敗北の先
久澄に倒され地に仰向けになっていた計は、しばしの沈黙の後、懐からライターを取り出し火を灯した。
「ニャあ、猫……おい、黒猫」
「……ニャんだ。鬱陶しい」
気だるげな声と共に、『不幸を司る魔の黒猫』が計の影から浮かび上がる。
「自分が呼び出したい時にだけ解放するなんて、都合がよすぎニャいか?」
「知るか。俺は飼い主だからな」
猫を自分の意思で表に呼び出した事で、副作用の「ニャ」は消える。
「……傲慢だけど、屈服させられたのは俺だからニャ。小言は言っても従いはするさ。で、ニャんだ?」
「俺は……どうすればいいと思う?」
ポツポツ、と語る計に、黒猫はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「そんなどうでもいい事を聞くニャ。全く、呼び出されるこっちのみにもニャってみろ」
「けど、今頼れるのはお前しかいなくて」
「落ちぶれたニャ、主」
冷淡な声音でそう言って、影へ沈もうとする。
この地下道はいかにもこの黒猫が好みそうな所なのに−−つまり、それだけ不快にさせたのだろう。
「……すまん」
場を取り繕うためだけに呟かれた謝罪。言ってから、これも不快にさせるだろうと気付く。
「……このまま戻っても影響してきて不快だからニャ。主、一つだけ聞いてくれ」
脚を完全に沈ませた状態で、渋々という感で言い出す。
「なんだ?」
「主は他者に言われた事を納得して呑み込めるのかニャ? −−オレは人間じゃニャいから者ってのはおかしいんだが、まあそれは横においておいて。つまり、ニャにが言いたいかっていうと、自分が今何をしたいのか。それでいいニャ。所詮オレは主に憑いてる身。別の存在だからニャ」
言い切って、計の返答も待たず影へ沈み込んでいった。
まさかの対応に虚をつかれ目を丸めていた計だったが、
「ありがとうニャ」
覚悟を決めた顔で礼を言い、立ち上がる。そして、黒猫の力を使い全速力で駆け出した。
『不幸』の気配がする、廃倉庫へ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
計は終わった戦いを見て、選択の瞬間を思い出していた。
そして、この選択は間違っていなかったと、少なくとも今は実感できていた。
「さて、クズミンと胡桃渚回収してさっさととんずらするかニャ」
倒れる久澄と地に膝を着き動かない渚を見る。特に渚は黄色かった髪が白に変わっている。
(特殊才能を限界まで使った『犠牲児』の末路、か……)
冷静に判ずるが、どちらも重傷なのには変わりない。
ここら辺を中心に活動している闇医者を脳内でピックアップしていたところで、背後から足音が耳に届いた。
隠す気はないらしく、最低限の警戒はしながら振り向く。
「夜霧……」
歩んできていたのは、夜霧萌衣だった。
「幾つか予想と違った光景はあるけれど、ま、こんな状態よね」
「……よくもまあ、そこまでクズミンを信じられますねぇ〜」
冷やかしを含んだ語。しかし萌衣はいつものように赤面する事なく、
「幾つかの予測をしていただけよ。これは二番目に最良な結果。猫屋が味方についた事を仮定したものね」
遠回しの信頼かと一瞬思ったが、萌衣は仮にも夜霧。様々な可能性を模索ためにそのような仮定も入れたのだろう。
「……一番目は?」
ので、会話の発展のため、そう言った。
「久澄の魔眼で、天津目葉が殺される事」
なんて事なさげに告げる。
「当の天津目葉は、夜霧新に回収されたみたいだけれど」
萌衣の視線を追う。その先−−久澄の前に倒れていたはずの天津目葉の姿がなかった。彼のサイドには、優秀な空間転移保持者が何人も居る。
「秘蔵っ子だからニャ。どちらにせよ、天津目葉の確保は諦めてたニャ」
「それもそうね。で、どうせ闇医者捜しているんだろうけど、夜霧新を敵に回した以上使えないわよ」
「……だよニャ……」
予想はしていたが、流石に情報が出回るのは早い。
ではどうする、と素早く思考を切り替えた計に、萌衣は得意げな笑みを浮かべた。
「から私が来たのよ」
「?」
「完璧に信頼はできないけど、腕は確か。かつ夜霧の権力をものともしない医者を紹介できるわよ」
「そんな都合のいい医者、この街に居るのかニャ? 医者に限らず、闇と名のつくものは夜霧の誰かに隠匿してもらっている街ニャのに」
「前提として上げる必要がないから言わなかったのでしょうけど、揚げ足取らせてもらうわ。表の医者なの」
絶句するしかなかった。
萌衣の言った事をどうにか処理しようと脳が働き、
「てか説明の時間が勿体ないから、少し前に呼んじゃったけど」
てへぺろ、と半世紀以上も遅れたギャグで舌出しウインク。悪びれた様子は全くない。
(正しい。正しいんだけど!)
石橋を叩いて渡る人生を歩んできた計は、抗がたい虚脱感に苛まれ、ふらつく。
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
暗闇の中に、一つの光景が流れ始める。
それは認識した瞬間に意識の全てを覆い、逃れようのないものとなる。
血色の月が浮かぶ夜。雲一つない瑠璃色なのに、血色の雨が地面を濡らす。
恐苛最強種吸血鬼の姫であり、自分の主であるティアハートを殺した日。
右手が彼女の左胸を貫いている。
腕にはなんの感触もない。しかしそれを虚構とは思わない。
彼女の顔を見る。
血に塗れた血色のよい唇が、不意に動いた。
「なんで私を殺したのですか? ねえ、なんでですか? なんでですか? なんでですか? なんでですか? なんでですか?」
間接の錆びた人形のような動きで首を捻りながら、生気を失った陶器に似た瞳がこちらを射すくめる。
「私は生きたかった。痛い、苦しいですわ。何故こんな事を? 答えてくださいまし」
ばくばくと心臓が高鳴る。
何度も見てきた光景だ。この後に、どんな事が起きるか分かる。
その通りに、言葉は紡がれた。
「貴方なんて救わなければよかった」
チクリ、と感情が希薄化しているはずの心に痛みが走る。それは棘なんかでなく、深く刻み込まれた古い傷痕。
そしてティアハートはどろりと溶け始め−−
「あああぁぁぁぁァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
夢の中の久澄は悲鳴を上げ、意識はその光景から遠ざかる。
思い瞼が開かれ、久澄は白い天井を視界に収めた。
横には点滴。鼻につく臭いは薬品のそれ。
カーテンが目に付くも、人の臭いが薄い事から病院の個室らしい。
嫌にはっきりとした寝起きの頭でそう判断し、起き上がろうとして全身に酷い倦怠感がまとわりついているのを自覚する。点滴はしっかり自分の腕に伸びているはずなのに、と自嘲の笑みを浮かべた。
重く長い息を吐き、腹筋で起き上がる。
張り付く衣服が気持ち悪い。布団がずり落ちた事で服装が無地のシャツとズボンになっていると知る。
久澄は手で目を覆うようにして、先程まで見ていた夢を思い出す。
「久し振りに見たな……」
ティラスメニアに跳ばされる前までは、もう一つの嫌な記憶と交互するように見ていた悪夢。罪悪感に苛まれた久澄の精神が作り出した虚構だ。
(けど、なんで今更)
深く考えると、まず九氷果の姿が浮かび上がってきた。それを疑問に思う前に、芋蔓式に思い当たる光景が幾つか浮かび上がってきた。
だがそれを言葉としてまとめる前に、来客を告げる扉の音を久澄は聞いた。
足音は二人分。カーテンが人一人が通れる程度に開かれ、その人物達を認めた。
「先生に、猫屋」
「運がいいと言うか、都合がいいと言うかね」
目覚めた事にさして驚いた様子もなく、点滴を変えながら淡々と語り始める医師。
「あの辺りは不良の喧嘩が絶えないからね。救急車の配置された支部が点在しているんだよ」
「……運び込まれてから何日経ちました?」
「暦の上では一日だよ。時間でなら三十六時間前。昨日の五時に運び込まれて、三十日たる今日の十六時に目を覚ました」
事細やかに説明しながら、医師は久澄の腕を注視していた。
それに居心地の悪さを感じ、問いかける。
「あの……どうかしましたか?」
「うん……取り敢えず、身体を見せてくれないかな」
「はあ……?」
疑問は多分にあるも、それを解決するためにも服を上げた。
それを見た医師の目に、若干の驚きが混じる。計に関しては目を見開いている。
「ふむ。気持ち悪いくらいに治っているね」
言われ、目を落とす。
いや、本当は落とすまでもない。何故腹筋で起きあがった際、痛みを感じなかったのか。
「……まじかよ」
驚きと確証が交錯する。
意識が閉ざされていたため詳しい事は分からない。けれど、目覚めた瞬間に全身を鋭く、鈍く、熱く、冷たい痛みが駆け巡ったのは記憶に深く刻み込まれている。
骨という骨は砕け、裂傷は激しい。のに、立ち上がれた。
左手に目を配る。そこに宿っていた循環の蛇は確かに奪われた。
「まあ、いいだろう。その様子なら点滴どころか病院すら必要無さそうだ。さっさと出て行ってくれ。以外とベッドに空きはなかったりするんでね」
訳知り顔で厄介払いをされる。腕はいいのに、と残念に思ってしまう久澄だった。
退院手続きを済ませた久澄は、計を病院の中庭まで呼び出した。
整備された道は広場のように遮るものはなく、脇を固める緑が美しい。
道の途中にあるベンチに二人は腰掛け、久澄が口を開いた。
「今回は色々助かった」
「有り難く受け取りたいところだが……やってきた事を差し引きすればマイナスにニャっちゃうから受け取れニャいニャ。」
「そう言うならいいが。それで、胡桃はどうなった?」
「命に別状はニャいニャ。ただ、『犠牲児』は寿命が成人までにされているからニャ。怪我も含めてこの病院に入院らしいニャ」
「? あの医者は延命行為もできるのか?」
「そりゃあ……いや、腕がいいからニャ」
「はあ」
何かを誤魔化している。
そんな風に感じたものの、聞き出す手をもっていない久澄は話を進める事にした。
「じゃあ目覚め次第見舞い行かないとな」
「胡桃渚は起きているぞ。から、俺との話が終わったら行くと言いニャ」
「そうなのかよ。なら、手続き前に教えてくれればいいのに」
「と言われてもニャ……なんだか深刻そうだったし」
それもそうであった。
気持ちを入れ替えて、真剣な面持ちで久澄は告げる。
「あの裏路地で訊いてきたな、俺の力を理解し、その範囲外で事を起こしたはずなのに看破できたか。ついでに、あの黒猫の吸血鬼人間という言葉もだ。正直、俺は両方とも意味が分からなかった」
計は固い表情で耳を傾ける。あれがなければ今頃、夜霧の支配下である代わりに安定は失われなかった。
「なあ、夜霧新の側近であったお前は、俺がこの街の外へ出た事を知っているよな」
「うニャ。確か、ティラスメニアとかいう異世界とやらに跳ばされていたとか」
久澄の意図を察知し、そう回答をする。肯定と満足。二つの意味を含めた頷きをする。
「そこで俺は、鬼神化−−循環の蛇に封印されていた吸血鬼の力を解放するために、左腕を切り落とした事があったんだ。……一応言っておくけど、循環の蛇は欠損レベルを再成する事はできないから。義手覚悟の渋々の判断だったんだからな。循環の蛇は夜霧新に押しつけられたから要らないし」
計の顔が歪んでいるのを見てそう注釈をしたが、さらに歪みが深くなっただけだった。
普通の感情を推し量る事のできなかった久澄は、疑問符を浮かべながらも続ける。
「循環の蛇を失い封じられていた血液が巡り始める。つっても人間に限りなく戻ってはいるから、吸血鬼時代の五パーセント程度しかないけれど。なのに何故か不思議左腕が再生した。ご丁寧に循環の蛇を宿したまま」
久澄は左手を開閉する。
「それ自体を不思議に思った事はあったけど、当時は事態が事態だったから、後回しにしてて。それ以降からそんな途轍もない回復力も発揮されてなかったからいいやって思ってたんだけれど……」
「今また、その回復力が戻ってきている。それも、循環の蛇を奪われた今に」
「流石に情報が早いな。あまりにも、符合が揃いすぎている」
久澄は左胸を抑える。あの時走った予感は、この事を暗示していたのだろうか。
「循環の蛇に封じられていたのは、本当に俺に残った吸血鬼の血だけなのか? なんか別の−−例えばあいつの血も混ざっていて、それを夜霧新が利用するために封じていたとか。それなら、急激嗅覚が上がり範囲が広がった事や吸血鬼人間という呼び名にも理由がつく」
「ニャるほど。深く考えていけば、心拍が上がるだけで漏れ出す血もおかしな話だったニャ。循環の蛇は循環させる事が主であって、再成能力は副次物的ニャものにすぎニャい。たった数パーセントの血が漏れ出すのは不自然ニャ」
辻褄が合い始め、得心いったように頷く二人。しかし、その先へは進めない。
沈黙が数秒場を支配し、計がそれを破った。
「結局謎は残したまま。『犠牲児』も成功。夜霧新の一人勝ちニャ」
「一矢報いたといえば俺の血と封じられていた血が混じった事だが、それをどうにかする程度の保険はかけているだろうし……」
夜霧新を追い詰めるために関わったはずなのに、甘さが捨てきれず勝負に負けた。
(殺せてさえいれば……!)
計に顔を見られないように俯き、歯噛みする。
けれどその行為は、決して越えないと決めたライン。越えれば、巡り巡って夜霧新を、相馬颯真すら肯定する事になる。
ティラスメニアでの経験で力を得た。魔術師にも勝てる大きな力を。
しかし、遠い。力を得たからこそ、彼我の距離が絶望的なものだと理解させられる。
「じゃあ、俺は帰るかニャ」
空気を読んだのか、飄々とした口吻で立ち上がる計。まだ訊いていない事があり、顔を上げた。
「ちょい、もう一つだけ。天津目葉はどうなった?」
「夜霧新に回収されて、生死は不明だニャ」
予想通りの答えだった。
「じゃ、行くニャ。夜霧に店長の護衛頼んでいるからな。と、救急車呼んでくれたのはあいつだから、会ったら礼の一つでもしておけよ」
「また世話になっちゃったな……」
ばつの悪そうな顔をして頭を掻く。
それを「ドンマイ」と笑いながら、計は立ち去る。その際振り返り、
「ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、久澄の心は少し軽くなった。
久澄は計と別れた後、すぐに踵を返して受付に向かった。
そこで渚の部屋番号を聞き、向かう。
急かす心に押され、階段を昇り四階の個室煉へ。
部屋番号を確認しながら廊下を歩き、その部屋を見つける。扉を軽く叩いた。
「どうぞ」
簡素な声で入室を許可され、久澄は扉を開いた。
「……!」
入り、久澄はぞっとする。
夏の日は長い。陽光に照らされた髪は色彩を失い、窓辺を見つめる憂いを帯びた表情は酷く美しい。
そんな心証に自己嫌悪を覚え、久澄は足を進める。
なかなか近付いてこない入室者に痺れを切らせたのか、或いは不信感を覚えたのか、そのタイミングに被って渚がこちらを向く。
目と目が合う。
最初にアクションを起こしたのは渚の方だった。
入室者を医者と勘違いしていたのだろう。昨日今日では、ましてや夜霧や闇の関わる計画の犠牲者として入院しているのならば、情報の出回りが遅く、見舞い客を想定していなかったのに得心がいく。
サイドテーブルの上に置いてあったニット帽に急いで手を伸ばし、髪を隠すようにかぶる。いや、ようにではないだろう。長い後ろ髪すらつむじの方へまとめてかぶり込んだのだ。髪を隠したくて季節外れのニット帽を用意していたのだ。
それに女の子らしいなんて思う事はできない。
久澄は確かに彼女が傷つく結果となった事柄を勧めたのだ。その責任は重くのしかかる。
からといって、久澄は逃げたりしない。
踏み出し、会話ができる距離へ。
「笑えるのな」
久澄はなんの脈絡もなく、そう切り出した。
「え?」
「俺がアイツの力から解放された時、お前は笑ってて。なんつーか、会った時から普通の笑みをみた事がなかったからさ」
「……都合がいいとは思いませんか?」
「何が?」
「今まで私は多くの事を忘れていました。知らず知らずに生き続け、思い出した頃には始まり、取り返しのつかないところまで進んでいて」
「……」
「そんな私が嬉しさや楽しさで笑うなんて、許されないですよ」
そう言い切って、酷薄に笑う。それはきっと、自分に向けられたもので−−
「なんでそう背負い込むかな?」
だから久澄は、自分の正直な気持ちを吐露する。
「『犠牲児』は、お前が始めた事ではないだろう。たまたま始まりになっただけで、たまたまランク4の才能をもっていて最後になっただけで、そこにお前の意思は介在していない」
「けど私は生き残った。それは事実です」
「生き残る事がそんなに悪い事なのかな?」
「私は結局、天津目葉を殺せませんでした」
「だが攻撃はした。放っておけば致命傷という傷を負わせてな。から、殺せなかった事がお前が普通に生きてはいけない理由にはならない」
完黙する渚へ、辛辣な口調で言う。
「確かに責任を負う事は大事だ。けれどそれは自虐とは違う。それを履き違えているのは死んだ奴らへの冒涜だ」
その言葉は病室中に響き渡り、やがて消えていく。
その言葉は渚の心へ届いたのか−−分からないまま彼女は手をこちらへ伸ばしてきた。意図が解らぬまま見つめていると、親指と人差し指の間に青白い光がバチッという音と共に流れる。
「瞬時に生み出せる電気はこれくらいになりましたよ。『磁化変換』も微々たるものですし。九月の頭にでも順位の入れ替えが発表されるでしょうね」
淡々と告げ、その手でニット帽を外す。解放された後ろ髪が、流れるようにあるべき場所へ戻っていく。
渚はその毛先を摘み眼前へ寄せ、慈しむように見ながら呟いた。
「染めないとな……」
「何色に?」
呟きが聞こえているとは思ってなかったのだろうか。驚きに目を瞠り、けれどすぐに答えた。
「もちろん、黄色ですよ」
柔らかな笑みと共に告げられた言葉。
そこに込められた思いは察する事しかできないが−−彼女は笑っていた。心の底から。
それは久澄の中に充足感として広がり、希薄化した感情を埋めていった。
それは僅かなものだったが、それでもこのちっぽけで強い少女を守って良かったと思わせてくれた。




