五話 序章
MGR社日本支部の四区は、同じ学生区の三区と比べると垢抜けない感じが漂っている。
夜霧の台頭により科学力は大きな進歩を遂げたが、だからと言って全てがいたずらに最新鋭的なデザインになっているかと言えばそうでもない。
建造物がその最たるもので、見た目の部分は度を越して先進的になると気持ち悪さを感じてしまうのが人間の脳らしく、内面の強化のみが重視され、造りや塗装は半世紀前からあまり変わっていない。
しかし、だからと言って全てが都会的に均されているわけではなく、いわば『失敗作の吹き溜まり』である四区は骨組みは他区変わらずとも、外見的な面ではあまり資金が回されていない。それは資金の無駄というわけではなく、才能に胡坐をかいて努力を怠るものに忌避感を与えるためである。
「四区は作りが敢えて杜撰になってるからニャ。数だけはあるスパイを炙り出すためのエアポケットの管理もずさんでニャあ。監視システムが外されている個所もままあるのニャ」
そう言って猫屋は、携帯端末から簡易的な作りのデータを、詳細の付け加えた本文と共に右隣を歩く久澄の自宅に置かれたタブレットに送信した。
「そんなの、何に使うのよ?」
久澄は自分の右隣を歩く萌衣に疑念の目を向けられ、空を仰いだ。残暑を支える日差しは厳しかったようで、目を細めた。
「まあ……筋トレ?」
「何故に疑問形?」
「はてなを交わすニャよ」
辟易した声音に苦笑し、二人は会話を断ち切った。
そのタイミングで、三人の歩く区画に影が落ちた。モニター画面付きの飛空艇が太陽を遮ったのだ。いつもなら天気予報や企業の広告、話題のニュース――最近では第二次マジックサイエンスウォーの話題を映し続けた画面には、大きな赤文字で『特報』のテロップが出されていた。
「あっ、あっちにも」
声に反応して久澄が顔を下ろすと、萌衣が正面斜め上を指差していた。追えば自分らと同じくらいの人々が皆首を上に傾け立ち止まっていた。その二つの行き先が交わるのは、背の高いビルディングの最上階に埋め込まれたモニター画面だ。萌衣の言う通り、『特報』のテロップが流れ続けている。
「この時期に特報って、きな臭すぎないか?」
「そうね……」
久澄と萌衣、そして徐々に広がるざわめきから漏れ出る内容から周りの学生たちも同意見らしい。が、何故か猫屋は訳知り顔で画面を見つめてた。久澄は視界の端でそれに気づいていたが、聞くより見た方が早いと、画面に焦点を合わせた。無論、吸血鬼の血の影響で広い視野を持つため、二人の姿はしっかり映り込んでいるが。
注目が集まるのを待っていたのか、しばらく時間がたってから『LIVE』の文字を斜め上に張り付けた映像の変わる。その中には、一人の青年の姿が映った。
『やあ、日本支部の皆さん』
信愛にあふれた笑みを張り付けた顔。その正体に随所から困惑や忌避感が混じり合ったざわめきが起こる。
久澄は自分でも分かるほどに口端をひくつかせた。
「夜霧新。いよいよって感じね」
萌衣が久澄の内心を代弁する。
「ま、そこまで身構える必要はないニャ」
「どういう意味?」
「まあ、観てるニャ。クズミンもそうしてるみたいだしニャ」
萌衣は久澄の方を見た。表情が若干歪んでいるものの、じっと画面を見つめている。この中で一番夜霧新と因縁深い彼がそうしているなら、と計の言葉に従うこととした。
『いきなりですが、皆さんは五月の中旬に発表した〈科学魔術〉のお話をお覚えですか?』
〈科学魔術〉。特殊才能と魔術とを有するのではなく、その二つを複合した才能。日本支部内に幾つかある都市伝説に類似したものとしてその存在はまことしやかに語られてきていた。
それが覆されたのが今年の五月中旬。MGR社日本支部在籍の夜霧裂が同年の四月上旬に入学してきた中学生の中からの発掘に成功。また、四月の下旬においてMGR社魔術師代表である錠ヶ崎寧々がその形態は魔術を複合すると認め、半月後その情報、ランクは4に相当するとの判断、順位は三とするという発表が成された。
「まさか……」
久澄はこれが何の放送なのか当たりがついた。脈絡を考えればその可能性しかなく、情報が揃った状態にて論理的に思考されたものは大体が正当である。
周りも同じ考えに至っているようで、どよめきがさらに広がる。それは、期待を多分に含んだものだった。
『先の会合にて話題の中心であり、対戦への引き金である結神契氏のテロ行為の原因は、この〈科学魔術〉保持者をねらったものでした。魔術界にその存在が露見していたと実証された今、その存在を公表することと相成りましたことを、皆様に報告させていただきます』
おおー! とどこかから歓声が上がる。それはすぐさま波及し一瞬で轟音となった。
若者が中心の四区では、戦争の発端の原因に不満を持つ前に刹那的享楽に身を投じる者が大多数を占めていた。
しかし久澄達は、そのお祭り騒ぎから一歩引いた冷静な瞳で画面を睥睨し続ける。
画面の向こうははお祭り騒ぎなど構わず進行していく。スケジュールに押されているような科学界リーダーとは異なり気を利かせた情報局が一瞬音量を上げすぎ、移動に伴う布すれを高性能マイクが拾い上げた。
調節され終わる頃には夜霧新は画面の端に寄り、制服姿に身を包んだ一人の少女を招いていた。
くりっくりと形容するが正しい大きくつぶらな黒色の瞳。動くたびに後ろでまとめられた黒のポニーテールが活発に揺れる。
その姿に、夜霧新への警戒心は微塵もない。
『彼女がその〈科学魔術〉保持者。名は久澄飛鳥。所属はかの有名な冷兎大学付属中学校です』
仇敵とも言える人物の近くに何も知らない身内が佇んでいる状況に、今までの会話からこの状況を知っていたらしい人物へ目線を向けた。
「……すんげー微妙な気分なんだけど、猫屋」
「俺に言われてもニャ~。四月の時点で情報開示の計画は立ってたしニャ。それが諸々で前倒しのなっただけだからニャ」
「なん――」
その理由を問おうとしたが、右から肩を小突かれた。それで今は映像に集中すべきだと思い出す。
『さて、次はその才能を見てもらいましょう。お願いします、飛鳥さん』
『はい』
大衆に見られていると自覚しているだろうに、飛鳥の顔に緊張の色はない。それを体感できないのもあるだろうが、今や縮小しているとはいえ剣道の大会で何度も表彰台に立っている人間は違うと久澄はしみじみとしていた。
そんな風に感じ入っている間に、飛鳥は凛とした答え通り、淀みなく右肩甲骨から赤い炎の羽を噴き出させた。
『これが朱雀の右翼です。また魔術とは違い一つの属性に縛られることなく、例えば彼女は県道を嗜み、無宗教ながら神道にその身を染めています。朱雀は中国の神に属するため、普通の魔術で扱う場合は中国神話に縛られます。が、はその世界との制約を無視し、神道の八百万にまで干渉できるのです』
夜霧新の説明に、取り敢えず凄い、という空気と静寂が生まれる。音の落差が大きすぎて、皆一瞬周りを窺うほどであった。
それは仕方がないことだった。魔術については、専攻していない限り思想から理論まで正反対であるため、その知識は触り程度だ。
実物を目にする機会があった久澄や計は理論ではなく体の芯に刻まれた感覚でその凄さを他者とは一線を画して理解していたが、ただ一人そのチャンスに恵まれなかった萌衣は、漠然としたものしか掴めていない微妙な表情をしていた。
夜霧の末席に連なるものですらそうなのだ。だから、という風に夜霧新が拳大の石を飛鳥に向け投げた。下から上へ、トスするように放られた重量感漂わせる鼠色の塊は大画面の中で弧を描く。
それを、朱雀の右翼が薙ぐ。飛鳥が回転するのではなく、羽そのものが意思を持つかのように斬りつけたのはデモンストレーション故だろう。
石は灰色と化して地面に落ちた。音はしない。
効果は絶大で、無知な大衆もこれには絶句するしかない。付け焼刃の微々たる魔術知識で照らし合わせ、先程の言葉に独自の理解をし始めた。
「八百万を殺す朱雀の力、ね。噂話には聞いていたけど……恐ろしいわね」
萌衣もその他観客も概ねその答えに帰結した。
その後、夜霧新が結びの言葉で締め、今後一週間の天気予報が表示された。余韻と言うには大きすぎる残滓を残して。
示し合わせたように携帯端末を取り出す一同。どこかの大手企業がサイトを建設し、一般市民から新たなランク4の二つ名の募集をしているのだ。そのためLIVE映像は終わっているにもかかわらず、なかなか人の群は進まない。三人は隙間を縫うように進み、何とか抜け出した。
「で、猫屋。早まった理由って?」
久澄はいきなり問いかける。計は歩を進めたまま答えない。後追いのため状況に理解できていない萌衣の怪訝な視線に押されるようについていく。しばらく目的地の方向に進み、るみなぎさ他の耳目を避けるように人気のない場所でようやく口を開いた。
「希望ニャ。戦争が、それも過去に時代の変換期を起こしたほどの大戦がいつとも知れず始まろうとしているんだからニャ。……学生が流出していっているのは知っているよニャ?」
「ん? ああ、デマだか何だか知らないが、特殊才能保持者を線上に投下するとか言う噂が立ってだったか」
「そうニャ。特に高位の保持者ほど自分の才能に絶対的な自信を持っているせいか、過敏に反応しているのニャ。客観性の弱い高校以下の連中は真偽は別として、心に渦巻いた可能性は誰かから肯定された瞬間に真実としてしまう傾向があるからニャ」
三人ともそれに、自身は客観性を保てているとは言わなかった。自己主張がないのではなく、自分に利益よりも優先すべき事柄があることを弁えているからだ。
「まあそんなわけで、胡桃渚の特殊才能が劣化したことはまだ連絡しない。どんな些細なことであれ、今の情勢下でマイナスなことを伝えるのは、信用を失う以上に体制を傾けるからニャ」
「なるほどな。けど、結局胡桃の特殊才能はどこまで残っているんだ?」
久澄は萌衣の方に顔を向けた。
「まあ、前に見せてもらった感じだとランク1相当でしょうね」
「完全な無才能のランク0ではないにしても、意外と残ってんのな」
「仮にもランク4だったからね。特有の身体的特徴が真っ白になったからって、特殊才能の方をきれいさっぱり消えましたとはならないのよ」
久澄は納得できてなさそうな微妙な表情で首を傾げた。離反しているとはいえ夜霧、しかも何度も真実を伝えてくれた信用すべき萌衣の説明を受けても、廃人と説明されても違和感がないような姿であった渚を見た彼の中では疑問がわだかまっているようだ。
この手の疑念は真実を見ない限り解消されないと思った萌衣はそのまま口を閉じた。代わりに、再び計が言葉を走らせる。
「てかクズミン。そもそも才能発掘の理論的に才能が全く観測されニャいのはおかしいと気付いているかニャ?」
「……意味が解らないんだが?」
「猫屋!!」
萌衣は釘を刺すような声音で名を呼ぶ。その意図を理解した計はそれでも、「大丈夫ニャ」と真剣な声音で彼女を制した。そしてその流れから、話の重要性を理解し、ただでさえ良い耳をさらに傾けた久澄へと口説を戻す。
「まず脳領域空間製造の一連の流れを整理してみるニャ」
「……動物の適応力を利用して、脳に何度も特殊な音波と電波を流して、真正の超能力者などの一般的には解明できない力を持った人間にあった特殊な脳領域を再現しているんだよな。そしてそれは、理論上における人間の進化の最終地点であると」
「そうニャ。あくまで人間の極地(、、、、、)だからこそ、空間転移系の才能も十一次元の存在を仮定して実像を捉えることでA点からB点に一瞬で飛ぶこともできるのニャ」
特殊才能の基盤である脳領域空間で演算されていろことは、万物の基礎を読み解く技術である数学や世界の真理へと到達する鍵である物理と同じだ。物事を仮定した場合に、その存在に実像を与えられる種族は今のところ人間しか居ない。だから才能の到達点が似通った種族は多く入れど、特殊才能の発掘は人間にしか試行されていない。
何度か授業で聞いた情報だったが、特に意味は感じてこなかった。だがそれを敢えて意味のある文として整理してみるならば、
「……人間である限り、才能の発現がないなんてことはありえない……のか?」
「ご名答。人間誰しも脳領域空間は生成され、原子レベル程度でも何かしらに影響を与える才能に目覚めるニャ。世の中には蝶がはばたけば逆の地では竜巻が起こるなんて理論もあるくらいだニャ。それには大きな意味があるのニャ」
「けどそれがいったい何なんだよ? 俺は完全な無才能だけど、正真正銘の人間だぜ」
「むう、クズミン、残念ながら俺達は純粋な人間じゃないのニャ。人外が混じった恐苛憑きニャ」
久澄は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。そのままかろうじてという風に声を発した。
「俺を恐苛憑きとしていいのか、甚だ疑問だけどな」
「恐苛雑じりとも違うしニャ。そもそも人間が恐苛に成って人間に戻るなんて前例がないかなニャ。夜霧はどう思うのニャ?」
「まあ、お姉ちゃん曰く恐苛ではないらしいわよ。人間もどき、てのが妥当でしょうね」
「舞華さんが言うならその道の常識なんだろうけど、どっちにしろ人間じゃないから特殊才能は開花しないのか……」
「久澄……」
萌衣が心配そうに呟く。それに気付いた久澄は乾いた笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。そりゃ昔ならキレてたかもしれないけれど、今は、な。けどやっぱり恐苛は問答無用で化け物だってことを改めて押し付けられている気がしてな」
「甘いニャー、クズミンは」
呆れた声音と共に、猫屋は歩き出した。
「俺はあいつが化け物じゃないなんて思ったことないニャ。それとも、人型だからそう思っているのかニャ?」
猫屋の事情をかんがみればそう問うたことの意味を久澄は理解できた。けれど、それでも看過できずに怒気を含ませ答える。
「違うよ。明確な言葉としては言い表せないけれど、何の理解もなく化け物と認されていい奴らじゃなかった。いつまでたっても結局は人間が悪いんだ」
二人の間に、意見の相違による対立が生まれる。ぶつけ合う視線の中には互いに一歩も譲る意思はなく、第三者の萌衣も成り行きを見つめるだけだった。
「特殊才能は人間にしか芽生えないニャ。それが答えだと思うがニャ?」
「俺が夜霧の方法論を信じると思うか? 例えば、神様が居ると仮定した場合」
久澄は皮肉げに笑い、
「力の公平性を維持するための措置だったりするかもしれないんだぜ」
その言葉に萌衣は吹き出し、猫屋は肩を竦めた。張りつめた糸のような緊張感が霧散する。
久澄と萌衣は猫屋の後を追う。そして三人は再び歩を目的地へと進めた。
三人の目的地は四区を代表する大病院だった。
受付を済ませ、外来患者や彼らと同じ目的で来た人たちであふれるホールを抜け、重厚な雰囲気のエレベーター前へ。先に来ていた妙齢の女性か、それとも痩せ細った男性のお陰かで到達した瞬間に扉が開き、二名の後に乗り込む。重々しかった扉とは裏腹に明るく、滑らかな動きのエレベーターで重症患者が入院している四階の東煉へ。かかる自重力だけが移動していることを伝えてくる。二階、三階、そして四階と沈黙が苦にならない速さで到着音が鳴り、三人はすぐに出た。センサーが無人を察知し、扉が閉まる。
「さて、行きますか」
「あー、ちょっといいか」
そう言って久澄は小さく手を上げた。萌衣と猫屋の視線が自然と集まる。
「やっぱ俺行かなくていいか?」
「……なんでよ」
「気まずい」
じっと萌衣は半目で久澄の目を見つめ始めた。
「……」
「じー」
擬音まで発し始める。
なんだか居心地の悪さを感じた久澄は、猫屋に助け舟を求める意味で視線を向けた。しかし彼は、素知らぬ顔で明後日の方角を向いていた。横顔から窺える口角が、若干吊り上がっていた。
(あの野郎!)
内心で呪詛を垂れ流していくも、現実は変わらない。
どう切り抜けようか。そう思案しているとため息が聞こえた。
「分かったわよ。で、どこで落ち合う?」
「え……ああ、じゃあ、中庭で」
「了解、了解」
萌衣はかを払うかの葉の手を振るってさっさと行くように促した。
「悪い。サンキュー」
久澄は自身の眼前に手を立て、逆の手でエレベーターのスイッチを押した。ちょうど近くまで来ていたようで、すぐに扉は開いた。
「じゃ、またあとで」
「はいはい」
鉄扉は静かに閉まり、久澄と萌衣、猫屋を隔てた。
最後まで見当違いの場所を見ながら成り行きを楽しんでいた猫屋が、そこで萌衣の方に笑みのままの顔を向ける。
「どっちにしろクズミンにはご退室願うつもりだったのに、なんであんなことニャんか?」
「楽しいから」
含みの感じさせない即答の内容に、猫屋は表情を苦いものに変えた。
「それにしても、気まずいとか思ったりするんだ、あいつ」
「まあ、クズミンも人間だってことだニャ」
「さっきもどき云々の話したばっかだから、冗談にしか聞こえないわね」
薄く笑い、萌衣は身を翻した。猫屋もそれに倣う。
終着点は少し歩いた先の部屋。ノックを二回。入室許可を待たずに取っ手を横に押す。
ベッドの上で目を見張るこの個室に入院している黄色髪の少女に萌衣は挨拶代りに気軽な感じで手を上げた。
「おはようございます。というか萌衣さん、連絡はもらっていたとはいえ、返事くらいは待ってくださいよ」
萌衣は挨拶の手を下ろしながら上機嫌そうな笑顔でベッドの近くまで寄り、脇に置かれた丸椅子の腰を下ろした。猫屋は滑らかに戻っていく扉の前で止まっていた。
「悪い悪い。で、調子はどう、渚?」
「まあ、ぼちぼちというところですかね。取り敢えず車椅子での移動程度なら支障なく行えますし」
「それは上々。じゃあ、見舞いの品を渡そうかね」
「? どちらにあるんですか?」
渚の目に映る限り、萌衣も猫屋も手には何も持っていない。
「ああ、物じゃないんだ。ちょっとした小話をね」
真剣な声音と表情になった萌衣に首を傾ける渚。それと同期するを扉が開いた。
「あれ先生? 回診はさっき終わったはずじゃ……」
渚の視線の先には、区違いの、それも冷兎のランク4を留めておけるほどの実力を持った名医の姿が。彼女はまだ知らないが、彼の正体は三番目の夜霧冷夢クローンである。
医者は何も答えないまま渚の近くへ。
「さて、役者は揃ったわ」
猫屋が扉が完全に閉まったことを壁を小突くことで合図する。
困惑を前面へ露わにしている後輩に、萌衣は冷徹な夜霧の顔で告げた。
「夜霧冷夢を殺す話を、始めましょう」
同時刻。久澄は中庭――ではなく、とある病室の前に居た。重症患者の中でも意識のない患者が集まる四階の西煉に位置する場所だ。
扉に貼られたネームプレートには、『誘神命』と書かれている。
「…………」
どうしてこの部屋に足を運んだのか。それは久澄自身もわかっていなかった。
ただ二ヶ月前とは大きく変わった状況に、彼自身の心境が変化しているのは確かだった。
無表情のまま、手を伸ばせば開く扉を眺めている。或いは、その向こうで眠っている一人の少女を思って。
しかし結局、その扉に手をかけることはしなかった。
背を向け、歩き出す。その姿はまるでなにかから逃げ出しているようにも見えた。




