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ファクターズ  作者: 綾埼空
五話 その力は誰がために
109/131

二年前の冬、その笑みは地獄のような現実となりて

月下での相馬颯真との再会。それは、否応なく二年前の冬の日を思い出させる


地獄のような現実だった。


決して思い出したくない過去。しかし、忘却の彼方へ追い込むことのできない確かな傷。


今の俺を形成した直接の理由。その男は、相馬颯真は気持ちの悪い笑顔で俺の心を殺した。そして、一人の少女を――『俺』がまだ『ぼく』としての残滓を留めておけた理由であった昔馴染み、誘神命を決定的なまでに傷つけた。


俺はあいつを絶対に許さない。誰が何と言おうと。たとえ何人から否定されたとしても。だから、振り返らなければならなかった。俺を構成する全てを怒りの業火にて熱し、決意の鉄槌にて打ち直し、冷酷な心で冷やして確実に心の蔵を貫く復讐の刃とするがために。


あの冬の日の地獄を。自分を含めた人間に希望を持たせてくれた誘神命を、人間への絶望と共に壊した相馬颯真との因縁を。


思い出そう。








――二年前、三月十八日。








 暗闇の中に、前触れなく映像が流れ始める。白黒で彩られた光景は、しかし何故か色の種類を脳内で理解でき、主観的にも俯瞰的にも見ることができた。


 血色の月が浮かぶ夜。雲一つない闇夜色の空なのに、ぽつぽつと雫が地面を濡らす。それもまた血色をしており、しかし地面に触れた瞬間一瞬煙が立ち込め消え去る。


 大樹が一本貫いたとある廃墟の一室。伸びた枝でガラスの破片が散らばり、年期と共に乾いたコンクリートはところどころひび割れている。部屋の端にはこんな場所には不釣り合いな剣道の竹刀入れと、逆に雰囲気に合った細々とした骨の群が落ちていた。


 紅く照らされたその空間の中に、二つの重なり合う人影が。それは男女のものであった。


 一つは紅い長髪に黒い双眸、現在の異常な空の色を特徴として内包した絶世の美女であった。纏うドレスは鮮血のような色をしているが、下品さはなく不思議と物語のお姫様を思わせた。


 もう一人は遊びのない黒髪をした少年だ。顔は俯いているため窺えないが、服装は詰襟なため学生だと判断できた。とても柔らかい空気を醸し出している。そして、この場景の主観でもある。


 そして重なる影の通り、二人は互いに抱き合えるような位置にいた。少年じぶんの右腕が伸び、女性の左胸を貫いているが。


 腕には何の感触もない。しかしそれが虚構とは感じなかった。


 少年じぶんが顔を上げた。目の端に涙がたまり、頬へと流れていった。


 それを女性が愛おしそうにすくう。


 そして、後ろへ倒れ込んでいった。


 栓を失った胸から鮮血があふれ出る。少年じぶんは血に濡れた右手と早くの手を伸ばし――しかしその動きが一瞬止まる。


 それにより左手は何をも掴むことはできなかった。重いものが倒れる音と、水っぽい音を聞き呆然とする少年じぶん


 そこに女性が人体構造を無視した直立の姿で立ち上がり、血に濡れた血色のいい唇を動かした。


「なんでわたくしを殺したのですか? なんで私の手を取ってくださらなかったのですか? ねえ、なんでですか? なんでですか? なんでですか? なんでですか? なんでですか?」


 間接の錆びた人形のような動きで首を捻りながら、生気を感じさせない陶器のような瞳が少年じぶんを射すくめる。


「私は生きたかった。痛い、苦しいですわ。ねえ、何故こんなことを? 答えてくださいまし」


 ばくばくと心臓が高鳴る。罪悪感を抉られる。がらんどうな瞳が少年じぶんの浅ましさと卑しさを直視してくるように感じ、視線から逃れようと身をよじった。


 しかしその前に、女性の甘い息が吐き出された。最悪な毒と共に。


「貴方なんか、救わなければよかった」


 その言葉は、胸の中心に押しつぶすような重みを、そして貫くような鋭い痛みを与えてきた。その痛みは消えることなく、薄れることなく残留し続ける。


 そして女性は少年じぶんを恨みがましそうに睥睨し、どろりと溶け始め――


「ああああぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァアアアアアアア!!」


 その光景は俺の中から遠ざかり、別の風景を映し出す。


 カーテンの閉め切られた薄暗い部屋。遮光性じゃないのに光が差し込まないということは、今日も曇天の空なのだろう。


 しかしそんなことはどうでもよい。激しく高鳴る動機に押されるようにまだ際に寄せられた敷布団から起き上がり、汗に濡れた身体が冷えた空気で体を奪われることも気にかけず、一目散に机へと走った。


 その上に置かれた安物のカッターの刃を出し、手首に押し当てた。後は引けば、この苦しみから解放される。


「…………」


 しかしできない。引けば大量に出血し、傷口は突っ張ったような感覚と共に大きな苦痛を与えてくるだろう。痛いのは嫌だった。何より、死ぬのは怖かった。


 ああ、なんて俺は自分勝手な人間なのだろう。死んだ方が世界のためであろう害悪であろうに、自分が失われるのが怖くてたならない。


 大体何故世界のためなんかに死なねばならないのか。そう思考が回り、さらに自己嫌悪。俺は誰のためにも死んでやることはできない。そう、あいつと違って。


 そこで立てつけの悪い金具が甲高い音を立て、部屋の扉が開いた。低い音である足音に気付かないくらいには思考に没頭してみたいだ。


 俺の目が音源へ走る。そこには愁いを帯びた瞳に充血した目。腫れ、隈を浮かべた瞼をした母さん――久澄春美の姿が。少し前までの柔和な感じは消え去っていた。全て、最近行動が顕著になってきた俺のせいなのだが。


 だがそれに自虐する以上に、この状態は非常にまずい。


「さーくん……」


 呟きに含まれた悲壮から、もはや言い訳の余地はないらしい。


「何やっているの!!」


 全くだ。以前の母さんからは考えられないほどの声に俺はそう思う。しかし、ささくれ立った心に気安く触れられた俺の口から吐き出されるのは異なる言葉だった。


「うるさいな! いいだろ別に! 俺が何してたって! うざいんだよ、関わってくんな!!」


 思いきしカッターを机に叩きつけ母さんの横を抜ける。その時にすすり声が聞こえてきたことに悪く思いながらも、同時に嫌悪感を覚えた。大の大人がこんなことで泣くなんてみっともない。


 相変わらず俺は最低だ、と思いながらリビングへ向かう階段を下る。一歩一歩に苛立ちをぶつけながら。ドンドン、と苛立ちの大きさに比例した足音が耳朶を叩く。


 降り終われば右手に玄関がある。逆の左に進みちょっとした長さの廊下を歩き、途中にあるトイレに寄ってから目的地へ。そこには無言で食卓を囲むスーツ姿の父さん――久澄秋司と妹の飛鳥の姿が。机の上には丁寧に俺の分の朝食が置かれていた。


 飛鳥が幼い顔に緊張を張り付け、おびえた目でこちらに身体を捻り窺ってきた。目を合わせると、ポニーテールを揺らし焦ったように元に向きに直った。


「朝っぱらからうるせえな」


 わざとらしく新聞を広げ、父さんはどうでもよさそうに告げてきた。


「さっさと仕事行けよ、邪魔くせえ」


「時計見てないのか? まだ七時半だぞ」


 顔を動かし時計を探す。確かにその時間だった。


 俺は返す言葉も見つからず身を翻した。


「おい、ちょっと待てよ」


 父さんの声に怒気が混じっていた。新聞をたたむ音。


「お前さ、いつまで母さん泣かせるつもりなんだ? うじうじいじけててうざいしよ。何で悩んでいるのか教えてもらわないとこっちも困るんだよ」


「……父さんたちには関係ない」


「関係ないってなんだよ。俺たちゃ家族だろ?」


「ああ、そういう押しつけがましいの止めてくれよ!」


 火花が散るような緊張感が生まれる。飛鳥が怯えているのが分かったが、今の俺にそれを気遣う余裕はない。


「母さんが精神科に通わなきゃいけない状況になっているのは、どう思う?」


「それは……」


 初耳の事実だった。しかし口から出るのは最低の一言だった。


「俺には関係ないね」


「そうかよ」


 声が異様に近くで感じられた。まさか、と思い振り向こうとする。しかしその前に後頭部にすさまじい衝撃が来た。意識が飛びそうになる。


 だがソプラノの二重の悲鳴が意識の乖離を妨げた。


「秋司さん、止めて!」


「母さん……」


 父さんが気まずそうな声を上げた。母さんはオレに駆け寄り後頭部に触れてきた。前頭葉まで突き抜けた鈍痛が優しく撫でられる。状態を診ているのだろう。


「なんでさーくんを殴ったんですか!?」


「いや、それは……悪い、母さん」


「私じゃなくてさーくんに謝ってください」


「……それはできないかな」


「秋司さん?」


「さてさて、仕事行きますかな」


 父さんは先程の発言を飄々と覆しダイニングに挟まれた先のキッチンへ食器を片づけに。かちゃかちゃと音が鳴る。


 俺は母さんの手を払い上体を起こして道を開けた。また色々言われるのは面倒くさかったからだ。


「じゃあ、行ってくるわ」


「……いってらっしゃい」


 母さんは少し刺々しい口調で返した。今日はいつものように玄関先までの見送りはしないらしい。俺は自分に向いていない棘に痛みを感じつつ、何も言わない。


「あ、あたしも」


 登校するには早い時間だが、自身で選択する能力に欠けた飛鳥が父さんの選択に合わせる形で小走りに動き出す。ちんまい手で食器を流しに置き、向き直って今度は走る。椅子の下にあった赤のランドセルを背負う。


「お母さん……とお兄ちゃん、行ってきます。お父さん、待ってよー」


 小さな歩幅で走る小学六年生の娘を母さんが「いってらっしゃい」と見送り、俺は立ち上がった。


「さーくん……頭、平気?」


「うん……あと悪いのは俺で父さんは何も悪くないから。許してあげて」


「分かったわ」


 母さんの答えを聞きつつ、俺は洗面所へ向かった。この家では俺だけが飯を食べてから歯を磨くのだが、最近は朝起きると口の中が異様に粘ついている。そして今日は特に気分が悪いため、ルーチンを崩し、気持ちを入れ替えてみる。効果があることを期待する。


 風呂の隣にある洗濯機と同居する洗面台へはすぐに辿り着き、鏡の真下にある台座に陳列された四つのコップから水色の歯ブラシが入ったものの取っ手に指をひっかける。水をなみなみ注いで、ブラシもついでに湿らせる。口をゆすいで、歯磨き粉をつけた歯ブラシで口内をくすぐる。ミントの清涼感と独特の刺激が舌を中心に広がった。


 磨いている間に鏡を見る。成る程、ひどい顔だった。辛気臭いにもほどがある。特に目なんか光を取り込まずに死んだ魚のようだ。あと寝癖が竜巻だ。


 舌全体まで磨いた俺はコップの水全てを使い口の中で泡立った歯磨き粉を全てゆすぎ切った。お湯の蛇口を捻り、ブラシを洗う。気温で冷えた水は冷たい。


 しかしそれもすぐにお湯になり、歯ブラシをコップの中に入れて元あった台座に。


空いた両手を重ねて受け皿を作った。そこにお湯を貯め顔を洗う。二、三回その動作を繰り返し、湯を止める。近くに置かれたタオルで目やにを取ることを意識しながら顔をぬぐう。


 タオルを洗濯機に投げながら鏡を見る。目やにや油は落せても、辛気臭さは流れ落ちないらしい。


 髪は、どうするべきだろうか。勘案するが、直すことにした。俺はこのままでもいいのだが、母さんが直しにかかってくる。


 洗濯機から先程のタオルを取り出し、洗面台に頭を突っ込む。そしてお湯をぶっかける。


 全体的に蒸れたと感じた俺はお湯を止めて髪に手櫛を入れる。感覚的に直ったな、と感じたらタオルで水分をできるだけ拭き取った。


 鏡で確かめてみたら、まあ変ではなくなった。


俺は改めてタオルを洗濯機に投げ、二階へ向かう。今度は感情をぶつけたりはしない。爪先だけで音なく登っていく。年季の入った家のためどこも軋みやすいのだが、階段に限ってはこの登り方だとそれが全くない。何故だろうか。触れる面が狭いのが関係しているのだろうか。


俺は段差の群を超え、平地に辿り着く。そのまま回れ左。直進すれば俺の部屋。扉は閉まっていない。


薄暗い部屋。窓を正面に見据える体勢になることで本来は快晴だったと知る。ただ単に太陽の光が差し込んでいないだけだった。


進む。場所的には布団を肌色の強化ゴム製の机で挟んだ反対方向。つまり、扉近くだ。カッターは母さんにより回収され、何も置かれていない事実を横目に机と同色同製のクローゼットの上をを開ける。観音開きだが部屋の扉とは違い甲高い音を立てたりしない。


ハンガーにかけられずらりと並んだ上着からネクタイが方部分に乗せられているブレザーとワイシャツ、そして防寒用で灰色のカーディガンを手に取る。ズボンはブレザーのかかったハンガーの真ん中に開いた穴の部分にベルトがついたまま垂らされている。下の引き出しを引き、中から黒のシャツと靴下を取り出して閉じる。


部屋着を脱ぎ、シャツとワイシャツを着る。ズボンを抜き足を通しベルトで固定。片足ずつ靴下に足を通す。純白のシャツの襟を上げ、簡単な方法でネクタイを締める。カーディガンを腕に通してボタンを閉じ、ブレザーも同じように羽織って着替えは完了した。


ハンガーを元の位置に戻して扉を押し込む。


そこら辺に転がったスクールバッグを手に取って再び下へ。玄関前にカバンを落としてからリビングへ。途中、母さんが洗面所で洗濯機をいじっているのが見えた。入居してきて数年の物なのに危なっかしい手つきだった。どうにも見ていられない。


「母さん、毎回言ってるけど、ごちゃごちゃしたボタンで迷わず紫のやつ押せば勝手にやってくれるから」


「そうだったわね。こう色々あると毎回と焦ちゃうのよね。ありがとう、さーくん」


ボタンを押す音が聞こえ、静かな起動音が一瞬鳴る。無音式が常識になった現代でも静から動への変換時には微細な音が出るらしい。まあ、母さんには聞こえてないだろうが。



「メモでも貼っておけばいいのに」


そう言い残して、俺は目の前まで迫った部屋に足を踏み入れる。白壁の質素なリビングには必要最低限のテレビやテーブルなどしか置かれておらず、誰もいないと実に寂しく見える。見えるだけでどうとも思わないが。


俺はさっさと席に着く。飛鳥の席の隣の椅子に腰を下ろし、改めてテーブルの上を見る。黒いランチバッグに収納された弁当と朝食がある。焼いた食パンにハムとレタスを乗っけ、チーズで蓋をした軽いものだ。父さんや母さんは白米にみそ汁、焼き魚とバリバリの和食だが、俺と妹は朝からそんなに入らないため、毎回軽めのものにしてもらっている。今の自分にもそれを貫いてくれているのは、素直にありがたいと思う。それに粉をお湯で溶かしたミルクティーだ


食パンに手を伸ばす。しっかりとした手ごたえと重みがかかる。


一口、かじりつく。焼き終わってから時間がたったパンは見た目から想起させるサクサク感はなかったが、代わりという風に新鮮なレタスの触感が歯ごたえとして確かに食べていると感じさせてくれる。ただ噛むたびににじみ出る水がハムやレタスの濃厚な味と混じり合わず、口内で分離して舌の上で転がって少し気持ち悪かった。ただ、一体感がないだけで普通においしいため、二口、三口と口に運んでいく。


「さーくん、いただきますくらい言いなさい」


洗濯機を無事動かし終えた母さんが戻ってきて、そう言ってきた。


俺は何も言わずパンで失われた口内の水分を甘い紅茶で潤わせ、さらに手を動かし続ける。


最後の一口を口に投げ込み、残りの紅茶と共に流し込む。皿とコップをを持っていこうと立ち上がる。ごちそうさまは、言わない。


シンクに積み上がった食器類の上に追加。


「おそまつさま」


そう言い早速洗い物に取り掛かろうとする母さんの横の抜け、時計を見上げる。七時五十分。出るには早い時間だが、家には居づらい。


弁当を持ち玄関へ。鞄の取っ手に指をひっかけ肩にかける。靴箱から黒のスニーカーを玄関に落とし押しを通す。つま先で地面を小突けば完璧な履き心地。


俺は扉を押して外に出る。真っ青な空模様だった。




















吐く息は白く、身震いしてしまうほどに肌寒い。季節は冬なためか、日の出を迎えてしばらくの今も鳥たちのさえずりは聞こえない。


俺の通う私立笹上中学校は、千葉県南部の某所、自宅から徒歩で十分圏内にある。


裏門側組、学校までの最後の難関とされる坂道に俺は居た。大型車両二台分の横幅がある道路を挟んでひしめき合うように並んだ家の群に、ガードレールで守られた歩道の幅もまた広い。


閑静なはずの住宅街は、しかしこの時間帯だけは雑多な音に包まれる。


音の正体は、黒髪の少年少女たち。皆俺と同じくブレザーを身にまとい、その上、もしくは下から防寒具を身に着けていた。細部の作りは違うが、同じ学校の生徒たちである。


歩む生徒たちがそれぞれ個人差があるものの同行者がいる中、俺は一人で登校している。また周りには一歩分多い空白がある。


別にそれは気にならない。気にしていられる余裕がないとも言える。そうやって俯瞰的に自分を見れるようになってきているのはいいことなのだろうか。


不意に顔を上げてみた。やはり空は蒼く透き通っているが、すぐさま色あせて見えた。それはこの登校風景にも言えることだった。まるで曇天の鼠色の風景を見ているようなのだ。


人の波に身を任せて進む中、背に面に小さな衝撃が駆け抜けた。雑多な足音で、さらには聴覚を絞っていた俺はその接近に気付けずにわずかに前のめった。


「やあ、おはよう、碎斗。元気か?」


「ああ、誘神か。どうにかこうにか元気だよ」


振り向き確認するまでもなく、通りの良い声で判別できた。いや、それ以上に今ここまで深くかかわっている人間が彼女しかいないためなのだが。


軽快な笑いと共に横へ並ぶ少女。十五センチ程度下に短い黒髪が見えた。俺の背が百七十五くらいなので、百六十くらいか。耳当てにマフラーと完全防寒だった。


「昔みたいに命でいいのに」


言うに曖昧な笑みを返していると風が吹いてきた。冷たい。今日は北風のようだ。命が視界の端で腕を組み震える動作をした。


「寒いなぁ」


「まだまだ冬だからな」


端的に答えておく。会話は苦手だ。だから普通ならここでこの話題は途切れてしまうのだが、同門の昔なじみである彼女はそれを知っているため、そこから会話を広げてくれる。


「どうにも昔から寒いのは苦手だな。稽古場の床は冷たいし、踏み込めば足の裏に刺すような痛みが走る」


「毎年そんなこと言ってんな。まあ、気持ちは分からんでもないが……」


「でしょう。顧問も師範も気合だ! って言うし」


「……そうだな」


返答に、一瞬遅れる。俺によぎった思いを察してか、命は笑みを引っ込めて言う。


「もう復帰する気はないの?」


その問いかけに、体感温度が一気に下がった。


「……ないよ。一年半。復帰するにも今更だし……それに」


「今更だと思っているのは碎斗だけだって」


最後のいい淀みには気付かぬふりをし、命は説得を続けてくる。


「ね? 一人でも多いほうが練習量も減るしさぁ~」


眼前に手を合わせて懇願するような姿勢を見せる。


言葉が嘘なのは理解できていた。練習量を減らしたい少女がわざわざ休日の部活後に道場の門を叩くわけがない。


俺は内心で命に気を使わせている事実に罪悪感を覚える。しかし何を言うことも、ましてやその誘いに首を縦へ振ることもできない。内心で渦巻く葛藤を抑え込み、笑みを浮かべる。鏡はないが、上手く作れていないだろう。


「ごめん、けじめだから」


何がけじめか。逃げているだけだ。そう自覚していながら、どうにもできない。同時に、自分の外面の良さに感謝する。


この少女だけには、理不尽な感情をぶつけたくないから。


いや、それは親以外の誰にもだ。ただ単に周りから浮きたくないという浅ましい感情が働いているのだろう。


本当に嫌になる。


目の前に四階造りのマンション並みに窓の多い建物が見えてきた。横に広い棟と四角い棟が一本の廊下でつながった形をしている。それが私立笹上中学校の校舎だ。


二年生の校舎は横に広い棟の左側だ。


俺たちは微妙な空気を抱えたまま、まばらに賑わう昇降口へ入る。俺も命も二年四組に所属している。


外履きから上履きに履き替えた後も別れることなく、俺たちは無言で衝撃演算型の鉄板の上を共に歩いていく。廊下の突き当り、美術室の対面にある階段を上る。二年の教室があるのは三階なため、少々時間がかかる。


あるのは重苦しい沈黙。喧騒が俺の心を駆り立てる。


「……誘神、剣道は楽しいか?」


遂に心の奥底でくすぶっていた感情が脳に見つかり、電気信号を通して舌が言葉を紡いだ。内容は具門なものだが、俺の対話力ではそれが限界であった。


命は一瞬目を見張り、少年っぽい笑顔に表情を変えてから答えた。


「そりゃもちろん!」


「そうか。ほんと、頑張ってくれよ」


その笑顔に心が安らかになるのを感じながら、珍しく俺の口は本心を発した。


自分から投げかけておいてすぐさま完結させてしまったためにまた沈黙が流れたが、先程までの硬さはなくなった。


階段を上り切り、右に廊下を歩く。一番奥にある二年四組に着いた。男子生徒十二の女子生徒十二人二調節されたの総勢二十四人クラスだ。ドアを開け入室すると、暖房の熱気が寒空で冷えた身体を温かく出迎えてくれた。まだ早い時間、人数もそこそこしか居ない。


俺らはそれぞれの席に向かう。全五列、窓際から俺のところまでは一列に五個机が並び、廊下側だけが四個。命は窓際から一列目の前から三番目。俺は四列目の最後尾だ。何故か、廊下側の隣に謎の机が置かれていた。


疑問を覚えつつ椅子を引きカバンをその下へ。そのまま着席。すると一人の男子生徒が俺の前まで来た。命は別の女生徒と共に居る。


「また誘神と一緒に登校かよ」


軽いやっかみが混じった呟き。


「池田、もうそろそろで二年も終わるんだから会話くらいはしておけよ」


クラスメイトである池田俊也。野球部で坊主頭の彼は命のことが好きらしい。朝の早い命に合わせてこいつもこんな時間に来ているらしい。いろいろな誤解を経て、今は彼女について相談される関係性に落ち着いている。


ただこいつはあまりにも奥手すぎて、様々な機会を設けたものの結局会釈くらいしかしていない。そのためか命からは浅い関係定番の『優しい人』という感想すら得られておらず、クラスに居る男子としか認知されていない。もちろん、本人には黙っているが。


「俺を舐めんなよ、久澄。この前掃除当番で一緒になった時、箒を渡したらありがとうと言われたんだからな」


「それは……」


嬉しそうに跳ねた声音にどや顔。なんというか、どうリアクションしていいのか。恋愛感情というものを持ったことのない俺にはよく分からない話だった。


そんな感じの会話を続けていると時間が経ち、人も増える。総数と人の輪が広がり、いくつかのグループで集まり始める。俺も席を立ち、池田と共に後から来たメンバーと固まり談笑をする。増えた机の話にもなったが、有力説の転校生は時期的にあり得ないと却下。なので疑問は思考の端に追いやられ、内輪だからこそ話せる馬鹿な話に耳を傾けていく。


それは一年半前から変わらぬ日常だった。心の底から笑えないことを除けば。


しばらく適当に過ごしているとチャイムの音が鳴った。人類史の転換期である半世紀前から変わらぬ、鐘を鳴らす擬音のような音だ。


「はいはい席着けー」


若い男の担任が肩を黒い長方形の物体で叩きながら気だるげに入室してくる。朝っぱらからそんなテンションとは、教師的にどうなんだ。しかもドアを開けっぱなしにして寒い。何やら廊下の方に顔を向けている。


疑念を抱えながら俺たち生徒は言葉に従い各々に割り当てられた椅子に座る。


黒板の前方に置かれた教卓の後ろで歩みを止めた担任が、肩叩きに使っていた黒いタブレット型の綴込表紙、或いは出席簿を開く。


「今日の日直は……池田か。号令頼む」


「起立」


廊下側から一列目の前から二番目に着いた池田が通りの良くでかい声と共に立ち上がる。後から続くクラスメートが全員従ったのを確認してから、


「礼」


「おはようございます」


それぞれのリズムで朝の挨拶を。


「着席」


俺たちは腰を下ろす。


「あー、出欠取る前に連絡しておくことがある」


俺を含めた皆が訝しげな表情を担任に向ける。そんなものを気にした様子もなく男性教師は廊下に口先を向けた。


「おい、入ってこい」


皆の視線が廊下側に集まる。点が収束する点に一人の少年の姿が収まった。


今や排斥されたといっていい黒の学ラン。それを上下にきちっと着た少年だった。


教卓の横に立つ。乱れのない黒髪。白磁のような白い肌。そして、どぶのような濁った瞳を持った薄気味の悪い男だった。


見知らぬ少年。察するに転校生だろうが、時期が時期だけに沸き立つより疑念が生じる。ましてや、初対面の相手に思うのも失礼だが、なんとも気持ち悪い雰囲気を発しているのだ。


「自己紹介頼むわ」


「はい、分かりました」


少年は黒板の前まで向かい、チョークを手にした。黒板に滑らかな文字で『相馬颯真』と書く。向き直って一礼。


「『そうまそうま』と言います。同じ読みが重なっているのは親の再婚が関係していて……と、こんなことはどうでもいいですよね。親の仕事の関係上少し早めの転入となり、制服も新調が間に合わず前の学校のものです。こんな要素が相まって取っ付き難さも感じられるでしょうが、なにとぞよろしくお願いします」


絡みついてくるような声音に、うすら寒くなるような笑顔。


不気味な転校生に、一つの拍手が贈られる。音源は命だった。それで思い出したように、俺たちも歓迎を意味する拍手をした。


「じゃあ相馬、お前は五列目の最後尾な」


 教師が新たに作ったらしい机を指した。相馬颯真は「はい」と答え、皆の席の間を抜けていく。そして、俺の隣に来た。


「短い間ですが、よろしくお願いします」


「あ、ああ。よろしく」


 椅子を引きながらの挨拶に、俺はかろうじて答えられた。


 相馬颯真が着席したのを確認してから、教師は口を開いた。


「じゃ、出欠取るぞ……と言いたいところだが、全員居るな。んじゃ、朝のホームルーム終わり」


 画面に指を走らせ、態度通り適当な調子で終わらせた。よくこんなのが教師になれたものだ。


「あ、久澄。相馬は時期的な問題で教科書揃えてないから、授業中見せてやってくれ」


 失礼なことを考えていたら、早速ばちが当たった。相変わらず大事な場面では抜け目ない。こういうところも適当でいいのに。


「分かりました」


 俺の口は心の機微など微塵も醸し出さず、淡々と優等生的発言をした。


「サンキュ。じゃ、相馬を質問攻めにするなら今のうちにな。一時間目から普通に授業だからな」


 そう言って退出していく。あの大人はこのえも言われぬ不気味さを認識できていないのだろうか。


 クラスメートが牽制し合い、その空気を読んで唯一純粋な歓迎を示した命すら動かない中、それを異に返した様子もなく笑顔のまま、相馬颯真が俺の方を向いてた。


「よろしくお願いしますね、久澄君」


「……ああ、短い間だけどな」


 今日含めてあと二日もすれば春休みだ。家に長くいることとなる休みは憂鬱でしかなかったのだが、相馬颯真の存在はその思いすら凌駕して俺の内心を蝕んでいた。


「はい、本当に短い間ですがね、久澄碎斗君」


 俺はその呟きに目を見張った。


「お前、なんで俺の名前を!?」


 俺がこの教室に来てから下の名前で呼ばれた場面はまだない。だから教師が来るより前に廊下にいてたまたま教室内の会話耳に入ったとしても知れるわけがない。


 俺の声でクラス中の注目が集まる中、あくまで笑みを浮かべたまま右手で目を覆った。


「もし認識というものを反転できたとしたら、それはどれほどの絶望を人間に与えることができると思います?」


 手をのけた。隠されていた目に信じられない変化があった。


「なんだよ、それ!」


 右目は朱色に輝き、瞳に『く』の字と『逆く』の字が交互に並びながらできた黒十字が。左目は赤色に輝き、瞳に二重の五芒星を刻んでいた。


 明確な異常に、平和を甘受してきたクラスメートが俺の疑問の余韻をかき消してざわめき立つ。悲鳴すら聞こえてきた。もし俺がそっち側に入れたままなら、同じようなリアクションをしていたであろう。


 しかし、非日常をかいくぐった俺の精神は、その程度なら保留という形にし、目の前の現実を直視できるようになっていた。


 直後、相馬颯真の両目が輝きを増した。朱と赤の光が混じり合うほどにそれは広がり、目を開いていることすら許さない。俺はどうにか光量を絞ろうとし、失敗。目を操作するとなるとやはり人間の力では無理があるようだ。


 そして、光の奔流が止まる。涙を滲み出すのみで全く開こうとしない瞼を無理やり開く。いつもより閉ざされた視界で収めた風景はチカチカとした。しかし、目から輝きが失われた以外、何か変化があったようには見えない。


「何が……」


 状況の呑み込めない俺は、ただ呟くことしかできない。


 だが俺はすぐさま大きな変化に気付かされる。そのありえない状況に背筋から冷や汗が噴き出る。


 皆立ち上がり、相馬颯真の元へ歩き出したのだ。笑顔で。


 詰め寄った彼らは質問をぶつけていく。まるで、普通の転校生を迎えるように。


俺はその吐き気を催すような光景に耐えられず、立ち上がった。全員の視線がこちらへ集まる。


「どうしたんだ、久澄?」


 クラスメートの一人が、本当に不思議そうに首をかしげて問いかけてきた。


「それはこっちの台詞だよ。お前らさっきまでその……そいつのこと、あまり歓迎してなかっただろ」


「? そんなわけないだろ。時期が時期だけに驚いちまっただけだよ。な、みんな」


 問いかけに、皆が首肯する。そして、俺に疑念の目を向けてきた。


「久澄は、相馬君のことを歓迎していないのか?」


 当然だ。しかし、この異常な光景と浅ましさの塊である心が答えを許さず、小さな呻き声しか上げさせない。


 即答しない俺の態度に、皆の雰囲気に険の色が混ざる。俺の回答を待つ沈黙は重さを増し、収束する四十二の視線は射貫くように感じられた。


 俺が生んだ間隙を縫うように、相馬颯真が声を発した。


「相馬君なんて他人行儀なのはよしてください。前の学校ではソーマと呼ばれていたので、ぜひともそう呼んでいただきたいのですが」


 気持ちの悪い声音。うすら寒い笑い。何も変わっていないはずなのに、その一言は張りつめた空気を弛緩させた。


「じゃあ、そう呼ばしてもらうよ。ソーマも他人行儀な敬語止めてよ」


「いや~、これは口癖みたいなものでして」


 彼らは俺の存在を意識から切り離し、相馬颯真を中心とした世界へ戻っていった。


「どうなってんだよ……」


 現実を正しく認識できない。その感情が声となって漏れる。それを聞いている人物が一人いた。


「どうした? 大丈夫なの?」


「誘神。……お前は、なんともないのか?」


「え? う、うん。いたって健康だよ」


 見当外れの答え。だが相馬颯真に駆け寄っていないという事実が証明となり、俺の心を幾分か軽くしてくれた。しかし、あの発光現象までは覚えていないのだと、完全に安心することはできなかった。


「それよりも本当にどうしたの?」


 心配そうな顔が俺を覗き込んでくる。唯一正常な馴染みの尊顔を見て、この違和感を告げ、共有したいという欲求がせり上がってくる。しかし、それでは先と同じ轍を踏むことになる。


「いや、何でもない。俺の勘違いだったみたいだ」


「そう。ならばいいんだけれど」


 まだまだ疑念が振り払えていないような表情だが、引きさがってくれた。


「それにしても、相馬君人気だなぁ。これじゃあ近寄れないや」


 相馬颯真を円形に層を作って囲っているその人混みは、確かにそう見えても仕方がない。皆当たり障りのないことを訪ね、相馬颯真も当たり障りのないように返しているみたいだ。


 俺はその光景が本当に受け入れがたく、目を逸らした。横目に命が跳ねてどうにか近付く道はないかと勘案している光景が目に入り、ほほえましさと苛立ちが胸の奥に広がった。そうしてまた、自己嫌悪。


 確かに相馬颯真は危険な人物だ。だからと言って命の行動を束縛する権利はない。どうせ俺がどう行動しようと、誰かを守れるわけではないのだ。ならば、自由にしてやるのが一番だろう。


 臓腑の底からこみ上げる吐き気は、一時間目の開始を告げるチャイムが鳴り響いた後も収まりはしなかった。

















 三時間目の数学の時間が終わり、昼ご飯の時間。担任もクラスに合流し、教卓で自身の弁当を開いていた。


 総勢二十五人の二年四組では、隣人と机をくっつけて構成された班を五つ作る。相馬颯真を含んだ俺の班は周りから羨望の眼差しを受けているが、俺の心情としては否が応でもあいつと顔を合わせなければならなく最悪だった。


 何が楽しいのか薄ら笑いを浮かべ続けている相馬颯真からできるだけ目を逸らすように、俺は机の顔を向ける。その上には黒塗りの二段弁当と水筒がすでに置いてある。


 周りが食事を始めているのに合わせて俺も両の手を胸の前で重ねて「いただきます」と、家族の前では封をされた本心を口にする。食物連鎖の上位に位置するものとして持つべき感謝と、こんな俺にまだ時間を割いてくれる母さんへの恩義を込めて。


 上段には好物であり昨晩の残りである唐揚げとその下に敷き詰められた千切りキャベツ。区切りの先、端っこにひっそりと置かれた二個の卵焼きというおかず類。下段は簡素な白米だ。


 上段の蓋に付いた箸入れから対の白いプラスチック製の棒を取り出し、右手に構える。


 まずは卵焼きから挟んで、口に入れた。甘噛みしただけで層が解ける。だし巻き卵のようで、だしの風味と卵の甘みが口いっぱいに広がった。飲み込む前に次を取る。


 俺の周りではやはり相馬颯真を中心に会話が成り立っている。不愉快なため単語単語の意味を脳内で翻訳しない。


 喉の奥に流し込んで次のを口のほうり込む。先程と変わらぬ味だ。


「がっつきますね、久澄君」


 前触れもなく向いた口先に、全く意識を向けていなかった俺は身を軽く跳ねさせた。朝の件があり、周りから冷たい目線が集中する。卵焼きを飲み込んだ。


「腹減ってるからな」


 そんな中で俺が内心を現実に反映することができるはずもなかった。


「先程から目を合わせてくださらないと思ったら、そういう事情がありましたか。てっきり避けられているのかと思いましたよ」


「……そんなわけないだろ」


 我ながらよく返せたと思う。ただし、口の端が引きつるのは止められない。様々な悪意の坩堝の中心に据え置かれて、いい気分はしない。しかも、暗い感情をぶつけるものの中には教師も混じっているのだから手に負えない。あの発光現象を事前に食らっていたためにこいつを普通の転校生として扱っていたのだろう。


 俺は不愉快な会話を途切れさせるために唐揚げへ口をつけた。醤油ベースのたれがよくしみ込んだ素晴らしい味のはずだが、どうしてかおいしく感じられない。歯で繊維をほぐして飲み込む。白米を口にする。甘くべとべとして気持ち悪い。俺は交互に口にしていった。何の感情も湧かず、ただ腹を膨れさせるだけの行為。これではただの作業だ。


 最悪だ。水筒をを開け、中のお茶を口内に流す。口に残る香りを巻き込ませながら飲み込んだ。それで感情も流れてくれる程単純な作りはしていないらしい。


 手を合わせて「ごちそうさま」。廊下や外からわずかに漏れる喧噪がある。片付けを終えたらそのまま昼休みなのだ。


 俺は鞄を持って立ち上がる。俺の一挙手一投足にいちいち視線が集まる。無視して廊下に出る。


「どちらへ?」


 相馬颯真の問いに俺は疲れ切った半眼で答える。


「保健室」


 扉を閉めて、クラスの全てを遮断。そこでようやく一息吐ける。


 対面には窓があり、そこから風景を覗いてみる。しかしコンクリートの壁とその上にそびえ立つ住宅しか目に入らず、広大な青空とやらは臨めなかった。


 歩き出そうとして、滑らかな音が。目線だけ動かすと、そこには命の姿が。


「またどっか具合が悪いの?」


 また、と言う通り俺は今年に入ってからすでに五回ほど早退をしている。神学に響くのは理解しているのだが、そんな漠然としたものより今ある痛みの方が俺には優先された。


「まあ、ちょい吐き気がしてな。悪いな、心配かけて」


「本当にそれだけ?」


 韜晦を許さぬ視線が俺に刺さる。生半可な嘘では、昔馴染みには看破されてしまうだろう。


「体調が悪い。それ以外に急な早退の理由はないだろ?」


 俺の声色は平坦。つまり、いつも通りのものであった。


「そうだけど……」


「そういうわけだから。俺なんかに構わずさっさと戻れよ、誘神」


 まだ何か言いたげな命にこれ以上詮索される前に俺は別れを告げた。


 会話は強制的に終了され、俺は背を向ける。声がかかることはなかった。


 廊下を進み、階段を下り続ける。気付く。早足になっていることに。一階まで辿り着き、保健室へ直行する。


 ノックを二回してドアを押し込む。「失礼します」と口にし入室する。


 正面には陽光の差す二つをくっつけ広いスペースを作った業務用の机が置かれ、そのすぐ右に小型冷蔵庫と手洗い場があった。左奥に二つの寝台が、花瓶に刺された造花が置かれた台を挟んで並んでいた。


 いろいろな道具が乱雑に、そう見せかけて実は分かりやすいように並べられた机に書類を並べ睨めっこしていた齢四十の保険医が俺の入室に顔を上げた。


「またか、久澄君。で、何の用?」


「気分が優れないんで早退したいです」


 しわの目立ち始めた顔に、さらに深い溝が刻まれる。


「そんな小さな理由で何度も早退されるとこっちも困るんだけど。毎回の言いつけを守らず病院にも行ってないみたいだし」


「はあ……」と俺は生返事を返す。


「あのね……まずはそこに座って」


 二台を挟んだ向かい側の席を薦められる。面倒臭いことになった、と思うも無視するわけもいかず背もたれのない椅子に座る。鞄は脇へ置いておく。


「多分君のは精神的な原因が肉体に影響をもたらしているのよ」


 保険医が勤め人の顔で分かり切ったことを口にする。


「この学校では月に一回カウンセラーの方がいらっしゃってるし、一回受けてみたら?」


「はあ……考えておきます」


 俺は明言せず、遠回しな否定を返しておく。外面的には深刻な症状の見られない生徒には強制できないのが保険医の辛いところだろう。


「じゃあ、今日は早退を許すわ。お家の方にお電話するから、その間に体温計ってなさい」


 白く長細い体温計が起動状態で手渡され、脇に挟む。


 保険医は固定電話のボタンを叩く。早退しすぎて七桁の番号は覚えられてしまったらしい。受話器を耳に当てる。少し長めのコールの後、聞き慣れた声が漏れた。母さんのものだ。


「――あ、久澄さんのお宅でしょうか。私、笹上中学校の保険医を務めている広瀬と申しますが。はい。お世話になっております。お宅のお子様、体調が優れないようなのでお返ししたいのですが。はい、それではよろしくお願いします」


 受話器を元の場所に戻す。俺は計測し終わった体温計を差し出した。引き出しからタブレットが取り出され、何やら入力していく。


「三十五度四分。相変わらず低いわね。平熱何度だっけ?」


「三十五度八分ですが」


「久澄君はぶれないわね。平熱なんて来るたびにみんな変わっているのに」


「はあ……」


「症状はどんなもの? 流石に気分が優れないなんて項目はないから」


「吐き気、ですね」


「毎回それね」


 指の動きが止まった。入力が終わる。


「じゃ、担任の先生にデータ送っといたから。親御さんの方にも担任に先生から登録されたアドレスに送られるから、埋めるべき項目は埋めてもらってね」


 毎回言われる業務的な内容を聞き流しつつ、俺は鞄を肩にかけて立ち上がる。


「それでは、さようなら」


「はい、お大事に」


 俺は「失礼しました」と退室する。そして昇降口へ足を向けた。

















 帰路を足早に進み、俺は自宅に着いた。



 ドアノブに手を伸ばす。鍵がかかっていた。呼び鈴を鳴らす。


 幾ばくかして声が響いてきた。


「どちら様ですかー?」


 機械音痴発動で、カメラ機能を全く使いこなせていない。


「俺だよ」


「さーくん」


 言葉はそれだけだった。またしばらくしてから、鍵の開く音。扉を開けば、母さんが佇んでいた。


「おかえり。どうしたの、早退なんて?」


「具合が悪くなった」


「病院、行く?」


「いいよ別に、そこまでじゃないから。寝てれば治るよ」


「そう言ってもう何回も早退しているじゃない。身体の方じゃなくて、心の方が疲れているんじゃないの?」


 相変わらず鋭い。だが爪先程度とはいえ内心に土足で踏み込まれた俺は、頭に血を上らせる。


「うっさいな! 大体、心が疲れているのは母さんの方だろ!!」


 それが誰のせいか、分かっている。しかしその行為に嫌悪を覚えるよりも先に俺は最悪の失敗をしたことを悟った。母さんは、悲痛と怒りを顔に刻んでいた。


「それは、秋司さんが?」


 問いかけのはずが、どこか断定している声音が混じっていた。


「まさか。見ていれば分かるよ。俺のせいで壊れていってるなら、もう構わなくていいよ。それが、お互いのためだよ」


 俺は嘘と共に母さんを否定する言葉を発する。それは偽りの優しさと甘さが混じった、自分のためでしかない最低の思いやりだった。


 俺は靴を脱ぎ、母さんの横を抜ける。後ろではかみ殺した鳴き声が聞こえた。もし俺じゃなかったら聞き逃すほど小さいもの。


 もしここで振り返って謝れば、変化し、壊れた何かが変わり、元に戻るかもしれない。


 だがそんなこと、俺にできるはずがなかった。階段を上る。壊れた絆の修復の機会は失われた。


 自室に入り、扉を閉める。鞄を投げ捨て、硬い音が響く。それで弁当箱の存在を思い出したが、どうでもよくなった。


 布団に身を沈める。朝からの出来事が頭をかすめて感情が高ぶった。拳を振り上げて、止める。最近は言葉を発さぬ無機物に当たることに虚しさを感じ、感情を沈められる。これは成長なのか、それとも別の変化なのか、俺には分からない。


「ああ……」


 俺は呟き声を上げた。この状況から逃げられる方法があるのを思い出したのだ。


 億劫ながらも立ち上がり、机の一番下の引き出しを開ける。空白の中で自らを誇示するように一枚だけ置かれた紙が目に入る。このご時世に、一部の人間しかもっていないようなそれに書かれているのは、七桁の数字。あの夏の日に押し付けられた、忌々しい夜霧新の庭への招待状である。


 俺はこれを捨て去ることはできなかった。できたのは、暗闇に封じ忘却の彼方へと押し込むことだけだった。


 一年半ぶりに光を受けた紙は白々しく佇んでいた。


「……」


 俺は改めて封ずる。あんな奴の思惑に乗るくらいなら、現状に甘んじていたほうがましだ。


 しかし、結局捨てることができなかったということは、その天秤はどちらにでも傾きうるものだと俺自身がどこかで理解しているのだろう。そう内心を冷静に慮れた。


 ならばそのバランスを完全に傾けよう。


 俺はタンスの上を引き、ブレザーやカーディガン、ズボンを元の位置にかける。弥いシャツを脱いで、下の段から厚手のパーカーとジーンズ、それを固定するベルトを取り出し着る。開いた扉を押し込み、床に落ちた鞄から弁当箱と水筒、そして家の鍵を取り出した。ワイシャツも拾い歩き出す。


 耳障りな音を発するドアを開け、階段を経由して洗面所の洗濯機にワイシャツを投げ込んでリビングに。バラエティー番組が流れるテレビを眺めながら食事をしている母さんを横目に流しへ洗い物を。向き直り、玄関に。その間、母さんはこちらへ全く反応を示さなかった。


 靴を履き、鍵の閉まったドアを開ける。


 外出に対し身じろぎ一つしなかったということは、完全に見限ってもらえたようだ。


 俺は学校へ向かう道へ歩き出す。こんなくそったれな状況を作り出した自分の愚かさを改めて見直すために。














 そこは、自宅から優に二時間はかかる木々が鬱蒼と並ぶ未開拓地の一角だ。そして目的地は、目の前で悠然と存在を誇示する樹齢百年は超えていそうな大木に貫かれた廃ビルの一棟。伸びる枝が窓ガラスを突き破り、それは化け物のような様相を露わにしている。


 一年半前の夏休み。俺はティアハート・オウススウィート・フィアブラッドムーンという存在に殺され、救われた。


 そしてここで俺は彼女と過ごし、彼女を守り、そして――彼女を殺した。


 既存の常識が通じぬ非日常を押し付けられ、肉体的にも精神的にも痛みを伴う戦いを強いられた。


 それでも、楽しくなかったかといえば、嘘となる。俺は彼女から様々なことを学んだ。それは、今を生きる上で欠かせない糧となっている。


 だからこそ、俺は彼女を殺してしまったことを後悔している。最恐にして最強の吸血姫。畏怖が生んだその通り名の通り、彼女は比喩なく化け物の力を有していた。


 けれど、それだけではなかった。


 身を切り捨ててでも誰かを助け、屈託なく笑い、自らの危機に恐怖し、不遜にして傲慢な穢れなき魂を持っている。


 災厄の化身たる化け物などではなく、彼女はどこまでも『人間』だった。それを彼女自身が否定していようと、俺はそう思う。


 だから、無知な俺が犯した罪はどこまでも重い。その十字架すら未だに背負いきれていない。


 けれどそろそろ、その一片でも背負い始めなければならないだろう。そうすることで、あの悪夢のような現実の日々を本当の意味で見つめ直せる。


 天秤は完全に傾いた。迷いを捨て、俺は帰るために踵を返す。


「やっぱりここに来ていましたか、久澄君」


 前方に、薄気味の悪い笑みを浮かべる転校生の姿があった。どぶのように濁り切った瞳が俺を見据える。


 予期せぬ状況に俺は一歩後ずさる。


「お前、なんで……授業は?」


「平凡なことを聞くんですね」


 軽蔑を含んだ言葉と共に、両の目が輝きだす。奇妙な紋様を刻んだ瞳から朱と赤が広がり、混じり合っていく。そして、消えた。


 変化は何もない。


「なんなんだ、それは!?」


「魔眼、と言えば名前くらいは聞いたことはあるんじゃないんですか?」


 確かにそうだが、あくまでそれは空想上の産物だ。いや、科学が生命の神秘に到達し、魔術が肯定され、恐苛という存在が世の中の影を闊歩している時代だ。思考されたものは軒並み実在するものと考えるべきだ。


「忌まわしき神殺しの呪い。一部を除いて禁忌とされる産物です。まあ、僕の場合はちょっと事情が違いますけれど」


 再び瞳に紋様が。しかし発光はせず、瞳の色がそれぞれ右が朱に、左が赤に変わっただけであった。


「左目は魔滅眼、魔術の構成を読み解くことができる目です。右目は破滅眼、視覚した万物を破壊できます。そしてこの二つは、ただの魔眼と違い、魔王と呼ばれる存在の目なのです」


 俺は語られる言葉に何も返せず、相馬颯真は続ける。


「そしてこの狂った力をお互いに作用させると、なんと決まった事実を逆転させることができるのです。僕は便宜上『四月一日(ライアーフール)』と呼んでいます」


 謎が収束していく。相馬颯真に対する不信感は、逆転させれば信頼へと変わる。反転現象自体範囲を設定できるようなので、時期的に考えて絶対にあり得ない転校が法律が塗り替えられないままに実行できた理由も理解できた。しかし、分からないこともある。


「なんでお前はそんなことを俺に? しかも、俺と誘神だけその力を及ぼさなかった。大体魔王の目って、なんでそんなものがお前に」


「逆から答えていきましょうか。魔王の目、これは紛うことなき偶然です。こんな目が宿ったからこそ、こんな性格にもなりましたし。で、お二人を例外にした理由。これは仕事と言っておきましょう。そして、僕の力を教えたのは、宣戦布告です」


 相馬颯真は俺に対して手を差し出した。


「命ちゃんの救いたかったら、僕を倒してみろという、ね」


「……は?」


 俺の口からは、疑問の声。しかし、内容が理解できていないわけではない。ただ受け入れるのを拒否しているだけだ。


 現実に取り残される俺を尻目に、相馬颯真は言葉を並べていく。


「明日の夕刻、僕の歓迎パーティーを開いてくれるそうなので、惨劇はそこで繰り広げようかと。ちゃんと定時に来てくださいね。迎えも寄こしますから。あ、あとそれ以前に命ちゃんを逃がそうとしたら、『四月一日』を容赦なく彼女へかけるのであしからず」


 俺の受け入れを待つことなく、相馬颯真は森の奥へと消えていった。


 それからどれくらい呆然としていただろうか。一分か、十分か、一時間か。我に返った俺は、苦い残滓を胸の奥に感じていた。














 自宅へ戻った俺は、ドアを開こうとし違和感を覚える。鍵が閉まっていたのだ。


 母さんが買い物にでも出かけたのだろうと思い、鍵を使って開ける。


「ん?」


 靴を脱ごうと玄関を見ると、母さんの外行き用の靴があった。飛鳥や父さんのはない。飛鳥は遊びに行き、父さんはまだ帰ってきていないのだろう。なら、鍵が閉まっていたのは防犯上のものだろう。


 嫌に静かな家。廊下を歩くたびに僅かに軋む音が静寂を刺す。


 洗面所で手を洗う。リビングの方からは全く物音はしない。


 二階へ向かってみる。途中のトイレにも目を向けてみたが、電気は点いてなかった。


 二階も音がない。よすぎる聴覚を制限するために、耳の奥を詰まらせる感覚で音量を絞っていたのを止める。しかしそれでも、外から風や車の音が聞こえるだけで、生活音は全くしない。


 不安が胸をよぎる。だが杞憂だろうと振り払う。


 そんな瞬間を狙いすましたように、一階の固定電話の着信音が鳴り響いた。


 駆け下り、出る。


「はい、久ず」


『ようやく帰ってきたか、クソガキ』


 受話器の向こうから、苛立たしげな父さんの声音が。俺はその気迫に押され声を返せない。


『とりあえず細かい事情は俺たちが帰ってからだ』


「帰ってからって……」最悪な予想が頭を支配し、俺の喉からは絞り出したような声しか出ない。「どこから?」


『病院だよ』


 瓦解する。考えすぎで抑え込んでいた悪い予感が溢れ出していく。


「か、母さんの容態は!?」


『へえ、そこまでの自覚はあるんだ』嘲り交じりの返しに反論することなく、俺は次の言葉を待つ。『本当にやばかったらお前に電話なんか掛けると思うか?』


 最低最悪の結末ではないようだ。俺は息を吐き出す。


『なに安心してんだ。原因はてめえなんだから、言い訳考えながら待ってろ』


 吐き捨てられ、通話は切られた。規則的な機械音が虚しく耳を突く俺は思い当たる点が多すぎて、すぐには受話器を置くことができなかった。


 震える手でようやく受話器を置くと、がらんとした廊下で自分の動悸が激しいことを自覚させられた。骨をこすり合わせるように荒っぽく指と指を組んだり、離して頭を掻き毟る。小さな痛みが走り手を下ろすと、血に濡れた頭皮が爪の隙間に入り込んでいた。


 痛みが俺に冷静さを取り戻させてくれた。とりあえずリビングに向かう。窓から差し込む夕日の橙が、部屋に光と影を作っていた。


 自分の席に座って、机に肘をつき指を絡ませた台座の上に顎を乗っけて前を見据える。しかし意識は内面に向いていた。


 この一年半でしてきた様々な八つ当たりが去来する。しかし全てが色あせており、映像を維持できないことに気付く。


「はは……」


 口から力のない自嘲が漏れる。物事への視認が色あせて見えるのは、色付けて見ることもできることもかんがみるとその光景を直視できない精神的な問題としても、想起したものが固定できずに霧散してしまうのは、小さくとも明確に脳の異常だろう。


 あの夏休みのことを明確に記憶しているのは、俺に未練があるからだ。しかしそれも、時間が経てば風化していく可能性が高い。


「それは、嫌だな」


 どんなに拒否しようとそれは変わらないと思う。


 その事実が、俺に焦りを生む。あの一件を俺は直視せずなあなあで生きてきた。だが背負おうと決めた以上、緩慢ではいられない。まだ怒りと後悔が残っているうちに、けじめはつけなけばならない。


 力が必要だ。武力はもちろん、世界と同義ともいえる夜霧新に届きうる権力が。


 しかし、多少ずれた経験をしてようと、社会的には一介の中学生である俺には、何の方法論も思いつかない。手を解き、親指の爪を噛む。焦燥感が心に残る。


 ドアノブが下ろされる音がする。父さんたちが帰ってきた。窓の外はすでに真っ暗だった。考えているとすぐに時間が過ぎる。


 俺の思考が切り替わる。答えの出ない問より、まずは目の前のことだ。


 廊下を歩く足音は三人分だった。俺は後ろを向く。母さんに寄り添うように父さんが歩き、明日香がその横に一生懸命歩幅を合わせていた。


「よう、部屋に閉じこもってはいなかったのな」


 父さんの嫌味を聞きつつ、全員の顔を見る。父さんは眼鏡の奥のまなじりを上げいかにも不機嫌。飛鳥は怯えと不安で顔がくしゃくしゃになっており、眼球が充血している。母さんは蒼白、まではいかずとも血の気はあまりよくない。


「とりあえず座ろう」父さんが母さんの方を軽く叩く。「飛鳥はどうする? 部屋戻っててもいいんだぞ?」


「……そうする」


 俺の方を見上げながら言った。これから漂うであろうギスギスした空気を小学生ながらに予想し避けたのは、流石女の子と言うべきか。


「そうか。ありがとうな、アス。お前の電話がなかったら今頃どうなっていたか」


 父さんが飛鳥の頭を撫でる。母さんも弱弱しい笑みを浮かべながら言葉を継ぐ。


「本当、ありがとうね」


「もう、さっきからそればっかり。当たり前のことをしただけだよ」


 くすぐったかったのか、すぐさま父さんの手から逃れ、はにかんだ。


 その当たり前の光景が、俺には遠く見えた。胃の奥が重い。


 飛鳥が自室へ去っていくのと同時に、父さんたちも自分の席へ向かう。先程までに弛緩した空気はない。


 椅子の座った二人と対面する。俺は口を開いた


「病名は?」


「やあね。軽い貧血よ」


 母さんの答えが笑ってごまかしているように見え、父さんの方に目配せする。


「軽い、じゃなくて重めの貧血だろ」


「秋司さん……」


 あくまで俺を気遣う姿勢は、本物の優しさなのだろう。だからこそ芯は固く、壊れやすい。


 俺は情報をまとめていく。ただでさえ精神的に参っていた母さんは、俺の決別の言葉で許容可能なストレス地を超え重度の貧血で倒れた。廃ビルに行っていた俺は知ることができず、小学校から帰ってきた飛鳥がそれを発見し、父さんに連絡。帰ってきて母親が倒れていたら不安になるし、心優しい飛鳥は涙も流す。病院に電話した父さんは仕事を早抜けし、飛鳥と共に救急車に乗り込んだ。そしてあの電話に繋がるのだろう。


 つまりは俺が悪い。その一言で済んでしまう話だ。ならば発するべき言葉は一つである。


「ごめんなさい」


 俺はテーブルぎりぎりまで頭を下げた。その途中で、二人が目を見開いているのが見えた。


「色々と申し訳ございませんでした」


 俺の声色はあくまで真摯だ。もう壊れ、取り戻せない関係。家族だからと張っていた意地など皆無だ。悪いことをしたら謝る。当たり前のことである。


「……そういうことじゃねえんだよ」


 上から絞り出したような声が降ってくる。許容か反発を予想していた俺は、何故そんな言葉がかかるのか理解ができない。


 顔を上げ二人の顔を視界に収めると、驚きとは別の、悲しみの感情が含有された目でこちらを見ていた。首をひねる。疑問を相手に伝えるためだ。


「本当に分かんないのか?」


「何が?」


 謝んなかったら関係が荒み、謝ったら悲愴な顔をされた。その感情の機微が理解できない。


 父さんが母さんの耳に口を寄せる。


「一発ぶん殴っていいか? 気持ちを切り替えさせないと、今のあいつには言葉は通じない」


 かなりの小声だったが、俺の鋭敏な聴覚には鮮明と聞こえた。それにしても、あれだけ言われてきたことを実際にやったら頭おかしい人呼ばわりとか、理不尽すぎるだろう。


 そんな風に考えにふけっていたら、左頬に強い衝撃が来た。反射的に首をひねって衝撃を散らす。口内に鉄臭い味が広がった。その味に顔をしかめながら、俺は鬱積した感情を言葉にする。


「なんなんだよさっきから! こっちは本当に悪いと思って謝ったのに! 意味分かんねえ!!」


「贖おうとしている気持ちは伝わった。けどお前は俺を、母さんを親と認識して謝ってないだろ。現実から逃げた形だけの謝罪なんか求めてないし、意味をなさないんだよ」


 その言葉に頭へ血が上ったのを自覚できた。思考能力が低下する。やめとけと、そんな一時の感情に流されても意味がないと囁く冷静さを激情が食いつぶす。


「んな綺麗事どうでもいいだろ! 大体俺がそんな風に思ってるなんて決めつけんなよ!!」


 俺は椅子を押しのけ荒々しく立ち上がる。怒りの原因は理解できていた。図星を指されていたからだ。自分でもそれは違うと分かっていた部分を改めて指摘され、愚かに見られていると感じた。


 幼稚で浅ましい感情だ。くだらない。こんな風に虚栄の仮面であり続けるなら、感情なんていらない。


 四つの瞳が俺を見ていた。俺にはその目が責め立ててきているように見えた。


 身をひるがえし、走り出す。いや、虚飾はやめよう。素直に逃げたというべきだ。


「てめえの目と言葉遣いでなんとなく分かんだよ」


 滲み出したような声が俺の鼓膜を震わせたが、脳内での処理を拒む。しかしそうしようとするほど、その声は俺の海馬に刻まれた。


 振り払うために階段を一段抜かしで駆け上がる。


 二階には、一階を覗き込むように上半身を突き出す飛鳥がいた。


「お兄ちゃん……」


 身を戻し、俺を二つの瞳で見据える。何を言いたいのかは何となく理解できた。俺の妹と言う事実が信じられないほど優しい少女だ。


「……ごめん」


 けれど、俺にはその無言の問いかけに答えてあげることができなかった。


 自室に閉じこもる。家族との境界線であるドアが俺を支える最後の防波堤であった。


 今朝、母さんがカッターを取り上げてくれたのには感謝する。いや、こんな状態になっても押し当てた刃を引くことは、俺にはできないだろう。


 布団に身を沈める。枕に顔を押し付けると、俺自身に対する悔しさや怒りの感情が去来してきた。胸にぽっかりと穴があいたような感覚に襲われ、目尻から暖かな雫が頬へと流れた。


「う……うう……うう」


 俺は必死に嗚咽を噛み殺す。泣いているという事実を誰にも知られたくなかった。


 震える唇をきつく結び、これが俺だと何度も何度も言い聞かせる。


 次第に涙は止まった。


 その日俺は何度もあったノックを、寝たふりでやり過ごした。

















 何の前触れもなく意識がはっきりとする感覚と共に、目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。頭が重い。


 再び寝てしまおうかと考えたが、学校がある。行かなければ相馬颯真の魔手が命に伸びる。


 立ち上がる。目ヤニでぼやける視界を凝らしタンスの前まで歩き、昨日と同じ手順で着替える。珍しく夢を見なかったことに気付いた。気付いたからといって何があるわけでもないが。


 着替え終わった。枕より奥に置かれた時計を見る。七時半。変わらない生活習慣が嫌になった。


 鞄を指先にひっかけ自室から出る。金属音が鬱陶しかったが、すぐにどうでもよくなった。


 階段を一段一段下っていく。鞄を玄関前に置き、廊下を進む。トイレを済ませて洗面所へ。口内と顔を洗う。爽快感は存在しなかった。


 鏡に映る自分の顔を見てみる。目の下に隈がある以外変わったところはない。いたって健康だ。


 足を玄関へ進める。その行動にリビングでは母さんがこっちに来ようとし、父さんがそれを止めるという内容の会話が聞こえた。


 靴を履き、鞄を肩にかけ家を出る。


 遮るもののない群青色が俺を迎えた。閉じたドアが俺と家族を遮った。


 決ったコースに足を向ける。数十分も歩けば、あの坂まで辿り着いた。時間が時間だけに、昨日の様に雑多な生徒の登校風景は見られない。


「おーい、碎斗」


 通る声が耳に届く。足音から彼女が近づいてきているのは知っていたため、振り向くことはしない。横に並んできて顔を向ける。昨日と同じ服装をした命がこちらを見上げており、目が合った。


「誘神。早いな、どうしたんだ?」


「碎斗には言われたくないな。で、師範かおばさんと何かあったの?」


 図星を突かれ、心拍が跳ね上がった。が、俺は平静を装い続ける。


「なんでそんなこと聞くんだよ?」


「んー? 鏡見てないの?」


「見たけど……なんかおかしかったか?」


 俺が首をひねると、彼女は眉をひそめた。しかし、すぐに口角を上げた。


「いーや、なんでもないや」


「なんだよそれ」


 俺は怪訝に思いながらも、合わせて微笑しておく。


 そのままいつもの規定事項の様に、俺と誘神は坂を並んで上っていく。彼女が話題を振り、俺が返すという形だ。


 この変わらない日常が、昨日一日で大きく変わってしまった状況に付いていけてない俺の精神を支えてくれているといっても過言ではない。


 だからその言葉は、自然と口から洩れた。


「ありがとうな、誘神」


「何よいきなり。あっ、もしかしてクラス替えになるから日ごろの感謝を伝えようと。良い心がけね」


 口元を綻ばせ、ない胸を張る。


「今失礼なこと考えたでしょ。貧乳とか貧乳とか貧乳とか」


 半目で睨みつけられる。勘が鋭いんだった。


「全く、いやらしい目で人の胸元見て」


「そんな目では見てねえよ」


「見てたのは認めるの?」


 命の顔にいたずら心が浮かび上がる。してやったりという顔が腹立たしい。


 だから狼狽などしてやらず、真顔で頷く。


「ああ、それは事実だ」


「ぬあ」


 珍妙な声を上げ、命は両手を上げた。


「降参よ。いじりがいのない」


「へいへい」


 腕を下げる昔馴染みの小言を聞き流し、前を見据える。学校はまだ遠い。


「そういえば、さ」


 言いにくそうな声音で言い淀むという、彼女にしては珍しい行動に俺は彼女の方へ向く。


「碎斗、ソーマ君と昔どっかで会ったことあるの?」


 俺は目を見開いた。相馬颯真の話題が出たことも一因するが、「ソーマ君」というその気軽い呼び方に対して、俺は驚きを隠せなかった。


 向こうが約束を守る必要はない。けれど彼女は、唯一素の状態でにあいつを歓迎した人物だ。


 思考がこんがらがってきた。止めよう。どのような結果であろうと今は変わらないし、俺にできることも限られている。


「まさか、ないよ。初対面だ」


 だから、そう返す。きっと昨日言いかけたことはこれなのだろうと予想しながら。


「そうなの? ならなんで……い――」


「あんなに嫌悪を向けてたの、てか?」


 話題に蓋をしようとした命の台詞を妨げ、俺は後に続くはずだったであろう言葉を紡いだ。図星だったようで、肩が一瞬跳ねた。


 俺は一日たって整理された感情を吐露する。


「簡単な話だ。俺はあいつが嫌いなんだよ。本心隠してへらへら笑っているやつは、生理的に受け付けない」


「……そうなんだ」彼女は一拍置いてからそう呟いた。中途半端な笑みで続ける。「なんと言いますか……分かりやすいというか、聞いちゃいけないことを聞いちゃったと言いますか」


「そりゃあまあ、俺は人間だしな。そう取り繕ったってそういう卑しい感情も存在するさ」


「大人になったね」


「これが大人になるってことなら、アルコールで気分を緩めたいっていう親父の気持ちも理解できるな」


 俺らは互いの苦い笑みを見合うこととなった。


 そして正面に学校名が刻まれた門札が見えた。門の車輪を滑走させるレールを跨ぐ。


 二年昇降口まで向かい、上履きへ履き替える。


 話題提供者の誘神が何も話さないため、俺らは無言のままクラスへ着いた。時計を見ると八時を少し過ぎたあたりで、クラスメートも二、三人しかいない。


 その中には、相馬颯真がいるわけだが。


「おはようございます。命ちゃん、久澄君」


「おはよう、ソーマ君」


「おはよう」


 一応返しておく。念には念を、というやつだ。


 俺たちは自席へと向かう。つまり俺は、こいつの隣にだ。


「命ちゃん、元気ないですね」


 鞄を椅子の下へ置いていたところに、俺だけに聞こえる音量で声がかかる。


 警戒心を強め、命の席を見る。椅子に座り、頬杖をついて外を眺めている。特に変わった点は見られなかった。俺も声量を抑えて告げる。


「特に何もないと思うが? お前が仕事とやらを進めていない限り、な」


「まさか。命ちゃんの仕事に関しては、僕はまだ何もしていませんよ。約束は守る男ですから」


「信用できないな」


 そう嫌味を言っても、相馬颯真は空虚な笑いを上げるだけだった。








 時刻は十二時を超えたところ。登校者が増えるにつれ昨日の光景が繰り返され、大掃除や修了式は怠惰で終わった。


 担任から通知表が手渡される。全員に添えられる一言で「もう少し頑張れ」とありがたいお言葉を頂いたが、俺としては差しさわりのない数字だった。


 全員に通知表が手渡され、これにて二学年は終了。一本締めで解散となった。


 まだ名残惜しいのか、下校しようとする人間がいない中、俺は一人でに帰路へ足を進める。


「待ってください、久澄君」


 その後ろを、何故か相馬颯真がついてきた。


「なんでついてくるんだよ」


「それは自意識過剰ですよ。昨日言ったじゃないですか僕の歓迎パーティーのこと。サプライズってわけではないらしいんですけれど、準備の段階から主役がいるのは気抜けするらしいので、いったん帰ります」


 それよりも、とこいつは俺の前まで躍り出て、指さしてきた。


「ちゃんと迎えに応じてくださいね。素晴らしいものを見せてあげますから」


 三日月の如く避けた笑みは、初めて喜悦という感情が覗き込めるものであった。そこからは、嫌な予感しかしなかった。


「抵抗できないようにしたのはそっちだろ」


 俺は舌打ち交じりに相馬颯真の横を抜ける。


 あの笑みを直視し続けることは、今の俺には不可能であった。

















 家に鞄と通知表を置いた俺は、上がることなく近場の公園に向かった。家にいったんでも帰ったのは、無事だということを母さんに伝えるためだ。


 木に囲まれたブランコに砂場、ベンチしかない質素な公園で時間を潰す。


 ベンチに腰掛ける。何も考えたくないから、何も考えない。空を見上げ、時たま大きく息を吐く。


 そうしてると時間が経ち、公園にも入場者が現れ始める。母親に連れられた幼稚園生が砂場で遊び、マダムたちはその周りで井戸端会議にいそしむ。学校が終わったらしき小学生はブランコの周りに集まって談笑しながら謎のゲームを繰り広げる。犬を連れた老人も通った。


 こんな小さな場所でも、様々な情景が見られる。横の繋がりでしかない彼らは、しかし当たり前の様に絆を育む。それが平和な日常と言うやつだ。


 それに焦がれた女性に命を救われ、俺自身が瓦解させている。皮肉にもほどがあった。


 なんで俺が生き残ったことを後悔しない。ティアハートの決断を冒涜はしたくないし、そもそも自分が死ぬこと事態を常人より忌避しているのを理解しているからだ。


 けれど考えてはしまう。俺とティアハート、どちらが世のために利益を生むことができるのかを。あの時は自分に傾いていた。だからティアハートを救わなかった。


 だが、その罪を背負おうとせず、楽な自滅の道を選んだ久澄碎斗という浅ましき人間より、ティアハートという自身の能力にあった事柄を責任をもってこなす女性の方が存在価値はあったのではないか?


 どんなに考えても現状は変わらない。現実は受け入れるしかない。けれどその自問を繰り返し傷を抉り続けなければ、きっと俺は痛みを忘れて同じようなことを繰り返す。


 そんなことは絶対にあってはならない。じゃなきゃ、犠牲になった人の思いは、助けた人間により踏みにじられることとなる。


「原罪、ねぇ……」


 聞きかじりでしかない知識が俺の脳内に浮かび、気付けば声としていた。


 悪魔にたぶらかされ神に背いた男女に与えられた罪。人間誰しもが生まれながらに持っている人間という種の愚かしさの証明だ。


 その構図が、そのままあの夏の日へと繋がる。全く面白くない冗談で、演出した悪魔(あのおとこ)が大層好むものである。


 思考はそこで留めた。この先は、自分の無力を嘆いて何もしない道化のありさまを露呈させる。


 奇妙なものへと向ける視線を時たま受け取りながら、時間が経つのを待つ。


 雲が揺蕩い、日は西へ。代わりに東が橙に色付く。


 帰宅準備を始める幼稚園児その保護者を視界の端に収めて時間の経過を実感していると、入り口側から荒い足音と吐息が聞こえた。


「さ、探した、はあ、でしょ、はあ、はあ」


 息も絶え絶えにこちらへ声をかけたのは、命だった。立ちあがり、向く。


「よう。もしかして、相馬のやつが行ってた迎って、お前のことか?」


「はあ、そ、そうよ」


 加速した血流の影響で赤らんだ顔と怒りを内包して鋭く細められた目は、赤鬼の顕現条件を十二分に示していた。


「てか、なんで家にいないの! おばさんも知らないって言うし。あたしだったからいいものの、探す人のことを考えなさい!!」


「ご、ごめん」


 今回は完全にこっちが悪いので、素直に頭を下げる。


「よろしい。では学校に向かおうか」


 怒りが解けたらしい命は、そう演劇じみた台詞回しで学校の方を指差した。









 学校に向かう道中は、脳内ではあらゆる最悪を想起し、多くの事態に備えつつ、他愛のない会話を繋いでで心の平静を保っていた。


 いつもの様にクラスへ向かう。恐は部活の件層もなく、完全な静寂に包まれた学校は、どこか異世界のような感覚を与えてくる。廊下の横壁に備え付けられた窓から望める黄昏に染まる空が、その詩的な感情を加速させているのかもしれない。


 クラスの前に着く。命は首をひねった。


「静かだね」


「ああ……」


 それには同意だが、それ以上の違和感を覚えていた。


 俺の耳でも静か過ぎる言わざるを得ないし、ほんのりと香ってくるこの懐かしい臭いは――


「ちょい下がってろ」


 命を俺の後ろに隠す。


 俺の鼻が確かなら今すぐ逃げるべきだが、その手は封じられている。


 意を決して、扉を引く。


「やあ、来たかい」


 惨劇だった。後ろで命が息をのみ、へたり込む音が聞こえたが、気を回してやれる余裕はない。非日常に染まった俺ん心でも、ここまでのものには対応できない。


 夕焼けに焦がされる教室。いつもと違うのは、歓迎パーティーも飾りつけだけで、他の備品はすべて同じ。だが、すべてが違っている。


「どうですか、これ。美しいでしょう」


 相馬颯真はまるで新しいおもちゃを自慢する子供のような輝いた笑顔で、両手を大仰に広げながら教室の中心にいた。


「…………な…………れ」


「はい?」


 声が上手く出なかった。恐怖と以上で委縮した心を奮い立たせ、叫ぶ。


「なんなんだよ、それ!!」


 相馬颯真の後ろに、十字のシルエットをした悪夢がそびえていた。机の上に椅子、そして人間の順に積み重ね、右から左、上から下に貫通するほど巨大な鉄杭で固定された十字架だ。地面には、生乾きの血だまりが広がっている。


「作るの大変だったんですよ。杭の重さは『四月一日』でどうにもなりますが、やはり奪う命の感触はこの手に感じときたいですからね。皆さん逃げようとするし、暴れるし。杭で膝の皿割るのって重労働なんですよ」


 やれやれ、と指をおでこに当てる相馬颯真の言葉に釣られ、思わず目に入ったクラスメートの膝を見てしまう。穴はなく、紫に変色しており、平な部分で殴られたようだ。


 感情を言葉にしようと口を開くが、音にならない。


 奴は何かに気付いたように目を開いて、胸の前で手を打った。


「このでかい杭は鋭いですし、表面やすりみたいに加工しているので、バーベキューやるときみたいに差し込んでいくのは簡単でしたよ。ああ、死にゆく時の断末魔が今でも忘れません」


 喜悦の表情を見せられ俺の心は止めろ、そんなこと聞きたくないと悲鳴を上げる。しかし言葉とならない。


 ならば行動にするしかない。俺は駆け出した。


「逸らないでくださいよ」


 俺の足が止まる。熱い痛みに下へ目を向けると、両足の甲から床に鉄の杭が貫通していた。常人以上だと自負できる俺の動体視力で普通に見ることのできた、袖の内や詰襟の袖の裏から抜かれ、放たれた早業だ。


 手で抜こうと上体を折れば隙を見せることとなってしまう。しかし、足だけでは抜くことは叶わず、痛みだけが残る。


 それ自体が大きな隙となり、相馬颯真が眼前まで歩み寄ってきた。右目が朱色に輝き、異形の黒十字が浮かんでいる。


「今回の主役は、君ではないんです」


 胸に押し込むような蹴りが放たれる。同時に、足元から破砕音。痛みが若干薄れ、踏ん張ることのできてなかった俺はドア横の壁まで飛ばされた。


 足首と二の腕に鉄杭が埋め込まれ、磔にされる。歯を食いしばり、悲鳴だけは抑え込む。


 相馬颯真はクラスの中心に舞い戻り、再び大仰に腕を広げた。笑みは喜悦を浮かべたままだ。


「さあ、さあ、お立会い。非日常が日常へ変わる逢魔ヶ時。日常の象徴は非日常へと反転された。最高の状況が整いました」


 相馬颯真はダンスに誘うような動作で右手をへたり込んだままの命に向けた。


「幕を引くのはあなたと言う存在です、命ちゃん」


「え……?」


「脇役の分際で出しゃばった罪で磔刑に処された久澄君の命とあなたの意識。どちらをとるか選んでください」


 今まで現実を受け止められずほ置けていた命の目線が、冗談じみた口調と共に伸ばされた指の先を追う。磔の俺と目が合った。


「なん……え? 碎、斗」


 困惑している命への説明は後回しにした方がよさそうだ。目を離し、俺は相馬颯真を睨みつけた。


「もう一回条件を説明してみろ」


「えー、なんで君ごときに」


「誘神はこんな状態だ。さっきの二択なんか耳に入ってないぞ」


「うーん、それもそうですね。まあ、簡単な話です。久澄君を殺して自分が生きるか、自分が植物状態になって久澄君を生かすか」


「誘神のために、一つ確認しておくぞ。なんで誘神の命は取らないんだ?」


「逆です。別に久澄君の命も取る必要はないんですよ。ただ、そっちの方が重みが出ると思いまして」


「俺の命は地を這う虫並みかよ」


「そういうわけでもないんですが……これは別の案件なので答えられませんね。まっ、すぐに分かりますけれど」


「どういう意味だ?」


「……時間稼ぎをさせるのはここまででいいですかね」


「ばれてた」


 俺は息を大きく吸い、左腕を前へ。自然と涙が浮かんでくる痛みに抗い、傷口を広げながら引き抜いた。


「おぉー」


 感嘆の声を上げた相馬颯真にその杭を投擲。感覚のない腕ではまっとうに投げられず、血をばら撒きながら進んだ鉄杭は、やつの手につかみ取られた。


「うん、温かい」


「ほざいてろ」


 しかしその間に俺は、残り三つの鉄杭を左手で引き抜いていた。


「やはり杭は嫌味以上の効果は上げてくれないみたいですね」


「やっぱり知ってたんだな」


 あの夏の日。恐苛と呼ばれる人知を超えた現象の最強種である吸血鬼と成った俺は、定義的な人間に戻る代償としてティアハートを殺した。しかしそれは完璧ではなく、幾つかの能力が残留した。五感の鋭敏化もそうなのだが、一番大きいのは血液の循環を司る心臓に数パーセント、吸血鬼の血が残ってしまったことだ。


 それはどういう原理か、通常では血管に巡らない。しかし過度な運動や痛みなどで心臓の動きが早まると、奔流する血液に飲み込まれるように排出される。


 それによる副作用は、全盛期には遠く及ばないものの、人知を超えた身体能力を発揮する。


 俺は駆け出す。相馬颯真の早打ちも今なら目だけでなく身体も追いつく。しかしそれは、万全の状態の時の話だ。


 二倍に膨れ上がったかのように錯覚させる手足が動きを阻害する。頬や肩、太ももを鋭利な凶器が掠めていく。


 直線に進んでいけば武器の餌食となるため蛇行しながら走るしかない。たった数メートルが嫌に遠かった。奴の後ろの佇んでいる狂気の十字架が放つプレッシャーがその思いを加速させている。


 日は落ちかけ、空は紫色に。


 このままではじり貧だ。俺は意を決し、直線に跳ぶよう地面を蹴った。


 目を見開き、俺の接近速度と早打ちの速度がかけ合わさって飛来する鋭利な物体たちの全てを視界に収め、手で弾いていく。後日、先端恐怖症になりそうだ。


 全てに対応しきった俺は相馬颯真の懐で拳を握り、その笑みへ放つ。が、その瞬間軸である左足を支える地面が崩れ落ちた。


 意図しない形で身体が前へ。「甘いですね」と嫌味ったらしい声音が聞こえたときには、眼前にアイスピッケルが待ち構えていた。


 そのまま左目に刺さる。腐った木の実が地に落ちるような音がどこからか聞こえたかと思えば、左目に赤みを帯びた鉄でも押し付けられたのではないのかというほどの熱が。遅れて鋭すぎる痛みが。


 それでようやく、左目に起きた現状が正しく認識できた。


「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 耐えられず、口を割いて漏れた絶叫。痛みに俺は地を這う。転げまわろうとし、後頭部に違和感があった。アイスピッケルが貫通しているみたいだ。


 しかし、俺が思考できたのはそこまでだった。


 あaaaaR、jdggwtryqwglgheugfqbqglげbjwggewugfuwefkwheihruwhefjgglふふfwkfぐいふあg;;あgfwkgふgじゅあltうぁgfwbjぐhrjfgvbgしあうhじhrtgはえくぁううぇうlひおqhしfw;ひdせwhふぃlqが;jをggfhdhhfbんwsgfwbじゃgfywgrhてhぐvbjsdんbgヶrひふgwべjksgふいwgtじぇgjけgbbふgjbうgf;あqがfgwbgwgふぉうぃうぉwgqhgwぎうshgvwbごqpghjhwwhgvウェbgsswgbwghうぃひwgshゔぃおwhglhゔぉいhwglkbvglwfがbgsvhbgwhvしおhgwhしおfひwghしhgんしあhぐぃひghぁいhごうぃhb……――





 ――俺が俺として、久澄碎斗を久澄碎斗として認識できた瞬間、俺は跳ね起きた。


「……なに、が……」


「なにが、じゃねえよ」


 聞き覚えのある声に俺は、内面に向けていた意識を外界への認識へと変えた。


 正面には池田がいた。いや、それだけではない。ざっと見渡しての予想だが、クラスメート全員に囲まれているようだ。


「さあ答えろ、久澄!」


 池田が鬼の形相で詰め寄ってくるが、何の話だか理解できない。


「待て待て待て」


 状況を整理しよう。俺に傷はなく、クラスメートも全員生存している。先ほどまでの光景は嘘だったのか――否、あの痛みは本物だ。


「おい、池田。相馬の奴はどうした?」


「あ? 誰だよ、相馬って?」


 俺は内心でやっぱり、と臍を噛む。この状況への答えはすでに例示されている。


「てか、くだらないことで話を逸らすんじゃねえ。で、なんでなんだ? 誘神をあんな風にしたのは」


「そうだよ、誘神は? 見当たらないが」


「それを知りたくてこっちは聞いてるんだろうが! 意味分かんねえんだよ! 打ち上げやりにクラスに集まったら誘神が倒れてて、お前が佇んでいた! 二人とも話しかけても反応ないし! 救急車呼んだら、誘神を見た隊員の人の顔が険しくなってよ! 付き添って行った先生からさっき電話があって、意識不明の重体で、治る見込みはないって! 最低だよ、お前!!」


 怒りと悲しみが入り混じった糾弾に俺の感情は揺さぶられる。


 事情をすべて理解できたからこそ、俺は何も言い返せない。


 池田は俺の胸ぐらを掴み、拳を振るってきた。頬に熱が宿る。


「俺はお前を絶対に許さないからな」


「構わないよ」


 ようやくまともな発言をしたように聞こえたであろう池田、そして周りのクラスメートからは怒りの雰囲気は消えない。


 けれどそんなことは関係なく、俺は自嘲の笑みを浮かべる。


「今お前らが見ている光景が、真実なんだからな」


「どういう意味だよ」


 それに答えるつもりはない。俺は窓の奥に広がる暗闇を、その下の三年校舎の屋上からこちらを見ているあの男を見据えていた。


「おい、どこ見て――」


「じゃあな」


 力の入れ方を意識して払えば、あっさりと池田の手はほどけた。完全な一般人だという証明だ。


 身をひるがえし、俺はドアへと歩き出す。


 「おい、どこいくんだよ」と池田以外の人間の声も聞こえたが、無視する。武力行使で止めようとしてきても、俺は足を止めない。


 殴られ、蹴られ、はたかれ、足を引っかけられ、腕を掴まれ、肩を引っ張られ。


 その全ての行為は自罰的な行為の一環でしかなく、特に何も感じなかった。


 口内に広がる血を飲み込む。懐かしい味とのど越しだった。


 ドアの前までたどり着き、俺は諦観気味にもう一度同じ言葉を告げる。


「じゃあな」


 それは陳腐な決別の言葉だ。


 ドアを開け廊下に出たら、弾丸の如く走り出した。怒りや憎悪の感情が臓腑の裏で駆けずり回っている。


 二階に下り、渡り廊下から三年校舎へ。階段を一段飛ばしで駆け上がり四階のさらに上、机とビニール紐の簡素なバリケードを潜って鍵の壊された扉を押す。


 風が流れ込んできた。コンクリートむき出しの地面に、鉛色の給水タンク。背の高い柵が脇を固めている。立ち入り禁止が故に人の痕跡はなく、どこか虚しさを感じる。


 そんな場所に、二年のクラスの方を見下ろしてほくそ笑んでる相馬颯真はいた。


「やあどうだい、僕が演出した最高の喜劇は?」


「最高だよ。素晴らしい胸糞具合で思わずゲロっちまうところだったよ」


 地面に向けて血混じりの唾を吐きつけた。


「『四月一日』だったか。なるほど、認識が裏返れば確かに最低の悲劇を生み出すことができるな」


 相馬颯真は顔に喜悦を刻んだ。


「結局人間は自分の認識した事実が全てなんです。たとえ真実が別にあろうと、その目で見て認識しなければ虚飾であるのにすら気付けない。君も、僕も」


 そこに含まれた二つの意味を悟り、苦い感情を覚えた。


「嫌味が過ぎないか」


「でも真理です」


 その返しに俺は「確かに」と笑いを浮かべる。


「で、まあ久澄君」相馬颯真の方から俺を正面に見据える。「意外と冷静で驚いているんですが、本題はこんなことではないでしょう?」


「当たり前だろ。簡単な言葉で悪いが、今すぐにでも俺はお前を殺したいと思っている」


 明確な敵意を向けても、相馬颯真の笑みが崩れることはない。濁った瞳は俺の心の韜晦を許さないように細められている。


「だけど最低最悪なことに、俺の実力ではお前に傷一つ付けることすらできない。から、今は妥協することにする」


 俺は笑みを引っ込め、目の前の男を睨み据える。


「この憎悪を携えたまま、俺は生きていく。いつかお前の息の根に届く、その日まで」


「つまり、いつか必ず僕を殺してくれると?」


「ああ」


「それは素晴らしい。ならば、いつか君が殺してくれるその日まで、僕は生きることに邁進しましょう」


「最初から感じていたが、お前狂ってんな」


 その言葉に肩を竦めるだけで、言葉は返してこなかった。


「このままでは綺麗な終わりになってしまいそうですね……」


 代わりと言う風に、別の言葉を呟いた。


「いいことを教えてあげます」


 俺は身構えて続きに言葉を待つ。


「僕が君に『四月一日』を施したのは、脳と目だけです。他の傷に関しては、僕は関与していません」


「……は?」


 どういうことだ? 先ほどクラスメートから受けたもの以外傷は存在しない。一年半前ならともかく、今の微量しかない吸血鬼の血では軽度な裂傷すら治せない。


「やっぱり知りませんでしたか。不思議に思いはしなかったんですか? 何故吸血鬼の血の残りが心臓に停滞しているかを」


 疑問が頭の中でぐるぐると回る。理解が追い付かない。傷と血の件がどう繋がる。


「そんな不可思議な現象、魔術か恐苛以外にないじゃないですか。それは身に染みて理解しているでしょう?」


 相馬颯真は自らの左手を右の指先で小突いた。


「君はここに恐苛を宿している。循環の蛇と言う、ウロボロスに対応した循環と再生の蛇を」


 俺は自分の左手を見下ろす。何の変哲もなく、今まで違和感を感じたことすらなかった。


 もしも本当にそんな力があるならば――


「疑っていますね。試してみますか」


 懐から声がした。意識の間隙を蛇の様に縫い、いつの間にか接近してきていた。


 腰の裏に隠れていた右手が煌めく。とっさに後ろへ跳び退くも、薙がれたナイフが太ももの肉を切り裂いた。


「浅いですね」


 踏み込んだ足を軸にして地面を蹴る。こっちが着地しその反動でもう一回飛ぼうとするも、それより早く相馬颯真が肉迫した。


 腹部に銀の刃が突き立てられる。熱とともに広がる鋭い痛みと傷口の引きつる不快感に苦鳴が漏れる。


 シャツを温かい液体が濡らす。刃物をさらに捩じられ、涙と冷や汗が皮膚をつたう。歯を食いしばっているために獣のような荒々しい息を吐き出しているのが分かった。


 刃が戻され、さらに激痛が走る。栓が抜かれたことにより出血の勢いが増した。


 これは純粋にやばい、と他人事のように思った。思考がふわふわとしている。視界が傾きながら流れていく。身体に衝撃が走って自分が倒れたことを理解した。


 視界にかかっていく霧が濃くなると同期して遠のいていく意識の中、死の感覚だけがやけにはっきりとしていた。それは多分、一年半前の死と今の状況が被りすぎているからだ。


 そんな風と諦めと達観、そして一抹の後悔が頭の中に巡って消えた瞬間、どこからか機械的な音声が響いてきた。


『宿主の生命活動が一定値を下回ったため「循環の蛇」、再生を発動します』


『腹部に刺創、後下腿に切創を確認。宿主の寿命を一年使い再生を始めます』


能力(アビリティー)開始(スタート)――終了(コンプリケーション)


『宿主の再生を確認。恐苛識別名「循環の蛇」、再生を終了します』


 遠くに感じていた音声は近く、脳内に反響しているようであった。


 それに気付くと同時に、俺の視界と意識は空気の様に澄んだ。痛みも消えている。


「これは……」


 呟きを地面に吐き捨てる。


「ほら、あったでしょ」


 俺の声に、相馬颯真の楽しそうな反応が降ってきた。ナイフの刃に付いた血を布で拭っているところであった。


 相馬颯真の台詞と状況が脳内を巡る。――最悪なことに認めるしかないらしい。命を冒涜したようなくそったれな力が宿っており、カッターで以て行おうとした自決は引こうが引くまいが滑稽な喜劇にしかならなかったことを。


「こんな力を植え付けやがったのは、夜霧新の奴か」


「過去、君が関わってきた人間の中で彼以外のそんな趣味の悪いことをする人間がいます?」


 答えはあっさり返ってきた。


「いないな。……その口ぶりだとあのくそ野郎と知り合いなのか?」


「ええ。今回の依頼主は、彼ですし」


「……できすぎだろ、そりゃ」


「どこまでが彼の描いたシナリオかは、ご想像にお任せしますよ」


 拭き終えたナイフを詰襟の裏に戻し、布はポケットへしまい始めた。


「では、君が僕を殺してくれることを期待して」


 相馬颯真はこちらに向かい歩き出す。横を抜け、階段の前まで足をかけて、そこで最後の言葉が投げかけられた。


「そういえば、命ちゃんは僕の力を無抵抗で受け入れてくれました」


 予想外すぎる言葉に俺は振り向く。相馬颯真の視線は階下にあった。


「君も、彼女も、紛うことなき人間ですよ。僕の大好きな、ね」


 そこには、一言では表せないような複雑な感情が宿っているように感じられた。


 そんなのは勘違いだと、頭を振って思考を逃がす。


 視界を正した時にはもう、相馬颯真の姿は消えていた。


 天を仰ぎ、苦い感情を吐き出そうと溜め息を吐く。


 欠け落ちた月が煌々と光を放っていた。











 家へと戻った俺は、バラエティー番組の喧騒が響く暖かな雰囲気を放つリビングへ向かった。家族全員揃っている。


「よう、お帰り」


 背に背広がかかった椅子に座るワイシャツ姿の父さんが、ビール缶を持った手を掲げて迎えてくれた。


 微妙な空気の悪さを漂わせながら、それでも表向きは一年半前までの感覚で接せられた。それが、一年半の間なあなあで済ませてきた関係性が表に出た先日の件の落としどころという訳なのだろう。


 だから素直に「ただいま」と返しておく。


「あ、さーくん。もう、朝も昼も食べないで。命ちゃんがうちに来たけど、会えたの?」


「ああ、会えたよ」


 キッチンから食材を焼く音に交じって届く声に胸の痛みを感じながら、平然を装う。


 飛鳥はこっちをちらちら見て来るだけなので、手を胸の前まで掲げておく。それだけで笑顔になってくれ、俺は自分がどれだけ最低の兄だったかを改めて自覚した。


 歩き、飛鳥の頭を撫でてみる。絹糸のようにサラサラだった。


「なに、お兄ちゃん?」


「なんでもないよ」


 上目遣いで問うてくる妹の頭から手を放す。名残惜しそうに見えたのは、目の錯覚だろう。


 自席に腰を掛ける。


「父さん、ちょっと話があるんだが」


「……真面目な話か?」


「まあ、結構。できれば、母さんにも聞いてほしいけど手離せなさそうだから、まずは父さんに聞いてもらいたい」


 鼻から深く息が吐きだされビール缶がテーブルに置かれる。


 それを合図に俺は口火を切った。


「これから誘神さんの家から電話があると思うけど、命が倒れた。多分、こっちの技術じゃ治る見込みはない」


 左の方から飛鳥と母さんの驚く声が聞こえた。


 火を消し駆けてきた母さんも話に加わる。


 テレビから笑い声が発せられた、父さんによりテレビが消され、完全な静寂が部屋を包んだ。


「で、なんでだ」


「……分からない」


 正確には話せないであるが、この場での正しさは状況を混沌とするだけだ。今は欠けさせるしかない情報を不自然に思わせないための辻褄合わせが優先的である。クラスの奴らの認識は、どうにかできるはずだから考えない。


「今日は二年修了ってことでクラスで集まって簡単なお疲れ会みたいなのをやるはずだったんだ。命がうちに来たのは、俺を迎えに来たかららしい」


 得た情報を思い出しながら、虚構を真実の様に語る。


「いざ始まろうとしたその時、命が倒れた。救急車で運ばれるほどの事態になって、付添人の先生が医者から原因不明の植物状態と言われたって連絡があった」


 そこでいったん言葉を切った。


 絶句する女性陣と異なり、父さんはあくまで冷静に問いかけてくる。その瞬間から空気は俺と父さん以外の発言を許さぬものとなった。


「それで、お前は何が言いたいんだ?」


「MGR社日本支部への入学許可がもらいたい。書類に判を押してくれるだけでいいんだ。そしたら、優先的に命が日本支部の病院へ入院できるように取り計らってもらえる手があるんだ」


 MGR社は世界最新鋭の技術力を生み出す科学の総本山であり、魔術の研究も行っている。その恩恵を一番早く、しかも同系列であるがために純度百パーセントで受けれる日本支部でなら命の治療も可能性がある。


「その手段ってやつは何なんだ?」


「それは……言えない」


 あの夏の日のことを説明しても理解してくれるはずがない。それだけあの出来事は荒唐無稽で悪夢じみていたのだ。


「なら許可なんざできないな」


「けどそれじゃあ命は助からない」


「残酷なことを言うようだけどよ、命はあくまで人んちの子だ。自分の子供をあんな実験場に送り込む込んでまで助けようとは思わねえよ」


「っ、父さんは別に日本支部を実験場と認識している人間じゃないだろ」


「感覚的にはな。けれど、実際自分のガキが行くとなりゃあ話は別だ。大体、なんでそこまで命にこだわる。まさか、恋でもしてんのか?」


 嘲弄で付け加えられた最後の台詞に対して頭の中で何かが切れるような感覚があったのと同時に、鈍い音が耳朶を叩いた。


 遅れて事態を認識していく。立ちあがり、父さんの頬を殴っていた。


 左から息を呑む音が。俺は気にせず感情のままに吐き捨てる。


「命はな、この一年間俺がおかしくならずにいられた支えだったんだ。家族じゃ近すぎるし、友達じゃあ遠すぎた。昔馴染みだったからこそ本音を隠さずに関われた。俺がこうやって俺としていられるのは、あいつのおかげなんだ」


 何の装飾もない命に対する全ての感情が口を衝いた。


 殴られた体勢のまま言葉を聞いていた父さんが、俺に目を合わせた。逸らさず俺も受け止める。


「……チッ」


 父さんは母さんの方を向いた。


「悪い、俺はこいつを説得できそうにない。意見に少しだけ納得しちまった。だから、最終的な考えは母さんに任せる。てかそもそも、これは俺が口を挿むべき領分じゃなかった」


「秋司さん……」


 矛先を向けられた母さんは目を瞑り、それから俺の方を見据えた。


「私は命ちゃんも自分の子供の様に思っているの。さー君やアスちゃんとの違いはお腹を痛めたかどうかだけ。今秋司さんはその違いの大きさの話をしたんだと思うのだけれど……」


 母さんの言葉で分かったが、父さんの考えは親にならなければ理解できないものだ。だから根本的に話が噛み合わない。


 そして親としての自覚を痛みを伴って得た母さんの考えはもっと強固なものだろう。


 だからと言って諦めるわけにはいかない。俺は席に着き言葉を待つ。


「私は別に反対しないわ」


「は?」


 予想と真逆の答えに思考が停止し、素っ頓狂な声が漏れた。


「秋司さんの考えは一般的には正しいのよ。私も同意だし。けれど命ちゃんに対してはそんな違いは些細なものでしかないの。それだけの年月関わってきたし、成長も見守ってきた。それに、辛い時期のさーくんの支えだったんでしょ。それは私たちにはできなかったことだし、感謝しなければいけない。だから、私は反対しない」


「母さん……」


 俺の呟きに微笑みで返し、父さんの方へ顔を向けた。


「これが私の意見なんだけれど」


「……それが母さんの本心なら構わないよ」


 二人はどこか困ったような笑みを交わした。


「二人とも、ありがとう」


俺は頭を下げた。


「と言っても、正式な許可は誘神さんから事情を聞いてからだけどね」


 俺は息を吐き出し力を抜いた。親との真剣な会話は精神的に疲れる。


「じゃあ、ご飯にしましょうか」と母さんが席を立つ。


 父さんは缶に口をつけて「ビール冷めちまったな」と顔をしかめた。


 左のわき腹が突っつかれる。向くと飛鳥が何かを言いたげにしていた。


「どうした?」


 飛鳥は口の中でもごもごと舌を転がし、言葉をしっかりまとめて口にした。


「お兄ちゃん、家出て行っちゃうの?」


「うん」


「命ちゃんのためなんだよね」


「そうだよ」


「じゃあ、しょうがないね」


「悪いな」


 せめてもと、頭を撫でる。くすぐったそうだが笑顔なので嫌ではないのだろう。しばらく撫で続けた結果ぼさぼさになった髪を最後に手櫛で整えてやり手を放す。


 そして満足いく結果が得られず不機嫌そうな父さんに、俺は手を差し出した。


「父さん、ちょっと携帯貸してくれ」


「あ、何でだ?」


「電話したいところがあるんだ」


「家の電話があるだろ」


「それじゃあ都合が悪いんだよ」


「……ほらよ」


 俺の言おうとするとことを理解したようで、画面を軽く操作した後渋々ながらも携帯が差し出した手の平に置かれた。


 立ち上がり、自室へ向かい歩く。


 電気を点ける手間も惜しんで机の引き出しから一枚の紙片をつまむ。あのくそ野郎に押し付けられた七桁の番号を打ち込んで発信。携帯を耳に当てる。コール音一つで耳に当たる音の雰囲気が変化した。


『ようやくかけてきてくれましたか、碎斗君』


 言い回しは似ているのに宿る芯が相馬颯真とは違う声音をした青年の声。不快で、携帯を若干耳から離す。


「ようやくも何も、このタイミングでかけるように計算してたんだろ、夜霧新」


『うわあいつ、僕の名前出しやがったな』


 どこか演劇じみた狼狽の声。


「演技はいいから本題に入ろうぜ」


『久しぶりの会話だっていうのに冷めてるなぁ』


「てめえとの会話は望んでねえし、俺をそんな性格にしたのは誰の策略だ?」


『悪い悪い。で、君が日本支部に入る代わりに誘神命も支部内の病院に転院させる。クラスメートとそれ以外に改ざんされた情報を知る人間の記憶を都合のいいように書き換えるということでいいかな?』


「ああ」


『転院手続きは任せてくれ。書き換えも彼がしっかりやってくれている』


「恩着せがましいのはいいとして、お前に負けず劣らず性格の悪いあの野郎がしっかりやってくれるのか?」


『冗談で済ませられる場面と済ませられない場面くらいは彼もわきまえているさ。特に気に入った人間に対しては、ね』


 その言葉に携帯を持つ力が強まり、軋む音が耳にぶつかった。


「あいつらや誘神の命は、冗談でもてあそばれていいものだったのか?」


『これは失言だった。謝罪させてくれ。けれど、あの日も言ったが僕が踏み越えるのは必要性のある命だけだ。それ以外は拾って行く。大を救うには小を切り捨てるしかない』


「俺もあの日言ったよな。んな意見くそくらえだって」


『その結果、今回も君は全てを取りこぼした』


 夜霧新の言葉に、俺は二の次が継げなくなった。


『そういう意見も大いに結構。だけど、それは結果が伴わなければ虚言を垂れ流すだけの善人気取りだ。高みから綺麗事並べた潔癖症になるより、実際に行動して泥まみれになってでも結果を出しに行く。僕みたいなひ弱な人間は、選択しながら歩んでいくしかないんだよ』


 言葉が心に刺さっていく。分かっている。こいつは正しい。けれど俺はそうやって達観して正しく生きることは不可能だ。


 間違って間違って間違って、どんなに頑張っても汚泥の中から一粒の宝石を見つけられないのが俺という人間である。


 それを自覚しているからこそ、人間性の欠けた正しさに怒りを覚えることができる。ならば俺はそれでいい。


「お前は強い人間だよ、夜霧新。俺は弱いから、選択して何かを切り捨てることができない。たとえ何度過ちを犯しても、それを招いた甘さすら捨てられない。だけど、それでいいんだ」


『それが失われた主が認めた君という人間性だからかい?』


「ああ」


『自己の実像を他者に任せてどうする。君は君自身で自己を確立しなければならない。いつまでも虚像にしがみついてちゃ、僕には辿り着けないよ』


「……あの夏の日以来揺らいでいた俺が今回の件で完全に瓦解した。そう自覚できちまうくらいに壊れたんだよ。これも必要な犠牲なのか? なあ、夜霧新!」


 荒い息が俺の口から吐き出される。動悸が聴覚を支配してうるさい。


 沈黙があった。長く感じられたが、本当は少しだったかもしれない間を置いて声がした。


『必要な犠牲だよ。僕が歩んできた過程で失われたもの全ては』


「そうかよ。やっぱりお前とは相いれねえ」


『残念だよ。本当に、残念だよ』


 俺は画面に映る終了の文字を叩いた。通話が終わる。


 番号が書かれた紙を握りしめ、ごみ箱に投げ捨てる。この番号はもう使われていないはずだ。


 携帯から音が鳴った。メールのようであった。


 下へ戻ろう。そう思い入り口側に身体を向けた。


 そこに、飛鳥の姿があった。 


「なん……!」


 流石に驚きが口から出た。夜霧新との会話に集中しすぎて聴覚が外に向いていなかった。


 妹の怯えた顔に大体のことは聞かれたのだと察し、頬を掻く。


 飛鳥の元へ詰め寄り、後ずさりしようとする彼女の目線に合うまで膝を折った。


 そして自分の鼻先に建てた人差し指を当てた。


「秘密な」


 飛鳥は「え、え」と困惑していたが、最終的に頷いてくれた。


 飛鳥の性格を利用した最低な行為であるのは自覚している。


「で、何で来たの?」


 勤めて優しい声音で問う。


「えっと、お母さんがご飯できたからって」


「じゃあ、行こうか……お姫様抱っこでもしてやろうか?」


「嫌だよ恥ずかしい」


 すごい勢いで拒否された。それが面白おかしくて俺たちは笑い合った。


 階段を降りる。





 さあ、回顧は終わりだ。研がれた復讐の刃を持ち現実に立とう。俺はそうやって生きていくしかないのだから。

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