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ファクターズ  作者: 綾埼空
五話 その力は誰がために
107/131

その力は誰がために

 九月五日。十三時過ぎ。


 休日はもちろん、平日にも雑多な音が絶えず、それが奇妙な一体感を生み一つの大きな生物のように佇むMGR社日本支部三区の中心部。ショッピングモールを収めたビルディングや洒落た衣服店、飲食店の立ち並ぶ清潔感あふれる並びを一人の少年が歩んでいた。


 細身の体つきで中背。残暑厳しい時節だというのに冬物のパーカーにジーンズを身に着けている。だがそれ以上に頭髪の色――黒と白の入り混じった縞髪が目を引く。


 天津目葉。戦闘面でももちろん、MGR社創設目的履行の意味でも最強を誇る特殊才能を保有する少年だ。


 だがその称号には、一つの苦い敗北が付きまとう。


「チッ」


 不意に一週間前のことを思い出し、 葉は苛立たしそうに舌を打つ。


「うるせえな」


 若々しい顔ぶれがかしましく進んで遺訓がこの場所の特色であるのだが、それとは比にならない雑音の重奏だ。


 原因は、個人の携帯端末を持たない葉でも知っていた。表向きの扱いはされていないからこそ夜霧麾下の病院にもテレビはあり、保持者のニュースは嫌でも耳に入った。


 葉はそのお祭り騒ぎを横目に歩みを進める。


 向かう先は自宅である、夜霧新から貸し出された一軒家だ。書類上は刈上壬生が現在有名な翠羅大学付属高校に学籍があるが、事実の上では研究に時間の多くを費やし、登校免除になっている節がある。


 人の塊を避け、葉は表通りを淡々と冷かしていく。彼は映る風景が乾いているように感じていた。


 何となしに後ろ姿を見せている女性に手を向ける。あとは意思を頭に巡らせるだけで彼女の存在はこの世から拒絶される。


 あれ程欲していた最強。その力で自らの思いは制御できるようになったが、手にしてしまえばこんなものか、と達観した気持ちが去来する。


 元々何もする気はなく手を引っ込める。と、同時に自然な笑顔を浮かべた女性がこちらへ振り向いた。その手には箒とちりとりが。


 (HHRか……ほんと、あれ持ってねえと人間にしか見えねえな)


 不気味の谷減少なくすという机上の空論から発展させて造られたロボット。その普及は生物延命方法に次ぎ、夜霧の実現した理論内でも十指に入る成果だ。


 ただしそれは半世紀前の人間に壊滅的な怠惰を生み、第一次マジックサイエンスウォーでも人間の代わりに出兵した。そのため、今では使用を魔術師との協定で定められ、プログラムでは、或いはだからこそ不可能な仕事のみを人間に残している。


 形成方法は形状記憶合金を用いたものだというが、当時の設備では夜霧でも不可能であり、実は生きた人間を使ったのではないのか、と論ずる学者も居る。――その全員が夜霧の科学力に魅せられた科学者の手により干されているが。


 (そういや四ヶ月程前に四区でHHRを誰かがぶっ壊して器物損壊で捜索されてたな。機械愛好家が殺人罪とすべきっつー議論がまた白熱してたが、いつの間にかに収まったな)


 ああいう類のことは早々に鎮火しないものだろうと思っていた。が、あくまで主観だから、と葉は思考を切り捨てた。


 それよりも、夜霧新の顔を画面越しとはいえ見たことで、疑問が芽生えていた。


(オレの存在は企業秘密扱いなのかね)


 レベル2の開花により、人類の不安の種として在り続けた北極の謎へ大手をかけたといっても偽りない。


 外交的な観点から発表ができないでいるのか。そのために夜霧新は、実験を成功させた自分の元へ姿を現さないのか――


「離してよっ!」


 ――思考は、どこから響いてきた少女の声により遮られる。


 瞬時に観察。前方、道の端、横道へ抜けられる建物と建物の間にある細道に黒塗りのバンが止まり、何故か濡れている同色のスーツを身につけた屈強な男たちが長い茶色髪の少女を囲み、身柄を拘束しているところであった。


(あれは――)


 彼らの正体はすぐに記憶野から発見できた。一番目の夜霧冷夢直轄の闇に住まう人間だ。上が上だけにあまりいい噂は聞かない。


 彼女の悲鳴は喧騒にまぎれ皆に届いていないようで、だれも反応しない。葉も『犠牲児』計画で聞き慣れていたから気付けたのだ。それは現在の状況を転じて吉とさせた。


 アスファルトを割らないようにその場に立っていることを拒絶し、事件現場へ。


「なっ!?」


 突如の乱入者に驚き交じりの疑問。それでも掴む手が緩まっていないのは流石だが、それだけだ。


 少女を掴んでいるもの以外を地面から拒絶し、宙に浮かせる。


 そのまま間髪入れずに伸ばされた手を拒絶した。


「ぐ、あぁぁッ!」


 苦悶と共に力が目に見えて入らなくなり、拘束が解ける。夜霧冷夢の強化体として改造を受けていると聞き及んでいたが、痛覚までは切っていなかったらしい。


 葉は手を伸ばし、


「……」


 一瞬ためらうようにその手を止める。が、


「逃げるぞ」


 少女の腕を左手で掴んだ。『拒絶』の力は上手く切れてくれたようで、安堵を覚えながら走り出す。


 だがその感情の機微を理解した瞬間、苛立ちが湧いてきた。


(何やってんだ、オレは!?)


 自らの行いに疑問を感じつつ、駆ける。特殊才能は、使わない。


 無意識にそうしているためその理由を自問することなく、警戒のため後ろに視線を向ける。


 固いものが落ちる音と共に宙に浮かされていた男たちが着地し、黒光りする無骨な銃をこちらへ向けていた。ご丁寧に消音機付きだ。


舌を打つ暇もなく引き金が引かれる。左手を離すかどうかのところで、反射的に『拒絶』を発動。葉を狙った弾丸は、触れると同時に原子レベルまで分解された。


(めんどくせえ)


 感情に任せ右手を男たちに伸ばし、だが静止が頭をよぎる。もしここで殺してしまったら、自分の変化はなくなってしまうのではないか、と。


 葉は噴出を待つ力を地面に作用させ、少女と自分を後方上空へ砲弾のように打ち出した。失速を待たず葉は空気を蹴り、少女の落下地点としたビルの屋上に先回りし、受け止めた。


 五十キロないだろう加重が腕にかかり、加速度も相まって腕にかなりの負荷がかかる。脱臼、肉離れを起こす前に衝撃を拒絶。ちょっとした痛みと抱える重みだけが残る。――鍛えられていない細腕にはこたえる重さだが。


 しかしそんなことはおくびにも出さず、葉はどうにか少女を足から降ろした。


「ん、ありがと」


 少女の例を片耳に、葉は周りを警戒する。


(追っ手は……撒けたか?)


 何にしろ方向は知られているのだ。あまり同じ場所にとどまるのは得策ではない。


 そう思考を巡らせつつ、少女と一緒に逃げる方法を勘案している自分に気付いた。


(まさか、理想のヒーロー様にでもなれたつもりか、オレは)


 そんなことをしたって過去は消えないし、食材にもならない。だから助ける権利がないと言う程ひねくれてはいないが、それでも自分の行いがえらく滑稽に見えた。


(手前の才能(ちから)は、傷つけるだけのものなのにな)


 始まりが傷つけられるのも、傷つけることも忌避した結果だったとはいえ、その事実は変わらない。


 先程から効率の悪さを自覚しながらも少女に特殊才能を及ぼさなかったのは、そんな思考が無意識化にあったが故だ。


(……自虐してる場合じゃねえな)


 自らを毒づき、思考を入れ替える。


 考えなしに助けに入ってしまったが、葉はこの少女の素性も知らない。夜霧冷夢に狙われる理由は何か。注視し、探していると一つの事実に行き当たった。


「てめえ、亜莉栖有明か!?」


 亜莉栖有明。現在二次元キャラの立体映像にその場を奪われかけているアイドル業界を支えている数少ない一人。出る杭は打たれ、美しきは食われる世界において、高潔にして純潔を守る真の偶像(アイドル)だ。


 俗世間とあまり関わりのない葉でも知る程の有名人である。ただし、黒服が濡れていた理由であるランク3の氷水系才能保持者であることは知らないが。


「あらら、ファンの方に助けられちゃったのかな?」


 本気でそう勘違いしているようで、困惑顔で小首を傾げた。


 それに葉は疑問を覚えた。あの対応を見て、まるで一般人に対するのと変わらない態度だ、と。


 それに疑問へのヒントが隠されているのかもしれないが、そんな遅々とした無駄を許容する性格ではない。それと知らずいきなり核心を突いた。


「なんでてめえ何かが夜霧冷夢に狙われている?」


 亜莉栖有明の表情筋が凍る。業界を生き残るためにはかなりの努力を要し、その結果厚くなっていると容易に想像がつく面の皮がその一言ですべて剥がれ落ちていた。


「……あの人達からお母さん(、、、、)の名前を導き出したってことは、あなたはあちら側の人間ってことね」


「……はっ? 今何つった?」


 自然と混ぜられた聞き捨てならない言葉に狼狽する葉だが、それを無視して亜莉栖有明は自らの慎ましい胸に手を当てた。


「自己紹介がまだでしたね。亜莉栖有明は芸名かつ、偽名で、本名は夜霧(、、)亜莉紗(ありさ)。一番目の夜霧冷夢を母親に持っています」


 あの狂人に娘が居た!? いや、生みの親ではなく育ての親の可能性が、と考えたが、それでも信じられるわけがない。


 絶句する葉を前に亜莉紗は腰を折った。


「どうか、助けてください」


 琥珀に近い髪の色に澄んだ瞳。闇より光、夜より昼がはまる。容貌にも体系にも似つく箇所はない。


 彼女の言葉が本当か、葉は判断しかねていた。


 姿勢を戻した亜里沙は、自分の言ったことの信憑性のなさを自覚しているのだろう。滔々と語りだした。


「近親交配によるデメリットはご存知ですよね」


「……近親交配により劣性遺伝子という形で隠匿された障害をもたらしたり、致死性のある遺伝子が表に出やすくなるってやつだろ」


「それをお母……彼女は実践してみたかった。それに処女を失うことでの生まれる痛み、地の研究も目当てだったようで、夜霧冷夢クローン――夜霧不変と交わり、私が生まれました」


「……嘘吐くな。夜霧不変って女だろ」


 夜霧不変は対外的に夜霧新の妹として戸籍を置いており、十六年前に書類上の規定での人工魔術師計画を成功させながらその事実を隠匿し、七年間被検体の酸漿奈々美を陰惨な実験に利用していたことを知った錠ヶ崎寧々に実験停止の取引材料として母親とされた夜霧来夏と共に生贄にされた。


「影武者なんですよ。念には念を入れて。もちろん、身内の錠ヶ崎さんには本物を殺されたみたいですけど」


「得心はできるな。けどまあ、随分あっさりと言うのな」


 よく言える、と思った。葉は幼年期この街に捨てられ、親の顔も知らない。


「物心つく頃から顔も見たこともありませんでしたし。それに、少し前までは私達を捨てた人間と聞かされたとおりに思い込んでいましたから」


 その台詞回しに、葉は目を見張った。


「あの狂人がまっとうな母親やってたのか!?」


「……昔なら狂人なんて言われてたら起こっていましたが、今ならそれも突っかかりは覚えますけど咀嚼できますね……」


 自虐的に笑いながらの答えに、葉は開いた口が塞がらない。それと同時に、大体の全体像が見えてきた。


「……成る程な。真実知って家出した娘捕まえんのにあんなイカレた連中派遣したのか」


 さて、どうする。助けたいとは思っている。が、自分にそれができるか? いたずらに場を乱し、取り返しのつかない事態にしてしまうのではないか? 似たようなことを何千と繰り返してきたではないか。


 留まる力は得た。しかしそれは、決して守る力ではない。


 何か一歩踏み出す理由がほしい。


(……いや、理由ならあるな)


 そもそも夜霧冷夢は自分をこんなにした一人だ。自分が動かないことで彼女が得をするのは非常に腹立たしい。


「分かった。てめえの頼み、聞いてやんよ」


 そう嘘(、)を吐き、亜莉紗の手を取った。


 怒りを覚える前に、彼の心は壊されている。ただ言い訳がほしかったのだ。身勝手にも自分の意志で助けることの。


 葉の深層心理などつゆ知らず、亜莉紗は表情を明るくした。虐殺の過去を知らない以上、警戒はするものの安全な居場所と思われているらしい。


「ありがとうございます!」


「敬語は止めろ。……さて」


 少女から見たら風景が一瞬で一段高くなったように見えただろう。地面から自分達を拒絶し、飛び上がったのだ。掴んだ手に力が入るのが伝わってくる。


 重力に逆らうため、自分達を囲う拒絶の円を作る。物理法則を無視し、中空に浮いたようになった。「ほへ~」と間の抜けた声が隣りから聞こえてきた。 


 と、同時に建物内に通ずる扉が荒々しく開かれ、黒服の男たちが乗り込んできた。それに同行するように、各所に穴のあいた銀色の精錬されたフォルムをした四足の機械が入ってくる。


 第二位の『Rise Above』だ。


(流石夜霧冷夢の下っ端だな。バンの中に入ってたのか、それとも……)


 なんにしろ関係ない。


『Rise Above』の索敵に引っかかる前に葉は空気を蹴った。


(取り敢えずは一旦埒外まで行って目を盗まなきゃな)


 そう考え、彼は近場の裏路地の最奥部の上空で止まった。最初は円を一気に薄め急降下したものの、建物の陰に隠れた瞬間に再度を強め、徐々に効力を消しながら降りた。


 固いアスファルト。しっかりとした足場に安どを覚え、彼女の力みが取れた。


 葉は手を離し、出口側へ数歩分の距離をとった。


「さて、始めに確認しときてえんだが、何がてめえを助けることになる?」


「? そりゃ、あの黒服から安全を勝ち取ることでしょ」


 言に従ったため口は、若さ特有の高圧さがあった。だがそれだけではなく、引っかかりを覚える硬さを感じていた葉だが、それはまだ自分に対して怯えから来る緊張があるためだろうと思った。


「頭ん中すっからかんか? たとえあいつらをどんだけ叩いても、お前の身の安全が保障されることはない」


「……よく分かんないんだけど」


 頭の回転が遅い彼女に、縞髪を掻き毟り、言い聞かせる口調で答える。


「だから夜霧冷夢がてめえを狙う限り、どこに居ようが狙われ続けるって話だ。もし助かりたいならアイツをるしかねえ」


「……そんな」


 事の本質を理解したようで、顔が悲しげに歪む。


 そのまま感情に押されるようにこちらへ詰め寄り、胸倉を掴みかかってきた。


「お母さんを殺さないで、私が救われる方法はないの!?」


「……あれをまだお母さん(、、、、)って呼ぶのな」


「……どんな人間であろうと、私にとってはお母さんであることには変わりはないの」


「……」


 甘ったるい人間だ。そう嘆息せずにはいられなかった。


 ただし、そんな甘さを眩しい、とも感じていた。


「なら妥協しろ。オレが夜霧冷夢の元へ連れてってやる。そこでどうにか身の安全を約束してもらうんだな」


 亜莉紗は下唇を噛み、さっきの位置まで離れていく。だが、それが葉の与えられる救いの限界だった。


「これで話はまとまったな」


 表の道へ戻るため、身を翻す。せめて彼女の意思は優先しようと、無理矢理引っ張っていくことはしない。


「どうするんだ? もし来るなら携帯は置いていけよ。GPSで居場所探られる可能性もあるからな」


 亜莉紗は何も言わず、短パンのポケットから抜いた携帯端末を地面に置いた。そして、俯きながらついて来る。


 答えは出ていないが、取り敢えずは身を守ることを第一に考えたのだろう、と葉は予想し、一応の警戒に円を張り、歩を進め始める。


 だが亜莉紗が選択した理由はその予想と違った。まだ考えがまとまらず、一応の決着へ動いている流れに身を任せているだけだった。


 こうして二人は平行線のまま触れ合うことなく、表の世界へどんどん近づいていく。こつこつ、とソールがアスファルトを叩く音だけが流れる静寂の中で。


「……」


「……」 


 辺りに視線を巡らせ対話の意志を示さない葉に、しばらくして亜里沙がぽつぽつと口を開いた。


「……名前」


「あ?」


「名前、聞いてない」


「ああ、そうだな」


 亜莉紗へ終始振り向くことをしなかった葉は、必要性があるのかと思いつつも、まあいいか、と適当な気持ちで答えることにした。


「天津目葉。誰がつけたんだか知らねえが、そう呼ばれてきた」


「そう……やっぱり」


「あ? 何がやっぱりだ?」


一瞬、あの殺戮の記憶がフラッシュバックする。だが夜霧新が成行きとはいえ夜霧冷夢を取り込んでまで進めてきた計画だ。そん所そこらの少女――たとえそれがあの狂人の娘であろうと知れるわけがない、と鼻で笑った。


 亜莉紗はいきなり鼻息を強めた――と彼女からは見えた――葉に半歩距離を取りつつ怪訝な顔を向けた。


「いや……けど、だれがつけたか知らないってどういう意味?」


「なんで俺がてめえに身の上話を」


「別に減るもんでもないんだし、いいじゃん」


 一度回答したことに味を占めたらしく、いきなり馴れ馴れしくなってきた亜里沙を鬱陶しく感じ舌を打つも、別段隠し立てすることでもなかった。減るものかどうかは、別として。


「実の親にこの街に捨てられたんだと……変な同情心は見せるなよ。自我もくそもない時期だったから特に何も感じてねえしな。うぜえだけだ」


 彼の周りにはそんなことで云々わめく純朴な人間など数えるほどしか居なかったが、彼女はそういう類の人間に思えたので釘を刺しておく。叩いて埃が出てきたって、叩いた本人が悪いわけではないのだ。そこに悪意が介在しない限り、決して。


 それはあくまで持論なため意図の全体が伝わるわけがないが、それでも言わんとしていることは理解した亜里沙は開こうとしていた口を閉ざした。


「で、実験体を欲しがってた夜霧が部下たちを里親に仕立て上げ、養護施設を騙くらかしてして素体を回収した。から、オレはこんな世界に通じている」


 この街の黎明期にすら表向きはダブーとされてきた事実を軽々しく口にする。知ってしまえば最後、闇に引き込まれるか消されるかという代物だ。だからこそ葉は、夜霧冷夢を退けた後のカードとして彼女へ授けた。効果がどれくらいあるかわからないが、持っていて損はないだろう。


「ま、オレの実験が始まったのは特殊才能が目覚めてからで、それまでは普通に過ごしていたがな」


 だがここまで語るつもりはなかった。実験のことを聞かれたら面倒くさいでは済まない。彼女の少ない手札の中でジョーカーを持たせるのはあまりに危険すぎだ。後悔先に立たずと言うが、それでも臍を噛まずにはいられない。


(馬鹿か、オレは! くそ、どうするかは返答次第だな)


 自責の念に駆られつつ、反応をうかがうためこの状態になって初めて亜莉紗の方に顔を向けた。


「そうなんだ」


 しかし予想に反して、亜莉紗の反応はあっけらかんとしたものであった。


 気抜けする葉は、この少女の実像が次第に捉えられなくなっていた。


 やさしいと思っていた実の親が非道なことを平気で行っていた。しかも隠していた真実が露見した瞬間、すぐその力を振るってきた。それだけでどれだけ取り繕うと精神的なダメージは大きいものだと、同調できないものの、情報として理解していた。だからこそ、夜霧冷夢に会わせると言った際悲壮な表情を浮かべたのだ。


 それなのに、打って変って飄々と言葉を紡いだ。


(って、オレは何を考えてるんだ)


 いつからか。どうでもよい人間だろうと関係なくその人となりを理解し、距離を測ろうとしてしまうのは。


 自分の才能を知られ、離れていくその背にいつも勝手に傷ついてきたのに。


 遠く遠く遠く。それが拒絶できない痛みから逃れる方法だ。


「ねえ……」


 声に意識が掬い取られ反応すると、亜莉紗はパーカーの裾に触れていた。冷汗が一気に噴き出すも、事態に備えて身に纏うことはしないままだったため白魚のような指が消失することはなかった。


 だがそれが自分の場合危険な行為であることには変わりなかった。焦りに従い手を払いそれを伝えるため喉を開いて音を滑らせようとしたが、驚愕に固まる美貌を見て、ただならぬ事態だとそれを追うことにした。


「なんなんだよ、おい」


 呻くような声は、いつの間にか辿り着いていた出口の外の光景へ。一気に開けた表の通りが目に眩しかったが、そんなものが気にならなくなるくらいに圧倒的な異常がそこには広がっていた。


 人が、倒れている。狭間な入口からでは視野より狭い限られた風景しか目にできないが、そのすべてに映る全てが、だ。喧騒が全くないことから、たぶんここら一帯が同じ状態なのだろう。


 目を細めて、一人一人に視野を合わせていく。ぱっと見は外傷なく、柔らかな顔で、眠っているように見える。死んではいないと断言はできた。多くの肉塊を作ってきた葉だからこそ、死体が醸す何かが失われた感覚に敏感で、目の前の人間達からはその感じが伝わってこなかった。


 ならば考えられるのは、薬で眠らされている可能性。そして、それを行える人物が瞬時に頭に浮かんだ。


(あいつらがこれを? こいつにここまでする価値が……いや、上は夜霧冷夢だぞ!!)


 やりかねない、と瞬時に思考を改める。後先考えず、自分の欲望を叶えるのが彼女の性質だ。そのせいで二人もの夜霧を失った前例がある。


 変化はそれだけではなかった。


 円へ鋭利な何かが飛来し、拒絶される。明確な敵意へ反射的に拒絶を纏った。


「それがかまってちゃんの才能ちからかよ」


 上空から、高圧的な声。見下しているからの傲慢な声音だ。


 見上げれば陽光で影になっているが、シルエットから翼を生やした人影に見えた。


「誰だテメエ!?」


「第一位様だよ、寂しがり屋のぼっち君」


「己世界、か」


「正解。夜霧の犬の割にはおつむがしっかりしてんな」


 界の言葉のいちいちが挑発と分かっていながら頭に来る。額に青筋を立て、口端をひくつかせながらも、堪える。


 今自分の後ろには、間接的とはいえ守ると約束した少女が居る。


「あ、そうそう。よくこのシマウマ野郎を誘導してきてくれたな、夜霧亜莉沙」


「なっ――」


 振り向く。彼女は小刻みに何度も首を横に振っていた。


「乱れているぜ、ご自慢の『拒絶』」


 嵌められた、と理解しながら向き直ると、眼前に手が。翼はしまわれていた。


 驚きに声を上げる間もなく、首を握られた。


「ガッ……」


 握力はそこまで強くない。だが、細首を締め上げるのには十分だった。


「……の……ろう」


 ひゅうひゅう、と漏れ出た空気に乗せた掠れ声と共に、界の腕を掴む。しかし、何も起きない。酸素が足りずに特殊才能が発動しないのか、いや、それ以前に何故この少年は円をすり抜け、首に触れている。


界は愉しそうな笑みを整った顔に刻んだ。


「弱気に優しい俺様が都合よくお前の感じているであろう疑問に答えてやるよ。つってもまあ、新さんの受け売りだけどな」


 今にもくびろうとしていた手を離し、路地にて器用に膝を使った横蹴りを葉の脇腹にめり込ませた。


 蛙の鳴き声にも似た苦鳴を漏らし、膝をつく。完全に肺から追い出された酸素を求め、しかし上手く吸えずに開けっ放しとなった口から粘ついた唾液が垂れる。


「よーし、いい体制だ。俺様の話を聞く市井しせいの人はそうでなくてはな」


そう言いながらも不満げな表情で、界は足を上げた。


 降ろされる先は、葉の後頭部。体重をかけられれば、抗う術を持たない彼は地を舐めさせられる。


 『拒絶』の破られた種の分からぬ今の葉には、乗せられた革靴を退ける方法はない。


「さて、と改まる必要もないな。特殊才能も脳の一機能だ。怒りで血が上った時と冷静な時の思考力、個人差はあるだろうが大体は後者に軍配が上がる。つまり、感情に左右されるってことだな」


「……が……たい」


「何が言いたい、てか? 簡単な話だよ。おまえは今、人間と共存したいと考えちまってる。だから、拒絶できねえんだよ。まあ、俺様みたいな明確な敵に関しては、さっき見たく揺さぶりをかけなきゃならんがな」


「な……こと」


「あるんだよ。じゃなきゃ誰もお前に触れられない。まさかレベル2に目覚めた程度で、その力をコントロールできたとでも? いやー、聞いたときにも失笑しちまったが、また笑わせてくれるのかよ! 五千人殺しておいて仲良ししたいとか、マジで言ってんのかよ!?」


 怒鳴りと共に、踏む力が強まった。


「舐めてんの? ああ!?」


 踏み足が浮き、横っ面を足蹴にされる。


「今更お前みたいな化け物が人間様と共生できると思っているんじゃねえよ!! なあ、そうは思わねえか、夜霧亜莉紗」


「え……あ……」


 呆然と、現実感のない現状を思考の表面で認識していた亜莉沙は、矛先を向けられたことで後ずさる。


「いいこと教えてやんよ」


 界の浮かべる邪悪な笑みと、この言葉の流れに、嫌な予感を感じた。


「やめ」


「黙れ。お前には発言を許可していない」


 しかしその直感も、界の一蹴りで無駄になる。


「こいつはな、お前のお母さんにHHRって騙されて五千人も殺したんだ。しかも、途中からは人間だって気づいていたのに止めなかったんだぜ」


 笑えるよな、とせせら笑いを浮かべた。


 葉は霞む視界の中で、手に入りかけていた何かが遠のいていくように感じた。それは亜莉紗へ近づく界の姿と被るが、伸ばした手が届くことはなかった。


 結局自分は、人間として生きる権利すらないらしい。


(だったらもう、希望なんて持たねえ。堕ちるところまで堕ちてやる!)


 暗い感情が葉を満たしていく。――それは、自分が殺していたのが人型の機械なんかではなく、本物の人間だと知ってからも殺戮を止めることができなかった時の絶望に似ていた。


 しかし一つ、僅かながらこちらへ踏み込む足音が、完全に理性が奪われるのを制する。


「……この人は、そんな人じゃない」


「あ?」


 界の眉根が不快げに歪み、亜莉紗を眇める。望んだ答えと異なった返しをした彼女へ一気に詰め寄った。


「じゃあ、お前をどこに連れて行こうとしていた?」


「それは……お母さんの所」


「はっ、普通の人間が夜霧冷夢とターゲットを合わせるかよ」


「それでも!」


 亜莉紗は叫ぶ。目の前には現状考えられる絶望を具現化したような存在が居り、恐怖に膝が笑う中、それでも希望を与える笑顔で。


「この人には無利益での善意がある。私がその証明よ!」


「……」


 亜莉紗の言葉を受けた界は後ろを睥睨し、ハッ、と笑った。


希望の偶像(アイドル)、ね。出来すぎだぜ、全く……いや、だからこそか」


 そこでは地に固定する楔が失われ、葉が呼吸を正しながら立ち上がっていた。


「どうする、天津目葉。俺様は夜霧冷夢と夜霧新からこいつを殺す許可を得ている」


「……ッ、やらせるか」


「そうこなくっちゃな。新さんのお気に入りとはいえ、第一位の座をやすやすと譲る羽目になりそうなのには苛立ちを覚えてんだ」


 界が垂直に飛ぶ。まるでバネでも仕掛けてあったかのように、建物よりはるか高くに。そして、黒光りする先の尖った大翼をはためかせる。


「才能主義、肯定してやんよ。けど結局は実力がものをいう。そうだろ!」


「分かり易くていいぜェ」


 葉は上空を爛々としためつきでにらむ。と、同時に亜莉紗の姿が消えたのを視界の端に収めていた。また、自弁達を囲っていた円が寸断され、霧散するのも。夜霧新からの情報と照らし合わせ、『自己世界マイワールド』の領域であることを認識する。


 関係のない人間を巻き込まないでいい、と不利な世界の拒絶はしない。


「さて、どうするかね……」


 空から敢えて聞かせるような音量の声が聞こえる。


「消耗戦だが……ま、やってりゃあ脳領域空間がガス欠を起こすか」


「それはオレにか? それともテメエの話でもしてんのかよ」


「言ってろ」


 葉を囲む建物が次々に瓦解する。全てが彼に向って。


 しかしそれは、葉が体のラインに合わせて無意識に張る拒絶の膜に触れた瞬間、全てが消え失せる。


 その状態を予見していた葉は、自身を地面から拒絶。瓦礫の残滓が舞う中を突き抜け、砂礫の隙間から界へ向かって右手を伸ばす。そこに宿るのは、時を拒絶する力だ。


 感触を得るのと現出してから効力を発揮するまでに誤差はなく、時を止めた。


 その体は石像が如くの。原子レベルの乱れすら起こさぬ硬直を見て一瞬でこの戦いの終わり方を計算した葉は、それを実現するために動き出した。――否、動き出そうとした。


 その前に動けないはずの界が身体を不快げによじった。


 それに自身の才能に絶対的な自信を持っていた葉は声も出せず、脊髄反射的に後退した。


 その様子が琴線に引っかかったのか。裏腹に界は声を大にして笑い声を上げた。


「おいおい止めろよ。種がばれた原子運動の拒絶を異能持ち、ましてや俺様が看破できないとでも?」


 すっ、と表情を消し、吠えた。


「舐めんじゃねえよ! 確かに恐ろしいさ。けどな、その強すぎる力を扱いきるにはお前、レベル2に目覚めてから日が浅すぎるんだよ。んなもん、幾らでも防御のしようがあるんだ。例えば、その力が反応するに足る分量の原子を盾とするとかな」


 界の言う通り、葉は自身の力を使いこなせていない。対象だけに反応するように細かな設定をすることはできないし、AからBのように直接的な作用を及ぼすこともできない。


 だが通用しないなら別の方法を試すだけだ。確かに動揺は胸の内に渦巻いている。しかし、それを悟られたら精神面で負けると知識として理解している葉は、凄惨な笑みを浮かべ、余裕のある口調で口を開いた。


「無駄だ。んなもん、攻略されたくらいでどうにかなるわけじゃねえからな」


「余裕だな。ここは俺様の心の力が及ぼされた空間だぜ」


「はっ、んだよ、『心の力』って」


「こういうことができるつー意味だよ!」


「? ――――!!」


何か特別なアクションがあったわけではない。ただ、呼吸ができなくなっていた。


「そっちの酸素とこっちの二酸化炭素をごっそり入れ替えた。完全に酸素を他物質に変換することはできないからよ。こっちは酸素濃度高くてきちーが、そっちはどうだい?」


 葉にそんな説明を聞いている余裕はない。僅かにでも酸素が体内に残っているうちに経験則で拒絶を円に広げる。しかし、二酸化炭素は消えない。


 それならば、と思考を切り替え、円の力を足元へ。弾丸のようなスピードで界の居る上空へ。


「はあ……はあ……」


 少し違和感を感じるが、息が据えるようになる。そのまま宙に留まり、界と同じ目線に立つ。


 界は大きく舌を打った。


「たく、厄介な力だ。弱点は決して少なくないわけじゃねえのに、自由度が高すぎる」


「じゃあ諦めろ。こっちは決着のつけ方まで計算し終えてんだよ」


 それが真実であることは、言葉の端々に紛れた自信、表情に宿る覇気で察しられた。だからこそ界は『自己世界』を解いた。


今更(、、)かよ」


 はっ? と間抜けした声が葉から発せられる。頭の中で言葉と行動が結びつかない。その真意を咀嚼する時間もなく、界の顔に三日月が浮かんだ。


「知ってるか? 殺さない覚悟はな、退化なんだぜ」


 翼を一振り。鋭利なナイフを思わせる羽が葉――ではなく、地上で事態を全く読み込めていなく辺りをオロオロと見渡す亜莉沙へ向かう。


「テメ!」


 『拒絶』の遠隔操作で彼女の周りに円を作る。黒羽は構成する原子に還元された。が、


「えあ……」


 目を見開いて、自分に起こったことに気付いた様子なく小さな苦鳴を上げた。それから一瞬遅れて、重々しい音を響かせ亜莉沙は力が抜けたように仰向けで倒れこんだ。


「……あ?」


 状況が理解できない。しかしそれも、布地を少しづつ侵し広がるそれを見るまでだった。


 どろりと紅いその液体は――


「……んで。拒絶できたはずだ」


 息遣いが荒くなり、動悸が激しく内から胸を叩く。


 鮮血の色がぐちゃぐちゃに記憶をフラッシュバックさせ、目の前の光景へ収束していく。


「羽、ありゃフェイクだ。本命はその後ろに追随させていた空気の弾丸だよ。取り敢えず、空気は『拒絶』の膜を通り抜けられるのは知ってたからな」


「己世界、テメエ!」


「そう怖ぇ目で睨むなよ。大体、これで解っただろ? お前はどうあろうと攻勢の生き物なんだ。手前を守る力は自分を守るだけのもんで、他人は守れねえんだよ!」


 葉は奥歯を噛み締めた。その言葉が正しいのかどうかなどは毛頭考えにない。今は明確な怒りの感情を血走った目でぶつけるだけだ。


 ゼブラなんかではない。今の葉は獰猛で飢えた肉食獣を思わせる。生存本能をピリピリと刺激する間合いに居ても、しかし界は軽々と笑うだけだった。


 そしてやはり、軽い口調で下を指し示す。


「つーかよ、そんな所で佇んでねえで救ってみろよ。口だけじゃなくてよぉ」


「テメエがそれを言うのか!!」


「お前が動かないのがいけないんだろ。……いや、違うな、訂正する。動けないんだよな」


「……黙れ」


 界は深淵を覗かせるような低い声での呟きを無視し、愉しそうな笑みを深める。まるで、列挙していく言葉こそが怪物を蹂躙しつくす剣であることを自負しているかのように。


「さっき何も損失がないからって動揺を見せなかったよなぁ。ほら、今まさに格好つけて守るとか覚悟していた女の子の命が失われそうだぜ。ほら動いてみろよ、ほら!」


「黙れ」


 だが葉はそう呟くだけで、動かない。動けない。この状況を作ったのが自分の落ち度の占めるところの大きいという事実が、彼の心的外傷を抉り、今と過去の凄惨な現実を交互に見せていたから。されど、音声だけが闇に閉ざしたい今を明瞭に拾い続ける。


「無理なんだよなぁ。お前みたいな化け物は破壊するだけで何も守れはしない。まして、俺様達の世界に主人公は居ないんだからよぉぉ!!」


「黙れつってんだろうがぁぁぁぁぁああああ!!」


 葉は天を衝くかのように叫んだ。胸を掻っ捌き、臓腑の前とも後ろともつかぬ箇所に渦巻くこの痛みを取り出したい。


 しかし状況は変わらない。亜莉沙の小さな傷口からはとめどなく血が広がり続け、徐々に死へと向かっていく。


「『最強』にはなれず、中途半端に『普通』を求めたからこんな結果になったんだよぉ! 夜霧冷夢に利用されて、本当はあんなことはしたくなかったと叫ぶか?」


「んなことはしねえ! オレが弱かったから……弱かったから引き返せねえところまで進んだんだ!!」


「わかってんじゃねえか! 弱えことは罪だ。叶えられない理想論を吐き散らすだけの屑は話になんねえ! 全部、全部てめえが弱くて中途半端だからいけねえんだよ!!」


 糾弾が葉の中に存在する柱を瓦解させていく。


 ――葉の殺してきた人数、界は五千人と言っていたが、正確には違う。〈犠牲児〉である胡桃渚の意志、その彼女を守ろうと立ちふさがった久澄碎斗、夜霧に反旗を翻した猫屋計に阻まれ四九九九人で留まっていた。決して許される人数でないのは彼も理解している。けれど、だからこそその一線だけは越えたくなかった。――守ると約束しながらそれが叶わなかったのなら、それは殺したのと変わらない。


 トラウマを抉られ、新たな志すら砕かれたことで理性という防波堤にせき止められていた感情が爆発する。それを人は因果応報と言うかもしれない。世の中が全て完璧なバランスで構成されていないのは分かっている。けれどこれは、あまりにも理不尽すぎる。


 亜莉沙の本質により鳴りを潜めていた暗い感情がまたも芽吹く。そして今度は、その開花を止められる人間は居ない。


 そして、顕現する。葉の心の変化に伴うように、彼の背から身の丈はあろう二枚の鴉のような黒翼が伸びた。――いや、違う。左右に六枚ずつ羽が生え、重なり合うことで対の大翼を形作っている。


 下から何かが追突したように地面が大きく縦に揺れ始めた。それは次の瞬間から小刻みの横揺れになる。アスファルトが避け、薄皮に抑え込まれていた膿のようにマグマが噴き出す。


 壊れていく世界に呼応するようにどこからともなく現れた黒い鴉が天を覆い、終末を歌うように鳴き声を軋む世界に轟かせる。


 そしてその黒群の中で異質に浮かび上がった幾羽の三本足の『烏』が葉の首から頭までを覆っていく。


 黒色の渦巻いた奔流が葉の口から、鼻から、目から、耳から入り込み彼の全てに侵食する。抗う術はなく、次第に思考が今自分の抱える≪絶望≫を世界に振り撒くことだけに染まっていく。


 三つ足の『烏』はやがて風景に溶け込むように消え、露わになった葉の顔には鴉の頭を模した仮面が、首には濡れ羽色の胸の辺りで途切れた鎖の垂れた首輪が嵌められていた。


「ガアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」


 葉は鳴く、深淵のような暗い声色で。ただただ胸に渦巻く感情に押されるように、鳴き続けていた。


 対する葉は、この異常な状況に戸惑う――のではなく、寧ろ嬉しそうに顔を歪め、上気させていた。


「ははっ。これが『囚われの烏』か」


  この言い種は、まるでこれが本命だったようだ。


「さて、ご命令通りきっかけは作ったし……逃げますかな」


 翼を翻し、葉から離れていく。


 しかしスピードに乗る前に、葉が黒翼を振るい、構成する羽が一本弾丸のような螺旋を描きながら界の右手に着弾した。


 手の平から黒色が広がり、肘の部分から落ちた。界の目からは腐ったように見えたが、腐臭はしなかった。


 腕は重力に従い回転しながら地上へ。潰れたザクロのように飛散し、その肉片に鴉が群がる。


「ど、どうなってやがる……」


 全く痛みを感じなかった。もし自重に耐えられず腕が落ちなかったら、腐食は身体の中心まで達していただろう。


 今の葉の力について、界は殆ど知らない。から、そう考えが至ることで嫌な汗が一気に噴き出した。


(駄目だ。ありゃあ、特殊才能とか魔術とかそういう類じゃねえ!!)


 解らないことが怖い。それがここまで怖いとは、今の今まで知らなかった。


 界は反射的に『自己世界』を発動する。自分を守る、不可侵の三.一次元。


 しかし『囚われの烏』の翼は、その殻を切り裂いた。


「な……ッ!!」


 現実世界と『自己世界』の分かれ目は、混ぜられた水飴のような歪みで視覚化できた。そして外界では、自由気ままに歌い続けていたはずの鴉が入り乱れながらも、ちょうど太陽が遮られた暗い世界で、何故か黒い双眸がこちらを睨んでいるように思えた


 腹の底から恐怖がこみ上げてくるのと同時に、ふつふつと怒りも込み上げてきた。


「夜霧新ァ! あの野郎、俺様を切り捨てやがったな」


 叫喚するも、何が変わるわけでもない。鴉は刺すような目線でこちらの動きを牽制し、『囚われの烏』となった葉は境界線を踏み越えた。


「ガアアアァァァァァァァァァァ!」


「……ハッ。理性が残っているようには言えねえが、俺様への怒りはあるのかよ。……いいぜ、お前を殺せばあのクソ野郎に一泡吹かせられそうだしな」


 軽薄な笑みを脂汗交じりに浮かべ、戸惑いと怒りを吹っ切る。


 世界最速の鳥であるオオグンカンドリの翼を好んで使う界は、常々その欠点を理解していた。空気抵抗と体重だ。


 だから、とまずは骨と筋肉の作りを流体的なフォルムに変質させた。副次作用として全身から軋む音が立つ。もちろん、原子レベルからいじっていようがそこにあるべき姿として固定された部品を無理矢理動かすため、通常なら発狂してもおかしくないほどの痛みはあるはずだ。だが、界の怒りはそんな痛みを鈍らせるほどに高まっていた。


 さらに次いで、彼の体内から水っぽい破裂音が断続して鳴り響いた。体重を少しでも軽くするため、脳や心臓、肺といった今この時生存に不可欠なもの以外の臓器を全てすり潰した。血液も必要量以外、疑似的な血管を作り口腔へ排出した。


「ガハァッ!! ゴホッ、エホッ……ハァ……ハァ……」


 界は唇に付いた鮮血を手の甲で拭いながら思う。


 どうせ何もしなくても殺されるのだ。同じ死ならば、一矢報いてからでなければ気が済まない。


 それが、己世界という人間だった。


「殺してやんよォ! 天津目葉!!」


 体重五十キロ後半はあった人間を最高時速百五十四キロで飛ばしていた翼が、現在に二十キロあるかないかの人間を飛ばすため空気を掴む。今回は向い風対策の円形の『自己世界』は使わない。そのための流体的フォルムだ。それにより滑空することだけに集中できる。正真正銘の全力だ。


 黒羽をはためかせ消える。そう見えるだけのスピードに界も視界が追い付かず、またそれを彼が認知する前に距離は埋まり――


「……は?」


 界は、傾く司会で血へ伏しているのを自覚した。疑問が怒りに勝り、のたうち回ることすら不可能な苦痛が全身を蠢き走る。しかし、それでも悲鳴より先に素っ頓狂な声が漏れた。


 それに先程から視界の端に黒光りする羽が映る。痛みで感覚がおかしくなっているはずなのに、背中に喪失感が感じられて仕方がない。


(なんで! なんで? なんで!?)


 俺様は生きている。純然な疑問が界を放心させていた。


 その答えは、前触れなく空から降ってきた。


「いいざまだな、己世界」


 くぐもった声は紛れもなく葉のもの。しかし状況を現実として認識し、咀嚼することが界にはできない。


 その間に要の顔を隠している面や首輪、背から伸びた翼がぼろぼろと崩れ、やがて太陽を遮っていた鴉と共に何処かへと消えていった。同期するように地面の揺れとマグマの流出も止まる。


 空気を絡める翼を失ったことで葉は重力に従い落下し、衝撃を拒絶しながら着地した。


 そこでようやく、界の思考は三次元に追いついた。


「まさか……まさかお前、最初から理性を失ってなかったのは!!」


「違えよ。これはもっと根本的な話だと思うぜ」


 あっさりと否定。ならば殺意の化身と成っていた葉を自制させたものは、本人の言う通り原初から存在していた深層心理に他ならない。


「テメエに殺す価値はねえんだよ、己世界」


 初めから、どんな実力差を見せつけようが下に見られていた。そして今、その事実が体現されている。


 勝てない。感情とは裏腹に本能がその強さに屈服し、折れた。


 界の脳は痛みと自尊心を激しく気付つけられたことでキャパシティーを超え、ブラックアウトを選択した。


 暗闇に閉じる視界の中で、葉はもう界の存在を視界に収めていなかった。



 







 葉は界がもう動けないことを会話の中で確認すると、勝利の余韻に浸ることなく亜莉沙の元へ駆けた。と言っても、蓄積したダメージ、特に上下するたびに痛む頭のせいでで動きは鈍かったが。


 しかしそれを無視して寄り、膝を折って身体を近付け状態を診る。揺れにより力なき体は転がされたらしく裂傷が酷く、出血元である左胸の傷は血栓一つできる様子もなくじわじわと上着を濡らしていっている。だが幸いにも致命傷となるマグマにはかすりもしなかったようで、火傷の跡はない。しかしこのままでは生死の一線を超えるのは時間の問題化というほど息は弱く、力なく開かれた瞼に収められた瞳は虚ろだ。ただこちらへ僅かにだが顔を向けたことから意識はあるらしい。


 すぐさま救急車を呼ぼうとするが、葉は携帯端末を持っていない。夜霧冷夢から狙われている身であることを考えると、公衆電話を探したり店の電話を借りにこの場を離れるのは得策でないと思えた。亜莉沙に携帯を置かせたことが今になって後悔として押し寄せてきた。


 そもそもこの状況下で救急車が真っ直ぐに来れるのかも怪しい。


 直接病院に連れていくことも考えたが、こんな銃創――に見える――を持ったいわくつきの患者を預かってくれる医者は情報でなら知っているが、そういう人物は信用できる顔馴染み以外を門前払いする。夜霧の引いたレールの上で裏社会を生きてきた葉はその界隈の人間と顔を合わせたこともない。


 なら答えは一つ。亜莉沙を救いたければ、彼自身が治療するしかない。


 それはつまり、亜莉紗に直接『拒絶』をかけることを意味する。だが元々この状態の亜莉沙を移動させるには『拒絶』をかさぶたのように傷口に被せるだけとはいえ、直接効果させる必要があったのだ。どちらにせよ変えられない方法だ。寧ろ、手があるだけ感謝すべきだろう。


 論理を詰め、自分を納得させて右手を伸ばす。


「……」


 しかし、その手があと数センチというところで止まった。


(できるのか……いや、やっていいのか、オレが……?)


 関係により揺さぶられた感情の爆発で発動した謎の力。それも破壊を及ぼすものであった。


 自分の本質はやはり壊すことではないのか。答えの出ない疑問が何度も去来し、葉の行動を止める。


 界に刺された多くの棘は、本人を斃したことでより深くまで打ち込まれていた。


「……!?」


 不意に、右手へ冷たい何かが触れた。それが葉を思考の海からすくい上げる。


 それの正体は、血色の全く感じられない青々とした亜莉紗の手だった。


「……けて……よ、う……くん……」


 口に溜まった血と弱々しい声音で、絶え絶えにしか聞こえなかった救いを求める言葉。


 しかしそれが、葉にたった一つの約束を思い出させる。そして、その重みを痛感させていた。


「……迷うな。やるしかねえんだ」


 言葉にすることで自分に言い聞かせ、葉は亜莉沙へと触れる。そのまま、傷に対してだけ『拒絶』を這わせる。それは今まで大雑把にしか力を使ってこなかった葉にとって、先の乱れた糸を針に通すより繊細かつ難易度の高い行為だ。


 まずは傷の規模を調べる。外側をなぞるように力を巡らせ、空気の弾丸は直線的には左肺を貫通、そこから手榴弾の如く爆散し、周りの肉と骨、脂肪を食い破っているようだと知る。それは心臓にまで及んでいるため重症と判断して差し支えない。


 だが葉は余計な情報はすべて無視し、傷の在り方だけをそのままに認識し、拒絶することだけに専心していた。


「うぁ……」


 呻き声は傷の修復に対するものか、それとも。


 どちらにせよやらなければ亜莉沙は死ぬ。理解しているから、彼の思考は揺るがない。


 ――魂や精神と呼ばれる概念的存在すら実像を持たせ、全ての事実を拒絶しろ。


 筋繊維が千切れた事実を、骨の砕かれた事実を、血の失われた事実を、傷の痛む事実を、世にその事象が認められた事実を葉は拒絶する。


 特殊才能は持ち主の表層意識、無意識の全てを反映するため人体の遍くを掌握し、世に普遍する常識を拒絶していく。


 亜莉沙の傷付き、失われた組織が巻き戻しのように治っていくのを葉は感覚で捉えた。


 そして内から外へ傷は埋まっていき、遂には消える。やりきった葉は脱力し、尻餅をつく。必然的に手は離れた。


 心臓がやけに遅く一回一回の脈動を誇張するように跳ね呼吸がままならない。


 頭が酷く傷む。左脳と右脳がお互いに離れようとしているみたいだ。それは感覚的なものだろう。だが脳に多大な負荷をかけたのは事実であり、葉の目と鼻からは全血が流れ、熱せられたアスファルトを紅く染めた。


 その対価は、「んっ」と小さな呻き声をあげながら、しっかりとした瞳で葉を射抜いていた。


「ふぅ……」


 葉はその結果に充足を覚え、後ろへ倒れた。地面の暑さに背中が焼かれるような感覚に襲われるが、起き上がる気力もない。しばらくすれば慣れて心地の良い感覚になった。それは、初めて知る刺激だった。ただ真上を向くことで、遮るもののない太陽の光が眩しかった。


 億劫に思いながらも、手でひさしを作って影を生み出す。すると三足の『烏』が目の前を覆っていく合間に見た風景が連想された。下から大きな質量を持ったものが追突したような揺れ。滲み出すマグマ。どこからともなく発生した鴉の群。


(結局、あれは何だったんだ……?)


 葉の記憶にある情報だけでは取っ掛かりすら見えてこない。やはり、ブラックアウトした間に何が起きたかを探らなければならない。


 その方法を脳内にリストアップしていく。


(監視カメラへのハッキング……それも、この街のセキュリティーをかいくぐれるウィザード級のハッカーか電磁系才能保持者……)


 葉にハッカーの知り合いは居ない。そしてそれほどの特殊才能保持者となると、彼は二人しか思いつかない。


 だが片方は殺し合いを演じた。頼める筋合いはない。


(なら、消去法であのお嬢様か……取り敢えずは抱えの従者と接触しなきゃならねえか)


 その思考内容の通り、由麻静波と知り合いではない。しかし、他の方法のようにゼロ、ましてやマイナスからのスタートよりはどういうアプローチを仕掛ければいいか知っている分、はるかに早い。 


 今後の方針を固めた葉は、手を支えに起き上った。


 するとにじり寄っていた亜莉沙と鼻先で顔が合った。


「わお!」


 奇声を上げながら亜莉沙だけが仰け反る。葉は呆れるような半目で亜莉沙を直視した。


「何やってんだ、てめえ?」


「何って、それこっちの台詞だよ? あんなタイミングで、しかもそんな血まみれで倒れ込まれたらぽっくり逝っちゃったのかと思うじゃん。もう止まったみたいだけど」


 顔に触れてみると、頬を流れた鮮血はまだ濡れたままだが、言葉の通り出血は止まっていた。


「声くらいかけりゃいいだろ」


「かけたよ。けど全く反応しなかったから」


 自分が集中すると嵌ってしまうタイプだと初めて知る。


 だがそれ以上に、葉は会話の応酬の中で気付いたことがあり怪訝な顔をした。


 体制を戻した亜莉沙は居心地が悪そうに身動みじろぎし、結局耐えられず口を開いた。


「? 顔に何かついてる?」


「いや、違えよ……」


 疑問の意味をとっさに理解した葉は、この違和感をどう言葉にしたものかと逡巡し、


「なんつーか、言い回し、イントネーションみたいのが変わったというか……固さ、がなくなったと思ってな」


「あー、あー、あー。そうかも」


 葉の主観は亜莉沙に伝わったみたく、肯定した。


「やっぱり初対面の人には外行き用の顔が出ちゃうし、緊張もするよ」


 自分語りは照れ臭いのか、赤らんだ頬を掻きながら言った。


「まあ、流石に命の恩人に対して信頼していないっていうのはおかしな話だから、素が出ちゃったのかな」


 その言葉に葉は目を見張ることになった。信頼。今の彼から最も遠い言葉で、彼自身が何度も裏切られてきた言葉でもある。だがそうでありながら、愚直にも欲していた関係性の一つでもある。


 だから臓腑の底から湧き出てくる気持ち悪さと共に、形容しがたい高揚感が背筋を走っていた。


新おじさん(、、、、、)の言う通り、いい人だったしね」


 高揚感が、一気に破砕した。


「てめえ……今、誰の名前出した」


 亜莉沙は不思議そうに小首を傾げ、「新おじさん」と嫌悪どころか親しみを以て告げた。はっきりとした声音が、それを現実だと叩き込む。


「どういうことだ? おい、この件に夜霧新は、どこまで噛んでいる?」


 亜莉沙は眉根を寄せ、


「何もしてないよ、おじさんは。ただお母さんが夜霧として暴走しているから、止められる可能性があるのは実の娘の私だけだってその事実を教えてくれて、困った時には葉君に頼るようにってこれを」


 携帯がしまわれていたのとは逆のポケットから黒いフラッシュメモリを取り出し、差し出す。


「……何の情報が?」


「葉君の経歴と、葉君の追尾システムへのアクセス権」


 そういうことか、と偶然が重なったとも取れる全て事象に対する辻褄がその一言で合い、天を仰いだ。追尾システムの存在は初めて知ったが、それに類ずるものはあるだろうと元々思っていた。自身の有用性を周りから謙遜もできないほどに叩き込まれているからだ。一つ誤解があったとすれば、夜霧冷夢の監視網だと予想していたものが、アクセス権さえあれば誰でも使えるシステムだったことか。


 そうしてまず、夜霧冷夢と結託した夜霧新は母親の危険性を教え、部下で襲わせる状況と自分にに頼らざるを得ない状況を作り、二人の距離が埋まったところであの状態を演出した。それが葉の打ち立てた予想だ。


 そして多分、その目的はあの『烏』の力だろう。もし他者を照らし出すほどの善性を持った人間でなかったら、あそこまでの感情の暴走は起こらなかった。亜莉沙は、その人物像に当てはまる。


 幸いにして上手くいったが、この姦計は亜莉紗の生命を無視し巡らされたものだ。立案、実行した二人に憤りを越して殺意を覚える。


 だがそれ以上に、葉は亜莉沙から目を逸らしたくなる問題を耳にした。


(経歴、だと)


 事実のものか、虚偽のものか。媒体は手の内にあるのに、確かめる術がない。渦巻く感情に惑わされ強く握りしめるも、非力な腕は軋ませることもできない。


 その一連の所作が何を意味するのかを感じ取った亜莉沙は、真実どくを吐く。


「知っているよ、〈犠牲児〉について。葉君が、何をしたのかも」


「…………。……そうか」


 それは、呻き声に似ていた。耐え切れず、しかしそれでもみっともなく喚き騒ぐことだけはしまいと、下唇を噛み締めた。まだ侵されていなかった白のキャンパスに紅が差す。


 だが、夜霧亜莉沙という人間は、どこまでも希望を内包した偶像である。 


「――それを踏まえて、私は葉君の元へ向かおうと思った」 


 だから、絶望を与えて終わりなわけがなかった。


「……はっ?」


「どんな事情であれ人を殺した人間に嫌悪は覚えるよ。けどだからって、その理由を見れば思うところがあるし、何よりおじさんの紹介もあったからね」


 滔々と語る亜莉沙の真意が読めず、葉はただ耳を傾ける。


「けれど、その考えは改められることになった。黒服を撃退するために傷を負わせることはあっても、殺すことはしなかったその姿に。これでもいろんなイベントでいろいろな人を見てきたから、見極める鍛えられているつもりだよ」


 亜莉沙は片目を閉じ、開けたままの目の下に人差し指を添えた


「まあ簡単な話。いい人だな、と思ったの」


 だから、と添えた指を葉に向け、開いた両目の焦点を彼の瞳に合わせた。


私を守って(、、、、、)。私からは何も与えられないだろうけど、それでも」


 それが、葉の変化がもたらした結果。何年も前から追い求めていた立場へ葉を誘った。


 だが葉は浮足立つことをしなかった。しっかり地に足をつけ、現実的な問題に目を向ける。


「守るって……その方法は?」


「一緒に住みましょ」


 亜莉紗の大胆な内容の即答に葉は目を見張り、軽快な笑い声をあげた。冗談だと思っているらしい。


「そりゃあまあ、いいのかよ嫁入り前の娘が会って一時間もしてない男と同棲なんて。まして、ファンが黙ってないだろ」


「いいのよ。葉君相手にそんなこと心配する女は父親以外の男性と関わったことのない箱入り娘か男性恐怖症の子くらいだよ。それにファンの心配もいらない。私がへましない限り、マスコミ不可侵のこの街で情報が漏洩することはないし、ファンが家を探してくるような熱狂的な時代は過ぎているからさ」


 遠まわしに男としてみていない発言をされたが、葉がそんなことを気に止めるはずもなく、むしろ淡々と否定材料を覆してきたことに驚いていた。まるで、本当にその方法を執行しようとしているように感じたからだ。


「テメエ、本当にオレと?」


「私は最初からそう言っているよ。大丈夫、家事全般はできるから。部屋も個室と衣装部屋の二つがあれば問題ないからさ」


「そういう問題じゃねえだろ」


「そういう問題なの」


 と、亜莉紗は葉の言外の否定に強く言い返した。


「それとも、葉君は一度命を救ったいたいけな少女をもっと恐ろしい手段で殺させたいのかな?」


 無表情に見せかけて目だけ笑いながら葉の弱みに付け込み、攻め込んでいく。言い返すことのできない彼は、回答を思案する前に、考えを改め直した。


 彼女は間違いなく夜霧冷夢の娘だと。


「ほらほら~。どうするの、葉君?」


「……さっきから気になってたんだが、なんで人の名前を?」


「そりゃ同居人に苗字はおかしいからだよ。ほら、話を逸らさず答えを!」


 亜莉紗の言う通りであるのは葉も重々理解はしていた。同意権を転がそうと、否定の理由となる言葉は出てこなかった。それどころか、彼女の存在そのものが、彼と普通の人間を共生させる架け橋となっていた。


 もう亜莉紗との関係性は、葉の中で簡単に拒絶できないものとなっているのだ


 その事実を頭では理解していないが、感覚で認識した葉は、深く息を吐き出した。心の中にある迷いや淀みをできるだけなくせるように。


「分かった。よろしく頼む」


 或いは、それは一回の成功に溺れているために思考が鈍らせられているからなのかもしれない。


 それでもきっと、その答えを反省しても、後悔だけはしないと断言できた。


「? なんでよろしくされたか分からないけど、こちらこそよろしく!」


 そう言って亜莉沙は、葉の手を無理矢理取って握り締めた。


 その手が拒絶されることはない。

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