……)
腕を弾かれ、足を押さえつけられ、それでも刃は止まらない。
身を焼き裂くような苦痛には慣れた。それでもやがて、活動限界が訪れる。そしてそれは前触れなく訪れた。
「――ッ!!」
壬生の全身が内側から裂けた。神格の大きさに彼が持つ霊格が耐え切れず、魂の亀裂がそのまま身体に反映されたのだ。
だが、終わらない。欠け、砕けた氷刃を舞い散る血で補強し、紅い軌跡を作る。
最強でありながら、理不尽を許容する神を殺す。そう宣言したあの女の手を掴んだのは間違えだったのか。それは分からない。
けれど、今だけは。
崩壊していく人間としての部分。音が消えた。両腕が動かなくなった。足の感覚が消え、崩れ落ちる。冷たい、と感じるはずの触角はすでに消え失せ、光は遠のいた。
薄れゆく意識の中喋ることもままならなくなっていたが、伝わるだろうと、彼は言った。
「地獄で待ってるぜ」
暗闇を映す意識に、最後の思いが溶け込む。
(お前も必ず、この道を選ぶ……失ったものを、取り戻すために)
言葉を聞けてしまった契は、構えていた両の腕を力なく下げ、言葉をこぼす。
「なんで……」
彼女には、最後の最後まで彼が何故ここまでしたのか理解できなかった。
壬生の亡骸を前に立ち尽くす契の姿は、氷の檻に遮られ誰の目にも届くことはなかった。




